共産主義者同盟(火花)

ハイエク主義や新自由主義が危機を導く理由

流 広志
254号(2002年10月)所収


 小泉政権になってから,株価は下がり続け,ついに,8000円台に突入し,銀行の自己資本比率が下がり,国際業務の条件であるBIS規制の8%割れが心配されるところまで来てしまった。かれは,9月の内閣改造で,経済政策を竹中に一任するという破滅的な人事を行った。竹中金融・経済担当大臣は新自由主義経済学者である。この新自由主義経済学は,理論を装ったイデオロギーに過ぎず,イギリス,アメリカで惨憺たる失敗をやり,ペルーでフジモリ独裁を招き,アルゼンチン経済を破綻させ,アジア危機をもたらした多くの人々に不幸をもたらしたものである。イギリスがそうなったのは,IMFの管理国になったからである。西欧諸国の多くでは,完全な新自由主義的政策は採用されていない。イギリスのブレア政権は,「第三の道」に政策転換している。その成功例と持ち上げられていたニュージーランドも政策転換した。ところが日本だけがこの道を進もうとしている。日本経済の強さの秘密の一つは,他国のいいところをうまく応用することにあると言われていたものだが,それは過去のことになったようだ。財政支出や公共事業を求めると,それは社会主義だとか大きな政府だとかいう声が,経済評論家などから聞こえてくる。少なくとも,社会主義というからには主要な生産手段の国有化・公有化・共有化がなされてなければならない。これまで,私有制下での財政出動とか公共事業が社会主義だなどという批判などはあまり聞かなかった。これも新自由主義的な思想から来ているようだ。悪いものは何でも社会主義だといわんばかりだ。しかし現在,人々の生活の不確かさや不幸や富の遍在を増大させている元凶が資本主義であることは誰の目にも明らかである。しかし,小泉政権の支持率は高く,構造改革路線に幻想を抱いている者も多い。こういう新自由主義的幻想から人々を解放するために,かれらが思想的教祖としてあがめるハイエクの思想を批判し暴露しておく必要がある。私はすでに,93年12月号・94年1月号『火花』掲載の「自由主義者ハイエクのユートピア−プロレタリアートにとっての計画とは何か?」で批判したが,より詳細に他の論点からも再批判したい。検討するのは『隷従の道』(東京創元社)である。以下,同書からの引用はページ数のみ。

 ハイエクは,国家の役割を増やすこと自体を自由への脅威であり,社会主義的だというようなことを主張している。こうした考えは,徴税や軍隊をも自由への侵害だとする極端なリバタリアンにも通ずるが,しかしハイエク自身は国家の役割を否定しているわけではないし,自らの自由主義は自由放任主義ではないことを強調している。また,かれは,国際関係においては,カント主義的な超国家的な国際機関の役割を認めている。
 かれの思想の源流は,オーストリー学派的な個人主義,自由主義,功利主義,主観主義,主観的心理的価値論や論理実証主義にある。そこから,社会主義・共産主義を個人主義・自由主義と相容れない集産主義・全体主義として批判するのである。
 かれは,個人は絶対であり,個人の自由は不可侵であり,競争は個人の主観的で心理的な努力を最大限に引き出すのが競争であり,その結果については,各個人が背負う偶然であり,それを運命として享受するという心理的な態度が必要だと主張する。かれの競争や市場の概念はまったく具体性がない抽象的な一般論であり,価格機構の役割についての論も同様の一般論である。かれによれば,競争は,「個人の努力を統合する手段」である。しかし,商品価格をめぐる資本主義的競争は,「各部面における生産価格が,これらの中位組成の部面における生産価格,すなわちk+kp'(費用価格プラス平均利潤率と費用価格との積)にならって形成されるように,社会資本を,相異なる諸生産部門のあいだに分配する」(『資本論』岩波文庫(6) 270頁)のである。ハイエクは,経済諸関係や生産諸関係を,市場一般や競争一般から説いて,主観的自由主義・個人主義という心理的立場からする社会主義批判を,より正確には,集産主義・全体主義批判を展開するのである。かれは,カント主義者らしく折衷主義的に,社会主義の終局目的を完全否定しないし,国家の役割をも否定しないし,消極的には政府の介入行動の必要性をも主張している。かれにとっては自由ですら積極的なものではなく,何かからの自由というふうに消極的に定義されるものでしかない。だが同時にかれは,自由それ自体が目的であるとも言う。「ヨーロッパ近代史を通じて,社会発展の一般的方向は,慣習または法規によって日常の行動を拘束されていた個人を解放することにあった」(22頁)。かれは,「法の支配は自由主義時代に初めて意識的に発展したものであり,単に安全保障としてのみでなく,また自由の法的表現として,最大の成果の一つである」(105頁)として,カントの言葉を引いている。すなわち,「人間に服従するのではなくて,ただ法に服従することを要するときに,人々は自由である」(105頁)。しかし法の支配についてのハイエクのご都合主義は,「度量衡制度を取り締まる国家(または他の仕方での詐欺や欺瞞を防止する国家)は,たしかに行動的であるが,たとえば,ピケによる暴力行使を許す国家は行動的ではない。国家は第一の場合においては自由主義原則を遵守しているが,第二の場合においては遵守していないからである」(104頁)と述べているところなどに現れている。ちょうど,10月8日,9月27日夜に始まったアメリカ西海岸での港湾封鎖にいたった使用者側が仕掛けたロックアウトとそれに抗議する港湾労働者の対立に対して,ブッシュ大統領は,タフトーハートレー法に基づく指揮権を発動し,港湾封鎖解除を命令した。これは80日間の業務期間内に労使の合意による解決を目指すことを国家が強制するものである。もちろんその期間内に解決するとは限らない。10日間の封鎖期間中の損失は,194億ドル(約2兆4000億円)にのぼるとみられている。この場合について,ハイエクの考えでは,労働者諸個人が生活のために行うピケなどの闘いを鎮圧する国家行動は,自由主義原則に適っていることになる。しかしこの場合,使用者側の一方的な合理化による失業の危機に対して港湾封鎖に立ち上がった諸個人は生活を他の個人(資本家)から妨害されているのだ!

 さらにかれは,「法の支配は,立法を形式化された法として知られている一般規則の種類のものに限定し,直接に個々の人々をめざす立法,またはかかる差別のために,だれかに国家の強制権を行使させることを目指す立法を排除する。法の支配は,すべてのことが法律によって規制されるということを意味しているのではなくて,法律によって前もって決められた場合にのみ,国家の強制権が行使されうること,したがって国家の強制権がどのようにして行使されるかが予見されうるということを意味している」(107〜8頁)と言う。このような法の支配の立派な理想が,実際の階級独裁を覆い隠すベールにすぎないことは言うまでもない。国家が余計な干渉をしない限り,ブルジョアジーは自由に搾取する。あらかじめ国家の強制権の発動が予見されるので,ブルジョアジーの中には,それをあらかじめ計算に入れ,法の網をかいくぐって企業不正や脱税や不法行為を自由に行なうものもでる。支配階級は,法の支配を社会に押しつけながら,自らはその制約をできるだけ免れようとする。特定の個人を対象にしない形式的な法の支配は,どの階級が本当に支配しているのかをできるだけ見えないようにする幻想形態なのである。経済諸関係が法律諸関係を生み出すのだ。
 また,ハイエクは,価格機構による限られた情報によって生産活動が調整されることが望ましいとして,それ以上の情報は不可知でよいとしている。かれは企業秘密を,個人のプライバシーと同じようなものとして扱っているのである。それがかれの個人主義・主観主義から来ていることは明白である。企業の主体は,個人であり,一人格(法人)であり,個人に擬せられた主体として扱われているのである。これは,かれの思想が,カント同様の独立生産者としての思想的特徴をもっていることを物語るものである。かれにとって独占は悪であるが,資本主義的独占はたいした悪ではなく,競争の確保によって抑制できる程度の小悪であるにすぎない。ところが,国家社会主義や共産主義的な独占は,それ自体目的とされる自由とは両立できない。それらは,集産主義・全体主義の一種であるからというのである。かれは,資本主義的独占が歴史的必然であることを認めないし,それが,競争を排除せず,国際独占体となって激しく競争していることを見ない。というよりもそういう現実は望ましいとして肯定しているのである。かれはこうした競争から戦争が発生することを認めない。かれの思想からは,戦争は,集産主義・全体主義が自由主義に対して起こすものだという結論が導き出される。
 かれは,集産主義の特徴として,「その集団の目的体系を共通に認めさせる必要と,その目的を達成するために最大の権力をその集団に与えることに対する非常に強い欲求であるが,そこから一定の道徳体系が発生するのである」(186頁)と述べている。つまりは,集産主義を,自己の目的を認めさせるという主観的な必要性と目的達成のための権力拡大の主観的な欲求という心理的な特徴によって規定している。かれは,意志とか心理とか欲求とかを問題にしているのであり,それが自由主義的なものであることを求めているのである。それは,中間層的な自由であり,その位置から,資本家と労働者との間の動揺的な地位を自由として礼賛しているわけである。しかしピケ問題,独占問題への態度で明らかなように,実際はブルジョアジーの立場に大きく傾いているのである。現実には,独占資本は,国内独占の次は国際独占へと向かって発展するのである。
 
 ハイエクは,その目的(社会的正義,平等,保障などの理想)だけではなく目的達成の特定の方法をも意味するとして,「社会主義は私企業の廃止,生産手段の私有制度の廃止を意味し,利潤を求めて働く企業家に代えて中央計画機関による「計画経済」体制の創造を意味する」(44頁)と述べている。それに対して,ハイエクは,計画化への反対を独断的な自由放任主義的態度と混同してはならないと注意した上で,「人間の努力を統合する手段としての競争の力を最大限に利用することを認める自由主義論は,事柄をあるがままに放っておこうとするものではない,自由主義論は競争が有効に行われるときには,他のいかなるものよりも個人の努力をよく指導するという信念を基礎としているのである」(48頁)ということを対置している。ハイエクにとって競争とは「社会の組織化の原理」(49頁)である。かれは,競争の作用を助けるための干渉手段の必要と政府行動の必要の消極的な理由として,「第一に市場の各当事者は彼らが取り引きすべき相手を見出しうる価格で自由に売買することができること,そしてだれでも自由に生産し,販売し,いやしくも生産され販売されているものを買い入れうるということが必要である。そしてすべてのものが同じ条件でさまざまの取り引きを自由に行いうること,個人または集団が公然の力または隠れた力をもって,この取り引きを行うことを制限しようとするいかなる試みも,法律が許してはならないことが必要である。特定の商品の価格や数量を統制しようとするなんらかの企ては,各個人の努力の結合をもたらす競争の力を奪い取る」(同 49〜50頁)と主張する。このことから,かれは,当時,すでに存在していた独占資本による資源の独占やカルテル・シンジケートなどによる価格統制や独占価格,資源の独占,その他の独占に対して,「独占問題は,もしわれわれの闘うべきものが資本家的独占にすぎないならば,それほど困難ではないだろう」(252頁)と述べている。政府が,カルテルやシンジケートを取り締まれば,競争原理が再び働いて,いい状態が簡単に回復するというのである。かれは,資本主義的独占から帝国主義が生まれ,世界大戦が起きたという歴史的事実に目をつぶる。国際独占体による世界の自由な経済的分割競争から世界規模の殺戮戦が発生したことを認めないのである。かれによれば戦争は,反自由主義から発生し,全体主義から発生する。それを防ぐのは19世紀の自由主義の理想,カント主義的理想である世界連邦,超国家的機関である。それには,自由人たる個人による国家支配が必要であり,そうした自由人によって,超国家的機関の横暴をも防止しなければならないというのである。しかし現実の超国家的国際機関の方は,大国の利害によって恣意的に動かされる場合が多い。例えば戦争犯罪を裁く国際司法裁判機関は,アメリカ兵を犯罪者として訴追できないように特別扱いを要求するアメリカ政府の圧力によって骨抜きされようとしている。何度も強調したように,占領地からの撤退を求めた国連決議があるにも関わらず,対テロ戦争を理由にしたイスラエル軍によるパレスチナへの侵攻・占領・軍事攻撃が繰り返され,工場・農場・商店・住居などの生活手段が破壊されている。ハマスなどによる自爆攻撃ではバスや自動車などが破壊されもしたが,それに対して,イスラエル軍は,議長府のビルの破壊など,数倍数十倍の破壊行為を行っている。止めどもない殺戮戦のくり返しの中で,すでに何千人もの規模で犠牲者が出たというのに,国連は,アメリカの主張にしたがって,イラクの査察問題の方に大きな精力を注ぎ,パレスチナ問題への対応に力を十分に使っていない。

 この本は「1940年から1943年に至る間の余暇を縫って著した」(1976年版序言)ものであるという。戦時中の「余暇」というのはユーモアなのだろうか。ハイエクのソ連経済批判は完全にはずれた(それについてはロンドン大学の森嶋通夫教授や伊藤誠氏が指摘している)。その政治思想も多くはかれ自身が引用している先行するジョン・スチュアート・ミルなどの自由主義思想やカント思想の焼き回しにすぎない。ひどいのは,自己の主張を正当化するために,まったくいい加減なことを書いていることである。例えば,かれは,「小国の権利に関するかぎり,マルクスとエンゲルス(ENGELS)は大部分は他の首尾一貫した集散主義者よりもよくはなく,折々チェコ人やポーランド人について示している見解は,現代の国家社会主義者の意見と似ている」(183頁)と書いている。1848年の情況と1940年の情況の違いをまったく無視し,「1848年には,革命的な諸民族は自由のためにたたかっており,その自由の主要な敵はツァーリズムであったが,チェコ人その他は実際反動的な民族であり,ツァーリズムの前哨であった」(『自決にかんする討論の決算』(国民文庫=118 152頁)ことをも無視しているのである。ハイエクは,百年前の情況で言われたこととそれとまったく情況の違う現代の情況で,同じようなことを言ったということで同じだとする適当な論証ですますというとんでもないことを平然とやっているのである。この点については,国際労働者協会創立宣言で,マルクスが「英雄的なポーランドがロシアの手で,謀殺され,コーカサスの山塞がロシアのえじきになる」のを非難したことを指摘できる。それから,マルクスが,自由主義的な大英帝国のアイルランド併合に反対して,アイルランド人の独立運動を支持・支援したのに対して,ハイエク氏は何一つ語っていないばかりか,こういう大国による弱小民族の支配・従属化・抑圧・差別するイギリス支配階級の自由主義の欺瞞を批判することもなく,逆にアングロ=サクソン流の自由主義に賛意を表して,抑圧的大国家の味方をしたことを強調しておきたい。
 また,かれは,レーニンの言葉も,「だれが,だれを」という不正確に縮約した上で,それを「ソ連統治の初期の数年前に,人々が社会主義の一般問題を確約した格言」とやらにしてしまう。それはかれの手にかかると「だれがだれのために計画するのか,だれがだれを指導し支配するか,だれが他の人々に対して,その身分を割り当てるか,だれが他の人によって割り当てられたものをもつか,それらの問題は必然的に最高権力者のみによって決められる中心問題となる」(139〜140頁)というむなしい一般論に昇華させられてしまう。レーニンが言ったのは,「どの階級がどの階級を支配するか,全人民を指導する階級はだれか」ということである。「だれが,だれを」というのを個人や集団と解するように誘導して,ハイエク自身の望むところにもっていこうというのが,この部分の狙いである。これがこのご立派な学者のやり口である。自らの信念のためとあれば,事実も論理もねじまげてしまうのだ。
 1940年から1943年といえば,ちょうど第二次世界大戦の最中であり,1941年6月には,不可侵条約を一方的に破ったナチス・ドイツが対ソ戦を開始し,1943年にはソ連の反転攻勢が始まったという時期である。こういう時期に,「小国が生活するに適するような世界を創造する」(297頁)ことを提唱するという見事にカント主義的な独立小生産者的思想を露にしているのである。かれは,個人企業が主で独立小生産者とたいして違いがなかった資本主義の勃興期(自由主義時代)の自由主義思想を礼賛する。かれがその地位のちっぽけな独立性を絶対視しているのは,「貨幣は人によってかつて発明された自由の最大の用具の一つである」(116頁)という貨幣論に明らかである。かれは貨幣が貧しい人に広範な選択を許しているという。選択肢は,貧しい人には小さく,しかも選択の余地のない場合が多い。貧しい人は,例えば,水道料金を節約せざるを得ないとなれば,安全な水すら諦めなければならない。それでも,「貨幣が貧しい人に広範な選択を許している」というのか? かれは,選択肢の広さを過去の富裕層と比較しているが,比較するなら現代の貧しい人と富裕層との選択肢の広さを比較すべきである。
第二の証拠は,自由論にある。かれは,「われわれは自由というものが一定の価格を払って初めて得られるものであるということ,そして個人としてのわれわれが自由を保持するためには,きびしい物質的犠牲を払う用意をしなければならないということに,目を開くことを虚心に再認識する必要がある。われわれはアングロサクソン諸国において,自由の規則が基礎としている信念,またベンジャミン・フランクリン(Bennjamin Franklin)が個人としてならびに国民としてのわれわれの生活において,われわれに適する言葉で表現した信念,すなわち「僅かな一時的な安全を手に入れるために。根本的な自由を放棄する人々は,自由と安全の両者をもつに値しない」という信念を思い起こさなくてはならない」(170頁)という。ハイエクは,自由は金で買うものであるという。人々は,自由を得るためには稼がなければならない。そして個人が自由を保持するためには,きびしい物質的犠牲がいる。自分で自分の自由を保持するには他からの保障などはないのであるから,危険を堪え忍んで,自分自身でなんとかしなければならない。つまりは自己責任である。そのための出費が必要であり,それだけまた稼がなければならない。いずれにしても自由は買うものであり,そのために貨幣が多く必要である。それは,市場で得られるものであるから,市場競争を妨げてはならない。保障はそれと相容れないから,どうしても必要な保障は市場の外で競争の邪魔をしないように与えられなければならない。しかし,そんな一時的な安全を確保する保障のために,根本的な自由は失ってはならないのであって,そんなことをする人は自由と安全の両者をもつに値しないというのである。つまりは,ジョン・スチュアート・ミルと同じ自由主義的社会保障論であり,自由主義経済のもたらす貧困などについては,市場経済を守ることを絶対的な限界にして,その限界内での最低限の社会保障を認めるということを言っているのである。自由であるべきは競争・市場であって,それが個人の自由の源泉として絶対的であり,そこから生まれる悪については,厳しい限界を設けた上で最小限に止めるべきだというのである。かれは,そのことを具体的に語らず,自由だの安全だのという一般的概念を使った抽象的論理でごまかしているが,きちんとその意味内容を読んでみれば,貧しい人に極めて厳しく冷淡であることは明白である。

 それから,ハイエクの社会主義の合理的経済不可能論は,伊藤誠氏が『現代の社会主義』(講談社学術文庫)で明らかにしているように,戦時経済下のソ連経済の現実を一般化したもので,歴史的現実によって破綻している。『隷従の道』では,ハイエクは,社会主義批判を集産主義批判として展開し,それを全体主義と結びつけて批判している。かれによれば,社会主義は集産主義の一種なのであり,それは全体主義とも共通するというのである。かれの批判は,スターリン個人独裁現象を社会主義と頭の中で結びつけ,それと全体主義を強引に結びつけたものである。かれは個人的・主観的・直観的な心理的印象を強引に理論化するということをやっているのである。こういうやり方は,分析による正確な問題の把握という共通土台から理論を展開し,個人的認識を社会的認識に発展させるという知識発展の当然の手続きを無視するものだ。もちろん弁証法もない。
 ソ連論についてはここでは詳しく展開する用意がないが,私は,ソ連・東欧は,過渡期社会で終わったと考えている。したがって,ハイエクが,過渡期の現象をそのまま社会主義とみたてて,それを批判することで社会主義の一般的批判をやっているのは間違っている。かれの定義する中央計画経済というのは,唯一の社会主義経済策などではない。
 問題は,伊藤誠氏が前掲書の中でも指摘しているが,生産手段の共有制の下で,消費手段のみが個人の所有にうつされるが,その場合,個々の生産者の個人的労働量(個人的労働時間)分の給付証明書をもって,消費手段の社会的貯蔵から等量の消費手段を受け取り,個人的労働時間を別の等量の個人的労働時間と交換するという商品交換と同じ等価交換という交換を規制する原則が支配するのである(『ゴータ綱領批判』)ので,この段階では,資本主義への逆転を防ぐための自動的で完全な保証などはないということである。この共産主義の第一段階では,「諸等価物の交換とはいっても,商品交換のもとではそれはたんに平均してみれば成立しているということであって,個々の場合にも諸等価物の交換が成立しているわけではない」(同上 岩波文庫 36頁)のであり,要するに,消費手段の分配に関しては,商品等価物交換と同じ原則が支配するのである。ところが,ソ連の場合は,事実上,生産手段の共有制が,国家官僚の専有物化によって後退したり,この消費資料の分配が特権的部分とそれ以外の一般の部分との間で不平等に分配されたりした。つまり,過渡期には,平等な行政・政治参加などのプロレタリア民主主義の前進その他の革命的諸方策の実現が必要であったのに,そのように前進せず,後退したので,国家官僚と特権部分に対する一般の人々の不満の爆発を通じて資本主義の復活へと導かれたのである。だが,それは,自由主義的資本主義の優位性を証明するものではない。資本主義の下での生産手段の私有者の利潤の取得のための資本への従属化はひどいし,搾取による利潤を収入とする富の一部の資本家への集中による相対的な貧富の格差は大きい。労働者は,肉体的精神的磨耗や諸種の妨害によって,行政・政治参加などの民主主義からも遠ざけられている。

国際独占体の競争戦の激化に対して,社会主義の再生,共産主義党派の発展を!

 新自由主義・新保守主義の理論的元祖の一人であるハイエクの『隷従への道』のでたらめの多くを暴露できた。もちろん全部ではない。竹中経済財政・金融大臣とハイエクに共通するのはブルジョアジーと小ブルジョアジーの立場の思想的混合性である。したがって,構造改革推進を高く掲げながら,遅々として進まないのも,違う立場の混合性のためでもあろう。不良債権処理を進めたいとしながらも,いわゆる抵抗勢力に妥協することが多いのはそのせいであろう。また竹中が,大銀行の倒産もあり得るなどと発言しているのも,竹中の経済思想が,独占に対して反発するハイエク的な独立小生産者(自由主義段階資本主義)的思想を含んでいるためだろう。
 株価低下に示されているように,今や破滅的経済危機への坂道を陽気に駆け下りつつある小泉政権は,反独占主義的ではあるが折衷主義的である。かれは,独立小生産者・独立小企業の育成のための構造改革・規制緩和策を実現したいとしている。一般に,先行の大企業の優位が成立している産業分野においては,新参入の後発小企業の蓄積は困難である。そのために,アメリカではナスダックのような専用株式市場や小口個人投資家と起業家の間を取り持つ仕事などが発達した。日本ではそうしたものは発達していない。そこで,構造改革特区創設を政策化し,実現しようとしている。それは一国二制度的なものといえよう。小泉政権は,法制度によって経済を創造できるとする観念論的幻想=金融資本的な幻想,マネタリズム的な妄想にとりつかれているのである。
 他方,独占資本は,国際的な独占間の提携・連携を強め,国際独占体どうしの競争戦を世界的に展開している。その帰趨はまだはっきりとは見えていないが,少数の巨大国際独占体グループに統合される可能性が高まっているということはいえよう。すでに航空業界では二大国際独占体の巨大グループが成立している。ただ,金融資本間の国際独占体のグループ化は進行中である。日本における4大銀行グループの成立と証券金融業務の兼務の開始は,巨大金融独占資本の成立であると同時に,国際的な金融独占資本どうしの競争の激化と国際独占体グループの編成に向けた動きの一部となるだろう。そのことが,世界的な規模での国際独占体グループどうしの競争戦による世界の経済的金融的分割・再分割の闘いを激化し,その利害を反映した帝国主義諸国どうしの闘いへの圧力をなすだろう。また,帝国主義的世界秩序のためとか経済的利益のためなどの原因から,中小規模の侵略戦争や反革命戦争が起こっている。
 ブッシュ政権は,対イラク戦争容認決議を上下両院で取りつけたが,反対票もけっこう多かった。アメリカが先制攻撃の壁を低めれば,それをまねして,例えばイスラエルが対テロ戦争の論理を利用して対パレスチナ攻撃を繰り返しているように,今度は先制攻撃の論理を使った軍事攻撃を行う可能性が高まる。台湾海峡で先制攻撃の論理が適用されたらどうなるのか? 米帝ブッシュ政権は,戦争のハードルをあまりにも低めた。それに対して労働者階級は,「国際政治の秘密に精通すること,それぞれ自国の政府の外交活動を監視し,必要とあらばその行動を妨害すること,阻止できない場合には各国いっせいの弾劾運動にたちあがること,こうして私人の関係を律すべき道徳と正義の単純な法則を諸国民の交通の最高法則として貫徹させること,これらが彼らの義務である・・・。/このような対外政策を要求する闘争は,労働者階級の解放をめざす全般的闘争の一環なのである」(『国際労働者協会創立宣言』岩波文庫 156頁)。
 ソ連・東欧体制崩壊はスターリニズムの破綻を明らかにしたが,それは社会主義・共産主義の破綻を証明したものではないし,ましてや資本主義の最終的勝利などを意味するものではなかったことは,世界の現実が日々明らかにしていることである。資本主義が世界で生み出している人々の不幸,生活の不確かさはますます増大している。少数の先進諸国に富が集中し,それ以外の多くの国の貧困が拡大している。先進資本主義諸国内部でも,一部の者への富の集中が進んでいる。かつて,十年も前のソ連東欧体制崩壊が,資本主義に対する根本的オルターナティブとしての社会主義への幻滅を生んだ。しかし,現在では,資本主義の現実が,共産主義にしか未来はないということをますます明らかにしている。革命的諸方策と共産主義の未来の旗の下に,労働者大衆を結集し,プロレタリアートの党派を形成し,階級闘争を発展させることが必要となっている。




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