新しい世界観の構築に向けて(3)
斉藤隆雄
265号(2003年9月)所収
テーマ: 市場経済
4.貨幣経済
ここ数年、日本に於いて貨幣についての論議が盛んに行われるようになった。バブル以降の経済構造を解明するために、特に日銀の役割を論議の的にする経済論議が目に付くようになり、「デフレ」と言われてからは「貨幣が足りない」と多くの経済論評が述べている。政府の金融政策もゼロ金利政策と「潤沢な貨幣供給」を口にするようになり、市中銀行の不良債権処理の問題と共に最優先政策になりつつある。
90年代末からのこのような金融論争に対して、対抗する運動の側からもいくつかの提起が生まれている。テレビ放映された「エンデの遺言」で話題となった地域通貨もその一つである。また、環境問題に絡んだエコマネーや協同組合、NPOなどが事業を立ち上げる際に問題となる貨幣経済の問題が、先の経済論争と絡んでいくつかの問題を提起している。
これまでの私の経済論評もこれらの動きと無縁ではない。むしろ密接に関わっていると言える。おそらく今回のシリーズでの結論でもある、この貨幣経済問題は複雑に絡み合った資本主義経済への批判の要であり、また新しい革命理論の突破口でもあると確信している。故に、読者にはやや回り道のように見える論議もここでは論議の整理のためにも必要であると確信している。
1) LETS の論理とその可能性
まず、貨幣問題への接近のために地域通貨の理論的なリーダーの一人である西部忠の文献から検討していきたい。その理由は、彼が地域通貨の意義を見いだすことになった理論的な経路が、私の問題意識と交差するからである。
MMRの18号に寄せた文章によると、彼は80年代に既に「マルクス主義経済学に未来はないのではないか」と感じ始めた、というのである。そして、「新古典派に対する批判をおこなわなければならないと思うように」なり、「社会主義にかんする経済計算論争」をヒントに、「問題になる最大の理論的なトピックは『市場とは何か?』という」所に着目した訳だ。「そうすると面白いことに、『市場なんてなくてもいい』という考え方は新古典派経済学と共通するものだということがわか」ったとしている。
ここから、市場経済と資本主義経済とを区別するという図式(これまで幾人かの経済学者が提唱していたものである)を再提起し、「市場」を残して資本主義を廃絶する回路を探ろうとしていく。つまり、「一般的な市場経済と資本主義的な市場経済とを分けて考えなければならない。」ということになる。
ここで彼が言う一般的な市場とは、交換という意味での市場なのだが、私のここまでの文脈で言うと、分配ということだと考えられる。彼の考えた経路は商品交換がどのように発生したかという、これまでの良く知られた発展過程を商品化の三つのレベルで考え、商品交換が共同体間で発生し、それが共同体内部へ浸透し、共同体を解体していく過程を外部・内部・一般というレベルに分け、「資本主義経済とは、物の一般的商品化と労働力の外部商品化を前提にして、労働力が資本により買われる…時、はじめて成立する…」と規定する。そして、現在では労働力が一般商品化する段階に入ったとしている。分かりやすく言うなら、人間の労働力が「利潤を目的とする商品となった」ということである。これを現代風に表現するなら「人的資本」という言い方がそれに当たる訳である。
この彼の文脈で言うと、ヒトの再生産機能を従来果たしていた家族は解体期に入っていることになり、早晩ヒトそのものも単独で生産されるようになる、と予想される。この現代資本主義像はヒトゲノムが解読され、バイオテクノロジーが次世代の産業革命の寵児と宣伝され、他方で現代家族像が揺らいでいるという社会状況から見ると、あながち空想とは言えない世界観となる。
しかし、問題はここからである。すべてのものが商品化されてしまうという資本主義経済には、残された希望はあるのか。一般的商品化という歴史的な必然に対して我々は逆らうことができるのか。
西部氏の論議はここから地域通貨(LETS)の提起がなされる訳であるが、彼がここで立てる論理は、「純粋資本主義」という考えである。宇野派らしく、原理的に考えると、そういった一般商品化がいいのか悪いのかという問題が出てくると言うのである。つまり、純粋資本主義への傾向は避けられないとしても、そこではすべてのヒトがリスクを負わなくては成らなくなるが、「こうした自己責任を誰もが負えるというわけではない」として、LETSを「資本の欲動に対抗するカウンターメディア、対抗ガンとしても位置付けられ」るという訳である。良いか悪いかと問題を立てると、それは選択の問題であるから、LETSも意識的な運動として成り立つということになる。だが、避けがたい歴史的必然であるすべての一般商品化に対してリスクを負えないヒトがいるということからLETSを見るなら、現状の諸福祉政策とどう違うのかが問われることになるだろう。と言うより、元々地域通貨運動が発祥した機縁は世界恐慌時に極端に不足した通貨の代わりに流通したという歴史を持っていることを想起するなら、マネタリストたちの言うこととどう違うのかも問われることとなる。(つい最近、榊原が政府紙幣を発行する案を述べ、政府は一部地域通貨の実験を推奨するということを言い始めている。)
ここから、運動の倫理性が出てくる。
「LETSが広がるためには、単なる自己の利益のみを希求する功利的な人間ではなく、より大きな自由と公正を希求する倫理的な人間が増えなければなりません。そのためには、協同組合やNPOなど、利潤原理に強く規定されない分業や協業の新たな形態、生産組織が存在していなければならないはずです。両者が結びつくことによって資本主義市場経済に代わるオールタナティブな市場経済社会の可能性が展望できるのではないでしょうか。」
利潤原理に規定されない生産には倫理性が必要である、ということなのだろうか。それとも、地域通貨制度が生活圏におけるサブシステムとして、資本主義グローバル経済と併存して労働者階級の生活を守るということなのだろうか。否、彼の論理からしてそうではない。求められているものは、資本主義市場経済ではなく、オールタナティブな市場経済社会である。
であるなら、ここで言われている倫理性は何故可能なのだろうか。功利的でない人間を如何にして作り、どのようにして生まれるのか、それが問題である。
利己的な諸個人の相争う社会として市民社会を位置付けた、かつての資本主義の精神は如何にして廃絶できるのかという根本的な疑問に応えなければならない。従来の革命理論が国家の問題を避けて通れなかったのは、この利己的諸個人のブルジョア精神である。この精神は日々資本主義市場経済によって生産され、日々の生活の糧をそこから汲み出している人々のイデオロギーを如何にして解除していくのか、それが過渡期の社会革命の課題である。それには、国家という古き政治形態が必要であり、死滅へ導く困難性もそこにある。
西部氏はLETSで資本主義を廃絶できるとは言っていないことは百も承知であるが、それでも彼のような位置づけでは古くて新しい革命理論の逢着点を解決できそうもない。何故そうなったかと言うと、彼が利潤原理や一般的商品化と呼んだ資本主義市場経済の秘密を分析し損なったからだと、考えられる。だから、そこから倫理性しか運動の原理が出てこないのであり、それでは運動が市民社会の中に埋もれてしまう事になるざるを得ない。
2) 地域通貨が想定している経済
改めて言っておかなければならないが、地域通貨運動が新しい社会運動として用をなさないと言っているのではない。むしろ逆である。
そこで、地域通貨の果たす役割を再度ここで確認しておこう。
第一に、これは字の如く通貨発行である。まずは、ハイエクの提唱した自由通貨発行と同じであると言える。そして通貨はそれ自体では利潤を生まない。しかし、世界経済を見れば分かるように通貨はその国の経済を反映して、一定の利率で交換され、その運用を誤れば生活を破壊する。
第二に、無利子であること、あるいは利潤を生まないということである。これには説明がいる。貨幣それ自体には利子はない。(注1.) 貨幣を退蔵していても、その価値に何かが付加されるはずはない。しかし、貨幣それ自体の価値が上昇したり下降したりすることはしばしばある。現在の日本ではデフレであると言われているので、貨幣の価値は上昇している。それは物価が総体として下降したら、同じ通貨でより多くの物が購入できるからである。しかし、それは物価の下降の意味を明らかにしておかなければ、本質的に貨幣の価値が上昇したと言えるのか疑問である。ただ、歴史的には貨幣の価値変動でとりわけ問題となるのはインフレ経済に於いてである。第一次大戦直後のドイツで起こったハイパーインフレでは、わずか数ヶ月で物価が数兆倍に上昇した。つまり、貨幣の価値は紙くずとなったのである。(つまり、ドイツ通貨への信任が崩壊したということである)
しかしここでいう利子というのは、それらの価格変動とは意味が違う。利子を生み出すのは資本に於いてである。だからこそ、西部氏は資本主義市場経済への対抗として無利子の地域通貨を対置したのである。資本が利子を生むためには、剰余となる価値を生み出さなければならない。その源泉は労働者である。剰余の一部が利子となる。であるから、利子を生み出さないということは、労働者が剰余を生み出さなくなるか、資本が存在しなくなるかのいずれかである。
第三に地域経済の活性化が挙げられている。何故、国民経済とか世界経済とかでないのか。これは、地域通貨が先ほど挙げた自由発行であるから、単一の通貨へと成長することを前提としていないのである。比較的狭い地域や職能団体や社会組織などの「内部通貨」として考えられている。
経済を活性化するという根拠は、まず冒頭に述べたデフレ経済下に対する処方箋という意味がある。通貨の流通速度が急速に減速され、「貨幣が足りない」という現象が起こり、コールレートが十万分の一という前代未聞の利子率となり、日銀が金利をゼロにしても誰も貨幣を投資には振り向けない状況。企業にはリストラの嵐が吹き荒れ、失業率が上昇する現状に対して、貨幣を潤沢に供給する必要が迫られている。
そこで、地域通貨にはマイナス金利を導入する。貨幣を退蔵したり、銀行に預けたりしても、日々その価値が下がるという仕組みである。だから、早く使わなければならないので、貨幣流通が上昇するという訳である。
第四に、人間関係を変革するという機能である。これはおそらく、貨幣が持つ普遍的な機能であるから、地域通貨が狭い領域で盛んに流通し始めたら、地域通貨を通じた非利潤型の文化圏が生まれるであろうという考えではないだろうか。地域通貨が言語に近くなるとか、一物多価であるとか、債権債務関係の変革であるといったこともここに入れていいだろう。
そしてこれらの特徴の他に、とりわけ付け加えて言っておかなければならないことがある。これは、本論の主旨から言って重要である。つまり、地域通貨が想定している経済社会は、市場の廃止ではないということ、そして私的財産は不可侵であるということ。
さて、これらの特徴から何が問題であるかを検討してみよう。
第一に、貨幣の自由発行である。これに対しては現在、政府は地域を限定して奨励する方向にあるようだ。とりわけ、地方経済で落ち込んでいる地域に対して経済特区という形式でやろうとしている。これまで、貨幣発行権は国家の特権事項であったが、地域通貨のこの間の試行状況を見て、認める方向に転換したようだ。つまり日銀券を脅かさない限りは、地域通貨に政治的承認を与え、政府の施策の穴を埋める役割を果たさせようという意図が見えてくる。NGOの海外支援活動を日本外交の中に取り込むというこの間の流れと軌を一にしたもので、資本主義市場経済と共存できると判断したようである。
このことは、この問題のある種の解答でもある。地域通貨は利子を取らないことから、反社会的というよりもボランティア的と判断されたはずである。また、倫理を重視する以上、ブルジョアジーの経済活動を疎外するような経済のアウトサイダー的な役割を果たすとは考えられていない。
それは、ハイエクの提唱する貨幣発行構想とはかなり違うことを意味している。彼の提起したものは民間銀行の発行する銀行券という意味があったが、地域通貨はそれとは一線を画しているのである。銀行の果たす役割の中にある信用創造という機能は地域通貨には元々備わっていない。また貸し付け業務もない。銀行と似ているものと言えば、決済機能だけである。ただ、LETS内部で赤字をため込むヒトがいれば、それが一種の貸し付けとなるかもしれないが、債権債務関係とは言えない。むしろ手形決済に似ているかもしれない。
つまり、このことは貨幣の本質を言い当てていることにもなる。金本位制でも管理通貨制でも、貨幣の本質は金もしくは預金という価値の裏付けがあるものなのである。信用創造にしろ、架空資本にしろ、全くの実態のないのものからは作り得ない。ただ、それらが実態のないように見えるのは、時間軸で債務債権関係になるからであり、これまで如何なる経済学者も解明できていない価値実現のジレンマにその根拠があるのである。
これを理解するためには、地域通貨で生産活動を始める場合の課題を考えればいい。既に日本でも投資活動を始めているNPO があると聞いているが、事業を始める以上、元手が必要であり、一定のファンドが不可欠である。それを地域通貨でできるのか、という問題である。原材料の仕入れや給与等を地域通貨で支払うということは、既にかなりの範囲で地域通貨圏が存在していなければ成立しないだろう。また、市場経済である限り、生産された商品が売れない場合もある訳で、そうなるとその事業は赤字を抱えたままで業務が停止することも考えられる。その場合、事業は個人ではないので、それらの赤字は参加者全体で均等に清算するしかないであろう。
地域通貨が通貨でない利点は、こういった場合に生産の諸問題を資本の所有者や企業者だけに問題を限定する訳にはいかないということなのである。生産関係の社会的形態が近代的な所有概念から離れることで、公共的な問題となるからである。つまり生産問題が個別問題から一般問題となるということである。西部流に言えば、資本が未だに個人の問題に固着している段階から社会的な段階に到ることができる可能性を秘めているのである。
第二に利子問題は如何に解決できるのだろうか。生産が個別資本であれば、その剰余価値は投資家に配分されるか、あるいは資本に蓄積されるかのいずれかである。しかし、それが生産組織である限り、投資活動は必然的に必要になる。これまでの社会主義理論ではどれだけ、どこに、投資するかは労働者が決めるという自主管理か、計画経済当局が決めるかのどちらかしかなかった。しかし、地域通貨制度では理論的には消費者が決めるということも可能である。ただ、それは理論的に言いうるだけであって、大規模な装置産業での実験例はこれまで聞いたことがない。先にも言ったように、この場合の困難は数知れなくあるだろう。
地域通貨に利子が付かないということは、生産過程で剰余価値を生まないということにはならない。剰余が剰余として認識できるか否か、剰余の意味が変わってくる可能性はある。生産物の価値実現、つまり価格決定が消費者に委ねられているわけだから、一定の標準価格があっても、それは経済全体のバランスを保つ機能を持っていないし、最適な均衡価格を形成するわけではない。
だから、この利子の問題は生産を続けていくための投資の問題として意味を持つ。一つの社会関係の中では、それは生産を巡る決定の問題である。社会ファンドをどのようなルールで配分するかは、その社会の生産の構造を決めるからである。通貨によって均衡を保つ経済組織からの脱却は、通貨問題の第三、第四の問題とも関わる。地域経済と人間関係という人間社会の基本をどう変革していくのか、していけるのかが実は貨幣廃絶の根本問題があるということである。
ただ、これまで先に人間関係から始めることでは、変革が宗教になってしまい、地域経済から始めることでは、国民経済からの自立とはならなかった。この課題の出発は、貨幣の変革という迂回路を通らないとその糸口が見つからないということなのである。そして、それでさえ非常に困難ではある課題である。私はこの地域通貨経済とはこれまでの政治権力を課題とする政治革命との結合を考えるべきだと考える。地域通貨が生み出す経済が政治革命なくして不可能であり、もし実現したとしても恐るべきインフレ経済が実現するだろうと思われる。なぜなら、西部氏も言うように、倫理的な精神がなければそれが成立しないからである。そして、その倫理は経済構造を前提にしている訳であり、自然成長的には生まれ得ないからである。資本主義の精神ではそれは不可能である。
注1. 管理通貨での公定歩合は貨幣の利子である、いう見方がある。貨幣という場合、一般的には、M2とCDを合計した数量となり、この場合だと預金も含まれるので利子があるということになる。だから、この場合は現金通貨という限定された物を指している。