共産主義者同盟(火花)

メディアと国家、運動に関するノート
─辺見庸氏の最近のエッセイを通して

杉本修平
273号(2004年5月)所収


1.

 辺見庸氏は、最近のエッセイで、自衛隊イラク派兵反対の「平穏、明朗、従順、健 全…を衒う」デモ(パレード)に参加した際の違和感を語り、次のように述べてい る。
「国家の途方もない非道の量と質に比べて、怒り抵抗する者たちの量と質が話にな らないほどつりあわない。」*1
 さらに、デモが、「(日々に戦争めく)全景と予定的、補完的に調和」するばかり でなく、全景にできた「クラック」を「補修しているようにも思える」と述べている。
 もちろん、辺見氏は、「デモを語るのに昔を懐かしむ」ようなまねをしようとは考 えていない。また、今展開されている運動を、高みから批評しているわけではない。 著しく高まる反動の水位に対し、新しい「怒りとその表現」をどのようにしてつくり だすか、という課題を彼は提示している。
 この課題に答えるためには、自分を含むこの地の現実を批判することが必要になる。 この点について辺見氏は、端的に言えば、「協調主義的な日本型ファシズム」を 批判の中心に起き、それが「パレードの光と影をゆがめていたのではないか」と述べ ている。
 だが、ここで私がとりあげたいのは、「日本型ファシズム」という概念に関する論 議ではなく、辺見氏の国家・メディアに対する批判と、それに対する抵抗の中身であ る。

2.

 マスメディアは「国家意思」や「日本国民の精神」を臆面もなく押しつける政府と 共犯関係を結び、今、私たちの「閾下」を侵していると辺見氏は言う。人々が「正邪 善悪を判じてきた人間的自明性」が崩壊し、その空間を「国家知」と重なり合う「メ ディア知」が満たしてきたと言うのだ。私たちの意識はマスメディアを介して国家と 結びつけられ、統制される。辺見氏は、反動に対する怒りの滞留をこうした要因から とらえている。
 「自衛隊派兵を怒る人間的な個体知が、もうすでにイラクに派遣されたのだから、 いまは彼らの無事と任務の成功を祈るほかないという、既成事実に基づくメディア 知によって駆逐されつつある。(中略)(外交官殺害についても)おびただしい数 のイラク人の死傷者は忘却され、メディア・イベントとして物語化された『同胞の 死』のみがナショナルな集合的記憶を形成し、異論を許さない聖域をこしらえてい く」*2
 アフガン空爆、イラク派兵、そして、一連の北朝鮮問題の報道に典型的なように、 マスメディアは、政府の宣伝や統制・圧力との目立った対立もなく、国家・国益の側 に人々の意識を収奪してきた。このことに対する辺見氏の批判は明確だ。だが、メディア の犯罪性に対する批判自体は目新しいものではない。また、今の政治状況をマスメディア の問題のみに還元することもできないだろう。
 ただ、こうした論議にあまり意味はない。なぜなら、辺見氏は問題の現在的な特徴 をこそつかみ、自分自身と、自らその内に立ち続けてきたメディアの現実を問い直す ことで課題に答えようとしているからだ。
 見るべきは、彼が構えようとする抵抗戦のありようである。

3.

 辺見氏は各人の内に抵抗の戦場を見いだしている。国家知とメディア知による「内 面の自由の領域」の浸食との闘争、だ。
 このことについて考える前に、弱体化し駆逐されつつある「個体知」なるものにつ いて一瞥しておきたい。
 辺見氏の言う、戦後の人間的自明性をベースとした個体知とは何だろうか。具体的 に言えば、それは、自衛隊を海外(しかも戦地)に派兵することや石原都知事の暴言 を非と判ずるような、「かつては議論の余地もないとされたもの」を指しているよう だ。
 だとすれば、個体知の弱体化は、もともと戦争体験を基盤として形成された平和と 民主主義の理念と、それを自明の基準とする「共同性」が崩れている現実の反映に他 ならない。
 そうした共同性の枠内で路線を競い合うような政治も、つとに失効している。今、 「戦後のなりたちを根本から破壊しようとする」小泉政権への怒りをどれほど声高に 訴えようが、運動のダイナミズムは回復し得ない。私たちは、その中でこそ「戦争の できる国家」を実体化し得た「戦後のなりたち」を、反戦・反政府運動も含めて根底 的に転換しなければならないのである。
 むろん、辺見氏は、このことに自覚的だと言える。自身が自明としてきたことの洗 い直しをその発言や著作において積極的に進めているからである。たとえば、これま で言わずもがなのこととしてきた改憲反対の根拠を点検する作業等を通じて。 *3
 私たちもまた、同様の作業を進めなければならないと思う。

4.

 それでは、辺見氏は内面の戦場において、どのように闘おうというのか。
 彼は、以下のような言葉で、私たちのイメージを触発しようとしている(正直、私 の中ではいっこうに具体的な像を結ばないのだが)。
 国家は軍隊・監獄という実体的暴力に還元し得るものではなく、「底なしの観念領 域」を伴うものだ。この観念領域の形成に与る国家知とメディア知を「徹して疑う」 「怒りの内発を抑えない」「一人ひとりが内面に自分だけのそれぞれに質の異なった ミニマムの戦線を築く」。そして、「私の中の国家」の死滅をめざすこと。
 自身の意識(閾下)自体を問う意識−意志の重要性をまずおさえたいと思う。だ が、意識は私たちの生活における諸関係、政治的社会的関係に編み込まれており、意 識それ自身では解決し得ない問題があることも明白だ。たとえば、「私の中の国家」 やそれが伴う「観念領域」は現実の階級闘争、国家との関係で形成されており、その 死滅の条件を自己の内のみでつくりだすことは不可能である。
 辺見氏はこんなことは百も承知だろう。だが、辺見氏の主張の中に、私は、「まず 内面を、しかるのちに外在的な現実を」という二元論、段階論を読み取る。それは、 実際には実践を観念の内に封じ込めるスローガンなのではないか。
 ただし、辺見氏が、別の場で次のような問題を取り上げていることも見ておく必要 がある。*4
  資本主義・市場原理のもとでのメディアの法則性や国家とメディア の実体的関係、社会・国家全体のメディア化と人々の知覚の変容の問題。そこでは、 彼は「ジャーナリズムの精神」等々の視点からではなく、メディアをその実体と機能 (いわば「外在的な現実」)においてとらえようとしているのだ。このことは、交通 ・コミュニケーションを変革を考える上で、ますます重要になっていると思う。辺見 氏のこうしたアクチュアルな問題意識を見落としてはならないと思う。

5.

 冒頭で述べた課題に対する辺見氏の解答を読み解こうとしてきたが、およそ体系性 とはほど遠い覚え書きになってしまった。ただ、辺見氏自身、今、自分の内に生起す る思考と判断の発信を第一義とし、後知恵で文章に体系性や整合性をもたせることに は関心をもっていない。だからこそ、彼の言葉はある強さを持つのだろう。 
 ともあれ、以上の内容を踏まえて、私が提起したいのは以下のような活動だ。  まず、自分が政治判断を行っていくときの基盤となる現実像をとらえ返すこと。そ のために、「外部」との回路をつくること。たとえば、資本と国家、そしてマスメ ディアによって構成された現実(国家知、メディア知と呼んでもよい)の外、あれこ れの自明の基準を共有する共同体の外、その他ここで言う「外部」は、多様なレベ ル、多様な形で想定することができる。この外部との関係で、自身の現実像の歪みや 欠落を意識化し、自分を開くことが可能になるだろう。
 もっとも、このことは改めてここで提起するまでもなく、すでに様々な形で活発に 展開されている。その場、あるいは、その場に参加した人々が、さらに新たな場をつ くっていけるような活動を計画することが重要だろう。

6.

 次に、今なすべきこととして、運動の転換を挙げたい。
 『世界』(5月号)誌上の座談で、小林一朗氏(「9.11」直後、「CHANC E!」というグループを立ち上げ、以降、ピースウォーク等に取り組んできた)は、 辺見氏のデモ批判に触れ、小林氏自身、「問題意識が行動に十分反映されていないこ とへのもどかしさ」を感じていると語っている。同時に、新しい方向を次のように提 起している。
 「ブッシュと小泉がいて、それに反対する自分」という自己規定をしないこと。 「ポジティブな平和運動」すなわち、「平和・未来を創っていく」イメージをもった 運動をつくり出していくこと。
 重要な提起だと思う。
 もちろん、怒りを組織することが無意味だということではない。運動の具体的な場 面、階級闘争の種々の局面で人々の怒りの発現が果たす役割は、時に決定的である。 だが、反動攻撃に対する怒りと反撃を呼びかけ、時の政権を打倒することをスローガ ン(目的)とするような政治運動の「果てしない繰り返し」に展望はあるだろうか。 仲間内でのみ共有される紋切り型の総括、一方、リアルに進行する戦争・国家暴力・ 生活破壊等々の現実、人々の徒労感と運動からの乖離が広がるのはあたりまえではな いだろうか。
 では、「平和・未来を創っていく」ための条件は何か。メディアや国家の与える知 を批判的にとらえれば、今の戦争や構造的暴力が、資本主義・帝国主義の世界支配と その矛盾から生まれていることが見えてくる。この現実を根底から変えることが、戦 争をなくし、従属と抑圧によって未来を奪われている膨大な人々を解放する条件とな るだろう。
 私たちは何に着手すべきなのか。まず、今、自らが生活の中で結ぶ(世界的な広が りをもった)諸関係の中に矛盾を見いだすこと。「戦場」は至る所に存在する。そし て、実践を通じて、統治の仕事や社会事業の計画・経営に携わることのできる能力を 形成すること。今のところ、資本や国家・行政機関がうまく対応できていない分野 で、運動が活発に展開され、問題解決のイニシアチブをとっている。その経験から学 ぶことは多いだろう。
 大切なことは、個別的な実践において、「平和・未来を創っていく」ための世界大 の視点に立った判断を行うことだ。また、つねに国家の構造全体をとらえ、活動を 「政治化」していくことも必要だ。こうした内容をもった協働を組織することが今の 課題である。その際、判断や協働の基準として、明示され、だれもが自分の実践に利 用でき、また、常に検証に付すことが可能な綱領(プログラム)が必要だろう。実体 的な運動と結びついて、当初からその作成を進めていく活動を開始しなければならな い。
 政治運動の質と構造の転換は、こうした活動の中ではじめて現実化し得るのではな いだろうか。

 *1 「抵抗はなぜ壮大なる反動につりあわないのか―閾下のファシズムを撃て」
 *2 同上
 *3 「憲法、国家および自衛隊派兵についてのノート」
 *4 「マスメディアはなぜ戦争を支えるのか」
いずれも、『抵抗論』所収。




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