共産主義者同盟(火花)

現在のイラク情勢と反戦・国際連帯のスローガンをめぐって
−討論報告−

『火花』編集委員会
277号(2004年9月)所収


はじめに

 8月末、われわれは「現在のイラク情勢と反戦・国際連帯運動のスローガン」をめぐる討論の場をもった(『火花』編集委員会主催)。
 その内容を2回に分けて『火花』誌上で報告する。今月号では、第1部−「問題提起」、次号で、第2部−「討議」の記録を公開する。
 言うまでもないが、今回の討論の目的は、一般的な「情勢分析」にあるわけではない。また、日本において反戦・イラク民衆連帯を掲げて展開されている運動を高みから批評することでもない。われわれが目指したのは次のことだ。イラクの現状と民衆が直面する問題の構造をできるかぎり掘り下げてとらえること、そして、問題を自力で解いていこうとするイラクの人々の困難とつながり得るような連帯運動のありようを模索すること。
 論議の手がかりは「スローガン」。なぜなら、それは、運動の目的・性格やそこに携わる人々の意識(ないし、無自覚)を端的に表現するからだ。

 6月「主権委譲」、8月「国民大会議」以降も、イラクでは熾烈な戦闘が続いており、米軍が主導する「秩序回復」は見通しを失っている。この「秩序回復」をめぐる今の動向を規定しているのは、イラク社会と国家の再建をめぐる矛盾と争闘だ。今後、帝国主義的利害に基づく復興の「絵」を拒否する闘争は、多様な社会集団の利害を背景に広がっていくだろう。また、諸勢力間の対立や軋轢の激化も予想される。
 それでは、どのような展望のもとで、「再建・復興」に手をつけていくのか、イラク民衆はこの課題に向き合っている。そこでは、帝国主義利害を体現する者たちが示す「未来」に対する、真にラディカルな批判的実践とその主導勢力の形成が問われている。
 この闘いと結びついていくためにどうすればよいのか。われわれの討論の軸はこの点にあった。以下の討論報告を読んでいただければ明らかなように、少なくとも、「反戦・反帝国主義」のスローガンに集約されるような運動のあり方では決定的に不十分だ、と考える点でわれわれは共通している。が、活動の重点や運動の内容・スタイル、具体的な支援や連帯のありよう、そして、それを行動の提起(スローガン)にどう反映させていくのかをめぐって、われわれの中には違いが存在する。

 こうした論議は、われわれの内に閉じられるべきものではないだろう。たしかに、討論が扱い得た領域はほんの小さな部分でしかない。また、その場に投げ出されたいくつかの問題意識は時にすれ違いをきたし、あるいは、尻切れトンボのまま放置されている。だが、われわれは、その中から、運動全体を問い直す材料を引き出していきたい。また、プロレタリア国際主義や、プロレタリアート(党)の綱領・戦術の内実をめぐるものへと論議を発展させていきたい。
 
 広く討論を呼びかける。

『火花』編集委員会

I.討論に向けた問題提起

【提起―1】「反帝民族解放闘争支持」のスローガンをめぐって

1.

 資料をもとに、この間考えてきたことを述べたい。まず、『戦旗』の最近の論文(*)をとりあげる。
メインスローガンは、「イラク人民の民族解放闘争を支援しよう! 多国籍軍参加を許すな!」である。内容を見ていくと、「主権委譲」をめぐる政治暴露が中心になっている。論文では、「主権委譲」を、「米英の占領継続」「自己の権益の貫徹」と規定し、イラクでは2つの変化が始まると予測している。ひとつは、「帝国主義諸国のイラク占領への参加」であり、他方では「イラク国内の支配者層・親米資本家の形成」だ。そして、「米軍の…軍事制圧の下で、国際的国内的に民主主義的なプロセスを装った政府の樹立が進められようとしている」状況に対し、「帝国主義者のキャンペーンの粉砕を」という視座を提起している。
 論文は、そのためにも、イラク戦争とは何であったのか、をふりかえらなければならないとし、イラク戦争を、帝国主義の次のような目論見によるものと暴露している。'60年代進められてきた石油資源の国有化を簒奪すること、同時に、グローバリゼーションをイラクに浸透させていくこと。また、「主権委譲後」、ヨーロッパの帝国主義諸国も権益に群がることになるだろうとも述べている。
 そこから、現在のイラクにおける闘争、米占領軍に対する闘争は、外国からの侵略に対して闘い、「イラクの生産力を国営化という形で帝国主義の収奪から防衛してきた」歴史的経緯の上にあるとし、次のように主張する。イラクの抵抗闘争は、「主権国家と国内資源がふたたび簒奪される」ことへの怒りであり、そこには、レーニンがかつて言ったような、「反帝民族解放闘争の息吹」がある。このような要素に注目・連帯していかなければならない。当面とりくむべきことは、自国軍隊の即時撤兵の実現だ。
 そして、イラク人民の民族解放闘争に連帯し、イラクプロレタリアートの登場を支援するというプロレタリアート国際主義の立場からの首尾一貫した取り組みへの前進を呼びかけ、結論としている。
 最近、「反帝民族解放闘争」のスローガンに違和感を覚えていることもあって、当初は内容を深く読まなかったが、この論文は慎重な文書であり、単なる「景気づけ」の文章ではないと考える。 たとえば、そこでは、「共産主義・国際プロレタリアートは、イラク内部における階級関係、とりわけプロレタリアートの成長と諸階級の動向を…見守りながら」という形で、そこここに一定の限定がもうけられている。
 ただし、反王制以降の歴史動向の中で、国営化を評価し、イラク戦争をアメリカによる「再度の簒奪」とする分析は一面的だろう。たとえば、イラク・イラン戦争において、アメリカはフセイン政権にてこ入れをしている。必ずしも、イラクの歴代政権が、イギリスに対してはともあれ、アメリカとの間にそれほどの角逐もってきたわけではない。その点で言えば、イランの方がいわば「血みどろの戦い」をしてきたと言える。
こういうところに、「反帝民族解放闘争」という規定づけを急ぐ問題意識の先行が見られる。そこに疑問を感じる。
 われわれは、現在のイラクの戦いをつぶさにとらえなければならないと思う。そこに、米軍の失政に対する直接の非難は明らかにある。また、混乱を引き起こすことを目的とした「アルカイダ流の」活動が展開されている。だが、一方、宗教勢力(サドル派等)の戦いを見ても、占領そのもの、フセイン政権を倒したこと、外国勢力が入ってきたこと自体が許せない、ということばかりでもない。フセイン体制を打倒したことが許せないということではなく、その過程での誤爆等々のミスへの怒りが背景にある。また、宗教勢力の戦いは、新体制下でのプレゼンス確保をどうするかということと離れたものとしてはあり得ない。
その意味で、アメリカを追い出せば片が付くというわけではない。部分的な情報からも、今のイラクの状況が単純に民族解放闘争とくくれるのかというと、「ひいきの引き倒し」だと感じる。そういう方向性が内在されているとしても、その現れを具体的に評価する必要がある。制約はあるとしても、だ。『戦旗』論文は、そうしたことを欠落させており、そこに「古い臭い」を感じてしまう。

2.

 一方、それに対し、イラクの状況を具体的に観察してきた専門家(学者やジャーナリストたち)の見解はどうか。アジア経済研究所に所属する2人の研究者の見解を取り上げる。
 たとえば、池内恵さん。この間、アラブ研究の「ニューウェーブ」で、リアリズムの立場に立ってきた人だ。この人は次のように現状をとらえている。
 イラク諸勢力は、政治的駆け引きの一環として、現状、そして、暫定政府移行過程で様々な対応をとっているが、新体制の樹立に向けた手順の大筋について、主要勢力は同意している。今後の体制でどういう位置を占めるかは死活問題であり、今後も軋轢が予想されるが、ザルカウィ系の武装集団等が現状をさらなる混乱の陥れていくような素地はないだろう。ジハード勢力とイラク人との溝は深まっている。それは、ひとつに、人々が混乱を求めているわけではなく、むしろ、経済・治安の安定を求めているといえるからだ。これまで、たしかに、テロ行動は米軍を牽制する一定の意味を持っている、と人々は見てきた。しかし、今後、自分たちが政府の主体となっていく段階では、迷惑でしかなく、圧殺の対象となる。ともあれ、独立と主権の早期獲得という目的は各勢力に概ね共有されており、それは、イラク復興の成果を上げて負担を減らしたい、という「出口戦略」を模索するアメリカの思惑とも一致する。その意味で、過程においては混乱があろうが、全体情勢としては前進が見込まれる。実際、暫定政府の力量が発揮されて、統治システムが整っていくとすれば、その過程で、米軍がいることは逆に標的となるだけだから、早く撤退してくれと要請する、そして、米軍もそれを受け入れて出て行く、というケースも考えられる。
 酒井啓子さんの分析も池内さんとほぼ同じである。酒井さんは次のように言う。
 現状では、暫定政府の能力は低い。治安、官庁機構は、バース党が掌握してきたからだ。したがって、今問題になっているのは、元バース党のテクノクラートをどこまで新政府に抱えるかだが、徐々に新政府が力量を身につけ、治安回復の意気込みをアピールする等の取り組みを進めていくと、治安回復、経済改善という人々の「ニーズ」と会った形で、不協和音は少なくなっていくだろう。イラク国内では占領からの脱皮と言うことで人々の共通認識はできている。そのことは、ザルカウィ系のテロに対して同調せず、同調する人には説得するという形で現れている。アメリカの占領から抜け出す過程で、別の外国人に引っかき回されてはたまらない、という点では一致しているのだ。アメリカがもっとも間違っていたのは、アメリカによって解放されたと喜んでいた人々まで敵に回してしまったことだ。実際、アメリカは、これだけはするなと専門家が言ったことを、アドバイスがあったにもかかわらずやってしまっている。そのことがファルージャでの大規模な闘争につながったとも言える。
 いずれにせよ、専門家は、概ね、現在の枠組みを中心に事態が進むだろうと見ている。

3.

 ここで考えるべきことは次の点だ。
 アメリカのイラク占領に大義がないことは明白だ。大量破壊兵器も出てこない、イラク民衆に「自由と民主主義」を与えると言っても、捕虜虐待や誤爆などで関係のない人々を殺害してしまう。フセインを取り除けば、「民主的な政府」がすぐにできる、という目論見もことごとくはずれた。かといって、事態を戦争以前に戻すことは不可能だ。だから、イラク情勢への対応を、進行する現実の、その都度のプロセスで考え、判断しなければならない。そう考えたとき、米軍・自衛隊の撤退というスローガン自体はもちろん正しい。しかし、重要なことを見逃している。不正義であれ、実行された戦争、そのなかで、アメリカ主導で様々な新体制へのシナリオが実行されている。それを全てひっぺがして、その後どうするのか、ということだ。そういう新プロセスに対して、イラクの諸勢力なり、諸階層の人々なりが何を求め、どういう態度をとるのかを踏まえないで、自分たちの都合だけで、判断していてよいのだろうか。
ある種の「理念型」をおいて、そこからして第1の任務は自国帝国主義軍隊の撤退を実現することだ、それが連帯の中身だ、ということでは、少なくとも、イラクの人々との関係の中で通用しないのではないか。たとえば、日本の支援は期待はずれだと言うことで、サマーワの実力者などが失望感を表明している。自衛隊が来たことではなく、復興に協力してくれない、自分のみを守ることばかり、という現状を批判しているのだ。こういう点も批判のポイントになり得るのではないか。使えないものではなく、現場に応じた復興支援を実行せよ、というような主張もあり得る。それをどういうスローガンとして定式化するかについてはまだ答えは出ていないが―。

4.

 以上、「モデル」から任務を演繹していくというのには、首尾一貫性があってよいが、現実のプロセスの中でどういう暴露を行い、今後への方針を立てていくのか、と考えると、内向きにとどまる側面が強いと思う。そういう限界を批判してきたわれわれとしてどういう反論ができるのか、どのような「対案」を提起できるのか、を考えるべきだと思う。

 なお、補足だが、イラクの占領政策に対して、アメリカにアドバイスしたのは、元イラク共産党の人々だという。おおむね知識人で、フセイン政権が強権化する段階で亡命した人々だ。そのなかで、転向した人々もいれば、なおマルクス主義を堅持している人もいる。後者の人々からしてもフセイン体制はアメリカの手を借りてでも打倒すべきだという信念があったのだろう。その当否はともかくとして、そういう現実があったことをみておきたい。

(*)共産主義者同盟(統一委員会)機関紙(第1221号/2004年7月5日発行)から。

【提起―2】反戦共同行動のありようとスローガンをめぐって

1.

 議論の領域設定の一つとして提起したい。
 この間のイラク反戦運動や諸派のスローガンを見ていていてひっかかったのは、共同行動における意味が欧米のそれと日本のそれとでは大きく違ってきてしまっているのではないか、ということだ。
 欧米における反戦、反グローバリズム運動、とりわけ後者について、その特徴は多様性、いわば雑多なことだ。運動の場で、様々な政治主張、表現スタイル、領域の活動が一つの場で多様な行動を展開する、こうした光景は、「シアトル」、そしてそれ以降も見られる。ひとつのスローガン、政治主張、統一的な基調で意思統一するような、統一戦線的な意味での意志一致をとっているような運動とは異質な行動になっているのだ。たとえば、「世界社会フォーラム」の文章をみると。「中心をもたない組織」だとか、「互いの差異を抑圧しない組織」、とかが単一の行動空間を作り出していく能力という形での共感で結びついている。そこでは、それぞれが互いを認め合いながらそういう能力を育成していこうという確認がされてるようだ。欧米における行動綱領において、運動の作り方や、スローガンと自分たちとの関係であるとか、主張が異なりつつひとつの行動空間を作り出していこうとする方向とかが掲げられている。私はそうした動きに注目している。
 それに対し、たとえば、日本の、「幅広さ」を旨とする共同行動についてだが、最初は欧米の共同行動のようになっているのかと思っていたが、多くは旧来の統一戦線型の取り組みとほとんど変わらないようだ。そして、そうした運動を、ただ「戦争はいかん」と思っているような人々にも受け入れさせるために主張をソフトにしたり、表現の形態を考えていたりしているにすぎないのが実情ではないか。そこでは、残念ながら今少数派になってしまっている新左翼系の運動が肩身の狭い思いをしているケースもある。たとえば、シュプレヒコールや戦闘的なアジテーションもだめという形で、従来とは違った意味での排除が存在している運動もある。では、そういう中でのスローガンは、と言えば、「戦争にもテロにも反対」、という流れになっている。
 ただ、そういう共同行動のあり方に対して、違う形を提案したり実行したりしているグループもいるようだ。たとえば、行動形態は、デモでも、パレードでも、ピースウォークでもよい。趣旨に賛同すれば、どんなスローガンを掲げてもかまわない。それぞれの団体が自分たちの流儀に基づいてチラシ、プラカード、それぞれ好きに人々を集めたらよい。ヘルメット、党派等々にこだわらない、その他。こういう共同行動のあり方に関心がある。
 そういう意味で、これまでの共同行動においてと同様、スローガンをめぐる議論は重要であるし、われわれの政治目標を独自のスローガンに煮詰めていくこと、そのために議論していくことは当然必要である。しかし、共同行動が、ひとつのスローガンのもとで、ひとつの政治目標の下で組織されなければならない、そういうことが追求されなければならないということについては疑問である。

2.

 新左翼諸派、反戦運動におけるスローガンの検討だが、問題意識は【提起―1】とほぼ重複している。だいたい、「自衛隊撤退」「米軍撤退」「占領反対」、左派部分だと、「イラク民衆の抵抗闘争、反米闘争支持」であるとか、「民族解放闘争支持」とかが表明されている。さらに、「イラク人のことはイラク人に任せよ」とか、民族自決支持、これらの順列組み合わせになっている。
 それに対し、先の『戦旗』の文章は、先に言われたとおり、様々な留保がついているし、今後の社会建設の過程に対する支持、支援と言うことを述べている点で評価できる。先に挙げたようなスローガンは間違っているわけではない。しかし、イラクの現実、すなわち、軍事侵攻で国家機構が崩壊し、いろんな施設や社会経済が破壊されている、あるいは、占領の過程でイラク社会の矛盾、諸勢力の矛盾が拡大している、その中において、「イラク人のことはイラク人に任せよ」ということだけでいいのだろうか。
 私は、帝国主義主導の「復興」に対して、イラクの社会建設の過程にコミットしていくような主張がそこに加わる必要があるし、そうした主張に責任を持っていくような活動が実際に現れていかなければならないと考える。これは全く新しいことではなくて、小規模であれ、NGO等が実践していることであるし、政治過程においても、欧米などでは、イラクからの亡命者などと結びついた形で、社会・国家建設に何らかの責任をもとうという立場、姿勢が見えてくる。実現可能性はともかくとしてだが。
 そういうことで、どういう表現が適切かはわからないが、少なくとも、民衆の手による真のイラク復興等のスローガンが反戦運動の中で掲げられてもよいのではないか。

3.

 いくつかの新左翼の文章やスローガンを見て感じたのは、帝国主義、自国政府への批判が第一義になっているということだ。帝国主義の悪行を暴露すること、他方において闘う人民を支持すること、ある意味ではこれで十分なのだ。帝国主義、自国政府への批判としてはそれで事足りるわけだから、連帯する対象というのは抵抗闘争一般でもいいし、民族解放闘争でもいい。相手を見なくてもよい。そういう意味では、連帯する対象に対する実質的な無関心がある。スローガンの問題というより、そこに問題を感じた。
 こうしたことの結果として、イラクの問題が政治焦点からはずれてしまい、次の政治焦点が現れると、結局、忘却されてしまうことにしかならない。自分たちの連帯すべき相手のことが単なる暴露材料にしかならないような政治宣伝のあり方が人々を動かすことはない。同時に、そうした宣伝・扇動は錯綜する現実の諸問題への解決能力を育むことにはならない。むしろ、NGO等で現地に入っていろんな試行錯誤をしながら実践していくことが現実の解決能力を醸成していくことにつながるように思える。その意味で、「国際連帯−自国帝国主義打倒」ということは、正しいといえば正しいが、実質的にどう考えていくかが課題である。
NGO、ボランティアの場合、その政治主張はあまり現れてこない。個々のプログラムに基づいて直接に事業をやるわけだから、当然かもしれないが。その位置から、政府の事業を批判したり、自衛隊の活動を批判したり(あまりに非効率等々、むしろ、それがNGOの活動を阻害する)する主張はあるが、スローガンとしてはあまり見られない。むしろ、そういう直接の事業に今の特に若い人々が関心を持っていることは事実だと思う。

 補足になるが、ひとつ異色な主張を取り上げる。ドキュメンタリー映画監督布川徹郎さんの最近のビデオパンフの文章の中(タイトル)にある、「反日的分子・非国民はアラブ義勇兵と共に越境せよ!」である。ここには、直接的な反帝闘争の、彼なりの一貫性を感じる。今の反戦運動におけるプロパガンダとしての帝国主義打倒に対し、ある種のリアリティを感じ、一つの資料として取り上げておきたい。

【補足提起】

1.

(1)国際連帯とか、帝国主義に対する国際共同行動と言うとき、これまでの提起にあるように、当の連帯する相手の現実をとらえようとすることが必要だと思う。むろん、それはとらえきれないのだけれど、少なくとも、自分たちの判断のポイントをそこに置いていこうとする態度が必要だと思う。
 その点で、今、重要だと思うのは、フセイン独裁崩壊後、政治的民主主義の空間を拡大すべく、デモ、街頭行動、宣伝活動、労働組合活動等々、様々な活動が展開されていることだ。先の「民族自決権」の問題も、政治的民主主義(その徹底)の問題であり、この領域における人々の活動を支持すべきだと思う。同時に、今の政治過程でイラクの先進的部分・民衆が、アメリカが言う「解放」の実態等々、多くのことを体験を通じて学んでいる、ということに目を向けなければならない。今後のイラクにおける社会、経済、国家の再建過程で、人々が学んだことをどう教訓として生かしていくのか、が大きな課題となるだろうし、われわれもともに考えていく必要があると思う。

(2)さて、フセインは、あらゆる形で自己の独裁を固める工夫をしてきたわけだが、そうしたフセインの姿や政治支配構造は、われわれにもアメリカにもよく見えたかもしれない。だが、社会・地域における多様な力関係の構造や運動がどうなっているのかについてはほとんど見えていなかったのではないか。
 酒井啓子さんが言っていることだが、アメリカは、どうやらそういった社会的な層はないのだろう、ないから、フセインを倒せば白紙から自分たちの望む政府をつくれると発想したのではないか、と。ところが、実際には、そこには、イスラム勢力をはじめ、多様な勢力が存在し、社会的な実体として教育や福祉、防衛活動等を担っていた人がいた。そういった勢力が、この間、登場してきたのではないか。今のイスラム勢力の動きの背景にも、社会活動の蓄積があるのではないか。その意味で、「反帝」とか、われわれが勝手にイメージしているような「シーア派−スンニ派」図式等でそれを斬ってしまう分析に終わっていてはならないと思う。

(3)イラクの問題はパレスチナの問題と密接に結びついている。かつてのアラブ民族主義左派−社会主義、世界革命戦争の展望の中でのパレスチナ闘争の展望がほとんど破産して、今があると思うのだが、ソ連の崩壊以降、ほとんど頼れるものがない中で、何とか自力で社会的・政治的実体をつくっていこうとしてきた、ある意味でもっとも困難な闘いに目を向け、結合・支援の方途を探らなければならない。同様のことは、イラクについても言えるだろう。

 以上の観点から、イラクにおける復興・再建とそれに対する支援の意味、具体的な内容を問う【提起−1・2】の意義を押さえたい。

2.

 地域の労働運動・反戦運動を中心に様々な運動に関わってきた経験の中で、いくつか感じたことを述べたい。

(1)この2年間の日本の民衆の「イラク侵略戦争」や「イラク反戦運動」に対する反応や考えは、「われ関せず」という感じだ。イラクの戦争状況は報道されているが、情宣やデモ(ピースウォーク)、集会への関心はあまり芳しくない。要するに、「関係ない、ほっといてくれ」という反応だ。ただ、日本人人質事件が起こったとき、市民運動の某メンバーが「今私たちが何もしなければ3人は死んでしまう!」という趣旨の発言をした。それに対し、「いい気になるな!」という怒号が返された。それは、人質とその家族にも向けられたものだったのだろう。「いい気になるな」には、イラクのことなど関係ないという気持ちとともに、自分と年もかわらないような人間が注目されていることへの「いらだち」、自分が取るに足らない存在であることへの「寂しさ」など幾つかの感情が混ざっていたような気がする。このような感情がもっとも危険なのだろう、と思う。  

(2)「すでに派遣されてしまったのだからもう何を言っても仕方がないじゃないか!」という言葉もよく聞く。これは、「××反対闘争」が焦点をすぎると急速に終息に向かった、というこれまでの運動とも共通する。「運動は反復と継続だ、次は○○、その次は□□…永遠に反対しなければならない!」などと言うだけでは説得できないだろう。それより、自衛隊のできることの限界と実際にNGOなどで復興支援・人道支援をしている人のことを話す方がよいだろう。

(3)市民運動の気になった動きについて。私が参加した行動の中で、「テロも戦争もゴメンだ!」というスローガンが登場した。これ自体は珍しくもないし、批判は簡単なのだが、殺されたイラク民衆に対する哀悼の意を表す「サイレントウォーク」や、「リレートーク」を行いながらのウォークなどには違和感があった。
 また、日本人人質事件の時には、「イラクでの事態」に無関心な日本社会を告発・弾劾するという発言もあった。当人のあせりややるせなさは理解できるのだが、日本社会の無関心は、今のところ、事実として受け入れなければならないだろう、と思った。当人にこのことを話したが、激しい怒りだけが帰ってきた。活動家が「あせりとやるせなさ」を抱え込んでいることを、私は今のところ受け入れる。だが、このままでは確実にだめだ、と思う。

(4)イラク反戦、人質事件等の事態で一番早く反応し問題提起したのは、いわゆる市民運動に携わる人々だ。メーリングリスト等で、素早い行動提起と動きを見せた。これは当然で、労組では種々の手続きが、共同行動でも参加団体・個人の了解などが必要で、動き出すのには時間がかかる。素早い動きは個人で動ける市民運動が適している。だが、問題を継続し、掘り進むということは苦手のようだ。

(5)左派の主張の中心は【提起−2】で示されたとおりだが、それらはイラクの現状の無視、というより、無知を表している。イラクの反米運動はどのようなものか、イラク社会はどうか、民衆は何を求め何を考えているのか、など私も含めて知らないことが多すぎる。ジャーナリストの現地報告などにリアルなものはあるが、リアルすぎて、3日後には古いニュースとなっている。
 ただ、とりあえず、「アメリカ・イギリスは破壊したイラクの土地を元に戻してから撤退せよ!」くらいのことは言いたいし、「イラクの復興は誰がし、何ができるのか?」くらいの議論はしたいと思う。

3.

 4月の「日本人人質事件」に際して作成した、スローガンに関するメモをもとに材料を提出する。

(1)今の局面で、米軍、自衛隊の撤退をスローガンとして打ち出すことは必要だが、その後に打ち立てられるべき秩序はどのようなものか?
 今直ちにアメリカが手を引いたら、イラクは無政府状態に陥るだろう。「部族」や宗派、その他の単位で武装した無秩序が現出することは明らかではないだろうか。
 
(2)フセイン政権を打倒したブッシュの正義は、新たな権力機構の母体を欠いた全く外在的なものでしかなく、そうであるが故に今、その反動的な性格を露わにしているのだと思う。

(3)こうしたことを踏まえると、撤退を言うためには、新たな権力機構の創出に対して責任を持つことが、客観的には要求される。
 昔なら、新たなインターや世界赤軍などを理論的に対置してすませていたところだろうが、現地の(人質)3人や、以前の人間の盾の活動など、実際に仕事を見いだし動き始めている人々がいることに触れないわけにはいかない。

(4)事態は、イスラムを中心とした国際的な反米闘争の高まりと、イラク現地での占領政策の失敗の前に、国連中心の統治形態への移行へとスライドしていきそうな雲行きだが、その過程で、さらに国際的なNGOレベルでの活動の余地が拡大すると思われる。
したがって、「イラクからの米帝・自衛隊の即時撤退!」のスローガンは、そうした展開を想定して、「真のイラク復興に向けて、全世界のNGOは力を合わせよう!」というようなスローガンと併記されるべきではないだろうか。




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