共産主義者同盟(火花)

研究ノート 生産的労働と不生産的労働

流 広志
261号(2003年5月)所収


 労働諸規定にたいする混乱は,とりわけ,第三次産業化なり,IT化なり,サービス化などの現象に対する近代経済学派が生産する諸幻想によって甚だしくなっている。
 先進資本主義国におけるサービス産業育成は,海外生産へのシフトの進展による国際分業体制の発達によってますます産業界の強く要請するところとなった。それにともなって,サーヴィス労働の生産性が問題とされるようになっており,その文脈で,行政の効率化などの構造改革路線が経済再生の切り札とまで言われるようになった。
 それに加えて,一方ではマルクスを持ち上げながら,同時にその基本思想を否定するというやり方で,労働概念を俗流化する者もいる。その代表は経済学批判は終わったとして,それに代える「記号の経済学批判」なるものを提唱する社会学者ボードリヤールである。 彼は,あれほどマルクスが「具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということは,等価形態の第二の特色なのである」(『資本論』第1篇 商品と貨幣 大月書店@ 112頁)と言い,抽象的人間労働という抽象が歴史的生産関係によって生み出されるものであることを強調しているにもかかわらず,「マルクスは労働の概念を,労働力/商品,つまり抽象的な社会的労働(交換価値)と具体的な労働(使用価値)という二重の概念に作り直した」(『生産の鏡』法政大学出版局 8頁)とまるでマルクスが労働概念を頭の中で思いついただけだといわんばかりのことを言っている。時間によって測られて労働が抽象的人間労働としての量に還元されない限り,労働生産物は商品(交換価値)にはならない。彼には,形態規定な謎のままである。なお,交換価値の実現は,商品の使用価値の消費ではなく,商品の交換価値としての実現,すなわちその販売(貨幣との交換)の時点で実現されるのであり,それまでは商品の交換価値は想像上存在するにすぎないのである。しかしそれは想像物であるといっても,社会的に規定された想像物なのであり,個人の任意な思いつきで適当に規定できるような想像物ではないのである。この場合,想像は特定の歴史的社会形態によって規定されるのである。
 まず,マルクスが生産的労働と不生産的労働についてのアダム・スミスの区別を批判的に検討した『剰余価値学説史』第4章の一部を見て,その上で,ボードリヤールの労働の概念を批判的に検討することにしたい。それによって,現在,近代経済学派の労働に関して人々を惑わしている諸幻想から解放されることができるようになろう。

『剰余価値学説史』第4章 生産的労働と不生産的労働に関する諸学説についての部分的メモ

 冒頭マルクスは,アダム・スミスがあらゆる点で二面的であり,生産的労働と不生産的労働という二つの規定も,生産的労働もまた二つの規定が入りまじっていることを指摘している。しかし,この二つの規定のうち第一の規定は正しいものだという。

〔一 資本主義的生産の意味での生産的労働は剰余価値を生産する賃労働のことである〕

これが生産的労働の第一の正しい規定である。
 より詳しく言えば,「資本主義的生産の意味での生産的労働とは,賃労働のことであって,これは,資本の可変的部分(賃金に投下される資本部分)と交換されて,資本のこの部分(またはそれ自身の労働能力の価値)を再生産するだけでなく,そのうえに資本家のための剰余価値をも生産する。このことによってのみ,商品または貨幣は,資本に転化され,資本として生産されるのである。資本を生産する労働だけが生産的である。(このことは,賃労働がそれに投下された価値額を増大させて再生産するということ,または,それが賃金の形態で受け取るよりも多くの労働を返すということ,と同じである。つまり,それの経済的利用がそれ自身の価値よりも大きい価値をつくりだす労働能力だけが生産的なのである。)」(大月書店 A 9頁 以下引用は頁数のみ)ということである。
 資本家階級・資本の存在は,労働の絶対的生産性ではなく相対的生産性を基礎にしている。それは,賃労働が元の価値を補填するだけでなく新しい価値をつくりだすという意味で,相対的なのである。つまり生産的賃労働は,元の価値と新しい価値の二つの価値をつくりだすのであり,それらの関係をもつくりだすのである。それが,資本の存在の基礎なのである。したがって,「{・・仮に資本が存在せず,労働者が,彼の剰余労働を,すなわち,彼がつくりだした価値のうち彼が消費する価値を越える超過分を,みずから取得するとしよう。そうすれば,ただ,このような労働についてだけ,それは真に生産的であると言うことができるであろうし,言い換えれば,新しい価値をつくりだすのだと言うことができるであろう。}」(11頁)ということになる。
 スミスはさらに「生産的労働は資本と交換される労働である」という説明をしている。資本を生産する労働だけが生産的労働なのである。資本家は,商品が,それにたいして彼が支払ったよりも多くの交換価値をもつかどうかに関心をもつのであり,したがって,彼にとって労働の使用価値は,彼が賃金の形態で支払ったよりも多くの労働時間を回収することなのである。したがって,「この生産的労働者のなかには,当然,なんらかの仕方で商品の生産に協力する支配人や技師(資本家とは区別されるものとしての)に至るまでの,すべての労働者が属する」(17頁)。アダム・スミスが,生産的労働を資本と直接に交換される労働と規定していることを彼の最大の科学的功績の一つであるとマルクスは評価している。
 そしてこれによって不生産的労働の絶対的規定も確定される。
 それは,「資本とではなくて,直接に収入と,つまり,賃金または利潤と(もちろん利子や地代のような利潤の分けまえにあずかるいろいろな項目とも)交換される労働である」(18頁)。生産的か不生産的かという規定は,労働の素材的規定や労働生産物の性質や具体的労働としての労働の規定性からではなく,労働が実現される一定の社会的形態,社会的生産関係からとりだされるのである。
 例。「俳優は,道化師であっても,もし彼が資本家(企業家)に雇われて働き,賃金の形態でその資本家から受け取るより多くの労働を返すならば,生産的労働者であるが,他方,資本家の家にやってきて彼のズボンをつくろい,彼のために単なる使用価値をつくる修理専門の裁縫師は,不生産的労働者なのである。前者の労働は,資本と交換され,後者のそれは,収入と交換されるのである。前者は剰余価値をつくりだすが,後者においては収入が消費されるのである」(19頁)。
 「著述業が生産的労働者であるのは,彼が思想を生みだすかぎりにおいてではなく,彼の著書を出版する本屋を富ますかぎりにおいて,すなわち彼が資本家の賃労働者であるかぎりにおいてである」(同上)。
 
 資本家だけが(労働力商品を除いて)諸商品の生産者であれば,収入は,資本のみが生産し販売する諸商品と交換されるか,または商品同様に消費されるために買われる諸労働(その素材的規定性,その使用価値のために,買い手や消費者に与えるサーヴィスのゆえに買われる諸労働)と交換されるか,のいずれかである。
 「このようなサーヴィスの生産者にとっては,このサーヴィス提供が商品なのである,それは,一定の使用価値(想像的または現実的)と一定の交換価値とをもっている。しかし買い手にとっては,このようなサーヴィスは,単なる使用価値,彼が自分の収入をそれに消費する対象にすぎない。不生産的労働者は,収入(賃金と利潤)にたいする彼らの分けまえを,すなわち生産的労働によって生産された諸商品にたいする彼らの分けまえを,無償で受け取るわけではない。彼らは,それにたいする自分たちの分けまえを買わなければならない。けれども,彼らは,それらの生産とはなんの関係もないのである」(同 20頁)。「労働の,したがって労働生産物の,素材的規定性は,生産的労働と不生産的労働とのあいだのこうした区別とは絶対になんの関係もない」(20頁)。
 例。「一般のホテルの料理人や給仕は,彼らの労働がホテル所有者のために資本に転化されるかぎりでは,生産的労働者である。これと同じ人も,私が,彼らのサーヴィスで資本をつくるのではなくそれに収入を支出するかぎりでは,召使いとして不生産的労働者なのである。だが,実際には,この同じ人がホテルにいても,消費者である私にとっては,やはり不生産的労働者なのである」(21頁)。
 「生産的労働者の労働能力は,彼自身にとっての一つの商品である,不生産的労働者のそれもそうである。しかし,生産的労働者は,彼の労働能力の買い手のために商品を生産する。不生産的労働者は,買い手のために,単なる使用価値を生産するのであって,商品を生産せず,想像的または現実的な使用価値を生産するのである。不生産的労働者が彼の買い手のために少しも商品を生産しないのに,しかも買い手から商品を受け取るということは,彼の特徴である」(22〜23頁)。
 「たとえば,ピアノ製作業者の労働者は生産的労働者である,彼の労働は,彼が消費する賃金を補填するだけではない。ピアノという生産物,ピアノ製作業者が売る商品のなかには,賃金の価値を越える剰余価値が含まれている。これに反し,仮に私がピアノをつくるのに必要なすべての材料を買って(または,それを労働者自身が所有しているとしてもかまわないが),売りもののピアノを買うのではなく,私の家で私のためにそれをつくらせる,としよう。この場合には,ピアノ製作者は不生産的労働者である。というのは,彼の労働は直接に私の収入と交換されるからである」(24頁)。

 資本が生産全体を征服するにつれて,すべての商品が直接的消費のためにではなく取引のために生産され労働の生産性も発展するにつれて,ますます,生産的労働者と不生産的労働者とのあいだでの素材的差異が現れることは明らかである。「なぜなら,前者は,わずかな例外を除けば,もっぱら商品を生産するであろうが,他方,後者は,わずかな例外はあっても,個人的なサーヴィス提供だけを行うだろうからである。それゆえ,第一の部類は,直接的な,物質的な,商品から成っている富を,労働能力そのものから成っていないかぎりでのあらゆる商品を生産するであろう」(24頁)。
 「資本が生産全体を征服すると,そのときには,収入は,一般に労働と交換されるかぎりでは,商品を生産する労働と直接に交換されるのではなく,単なるサーヴィス提供と交換されるようになる。収入のうち一部は,使用価値として役だつべき諸商品と交換され,一部は,サーヴィス,すなわち,それ自体使用価値として消費されるサーヴィス提供と交換されるのである」(29〜30頁)。
 このことから,生産的労働者はその労働が商品を生産する労働者であり,彼が生産するようりも多くの,彼の労働が要するよりも多くの,商品を消費することはないという規定に達する。
 (1)アダム・スミスは,売ることができ交換可能な商品に固定し実現される労働に,物質的生産において直接に消費されうるすべての知的労働を含めている。直接的な手工労働者,機械工,監督,技師,支配人,事務員など。
 (2)彼は,このことは概して一般的には,不生産的労働者にはあてはまらないと言う。「私が家に呼んでシャツを縫わせる裁縫女や,家具を修繕させる労働者や,家を洗ったり,掃除したりさせるなどさせる召使や,肉などを食べられる形にさせる料理女は,工場で縫う裁縫女工や,機械を修繕する機械工や,機械を掃除する労働者や,資本家の賃労働者としてホテルで調理する料理女とまったく同じように,彼らの労働を一つの物に固定し,事実上この物の価値を高めるのである。可能性から言えば,これらの使用価値もやはり商品である,シャツは質に入れることができるし,家は再び売ることができるし,家具は競売に付することができる,等々。したがって,可能性から言えば,これらの人々も商品を生産したのであり,その労働対象に価値をつけ加えたのである。しかし,これは不生産的労働者のなかのごくわずかな部類であり,多数の召使や,また僧侶,役人,兵士,音楽家たちには,とてもあてはまらない」(31頁)。
 「同じ労働でも,私が資本家として,生産者として,それを価値増殖に利用するために買う場合には,生産的でありうるし,私が消費者,収入の支出者として,その使用価値を消費するために労働を買う場合には,たとえこの使用価値が,労働能力の活動そのものといっしょに消滅するにせよ,またはある物に物質化され固定されるにせよ,不生産的であるはずである」(32頁)。
 労働者階級の場合は,自分自身のための労働を自身でしなければならないが,彼らが肉を料理でき,家具や住居をきれいにしておき,靴をみがくことができるのは,彼らがすでにそれらの対価を支払うための賃金をすでに生産していた場合だけである。したがって,こうした彼らが自分自身のためにする労働は,不生産的労働として現れる。
 (3)「劇場,音楽会,娼家等々の企業者は,俳優,音楽家,娼婦たちの労働能力にたいする一時的な処分権を買う−実際には,ただ経済的=形態的な関心だけをもつという回り道を経てではあるが,結果においては,その運動は同じものである−。「サーヴィスが遂行されたその瞬間に消え去り」,そして「ある永続的な」(すなわちまた特定の)「対象または販売しうる商品」(彼ら自身以外の)に固定されたり実現されたりしないような,こうしたいわゆる「不生産的労働」を買うのである。これの公衆への販売が,彼にたいしては賃金と利潤を回収させるのである」(33〜4頁)。たとえば,弁護士が自分の事務所で使っている書記の労働。
 「一方では,いわゆる不生産的労働の一部が,同じような商品(売ることのできる商品)でありうる物質的使用価値に物体化されることがあるとすれば,他方では,すこしも客観的姿態をとらない−物としてサーヴィス提供者から分離された存在を持つことなく,また価値成分として商品にはいって行くこともない−一部の単なるサーヴィスが,資本をもって(労働の直接の買い手によって)買われ,それ自身の賃金を補填し利潤を生ずることがありうるのである。要するに,こうしたサーヴィスの生産が部分的に資本のもとに包摂されうるのは,ちょうど有用物に物体化される労働の一部分が,直接に収入によって買われ,資本主義的生産に包摂されないのと同じことなのである」(35頁)。
 (4)「全「商品」世界は,二つの大きな部類に分けることができる。第一は,労働能力を維持し,変化させるなどの,要するに,それに特殊性を与えたりまたはそれを維持するだけのような,サーヴィスの購入−したがって,たとえば「産業的に必要」であるかまたは有用である労働能力そのものを保存するかぎりでの教師のサーヴィスや,健康を維持し,したがってすべての価値の源泉である労働能力そのものを保存するかぎりでの医師のサーヴィスなど−は,それに代わって「人が買うことのできる一商品」すなわち労働能力そのものを生みだすサーヴィスであり,こういうサーヴィスは,この労働能力の生産費または再生産費のなかにはいって行くのである。といっても,A・スミスが知っていたように,「教育」は労働者大衆の生産費のなかにはほとんどはいって行かない。また,どんな事情のもとでも,医師のサーヴィスは生産の空費に属する。これは労働能力の修繕費に計上されうるものである。・・・・医師や教師の労働は,それの代価が支払われる財源を直接につくりだすものでないことは明らかである,といっても,彼らの労働は,総じてあらゆる価値をつくりだす財源の生産費のなかに,すなわち労働能力の生産費のなかに,はいって行くのであるが」(35〜6頁)。
 
 「どの瞬間にも市場には,小麦や肉などとならんで,娼婦,弁護士,牧師,音楽会,劇場,兵士,政治家などもまた見だされないだろうか? これらの男女は,穀物その他の生活必需品または享楽品を無償では手に入れない。彼らは,それと交換に自分のサーヴィスを与えるか,または押しつけるのであって,そのサーヴィスは,このようなサーヴィスとして使用価値をもち,また彼らの生産の結果として交換価値をもつのである。消費用物品のうちに入れられるものには,どの瞬間にも,財貨の形で存在する消費物品とならんで,サーヴィスとして消費しうるサーヴィスがない場合よりも大きい。また第二に,その価値もより大きい。なぜなら,その価値は,これらのサーヴィスが受け取る諸商品の価値に等しく,また,サーヴィスそのものの価値に等しいからである。というのは,この場合は,商品と商品との交換のすべての場合と同じように,等価物にたいして等価物が与えられるのであり,したがって,同じ価値が二重に,一度は買い手の側に,一度は売り手の側に存在するからである」(38頁)。
 「商品という概念は,労働がその生産物に物体化され,物質化され,実現されている,ということを含んでいる。労働そのものは,その直接的定在すなわちその生きた存在においては,直接に商品としてとらえることはできない。〔直接に商品としてとらえうるのは〕労働能力だけであり,その一時的な発現が労働そのものなのである」(42頁)。
 「われわれが労働の物質化としての商品について−その交換価値の意味において−語る場合には,このこと自体は,商品の想像的,すなわち単に社会的な,存在様式,にすぎないのであり,これは商品の物体的な現実性とはなんの関係もない。商品は,一定量の社会的労働または貨幣として思い浮かべられるのである」(43頁)。
 「商品は過去の対象化された労働として現れるということ,したがって,商品が物の形態で現れない場合には,それは労働能力そのものの形態でのみ現れうるということ。といっても,けっして直接に生きている労働そのものとしてではなく,(回り道をして,である。この回り道は,実際的にはどうでもよいことのように見えるが,しかし,いろいろな労賃の規定においては,そうではない)。したがって,生産的労働とは,商品を生産するような労働,または,労働能力そのものを直接に生産し,形成し,発展させ,維持し,再生産するような労働であろう」(44頁)。
 「労働能力そのものを捨象するかぎり,生産的労働は,商品,すなわちその生産に一定量の労働または労働時間を費やした物質的生産物,を生産するような労働であることになる。こうした物質的生産物のなかには,物の形をもって現れるかぎりでの芸術や化学のすべての生産物,書物,彫像などが含まれている。しかし,さらにその労働の生産物は,「売ることのできる商品」,すなわち,その姿態変換をこれから通らなければならない最初の形態にある商品だ,という意味における商品でなければならない」(44〜45頁)。
 「召使のある種の労働も,同じように(可能性からすれば)商品の形をもって現れうるであろうし,さらに素材的にみれば,商品と同じ使用価値をもって現れるであろう。だが,その労働は生産的労働ではない。というのは,その労働は,事実上,「商品」を生産するのではなく,直接に「使用価値」を生産するのだから。ところが,その買い手または雇用者自身にとっては生産的な労働,たとえば劇場企業者にとっての俳優の労働のような労働について言えば,その労働は,その買い手がそれを商品の形においてではなく行動そのものの形でしか公衆に売ることができないということによって,不生産的労働であるとされてしまうであろう/こうしたことを別にすれば,生産的労働とは商品を生産する労働であり,不生産的労働とは個人的サーヴィスを生産する労働である。前者の労働は売ることのできる物に表わされ,後者の労働は,それが行われているあいだに消費されなければならない。前者は(労働能力そのものを形成する労働を除けば),物的形態で存在するすべての物質的および知的な富を−肉も書物も−〔生産する労働〕を含む。後者は,個人のなんらかの想像的なまたは現実的な欲望を満たすか,あるいはまた,個人にたいしその意志に反して押しつけるかの,あらゆる労働を含む」(45〜6頁)。

 加えて,「いわゆる「高級」労働者−たとえば,官吏,軍人,芸術家,医師,僧侶,裁判官,弁護士など,すなわち,部分的に生産的でないばかりか本質的には破壊的な人々,しかも,「物質的」富のきわめて大きな部分を,一部には自分の「非物質的」商品の販売により,一部にはそれの強制的な押しつけにより,取得することを心得ている人々−の大群にとっては,経済学上道化師や召使と同じ階級のなかに追いやられて,本来の生産者(というよりはむしろ生産当事者)の寄食者ないし寄生者にすぎないものとして現われるということは,けっして愉快なことではなかった。こうしたことは,これまで後光につつまれ迷信的な尊敬を享受してきた職分にたいする驚くべき冒涜であった。古典学派時代の経済学は,成り上がり者時代のブルジョアジーそのものとまったく同じように,国家機構などにたいしては厳正かつ批判的な態度を取っていたのである。のちになって,ブルジョアジーは,この部分的にまったく不生産的である階級全部の伝統的な社会的結合の必要性が,彼ら自身の組織から生じることを洞察し,また−実践的にも示されたように−これを経験によって学ぶのである」(49〜50頁)。

 かなり長い引用を含めて書き連ねてきたが,これらから明らかなのは,資本主義的な生産的労働と不生産的労働の区別が,剰余価値を生産する賃労働か否かということを規準としており,さらに,労働が資本と交換されるか収入と交換されるかという規準,そして,労働が商品を生産するか個人的サーヴィスを生産するかどうかという規準,によって与えられるということである。
(つづく)




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