新しい世界観の構築に向けて(2)
斉藤隆雄
257号(2003年1月)所収
テーマ: 市場経済
3.計画経済の正体
ソビエトロシアをスターリン主義として批判してきたのは、政治的思想を巡ってであって、計画経済そのものは否定されてこなかった。スターリン主義を批判してきた新左翼もこの経済思想を巡る論戦に対して有効な批判をなしえてこなかったことで、ソ連崩壊以降の政治的社会的運動を主体的に作り上げることができていないのである。
では、生産や分配を計画的にするということが資本主義経済とどれぐらい異なるものなのかを簡単に振り返ってみよう。まず、生産活動については資本主義経済に於いても企業レベルでは計画的になされているはずである。しかし、一つの企業にとって将来の売り上げを想定してどれだけの原材料と労働力を投入するかは未知である。とりわけ設備企業にとっては資本投下によって産み出される生産物は、投下された時点と生産物が出荷される時期とは懸け離れる傾向が強い。そして、一度投下された資本は相当長い期間稼働しなければ、投下された資本は回収できない。鉄鋼業や造船などの企業は長期的な需要予測を下に資本が投下される。もし予測が下方に外れた場合は、その企業は稼働率を下げて採算すれすれで経営されるか、最悪の場合倒産することになる。また上方に外れた場合は、フル操業となるものの他企業に市場を奪われる可能性もある。
一方、計画経済では需要は始めから計画されているので、想定された需要に見合った資本投下が行われ、生産活動が行われるはずである。資本投下と生産物出荷との時間差がかなりあったとしてもそれによって企業が操業率を上下することは原理的にはない。つまり、生産活動にとって未来が未知か既知かは根本的な差を産み出すことになる。
市場経済下においては、巨大な資本投下が必要な基幹産業の資金は、資本家個人では賄い切れないことから、複数の投資家や銀行などから資本が調達され、利子生み資本として機能し始め、資本家相互の共同の利害として当該産業が成立する。「鉄は国家なり」と嘗ての日本の鉄鋼業経営者が豪語したように、設備産業自体が国家の道具として機能し始める訳である。これは、新古典派の言う「資本主義」の姿ではない。つまり、市場経済における未来の確定なのである。帝国主義が社会主義に最も近いと見えたのは、この側面である。
ここから、国家の政治的性格の問題へ人々の関心が集まることになる。つまり、如何なる国家か、ということが問題になる訳である。
資源の確保から始まる基幹産業は川上から川下へ生産物が分配されるにつれて、様々な加工や付属物の結合を通じて膨大なすそ野を作り出す。これらの支流一つ一つを管理することが困難を極めるという話は既にした。ソビエトロシアでは、これを企業結合という形で解決しようとしたが、うまく行かなかった。戦後のコスイギン・ブレジネフ改革は結局の所、計画経済を市場経済と如何に結合させるかにあったと言っていい。生産規模が小さくなってくるにつれて、市場経済はその機能を発揮する。つまり、無数の売り手と買い手がいる世界である。
市場経済での生産財市場はそれでもある程度の需要予測がなされる。それは経営者の経験的な領域でもあり、またカルテル・トラストに代表される企業系列、下請け関係などによって調整されている。更に貨幣の節約という面での手形や銀行融資などが金融面でそれを助けている。それでも、大規模な設備企業では長期にわたって需要が安定するとは限らず、設備の耐用年数が終わらない内に、設備を更新しなければならなかったり、廃棄しなければならなかったりするのであるが、これは日々の技術革新によって更に早められたりもする。
さて、計画経済ではこのような資本主義経済につきものの設備の改変は合理性を持たない。なぜなら、市場がないからである。だから、設備は当然耐用年数まで使用されるのが合理的であるし、日々の技術革新はその経済構造の中で生まれると考えていいだろう。企業系列や下請けは計画経済においても当然存在するが、これは競争関係を持たないので、賃金格差や労働環境等の格差は生じないと考えられる。
では、これら二つの経済構造の下で行われる生産活動が併存するとしたら、違いはどこにあるのだろうか。資本という面で言えば、計画経済においては中央銀行が管理しているので、市場経済下の銀行と結びついた金融独占は生まれないが、限りある国家資本の中から分配するのであるから、企業長と国家官僚との結びつきは、市場経済以上に強められると考えて良いだろう。他方、市場経済においては個別企業の生産事情が時として大きく国家政策に反映したり、企業系列における締め付けによる合理化など労働市場への圧力が強まる。市場経済は基本的に時間軸において不確定なので、初期条件による経済構造の歪曲や特異性が生まれる可能性が高い。
一方分配面で言えば、計画経済では最終消費場面での必要量が確定できないために、個々の消費主体である世帯経済に対して大きな調整機能が求められる。公共投資や設備投資に関しては合理性が発揮されても、個別の消費局面では原材料から個別製品への長い生産連鎖が生まれれば生まれるほど、それは必要と供給がマッチングできないことになる。例えば、新たな製品が開発されたとしても、それが各世帯で必要であるないかはたとえ計画経済と言えども各世帯の判断に依存するから、供給過剰や供給不足が生まれることは避けられない。これは工業製品、とりわけ大衆消費財においては著しくなる。そこで、計画主体は新たな製品供給に対して控えめとなるだろうし、また供給過剰となれば、それに替わる新たな製品が生まれにくくなる。他方、市場経済においても最終消費量は確定されていないので、必要と供給とがマッチングしないのは同じである。ただ違うのは必要量にマッチングしない商品は価格調整によって需要を喚起できる点である。また価格が企業の採算ラインを下回ったら、その生産は例え償却が完了していなくても停止されるのが通常であろう。
このように考えるなら、計画経済と市場経済の違いは、共に供給と需要の時間差に起因する、消費量の未定を如何なる方法によって確定するかによっている。計画経済は社会的資本の供給に関しては大きな強みを発揮するが、大衆消費に関しては柔軟性にかける。市場経済はその逆に社会資本の供給に関しては無駄が多く、大衆消費財に関しては柔軟性があり、無駄が少ないというとりあえずの結論が見えてくる。
二つの経済構造の歴史を考えると、市場経済は設備資本や社会資本の供給については国家という道具を使いながら、計画経済を導入してきたし、また計画経済においては大衆消費財の供給については市場経済の機能を導入してきた。ただ、経済が高度化すればするほど、大衆消費財の需要が増えるという傾向があり、これに対応するために適している経済が市場だという言い方は一定の正当性がある。しかし、これは市場経済の労働市場での調整や景気変動と言った負の局面を考慮していない。いわゆる「混合経済」と呼ばれる経済体制はこの負の側面を如何に緩和するかを企図して構想されたと言われている。失業対策事業や貨幣供給量の調整などがこれに当たるだろう。だが、それらの再分配機能や金融政策は貨幣を媒介にして行われることで、最終需要の不確定という生活場面での経済構造の問題を貨幣的物質性に還元してしまうという限界を持っていることになる。このことは、計画経済の実験では最終消費の確定を生活場面での調整に委ねられることで地域的協同性が無意識的に生まれざるを得なかったということと裏腹の関係なのである。かつての計画経済研究の拙稿でも指摘したが、経済統計に現れない様々な副業が存在したことを想起していただきたい。これは現在のロシア経済を支えている大きな柱であると思われる。
現実の経済においては、以上に述べた事柄の他に様々な副次的問題が生起しているが、基本的に計画経済の求められるものは、市場経済が有効性を発揮している消費場面の需要情報(貨幣がその機能を発揮している)を如何に供給サイドに環流させるかにある。これを非物質的な構造の中で如何に行うかが問われているのである。一般的に言われているように、競争がないからだと言った俗説は排除すべきである。なぜなら、如何に製品が役立つかが需要を左右するなら、生活場面での必要性が問題なのであって、これは経済の問題ではなく社会の問題であるからだ。そして、計画経済が敗北したのは、この問題を解決できなかったからであり、貨幣に替わる社会性を獲得することに失敗したからであると言い得るだろう。