共産主義者同盟(火花)

火花264号「流論文」について
−拉致問題、朝鮮労働党への態度を巡って−

野瀬邦彦
264号(2003年8月)所収


「流論文」は、いくつかの点で決して容認出来ないものとなっている。

1.拉致問題の取り扱い方への疑問

※以下、太字部分は流論文からの引用。

 ここで、われわれは、拉致が、戦時の事件としては普通にあり得る事態であることを事実として認識しておかなければならない。例えば、イラク戦争で米軍は、他国であるイラクに侵入・占領し、令状なしにイラク人の身柄を拘束・監禁し、裁判なしに射殺している。戦時には、通常認められる法や人権は通用しないし、制限され無視される。ブッシュ政権はそのことをよく知っているから、拉致被害者を利用することはあっても、本気で同情などしていない。

→拉致問題のこうした相対化はいただけない。このあたり、日本の有識者が、拉致問題に言及した「日朝の歴史的関係が正常化されなかった中での悲劇」という言いぐさとよくにている。意図はどうであれ、導かれる結果は、独裁政権の免罪と被害者の軽視であろう。

 日本では多くの人が平時の目で事態を見ているので、拉致は許し難い犯罪として扱われているが、戦時においては当然違ってくる。今、戦時体制が着々と構築されつつあるので、拉致は人権違犯であり犯罪であるという平時的認識を、国民の敵への憎しみや味方に対する敵の攻撃の犠牲者であるという戦時的認識に変化させようとする国家主義者のキャンペーンが浸透する条件が拡大している。したがって排外主義との闘いの重要度が増している。

→このあたりの暴露は誤っている。拉致を許し難い犯罪と見る人々が、同時に北での餓死者や、脱北者の存在にも同情を示している。むしろ国家主義者の民族排外主義的なキャンペーンは、そううまくいっていないのが実情ではないのか。排外主義を総動員して戦時体制を遂行しようとしている、という暴露は排外主義の表れを狭くイメージさせる事につながると思う。

こういうことをしっかり踏まえていれば、愛国主義者の、「情」に訴えかける政治的世論操作、日朝プロレタリアート人民を敵対させる政治工作をうち破ることは容易である。

→はたしてそうか。重要なのは、「日朝プロレタリアート」と言う場合に、北朝鮮プロレタリアートの利害と現金独裁政権の利害とが対立していることであり、北朝鮮プロレタリアートは政治的形態をいまだ明確に持ち得ていず−独裁政権により絶滅させられてきた−その姿を餓死者や、難民という形でしか示しえていない現実である。容易ならざる問題は大きく、また、火急な課題である、「しっかりふまえる」とかの、気持ちの持ちようなどでは到底接近出来ない問題であることこそが、ここではまったく理解されていないのだ。

 あくまで対米関係を最優先に価値判断する外務大臣の下で、真の拉致問題解決は望めないし、こういう外務大臣に一任している小泉政府では、拉致被害者は展望を見いだせない。

 この問題を真に解決できるのは、こういう愛国主義によってしか拉致被害者とその家族との関係を築けない社会性の水準の低い反動家たちではなく、国際プロレタリアートとしての国際主義的な結合関係に基づく連帯とそれによる解決条件の具体的形成が可能なプロレタリアートだけである。われわれは、排外主義的民族主義反動共を暴露し、プロレタリアートの国境を越えた友誼によってこそ、問題の真の解決につながることを示し、拉致被害者とその家族を反動の手にいつまでも止めておかず、かれらを日朝プロレタリアートの国際連帯活に結合することを目指さねばならない。その場合に、三里塚闘争において、当初は、農民の中に自民党支持者や天皇主義者があったが、闘いの中で闘う農民に変貌した事実を想起しておきたい。

→拉致被害者家族が右翼に取り込まれている、という評論家的でかつ全く誤った現状認識から出発し、「国際プロレタリアートとしての国際主義的な結合関係に基づく連帯とそれによる解決条件の具体的形成が可能なプロレタリアートだけ」が解決できるなどと言い切っている。そんな同義反復で未だとらわれている拉致被害者を救出できるなどと、誰が信じるのか?あげくには、(右翼にとりこまれた)拉致家族に三里塚農民のように「闘う」拉致家族に変貌せよと強要するしまつである。三里塚闘争の歴史的総括が未完のまま行われる、こうした言及もはなはだ疑問である。

2.北の体制規定−労働党への態度をめぐって

 現在の金体制は明らかに社会主義ではなく、初期資本主義から過渡期を保守する反動的例外国家であって、まずそのことを認めることが必要である。その上で、建国時の方針であった資本主義化路線へ立ち戻れば、中国型の改革開放路線のようになるし、社会主義化へ進むならば、徹底的民主主義というレーニン主義路線へと転換しなければならない。朝鮮労働党が社会主義の看板を掲げる以上、後者こそ取るべき道であるが、開放区・特区の建設を繰り返しているところを見ると、明らかに前者の道を選択しようとしている。それによって、朝鮮労働党独裁体制を維持しようというのである

 われわれがこの問題解決への前進をはかるためには、朝鮮半島プロレタリアートと日帝足下プロレタリアートが両者の置かれている立場・位置の違いを認め合いながら、出来る限り直接の交流を広げまた深めていくことで、解決の条件を成熟させていくことが必要である。大事なのは、日帝下のプロレタリアートは、両者の接近を妨げ、敵対させる民族主義的愛国主義的排外主義を許さず、自国帝国主義を打倒する闘いを大衆的に組織するということである。それと同時に、過去の清算や民族差別をなくす闘いを発展させることである。そして朝鮮労働党の反社会主義的な路線の誤りを批判して、真にマルクス・レーニン主義的路線に転換させるよう働きかけることである。それこそが、本当のマルクス・レーニン主義的な党派闘争である。

→驚くべき言説である。我々は、3大会綱領で、一連の氷上論文などの作業を通して、朝鮮労働党が朝鮮プロレタリアートの敵対物となっている歴史的現実を明らかにし、ML主義的党派闘争の対象ではなく「打倒対象」であるとはっきりさせてきたはずだ。ここでは大胆にも朝鮮労働党とのML主義的党派闘争の方針が提起されている。
これでは排外主義と闘うことは絶対に不可能である。ここにいたってこの論文が、2大会の地平に我々を引き戻す意図を−自覚的かどうかはわからないが−読み取ることが出来る。
見てきた多くの誤謬も、結局の所、ここに根拠をもつもののようだ。

※論証抜きに語られる「初期資本主義から過渡期を保守する反動的例外国家」規定の無内容さにかんしては、ここでは指摘にとどめておきたい。

かかる朝鮮半島侵略戦争に加担すれば、たとえ北朝鮮人民が一時的な解放感を味わったとしても、その真の性格である帝国主義的侵略性や民族差別性にやがては必ず気がつくし、そうなったら、日本はふたたび憎むべき敵と認識されるであろうことは想像に難くない。そうなれば、日朝プロレタリアートの真の友誼を築くためのハードルは高まる。そうならないように、われわれは、現在の金正日政権による人民抑圧に反対するとともに帝国主義侵略戦争策動にも反対し、自国帝国主義打倒のために闘い、かつ排外主義と闘争しなければならないのである。

→ 〜「朝鮮侵略戦争」で「解放」された後、北朝鮮人民が帝国主義の悪を認識し、日本を敵視する、そのことにより「日朝プロレタリアートの真の友誼」のハードルが高まらないように〜 とは、いやはや凄い心配である。続いてこのために設定された任務が、
「現在の金正日政権による人民抑圧に反対するとともに帝国主義侵略戦争策動にも反対し、自国帝国主義打倒のために闘い、かつ排外主義と闘争しなければならない」という同義反復…。こういう物言いが、金正日独裁政権を打倒する任務を彼岸化し、帝国主義の永遠の反対派として、振る舞ってきた新左翼の様式美的な言説に過ぎないことを、我々は自覚するがゆえ、苦悩してきたのではなかったのか。
 我々は、共産主義運動を現実を止揚する現実の運動として、また、新たな社会性の水準を獲得するものとして闘ってきた。この流論文に示されている社会性の水準は、新左翼の狭いそれそのものである(以下未完)。




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