Winny開発者逮捕−「知的財産」、囲い込み、私有制との闘争
坂本巧巳
274号(2004年6月)所収
ハンドルネーム「47氏」、ファイル共有ソフトWinny開発者が5月10日、「著作権違反幇助罪」の容疑で京都府警に逮捕、起訴された(6月1日、支援者から集められたカンパ500万円を保釈金として受け、保釈された)。
続けざまにWinny解説のサイトを開設していた人物に対して同容疑で家宅捜索、サイトは自主的に閉鎖された。
京都府警はこれに先立ち昨年11月にWinnyを利用してファイルを違法に公開していた利用者を逮捕しているが、今回の事件は違法行為そのものではなく、その「幇助」という極めて恣意的解釈の濃厚な理由を付けて、ソフトの開発や解説に対して直接弾圧が掛けられた点が特徴である。京都府警はこの件について、ソフト開発そのものについてではなく、「著作権法への挑発的態度」が逮捕理由であったとしており(朝日新聞ニュース)、なかば思想弾圧のような側面さえもっている。このことはソフト開発者、利用者たちの危機感と怒りを呼び込み、いくつかの救援団体・サイトが立ち上げられた。c.f.金子勇氏を支援する会, 47氏を応援するページ etc.
Winnyの誕生、その技術的特長
47氏が「2ちゃんねる」上で開発を表明し、無料でリリースされたWinnyは瞬く間にユーザーを増やし、映画、音楽、ゲーム、市販ソフト、エロ画像などあらゆるデジタルコンテンツの交換(コピー)の場を提供した。したがってこれらコンテンツを商品として販売するもの・・・コンテンツ業者、クリエーターにとっては脅威となった。
Winnyが特にもてはやされたのは、その自由さと匿名性にある。
先行のファイル共有ソフトのいくつかは、なんらかの管理されたサーバーを中継する必要があった。
ところがWinnyはP2P(ピアトゥーピア)、すなわちソフトが動作するPC同士の水平なネットワークによって単一のファイル共有空間を作り出すことを可能にしていた。
もう一点の匿名性とは。
P2Pの場合、あるコンテンツを要望した場合、該当のコンテンツを所有するコンピューターと直接(あるいは間接的に)接続する必要があり、コンテンツの交換経路、コンテンツを公開したものを特定する必要があった。
しかしWinnyではあるコンテンツのダウンロードは、必ずしも目的とするコンテンツが格納されたコンピュータから直接行われることはなく、ソフトを稼動させている無数のコンピュータ(ノード)の間をバケツリレー式にコピーされて手元にやってくる。その際、各コンピュータは中継局として使用者本人が意識することなく見ず知らずの他人同士のファイル交換の中継局として機能する。Winnyを起動させていると、「キャッシュ」と呼ばれるファイルが大量に蓄積されてくる。これらの中身がなんであるかは普通には分からない。いわば知らぬ間に「運び屋」にされているようなものだ。ファイルがネットワーク上に広く分散して存在することになるため近接するノードからのダウンロードは効率化され、またオリジナルの発信源の特定は困難となる。各ノードへの接続情報(IPアドレス?)も暗号化されているため、ネットワーク上での監視のみではコンテンツの発信者が誰(どのコンピュータ)であるかを特定することは極めて困難だ。
ところが京都府警が昨年、匿名のはずのWinnyでのアップロード者を特定し逮捕したのである。
府警がどのように彼らを特定したのかは明らかにされていない。技術的にWinnyの暗号の解読に成功したのか、あるいは何らかのルート(プロバイダーによる情報提供など)でWinny利用者である情報を取得し、家宅捜索の際はじめてWinnyでのアップロードを特定したのか。はたまた47氏が警察と内通していた、との噂まで流れた。
ところがその御大、47氏の逮捕劇、である。
「知的財産立国」を揺るがしたWinny
「体制を崩壊させるには、著作権侵害を蔓延させるしかない」。47氏は極めて挑戦的な発言をしている。
その要旨は、今日の著作権制度は技術的に可能となっているコンテンツの配信方法(ネットワークによるコピー)にそぐわないものとなっており、コピー権の排他的保護によって著作者の利益を確保する方法は間違っている、今日の技術水準に適合した課金方法を模索すべきである、というものだ。
(新たな課金方法としては、コピー自体は自由に任せ、支持者がカンパのような形で著作者へ入金する「投げ銭」方式、広告料方式などが提唱されている)
47氏は2ちゃんねるで「そろそろ匿名性を実現できるファイル共有ソフトが出てきて現在の著作権に関する概念を変えざるを得なくなるはず」などと開発意図を明らかにしていた。ファイル共有が匿名で行われるというのは、違法行為を堂々とできる、という以上に、情報・知的財産は私的領域に留め置かれるものではなく、全社会的に共有可能/共有すべきもの、との考え方に帰結する。
ネットワークの発展に伴うこのような流れとは裏腹に「知的財産立国」を掲げ、一昨年知的財産保護法を成立させた日本政府、あるいはJASRACなど業界団体は逆行する「知的財産権保護」を路線化し、CCCD(コピー制御CD)の導入、著作権法「改正」によるCD輸入権法制化など、「知の囲い込み」に走っている。
産業・経済低迷の中、ゲーム・アニメなど日本のサブカルチャーが受けている高評価に寄生して国策化しようというものだ。
ミッキーマウスの著作権切れ間際に、通常、著作権者没後50年まで、とされている権利の有効期限をアメリカがごり押しして延長しようとしたのは記憶に新しい。
「著作権保護」、とは多くの場合創作活動の保護・尊重ではなく、新たには何も生み出さずに上がりをせしめていこうという強欲の言い換えであり、けして真に受けることはできない。
創作者自身による「知的財産権」批判
一定の条件のもと、クリエイティブな作品の自由な複製・再利用を進める運動「クリエイティブ・コモンズ」の提唱者であるローレンス・レッシング教授は、行過ぎた著作権の規制は著作者に負担を強い、文化の自由を奪うものだと指摘している(参考リンク)。
また以前より坂本龍一氏はクリエーター自身の立場から、現在の著作権制度の運用に対して問題を投げかけている。JASRACによる一括管理の不自由さ、本末転倒を訴え、やはり今日普及したネットワークを通じて著作者自身が作品を自由に配信する権利を主張している(インタビュー記事)。
資本や国家による知的財産、文化の排他的・独占的「保護」は文化活動の発展にとっても阻害物であるとの見方は広まりつつある。
一方、ソフトウェア技術者・研究者に強い影響力をもつGNUプロジェクト、フリーソフトウェア運動の提唱者であるリチャード・ストールマン氏はよりラジカルに著作権制度への批判を展開・実践している。
フリーソフトウェアとは、今日、「無料ソフト」の意味で一般化しているが、彼が提唱するのは「自由なソフト」という意味である。これは、商品化されたソフトウェアが通常は禁じているソースコードの公開、ユーザーによる改変、再頒布の自由を許すものである(今日では「オープンソース」という用語のほうがこれに近いものを指しているが、ストールマン氏は改変・再頒布の自由を強調して「フリー」という語にこだわっている)。
ソースコード(つまりプログラム内部の仕組み)を非公開とすることでプログラマが著作(ソフト)から独占的な利益を得るよりも、これを公開し、自由に改良・再頒布させることによる公共的利益を重視する発想である。彼はプログラミングによって対価を得ること自体は否定していないため、プログラマの利益も(今よりは少ないかも知れないが)守られる、とのことだ。この考え方は「コピーライト(著作権)」に反する「コピーレフト」と名づけられている。
47氏の言動の背景には、こうした議論の影響もあっただろう。
しかしWinny自体は無料ソフトではあったが、ソースコードは公開されておらず、上記のような意味でのフリーソフトウェアではなかった。
ちなみにプログラムにおける暗号の保護と、ソースコードの公開・非公開は関係しない。著名な暗号化ソフトPGPはソースコードを公開している。
(先のWinny利用者弾圧の際、「Winnyにバックドアが仕掛けられていたのではないか」という噂がまことしやかにささやかれた根拠のひとつだ)
ストールマン氏の主張するような、ある意味理想主義的・原理主義的なフリーソフトウェア論が常に正しい、という判断はできない。
しかし今回「47氏を救え!」という運動が一部で起こりながらも、著作者・技術者を巻き込んだ議論にまで発展しきれないのは、Winnyの存在形態が完全にオープンではなかったためでもあるだろう(再度言うが、オープンであることと匿名であることは別物である)。また、Winnyによって流通したコンテンツの殆どが違法コピー(そしてかなりの部分がエロ)であったため、初めからスキャンダラスな存在であり、新たな社会像の提起にまで至るポテンシャルを持ちながらも、「敵」側に都合のよい受け流しに合ってしまっている。
P2P技術自体は各企業もビジネスチャンスととらえ、研究・商品化を試みている。知的財産、文化の共有を巡って、自由で自発的な諸個人の活動による共有か、資本の論理によって配信される商品として回収されてしまうか、というせめぎ合いが今起きているのだ。
翻って、社会の様々に異なる位相において、権利や公共性を僭称した囲い込みと、それに対する闘争が展開されている。
土地、空間を巡ってのスクウォッティング、路上解放デモ。商品・貨幣を巡っての地域通貨、協同組合等の取り組み。Winnyはブルジョア国家が僭称する「私権」や「公共性」が恣意的であることを暴露し、既存秩序の崩壊・社会変革までをも示唆するものとなっているが、それは他の場面においても変革が現実的にありえることを指し示している。