イラク「人質事件」を巡るいくつかの事柄
早瀬隆一
273号(2004年5月)所収
イラクにおける日本人五人の「拘束・解放」からいくばくかの日々が過ぎた。イラク現地では米英占領軍の暴虐とイラク民衆による抵抗が今日も続いている。このクニでは物事は瞬くうちに消費され、忘却の向こうへと押し流されてしまう。世間を席巻した「自己責任論」なるものも、欧米メディアの批判もあってか、なし崩し的に−何事もなかったかのように−舞台裏へとその姿を隠したかに見える。しかし、この間の事態のなかで、考え検証すべきことは幾つもあるはずである。既に「火花」紙上では渋谷さんや流さんの文書が提出されてもいる。本文書においては視点を変えつつ、この間考えたいくつかの事柄について書き記しておくこととする。
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強調しておかねばならない一つのこと、それは既に多くの人が指摘していることであるが、「三人の解放」に果たした人々の無数のネットワークについてである。
この間、イラクやアラブ・パレスチナの地において、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ等世界のあらゆる地において、さまざまなNGOや無数の諸個人が多様な活動を展開してきた。その多くは現地の人々との協働の中で信頼と友情を育んできた。また、世界社会フォーラムをはじめとした国際的交流の場の創出の中で、無数のNGO・社会政治諸組織の国際的出会いが獲得されてもきた。そこでは中心組織を持つことなく「互いの差異を抑圧しない単一の行動空間を作り出す能力」が培われてもきた。
そうした経験の一端が今回の行動の中で可視的に顕在化したように思うのである。
今回、さまざまなNGOや無数の諸個人が、それぞれが作り上げてきたネットワークと繋がりを通して、三人の活動、目的、自衛隊イラク派兵への立場etc すなわち「三人が占領統治に抵抗するイラク民衆の敵ではなく友であること」をイラク社会へと直接あるいは間接に伝えた。日本の地においてデモンストレーションが多様に組織されその映像がイラク現地で流されもした。これらの行動は、その総体として、広がりと深さそして関係性の質において、日本国家・外務省の活動を凌駕していたといえよう。そして、こうした行動は、特定の組織の指示・指導によって統一的に行われたわけではなく、無数の人々がそれぞれの意思と判断によってそれぞれの繋がる人々に働きかけたことの集積であった。ここでの暗黙の判断の共有と行動−培われてきたところの互いの繋がりや能力、関係性の水準は、一つの希望を提示したように思うのは私だけではないであろう。
今回の行動に参加された全ての組織・諸個人に心より敬意を表すとともに、民衆による国際的協働を促進すべく、我々自身にできうることをなしていきたいと思う。
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政府・商業マスコミetcによってなされた三人へのバッシング、「自己責任論」なるものへの批判については、既に「火花」紙上に文書が提出されている。ここで繰り返す必要はないだろう。ここでは視点を変え一つのことについて述べたい。それは、三人へのバッシングに少なからぬ人々が同調したこと、そのこととこの間の反戦運動の主張との関係についてである。
「自己責任論」だの「自業自得」だのといった下劣な言質、それがどれだけの人々を捉えたのかは分からない。私の周囲にはそうした言動は見うけられなかった。しかし小泉や福田の言質が総ヒンシュクをもって迎えられたという事実はないし、あの過程を通して世論調査での小泉への支持率や派兵賛成の声が上昇したのは事実なのである。少なからぬ人々が小泉や福田や商業マスコミの扇動に乗せられたことは否定できないであろう。
少なからぬ人々のバッシングへの同調、その底流にあるものが何なのか、多くの人がさまざまな指摘をしている。どれも興味深い内容である。それらの指摘とは別に私が感じているのは、バッシングを生み出す心情の一側面として、「世界の紛争や矛盾を平穏な日常に持ち込むな」といった感情があったのではないか、ということであり、こうした感情と我々を含む反戦運動が十分に闘ってこれたのだろうかという思いである。
この間の「自衛隊派遣反対」の世論の中には、少なからず「自衛隊派遣をするとテロに巻き込まれるから反対だ」といった感情からのものが含まれていたと思う。「域内平和」を主張する共産党はもとより、反戦運動、新左翼諸運動は、こうした感情に切り込むことはなく、むしろ政府の政策に反対する主張として歓迎してきたのではなかったか。むろん「殺し殺される関係」を拒絶しようとする姿勢は誤ってはいない。しかしそれは世界のあらゆる地においてそうなのであり、自分たちの生活空間だけを守るためのものではないはずである。「自衛隊派兵反対」が世界の現実−紛争と矛盾−から目を閉ざすことと同義であってはならない。
どこか捻じれがあるのだ。国際貢献を声高に語り犠牲を恐れず世界の現実に関わろうと呼号しているのは、アメリカ政府やイギリス政府である。小泉もまた自衛隊派兵にあたる演説の中で憲法前文の国際貢献を引用してみせた。パウエルが「三人の行動を日本人は誇るべきである」と語ったのも驚くことではない。犠牲を覚悟し世界の現実に切り込むことは米政府の公式姿勢であるからである。
我々は民衆による国際貢献・国際的協働の更なる促進を、主張・論理・実践においてもっともっと強調すべきではないだろうか。そして民衆による国際貢献・国際的協働の内実をもって、その位置から帝国主義の「国際貢献」を批判すべきであろう。すでに少なくないNGOはそうした位置からの主張を行っている。
そしてなにより、世界の現実に向き合い関わっていくこと、国境を越えた協働のなかで互いの関係を育んでいくこと、そうしたことの「意義」「素晴らしさ」「楽しさ」がより多くの人々に伝えられねばならないと思うのである(注)。
(注)言うは易し行うは難し。こうした活動の「意義や正しさ」を「論」として語ることは難しくはない。しかしより重要なことはそうした活動の「素晴らしさや楽しさ」−「互いにとっての価値」を伝えることである。これはけっこう難しいことだ。それがそれぞれの生き方や価値観に関わることであるからである。多くの場合、実際の活動の現場にある輝きは文書の隙間からこぼれ落ちてしまう。
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上記のことに関連してもう一つ書き記しておこう。今日、反戦運動の多くとりわけ新旧左翼の基本主張は、「米軍撤退」「反占領」「自衛隊撤退」「イラクのことはイラクの人々に任せよう」といった文脈である。むろんこれらの主張は誤っているわけではない。正しい主張である。しかし、米英等によるイラクへの軍事侵攻により、国家機構は崩壊し、インフラ施設や社会経済は破壊されている。占領統治の過程においてイラク社会の矛盾が大きく拡大していることも想像に難くない。イラクの新しい社会建設には多くの国際的援助が必要とされている。このことを無視するわけにはいかない。
この間、国際的諸運動による占領統治への国際監視がなされてきたし、「占領軍から干渉されない自由選挙の要求」や「占領軍の干渉から完全に自由なイラク人による緊急・独立議会を求める呼びかけ」が、そのプロセスに自らが責任を負おうとする姿勢のもとで、国際的諸運動によってなされてもいる。むろん多くのNGOやボランティアがイラク現地で直接の援助を組織している。
反戦運動という領域においても、「米軍撤退」「反占領」「自衛隊撤退」の闘いとともに、そうした方策ではないところの「イラク復興」を、イラクの人々との合意と協働のなかで作り出して行く営為の促進が語られるべきであろう。「イラクのことはイラクの人々に任せよう」もしかりである。イラクの人々の自己決定権の獲得、そのプロセスに責任を持ち関わる姿勢と取組が求められているであろう。
いずれにせよ、主張といわず実践といわず、反政府を基準とするものから、<新しい社会の建設>の観点からのものへと徹頭徹尾転換される必要があると思うのである。