共産主義者同盟(火花)

「マルコス ここは世界の片隅なのか」への誘い

早瀬隆一
254号(2002年10月)所収


「マスコミは、特にメキシコでは、しばしば、サパティズムの中の、武器、ゲリラ、目出し帽、マルコス...などといった枝葉末節のことしか取り上げません。さらに、もうひとつの政治参加方法に関するわれわれのいっさいの考察、トービン税や参加型民主主義に関するわれわれの分析を軽視します。彼らは、社会運動としてのあるいは経済的、社会的、文化的問題に関心を寄せる組織としてのサパティズムにはそれほど大きな重要性を付与しません。しかしながら、サパティズムは、抵抗であるだけでなくて、同時に、ひとつの選択を、すなわちもうひとつの世界が可能であるという確信にもとづいて別の異なる人間関係を建設できるというその可能性を表しているのです。」(「マルコス ここは世界の片隅なのか」)

 1994年1月1日の蜂起以来、サパティスタは、膨大に発信される声明によって、あるいは具体的に展開される実践的営為を通して、その独自の運動観を世界に発信し続けてきた。それは、新しい社会を希求しそのための運動の再構築を模索する人々に、多くの示唆を与えてきた。筆者もサパティスタの主張や運動から新鮮な驚きと示唆を受けてきた一人である。
 サパティスタのスポークスパーソンである副司令官マルコスの声明やインタヴューは、日本においても少なからず翻訳されてきたが、今回、新たに3冊の書籍が刊行されようとしている(注1)。「マルコス ここは世界の片隅なのか−グローバリゼーションをめぐる対話」はその一冊であり既に発刊されている。

 この書籍は、フランスの反グローバリゼーション運動の担い手であるイグナシオ・ラモネ氏によるマルコスへのインタヴューを中心に構成されたものである。インタヴューの時期は、2000年の首都行進の直後、議会による修正先住民法議決の前と思われる。修正先住民法議決以降サパティスタは長い<沈黙>のうちにあるため、このインタヴューが最も最近のマルコスの声と言えるかもしれない。タイトルが示すようにインタヴューの中心はグローバリゼーションを巡るものであるが、相手はマルコス、グローバリゼーションのもたらす災禍への告発に終始することはない。このインタヴューにおいてマルコスは、その運動観を分かりやすく率直に述べている。権力奪取を目指さない運動、軍事あるいは武装闘争に対する独自の姿勢、グローバリゼーションに対する抵抗の二つの形態、原理主義的運動への姿勢、etc いずれも簡潔ながら示唆に富んだ内容である。その意味で訳者があとがきで書かれているように「サパティスタ運動入門書」としても必見である。

 筆者が皆さんに願うのは「マルコス ここは世界の片隅なのか」を手にとり、その全文を読んでいただくことである。そしてそれぞれの視点でマルコスの言説を捉え返していただくことこそ望ましい。この拙文はそのための誘い水である。同書籍の批評あるいはマルコスの言説への検討を目的としたものではない。そもそもマルコスの文章や発言は、なにがしかの認識の統一を直接に目指すためのものでもなく、人々をその主張のもとに統合するための軌範でもない。むしろその文章に接した人々がそれぞれの現実のなかで触発され考えていくような(思い入れや思い込み、あるいは誤解も含めて..)スタイルをとっている。それは彼が構想する共同性の今日的在りようとも無関係ではないだろう。

 とは言え、本拙文が誘い水となるべく、筆者が興味深かった部分を少し引用し、感想を簡単に述べておこう。筆者が最も興味深かったのは、グローバリズムに対する抵抗の形態について述べている部分である。当該箇所の一部を引用しておく。

 「一方には、誰もが注目する抵抗があります。これらは大々的にマスコミで取り上げられるので人びとの心を打つある種の歴史の鮮明なフラッシュとなっています。このような例としては、1994年1 月1 日のサパティスタの蜂起や、1995年11月〜12月のフランスの社会運動やシアトルでのWTOへの抗議運動やダボスの世界経済フォーラムに反対するデモなどがあります。だが、他方、それと並行して、それとは別のそれほど目立つこともそれほど劇的でもない抵抗現象も存在します。これは、必ずしもマスコミの注意を引くわけではありませんが、より特異な抵抗のタイプをなすものであり、グローバリゼーションに代わる解決策を追求し、グローバリゼーションは回避できるという確信にもとづいてひとつのオールターナティブを構築しようとするものです。この種の抵抗の例としては、もちろんポルト・アレグレを挙げることができます。そして、ここでは、ポルト・アレグレでの世界社会フォーラムの会議だけについて言っているのではなく、同時にその地で実践されている参加型予算のことについても言っているのです。つまり、ひとつの自治体を管理するまったく類を見ない根本的に民主的で強力なイニシアティブのことについて言っているのです。参加型予算は、それ自身、グローバリゼーションに対するひとつの抵抗方式であって、これは、確かに、マスコミに対してサパティスタの蜂起やシアトルでの抗議と同じほどの影響を与えるわけではありませんが、グローバリゼーションに反対して闘うためのよりすぐれた、より考え抜かれた提案なのです。」
 「ポルト・アレグレでのフォーラムは、下から展開されている別のさまざまな経験を伝えることに役立ちました。..中略..これによってまた、グローバリゼーションに反対しているすべての人々が、自分たちだけではないと確認することも出来ました。自分たちだけが抵抗しているのではないし、自分たちだけがオルターナティブの計画を提案しているわけではないのです。ポルト・アレグレのフォーラムはこのような認識をもたらす上で第一級の意義をもつものでした。別の側面からすると、それは運動が、一つのインターナショナルに、一つの指導的中心に、世界権力に対するある種の公式のオルターナティブに、変質してしまうという過ちを防いだのです。」
 「われわれの見解では、グローバリゼーションに対する抵抗の歴史におけるポルト・アレグレの影響は、1994年1月1日の影響よりも、シアトルの影響よりもかなり大きいものがあります。なぜなら、ポルト・アレグレは、常に左翼を限界づけているもの、すなわち常に反対、反対ばかりを主張するが何も提案せず、オルターナティブを提起しないという限界を左翼が乗り越えざるを得なくするだろうからです。」

 多くの人々がグローバリズムに対する抵抗について語るとき、思い浮かべるのはシアトル・ジェノバにおける大衆的な抗議闘争の光景であろう。しかしマルコスはそうした闘争の意義を認めつつ、もう一つの抵抗の形態を強調する。筆者自身、シアトル・ジェノバという進展のうちに−とりわけ街頭抗議闘争の急進的展開という表層的現れを通して−反グローバリズム運動の発展を見い出す傾向に疑問があり、そうした捉え方は少なくとも一面的なものであると考えてきた。そのような私の視点からはマルコスの主張はとても興味深いものである。もちろん現下のグローバリズムの進展が、さまざまな政策の現れをとる以上、それに対して抗議し阻止していく運動は必要である。ただし、より大切なことは、グローバリズムに取って代わるもの(それをオルターナティブと表現するならそれでもよい)を政治・経済・文化の諸領域において、その質と可能性において創り出していくことである。そのような取組があってこそ、諸政策への抵抗もまた、リアルで豊かなものとして登場しうるのだと思う。
 運動の統一を巡る見解も興味深い。所謂政策阻止闘争や政治的啓蒙を巡る位相においては認識の統一や意思の統一、したがってまた求心的中心が直接に必要であるかに思える。政策阻止闘争や政治的啓蒙を内容としてきた旧来の運動にとってそれは常識でもあった。しかしマルコス言うところのもう一つの抵抗の形態においては事情が異なる。この抵抗は関係性の在り方をめぐる、いわば文化を基準とする運動である。政治領域におけるそれも、政治を巡る諸関係の変革−すなわち政治文化をめぐるところのものである。ここでは、ささやかではあるが重要なさまざまな取組、多様性に満ちた取組が力の源泉である。むろんこの抵抗においても、統一が不必要なわけではない。ただし、そこで求められる統一は、旧来語られてきた統一とは在り方が異なるように思うのだ。ここで求められている統一は、「お互いを鏡とし木霊とする」ような動的な関係の中から、ゆるやかながら動的に育まれるであろう<まなざし>の共有に他ならない。筆者はそのように考えている。そしてマルコスの言説をそのような文脈においてとらえてもいる。もとよりこれは筆者の考察である。それぞれの読者がそれぞれの経験と視点のなかで考え模索していくことこそ望むところである。

 最後にサパティスタの動向について簡潔に触れておこう。
 過去の文書で触れたとおり2000年2 月〜3 月の首都行進(大地の色の行進あるいは尊厳の行進)はメキシコ全土で圧倒的な注目と連帯を勝ち取り、それ自体勝利的に展開された。メキシコにおける先住民の権利と自治は、それをとりまく法制度において歴史的な前進を遂げるかに見えた。それはまた国家−市民社会をめぐる関係性の在り方を大きく変えていく画期的歩みとなるようにも思えた。
 しかしメキシコ議会は、対サパティスタ強硬派議員のイニシアティヴのもと原案を修正、先住民の権利を骨抜きにした法案を議決した(注2)
 以降、サパティスタは政府との対話を拒否、政治過程においては<沈黙>を守っている。これまで連日のように出されていた声明も出されてはいない。来日した元CONAIのミゲル・ガンダラ氏によれば「現在はグローバルなレベルでの活動を停止し、実際的・建設的に先住民自治を実践すること」に力を集中しているとのことである。
 もとより、自治を実践し、新しい行政の在り方、自前の教育や保健衛生、新しい労働・生産・流通等を創り出していくことは簡単なことではない。政府軍や準軍事組織の暴力や脅迫、政府援助金による分断といった現実の中で、それは至難の業であろう。ましてサパティスタの自治地域は旧来の解放区とは本質的に異なり、反サパティスタを排除してはいない。抵抗の長期化のなかでサパティスタから離脱する人びとが生じていることも事実のようだ。「マルコス ここは世界の片隅なのか」は、グローバリゼーションを巡る対話を内容としているため、先住民自治の日常的営為については具体的に触れられてはいないが、先住民自治の日常的営為こそサパティスタ運動のコアである。この領域への更なる注目を!

(注1) 現代企画室からはマルコスの著作2冊が刊行予定。一冊は「サパティスタの夢」。EZLNの組織形成の過程をはじめサパティスタの思想・運動・組織がマルコスによって縦横無尽に語り尽くされる待望の一冊である。もう一冊は「マルコス ラカンドン密林の ドン・ドゥリート−サパティスタの寓話」。括目して発刊を待ちたい。また、批評空間より刊行されている「批評空間第3期第1号」にはガルシア・マルケス氏等によるマルコスへのインタヴュ ー「パンチカードと砂時計」が掲載されている。併せて一読をお勧めする。

(注2) この先住民権利法をめぐっては、先住民族の住む330の村が見直しを提訴していたが、メキシコ最高裁は、9月6日、「最高裁は国会の決定に介入できない」としてこれを却下、先住民の権利と自治の法的承認は、法制度上はいったんその道を閉ざされてしまった。




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