共産主義者同盟(火花)

研究ノート 生産的労働と不生産的労働(2)

流 広志
262号(2003年6月)所収


 (注)

 資本主義的な意味での労働の生産的か不生産的かという規定は、労働が、資本家に対して剰余価値を生む賃労働であるか否か、またそれが資本と交換されるか収入と交換されるか、そしてそれが商品を生産するか個人的サーヴィスを生産するかによって与えられることを確かめた。
 このことからは、まず、日本でとりわけ阪神大震災以来、急速に拡がってきたボランティアの資本主義的な意味での規定の基本的な基準が与えられる。この場合、ボランティアは基本的には賃労働ではない。その労働は、他人の寄付などによる収入を活動費とする場合は基本的には収入と交換されるものである。そしてそれは基本的には商品を生産しない。ボランティアは、基本的には個人的サーヴィスを生産する。 したがって、ボランティアは、資本主義的な意味での労働規定では、基本的には不生産的労働であるということになる。
 しかし、それが、間接的に剰余価値を増やす場合もある。例えば、森林ボランティアの植林や間伐などの森を育てる活動が、良質の木材を育て、結果的に、それによって木材企業が付加価値の高い木材を生産して大きな利益をもたらしたというような場合である。しかしこの場合でも、ボランティアの労働諸規定自体はなんの変化もない。この場合、木材企業の利益は特別利潤なのであって、それは資本主義的な社会的規定としての平均利潤による規定とは異なる利潤規定に属するのである。
 このように、労働諸規定は、「労働そのものも一つの自然力すなわち人間労働力の発現にすぎない」(『ゴータ綱領批判』国民文庫版)ものに対して特定の歴史的社会が与える規定なのである。これにボードリヤールは噛みついた。

ボードリヤールの労働論

 ボードリヤールは、1970年に『消費社会の神話と構造』を出版した。この本では、構造主義、記号論、象徴主義、などを立場としつつ、物の消費から記号の消費への転換という視点から、現代資本主義社会の分析を行っている。それは、ジャック・デリダやロラン・バルドなどが参加したテル・ケル派とも共通する経済学批判の視点である。
 彼がベースにしている構造主義は、「人間学」あるいは「人間主義」「ヒューマニズム」を批判し、人間を主体として生み出す社会的構造や社会的機能や社会的諸関係を探求するものである。構造主義者は、マルクスの経済学批判を、アダム・スミス、リカード、J・Sミルなどの人間学、心理主義、を批判し、それに対して、経済現象の客観的構造、社会的諸関係を解明するものであることを評価した。
 ボードリヤールもまた近代経済学派の人間学の解体を自らの課題とし、消費論に続いて、『生産の鏡』(法政大学出版局 1973年 以下引用は頁数のみ)では生産論を展開した。その第一章が「労働の概念」であり、それは、「消費の概念の裏側に隠されているもの、つまり欲求と使用価値との人間学をあらわにするだけでは十分ではない。生産・生産様式・生産力などの概念の裏側に隠されているすべてのものをあらわに」(6頁)するためだと述べている。
 それから彼は、『ドイツ・イデオロギー』から、「《したがって、最初の歴史的事実は、これらの欲求を満足させる手段の生産である。物質的生活そのものの生産は、あらゆる歴史の基本的な条件であり、この条件は何千年前と同じく、今もなお、毎日毎日、毎時間ごとに、人間の生活を維持するために満たされなくてはならないものである》」(6頁)という部分を引用し、「生産力の解放は、人間の解放と一体である」ということが革命と経済学のスローガンであることをマルクスは明証的だとして疑わなかったと言う(7頁)。
 その証拠としてさらに「《人間が動物と異なる第一の行動は、人間の思惟ではなく、人間が生活手段を生産し始めたことである》(同)という部分を引用し、「目的と手段は分離できる」、「生活は人間がその手段を求める目的である」、「人間には欲求がありそれを満たす運命にある」、「人間は労働力(それによって人間は自分自身の目的のための手段に変身する)である」という考えは、革命世代をもむしばむ異様な隠喩・寓話であり、経済学概念ウイルスであると述べている。
 マルクスからの引用は、言うまでもなく、唯物論の基本テーゼであって、それは、精神・心理を第一に置く観念論の重苦しさから人々を解放するものである。後の方の引用部分は、人間と動物との区別の基準を人間の行動に置き、その人間の行動が、「人間が生活手段を生産し始めたこと」、思惟ではなく行動が基準を与えると言っているのである。それは、近代経済学派のアダム・スミスやケインズなどの人間学的・道徳論的・心理学的経済学の観念論的重苦しさからの解放を手引きする重要な実践的テーゼなのである。
 こうした武器を失ってしまえば、たちまち、近代経済学の規範的道徳的人間像の餌食になって、その心理的道徳的圧迫に屈服させられてしまうのである。 ちなみに、ケインズの『雇用、利子、および貨幣の一般理論』を見れば、それが人間論であり心理学でもあることはすぐわかる。そこでは、「期待」とか「心理的消費性向」とかの心理ファクターが経済の決定的要素とされているのである。アダム・スミスは、『国富論』以前に、すでに『道徳感情論』を著している道徳論の大家であった。
 
 続いて、ボードリヤールは、交換価値と使用価値をマルクス主義が区別したことを評価すると同時に欠陥を指摘する。
 彼は、使用価値とは、「交換価値を捨象したところではじめてとらえられるような、主体にとっての役立ちという直接的な関係の相でみられた商品の人間的目的性という具体的価値の仮説であ」(7〜8頁)り、「交換価値の体系によって生み出され、この体系が完成される場である概念」(8頁)であるとも言う。
 ここで彼は、交換価値を記号論における記号の能記(意味するもの)、使用価値を所記(意味されるもの)としている。そのような彼の観点から見ると、マルクスの理論の革命的独自性は、労働力という例外的な商品のあり方を見いだしたことにあるという。そして、労働力商品は、使用価値として生産サイクルに入るとXという剰余価値と資本のプロセスを生む差異的な超過価値となるという。しかし、では一体、この労働力はどのようにして商品となったのか、そして、その労働力商品の使用価値はいかにして形成され、そしてそれはどのように機能すれば、剰余価値Xを生み出すのだろうか。その答えを見いだすためには、次に進まなければならない。 
 ここで、ボードリヤールの転倒が生じている。彼は、マルクスの「アードルフ・ヴァグナー著『経済学教科書』への傍注」から、商品の使用価値と交換価値の二重性の性格が、実はこの商品生産物を生産する労働の二重性の性格が、有用労働(使用価値をつくる具体的な労働様式)と抽象的労働(どんな「有用な」仕方で支出されるかにかかわらずに労働力の支出としての労働)という二重の性格として表示されたものに他ならない、諸品の価値形態、貨幣形態、貨幣の発展が、商品価値が他の商品の使用価値(他の商品の現物形態)に表示されること、「剰余価値そのものは労働力の「特殊的な」、もっぱらそれだけにそなわっている使用価値から引きだされるということ、等々、それゆえ私にあっては使用価値はいままでの経済学におけるものとはまったく違った仕方で重要な役割を演じている」というところを引用している。
 それに対して、彼は、マルクスが交換価値システム機能が特殊な価値(剰余価値)を生み出すことを認めながら、なお使用価値の具体的な先行性、積極性を与えているために、経済学の外見上の運動をいくらか保持しており、「交換価値の運動によって生産されるものとしての使用価値をあらわにするというところまで、この図式を徹底させてはいない」と、その限界とやらを指摘する。
 ところがマルクスは、彼自身が引用している最後のところで、「使用価値が考察されるのは、その考察が、「使用価値」と「価値」の概念または語についてあれこれと理屈をこねることからではなく、あたえられた経済的形象の分析から生まれてくる場合につねに限られている」(9頁)ことに注意を促している。つまり、マルクスは、経済学批判とは、あくまで経済の内部に止まる批判であり、「与えられた経済的形象」の分析として行われる批判だと言っているのだ。すなわち、ボードリヤールは、的はずれにも、マルクスが概念を作り直したとか図式を徹底させなかっただのと指摘しているのは、逆に、ボードリヤールがすでに記号学や構造主義、象徴主義(シンボリズム)という経済学の外部に出たところから、経済学を批判しているのである。そうすれば、もともと交換価値だの使用価値だのという概念が、経済学からすなわち経済形象の分析から得られたものを、記号学が取り入れたものであるのに、いつのまにか逆転させられてしまっているのである。たとえば、ロラン・バルトは、「記号は貨幣のようなものである。貨幣は、それで買えるある品物と等価であるという関係で価 が決まるが、同時に、それより価値の高い(大きい)あるいは(小さい)他の貨幣と比べても価が定まる」(『記号学の原理』)みすず書房 100頁)と述べている。しかし商品価値は、抽象的人間労働の労働時間に規定されるのであるが、記号学においてはそれがないのである。

 彼は、労働力商品についても、労働力の定義、価値生産者としての人間の明証、《使用価値》という意味サレルモノは、ここでもまだコードのひとつの効果、価値の法則の最終的な沈殿物である」(10頁)、労働力の使用価値の概念そのものの生産、生産する人間の特殊な合理性の生産の一般的な定義がなければ、経済学は成立しない、経済学が最後に依拠するのはこの定義である、したがってこの定義を壊さなければならない、等々。とこういう具合に、彼のターゲットは「定義」や「概念」であって、資本主義制度や生産関係や所有制度などではない。むしろこのような具体的歴史的特殊的生産諸制度は、記号システムの機能や作用によって生み出されているというのが、彼のマルクスを含む経済学の徹底批判や転覆にあたるというのである。
 彼流では、経済学の定義や概念などを相手にして闘っていれば現実と闘っていることになるわけである。しかし経済的形象は、現実の生産諸関係から生み出されてくるのであり、この物的現実が変化しないかぎりその定義であろうと概念であろうと変わるものではない。経済学はそれを定義や概念として反映しているのである。そして近代経済学者は、それを幻想化したり、屁理屈化したりする。もちろん、言葉における闘いが物的闘争の一形態に他ならず、またイデオロギーや学というレベルにおける批判的諸実践もまた闘いである。したがって経済学批判の実践として、経済学の「定義」や「概念」を相手に闘うことが重要な闘いであることは確かである。
 ボードリヤールがこれを書いたのは、1973年であり、それからすでに30年がたったわけだが、とりわけ1980年代のバブル消費に沸いた頃の日本の状況は、彼の物ではなく記号を消費する消費社会化論を証明したかのようであった。ところが、資本の国際化によるアセアン諸国や台湾・韓国、そして最近では中国への生産工場の大移転から生じたそれら諸国の急成長の事実が、ボードリヤールの消費社会とは実は、先進資本主義国の産業空洞化、金融国家化、そして第三次産業化という腐朽化の現れに他ならないこと実証した。
 今日の日本の状況は、記号の消費中心から物の消費中心へと逆戻りしてしまったかのようである。しかし、そうではなく、上述のような生産体系の変化が消費を変化させたのである。彼は、こういうことを押さえた上で、なお、経済における記号的現象の分析と批判に向かうならば、大きな成果をあげられたはずなのに、そうはしなかった。

 その代わりに彼はいう。「マルクス主義でいう労働は、自然の必然とその弁証法的な超越という枠のなかで、価値を生産する合理的活動として定義される。労働が生産する社会的な富は物質的なものであって、象徴的な富とはいかなる関係もない」
(28〜9頁)。
 マルクス自身は、『資本論』冒頭で、「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本的形態として現われる」(大月文庫 71頁)と述べている。商品は物質的なものであって、たんに象徴的な富などではない。貨幣は貨幣商品であって、たとえそれが計算貨幣として頭の中や帳簿上の数字のように想像的なものとなる場合(それでもそれは人々の脳の中に存在する)があるにしても、物質的なものである。象徴は、能記という身体を持っている。したがって、労働生産物としての商品という社会的富は、象徴的富と無関係ということはありえない。むしろ両者を合わせて考えなければ、現実の全体をとらえられないのである。
 彼は、マルクスの理論には、「どのようにして剰余価値が生まれ、質的な規定によって、労働力の現実化の多少が生じるのか」という謎があるという。価値の量を規定するのは、時間という尺度によって計られた労働時間であり、である。労働時間が、必要労働時間と剰余労働時間に分かれるから、剰余価値が生まれるのである。彼は時間を無視した。
 彼が依拠している一人であると思われるソシュールは、その言語学で、やはり時間を無視して、言語の社会的構造を扱っているが、それは言語という対象に特殊なやり方であって、経済という別の対象に直接当てはめられないものなのに、ボードリヤールは、記号論を経済に無理矢理当てはめて、肝心なことを無視するのである。

(つづく)




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