新しい世界観の構築に向けて
斉藤隆雄
253号(2002年9月)所収
資本主義経済は、人の歴史の中で自然成長的に生まれたものとされている。このどこからともなく生まれ育ち、いつの間にか人間の生命活動のすべてを規定するまでになったもの、これを我々は資本主義経済あるいは市場経済と呼んでいる。(既に前シリーズで、資本主義経済が意識的意図的に作られたとするポラニーの理論を学んできたのだが、ここは通俗的な感覚を前提としたい。)
しかし、この資本主義経済を我々は日常どのように意識しているかと言うと、「資本」ではなくて、その基底的な存在である「商品」や「貨幣」であることが多い。確かに、今や「商品」なくして我々の生命活動を維持していくことは不可能に近い。とりわけ、都市生活者はそうである。また更に「貨幣」がなくては全く生きてすらいけないだろう。(貨幣が無くて生きていけるように錯覚できるのは現代人にとっては幼少期だけとなった)
では、肝心の「資本」は我々の日常で意識されているだろうか。資本が支配的となった経済が我々の生活の大半を規定し、支配しているにも関わらず、ほとんど意識することなく過ごしていることにある種の驚きを感じないだろうか。自然成長的に膨らんできたこの資本主義経済と呼ばれる我々の経済的な世界の中で、何が脅威であり、何が人々の生活を苦しめ、精神を蝕んでいるのか。そしてどうすればこれを人々の意識的な活動の下に置くことができるのか、あるいはできないのか、もう一度根本的な問題から問うてみたい。
テーマ: 市場経済
1.市場、あるいは生産と分配
生活用具の発明や改善、道具の改良、大規模な生産活動などは我々にとってきわめて意識的な活動であり、それぞれの労働という計画表の下にある。今日では、大規模な工場はもちろんのこと小さな作業所でさえ細々した計画の下に組み立てられた工程を通じて商品が作られている。我々はそれぞれの計画的な労働の結合によって、社会を構成していることを知っている。そしてそれを、「分業」と表現することもしばしばである。そして、それらの計画された労働の個々を我々の社会はどのように結合しているのであろうか。
これは言い方を変えれば、個々の計画的労働の下で生産された有用物が、如何に分配されるのかということである。当然、資本主義経済の下では「市場」に於いて分配される訳である。「商品」や「貨幣」もまた市場に於いて生まれ、市場に於いて発達してきたのである。その分配の仕組みは先にも述べたように、自然成長的に生まれきたとされるのであるが、生産と分配のこのあり方の違いは、何故生まれたのであろうか。計画的に生産された物が何故計画的に分配されないのだろうか、という疑問が生じる。
※ 生産物が商品になるきっかけは共同体と共同体の間であるというのが、一般的な知見である。共同体内部の生産物の分配がどのようになされていたかというはっきりした証拠はないが、少なくとも商品ではなかった。何らかの部族的な、あるいは共同体的なルールが存在したであろう。
商品という形で生産物が交換されるのは商業の発達を待ってからであるが、商業自身は紀元前の太古から存在したことは確かである。文化人類学の教えるところに寄れば、共同体と共同体との生産物の交換は贈与から始まったとされる。これらのことは、しかし生産の計画性と分配の市場性の謎を解く主要な鍵とはならないと考える。
新自由主義の理論的な代表者であるハイエクは、生産物の計画的な分配を「理性の濫用」と言ったそうであるが、21世紀を迎えるまでに計画経済の壮大な実験であったソビエト連邦が崩壊して、これらの疑問はあまり意味をなさなくなったように見える。計画的な分配などという考えは、絵空事でしかなく、たとえそれが有益な計画であったとしても原理的に不可能な試みであるというのが、どうやら最近の経済学の論調であるようだ。しかし問題は計画的な分配か無計画な分配かという単純な問いかけにある。ところがこの問いは、ブルジョア経済学にとっては難問のようだ。なぜなら、企業精神に富んだ彼らでさえ、生産が計画的行われ、計画的に販売されれば、まさに計画的に利益を得ることができるかぎりでは望むところであるからだ。在庫を抱えなくて済むのなら願ってもないと、資本家たちは言うに違いない。だからこそ、均衡理論などというありもしない幻想を追い求めることになるのである。
計画的な分配を論議する前に、実は我々は市場的分配が無計画であるのかないのかを論証し判断しなければならない。生産の無政府性についてはこれまでも何度か耳にしたことがあるが、分配についてはほとんど論議の俎上に乗ったことがなかった、と記憶する。そこで我々がまず手を付けなければならないものは「市場そのものの分析」ということになる。
市場については、近年経済学の潮流の中に均衡論を批判する人たちが現れてきている。1998年にノーベル経済学賞を受賞したセンは、近代経済学が前提にしてきた合理的な個人が如何に非現実的なものであるかを論証している。一世を風靡した新古典派も90年代以降は理論と現実から批判に曝されているようだ。そこで、これまで私がシリーズで何度か取り上げてきた近代経済学の大前提を市場と分配という観点から見てみようと思う。
近代経済学における二つの潮流、ケインズ派と新古典派は共に一つの大前提を共有している。それは市場に参加している者は合理的な判断をする個人である、というものである。資本家や労働者、地主というような経済的な役割をもった階級は出てこない。それは古典派までである(ケインズ派というグループは戦後の新古典派統合というサミュエルソンたちの経済学を指している。ケインズ自身は労働者と資本家という経済的人格を前提にした理論を展開した)。そして、この合理的な個人は市場に現れるあらゆる情報を熟知しているという仮定に立っている。「完全競争がパレート最適を達成する」という彼らの命題は、完全競争こそが市場参加者の福利を最大限に保障するという訳である。市場が最も完全な分配機構なのだと言っているのである。
ところが、この理想(理論的仮説)を実現しようとすると、もちろん独占的な価格決定者が存在してはならないのは当然で、更に市場参加者は市場に存在する商品について、消費者は効用を、資本家は利潤を最大化しなければならない。この前提は普通に考えて非現実的である。なぜなら、現実の市場には、利益の独り占めのために独占を目指す企業がひしめいているし、消費者は自ら希求する商品のすべての効用を知る手段を持っていない。商品情報の提供主体である企業サイドは自身に有利な情報しか提供しないのが自然だからである。
市場が理論上、最適な分配機構だという証明は機械的な世界観の典型である。面白いことにこの理論は人間の無限の可能性と公明正大さに対し楽観的な見解をもっている。それは例えば、この均衡理論の理論的仮説の一つである消費者の効用最大化という選択行為は単純な選択行為の繰り返しによって可能だと言うのである。それには、超高速な計算機が必要なのである。
塩沢吉典氏によれば、二つの商品の選択に百万分の一秒を要する計算機があるとして、商品の数が二十以下であれば、最大化に必要な計算時間は一秒以下で済むということである。ただ、残念なことに商品の数が五十を数えると、計算時間が三十五年もかかることになるようだ。例えば試みに現在の日本で国産車の種類が百以上あるので、百と仮定して消費者が選好するための計算機の速度は、基本的な反復速度が十のマイナス二十四乗のスピードが必要だと言うことなる。この計算機を用いれば十二日で商品の最大化が終わるようだ。これだけの速度の計算機がこれから現れる可能性は否定しないが、商品の種類は自動車だけではないので、これでは、当分理想的な分配は実現しそうもないだろう。
※均衡理論が空想的社会主義に近いという逆説を、以前どこかで述べたことがあるが、それは理論そのものが持つ必然でもある。新古典派が依拠する「限界生産力説」の古典派との違いを説明する際に、塩沢氏はその著書の中で次のような結論を述べている。興味深いので引用してみたい。
「完全競争においては企業は利潤をうることができない。じっさい、ある産業において利潤が存在するとすれば、それに気づいた最初の人が当該産業に参入し、このことが期待される利潤が0になるまで続く。式は完全競争概念の一部にすぎない。したがって、この立場に立つかぎり、もはや証明すべきことはなく、完全分配は一つの要請にすぎない。」(『近代経済学の反省』p189)
ここで述べられていることが常識離れしていることは誰の目にも明らかであるが、均衡理論が理想とする経済の形を端的に表しているとも言える。
そもそもこれらの均衡理論が前提としている人間は、経済行動のある種の側面を理念化しているにすぎない。だから、実態経済全体を説明する理論とはなりようがない。せいぜい、個別市場の一側面を説明するにすぎないことになる。
だが、問題は以前計画経済の総括において私自身が指摘したように、社会主義経済建設の唯一の道を「計画経済」とした理論家たちは、この領域においても高速計算機を待望する動きがあったことである。新古典派とは対極にある計画経済派においても、一国の生産と分配をコントロールしようとする試みが膨大な計算を必要としていたのであった。これら二つの経済学理論は同じ過ちを犯しているのではないかという理解が生まれるだろう。
何が問題なのか?ハイエクの言うように理性の濫用、つまり人類の理性には限界があり、分配は人知を越える仕業なのか。それとも…。
ただ我々が現段階で言えることは新古典派も計画経済派も分配という側面において、現実の自然成長的な実態経済が計画的ではなく、効率的でもないという認識を共有しているということである。前者が完全競争市場をもって、後者は計画的配分をもって実現できるという方法の違いがあるものの、実現しようとする理想は同じ効率性であり、人類の福利と厚生である。そして、そのどちらの理論も一方はあり得ないモデル理論を振り回して自壊し、他方は歴史的実験に敗北した訳である。
分配という人間の経済行動は、はたして生産の計画性と同じような形を持っていると考えてよいのだろうか、大量の売れ残りや大量の失業者が生み出される現実市場経済に現れる無駄と貧困をどの階級の利害であったとしても何とかしようとして、壮大な敗北に終わっている。経済が、数万という部品の見事な集積で動く精密機械のようにはいかないのは何故か。
2.市場、強いられた選択
保守とリベラルという政治的区別がある。共に市場経済を承認しているが、保守派は市場経済を全能のシステムと捉え、リベラル派は市場経済が欠陥を持っていると捉える。リベラル派にとっては、市場経済は不完全だがそれ以外の選択はない、と考えている。リベラル派の考えによれば、不完全な市場経済に対して一定の意識性、つまり経済政策が必要だと考えている。手を加えないそのままの市場では所得分配において不平等が生れ、その結果、需要の衰退と生産活動の減退を招くので、所得の再分配機能を意識的に作り上げ、需要を喚起しなければならないというのが、おおまかな彼らの経済思想である。当然、これらの政策を実行するにはその手段が必要になるが、リベラル派はそれを今のところ国家もしくは官僚組織にゆだねている訳である。
他方、保守派は市場を完全なものと見ているので、政策は必要がない。だから、国家は最低限の警察的軍事的機能のみを担うものとなる。所得の不平等は、経済活動の活力になるというのが彼らの経済観である。保守派が新古典派に依拠するのは、この経済思想が前節に見たように、市場経済が合理的な分配機能を果たすと約束するからである。(保守派も新古典派も現状の市場が完全であるとは言っていない。完全でない理由はリベラル派が経済政策を行うからだ、とする)
さて、次に両派のシステム改革プログラムはどのようなものかを見てみよう。保守派の改革プログラムは80年代に英米での政権奪取である程度明らかになってきている。とりわけ、サッチャーが行った改革はそれまでの労働党政権が作り上げてきた国有化路線と社会福祉政策を徹底的に解体したことで鮮明になった。彼女の掲げた改革は、ケインズ的政策で歪められた国民経済を「健全な競争市場」へ復帰させるというのが狙いであったとしている。一方、英国のような国有化企業が存在しない米国において登場したレーガン政権が着手した政策は累進課税制度であった。最高税率を極端に引き下げ、富裕層への優遇措置を徹底した。これらの保守派が行った政策の評価は、英国においては行き過ぎとされ、米国においては失敗とされている。しかし、本来新古典派が目指した経済政策としては、これらの改革はまったく不十分であると見えるだろう。なぜなら、本来の彼らの政策は「小さな政府」であったはずである。国家予算が国民経済の二割以上もあり、主要基幹産業が寡占状態にある経済において、完全競争市場を実現するにはもっと大胆な改革が必要であったはずである。寡占企業を徹底して解体し、地方政府組織を解体=民営化し、中央官僚組織を軍事と警察を除いて完全に消滅させるには、現状の議会制民主主義制度ではおそらく不可能であろう。国家権力を軍事的に掌握し、独裁政治を行うしかその方法は見あたらないが、彼らはそれを政治スローガンにもスケジュールにも載せていない。官僚組織の解体を正面から掲げる政治党派さえまだ登場していない。
おそらく、これらのスケジュールが実現した暁には歴史が二百年以上後戻りすることになるだろうが、では彼らが自らの理想に忠実でなかったのは何故かが問われなければならない。そして、実現されなかった理想と実現した現実とは如何なる相違があったのか、検証してみることが必要である。この問いかけは、85年前のロシア革命の改革において問われたものと同じである。
保守派が夢見て実現されなかった理想の限界は、まずは経済の寡占化である。とりわけ基幹産業の寡占化は、巨大な設備投資と収穫逓増という経済法則の意味するところを捉えられない所にあった。彼らの均衡市場理論は、エネルギー産業や素材産業の膨大な設備投資を無数に実現しなければ成り立たない。かつて毛沢東が大躍進政策で内陸奥深くに無数の溶鉱炉を作るという無理をして敗北したが、その同じことを繰り返さなければならなくなる。供給が需要を生み出すとするセイの法則に則るなら、この膨大な供給能力に見合う需要を作り出そうとするなら、おそらくかつてのソビエトロシアの機械産業が行った重量で測る生産が蔓延するか、粗悪な機械が生み出されるかしかないだろう。なぜなら、今日稼働している製鉄業の溶鉱炉でさえ過剰設備であるのに、それらの設備が無数にあるとなると、想像を絶する過剰生産が生み出されるからである。
少々嫌みが過ぎたが、今日の素材産業や機械産業が膨大な設備投資を必要としている限り、新古典派の言うような無数の企業を生み出すことなど、はじめからあり得ない前提である。市場経済が生み出した自然発生的な発展の歴史を対象化できない理論(歴史的な分析は新古典派には一切ない。彼らは均衡の推移ということすら理論に取り入れていない)には、どんな現実規定力も持ち得ない。
※収穫逓増の法則についてはここではくどくなるので触れない。新古典派の前提している収穫逓減の法則が如何に誤りであるかについて分かりやすく展開している書物として、ワードロップの『複雑系』を勧める。
では、実現された現実とはどのようなものであったのだろうか。保守派によって実現した現実については、レーガンの米国がその良い実例を示している。つまり、国家財政の赤字と経常収支の赤字という双子の赤字であった。英国の場合は、国有企業の民営化により財政危機はある程度緩和されたが、それはもう一方の政策であった社会民主主義政策の負の遺産の清算に追うところが多い。ここでは米国の例について考察してみたい。
レーガンの改革が結局双子の赤字を生み出したのは、国家による様々な公共政策と官僚行政組織を解体できなかったことによる。大々的に宣伝された規制緩和政策にしても、一部の金融政策や通信政策が緩和されたとは言え、比較的国際競争力の弱い産業の保護施策については手が付けられてこなかった。また、エネルギー政策においても安全保障問題ということを持って、相変わらずの寡占状態を維持していることから、レーガンの改革が新古典派の改革とは似ても似つかぬ代物であることが分かる。では、彼の政策は何だったのかということになるが、国民経済においてその意味するところは徹底した合理化と強蓄積という姿以外には浮かんでこない。かろうじて言えることは、国民総資本家の幻想を振りまいたことぐらいであろう。そして、結果としての貧富の拡大とプロレタリア層の増大、文化的退廃が生み出されたと言えるだろう。
では、他方リベラル派はどうか。彼らを分析の対象に挙げる前に整理しておかなければならない課題がある。それは、社会民主主義派と呼ばれる一群の政治・経済思想とその潮流との関係である。リベラルと呼ばれる思想やそれを信奉する人々の範囲は大変広いが、先に挙げた古典派統合と呼ばれる経済理論を基準に見ると、随分範囲が狭められる。米国民主党が代表する政治経済理論をリベラルだとすると、当然、社会民主主義はリベラルではない。しかし、リベラルを市場経済の承認という観点から見ると、社会民主主義はリベラルである。
リベラルと社会民主主義との曖昧な境界線は、「共産主義」と呼ばれた計画経済派との峻厳とした政治的境界線とを比べると、比較的見やすいかもしれない。曖昧さを許しているのが市場経済に対する態度であることは明らかである。ここでは、二つの曖昧な両派の歴史的な経緯を探る場ではないので、同一な経済思想として扱うつもりである。
ただ、社会民主主義が計画経済派と近しい関係にあると見られてきた根拠を一つだけ指摘しておかなければならない。それは、欧州や日本に於いて進められた官主導の国有企業の存在である。このことを含めて、リベラルが理想とするシステムとは何かを見てみよう。
リベラル派は先にも言ったように市場経済を不完全なものと見ている。だから、幾つかの経済政策や国家組織によってその不完全性を補正し、平等性と国民の福利向上を確保しようとしている。そこで問題なのは、平等性をそのものとして追求しているのではなく、市場経済をそのまま放置しておくと、不均衡が生まれ、極端な景気変動や過剰生産、恐慌、失業が生まれ、「健全な」市場機能が損なわれるとするからである。リベラル派が立案する政策はそれらの不均衡を是正することで結果的に平等が確保されるとしている点である。つまり、自生的市場は最適配分を実現するシステムではなく、自滅的システムであるとしている訳である。
では、その政策の代表的な政策をいくつか見てみよう。まず、課税制度が挙げられる。累進課税がその典型だが、いわゆる所得再分配と呼ばれる政策である。自生的市場によって生まれる所得の不平等を、国家による徴税と分配制度によって低所得層への購買力を補完し、生産消費循環を円滑にしようとするのである。再分配の方法は様々であるが、一部は福祉政策という名で呼ばれるものとなる訳である。
もう一つは公共投資という政策である。これは今更説明する必要もないと思われるが、恐慌克服の切り札として採用され、ケインズによって理論的意義を証明された有名な政策である。
特に社会民主主義派が戦後推進してきたのが、公共性の高い事業の国有化政策であるが、これは実は開発独裁と呼ばれる経済制度に於いても見られる政策であって、日本においては「富国強兵・殖産興業」という明治期の国家政策もこの範疇に入るわけである。ただ、開発独裁においては強行的蓄積を行い、資本家階級を促成するためのものであって、社会民主主義派が言うものとは中身が違うという言い方もある。しかし、経済政策としては同一のものと考えるべきである。軍需と民生とは違うとか、利潤の蓄積(戦前期の官業)と赤字経営(戦後期の国鉄)とは違うとかいった問題は、経済政策として目指していた雇用問題とは直接関係を持たない。
どちらにせよ、市場の不均衡に対して国家が意図的な政策を行使することで、その不均衡を是正し、比較的緩やかな景気変動や失業者の救済という現にある先進国の経済の姿にしたのであるが、ではこの現実の姿は彼らの理想の姿なのであろうか。
リベラル派の実現された経済への評価は、80年代の保守派への政権交代によって明らかになるだろう。彼らのいわゆる有効需要政策が陥った予期せざる敗北は、既に以前のシリーズで明らかにしたつもりであるが、簡単にまとめると、官僚組織の肥大化とスタグフレーションであった。とりわけ、保守派も解決できなかった国家財政の赤字は致命的であったと言える。官僚組織の肥大化と財政赤字の拡大は資本家階級にとって新たな市場拡大や創業者利得を狭め、帝国主義的な拡大政策を採らざるを得なくなる。リベラルの政治的意思がどうであれ、市場経済を承認し企業利潤の最大化を認める以上、高く成りすぎた国内賃金レベルとインフレによって、資本が世界に拡散することを推進させるであろう。グローバル化は明らかにリベラル派の政策の帰結であると言える。
ともあれ、官僚組織の肥大化にせよ、財政赤字の拡大にせよ、これは国家組織の強大化と言えるであろう。市場の不完全性を補完するものが国家であるということになれば、ヘーゲル流の諸利害を調整する神の国家が理想であるという帰結となるのだろうか。しかし、現実には諸利害を調整できずに好況期の国債償還さえままならず、肥大化する赤字は先送りされた収奪として、また帝国主義的な収奪システムとしての永続化を余儀なくさせる構造を作り出す訳である。市場経済を不完全と言いつつも、それに代わるシステムではなく、消費の効用と利潤の最大化を市場経済の要と見て、それを維持する限り、国家という協同組織の幻想を再生産せざるをえなくなる。
以上見てきたように、保守派にしろリベラル派にしろ、市場経済を捉える支配的な理論はカント的な理性限界説か、ヘーゲル的な理性国家観かのいずれかの近代的な思想の限界を現実のものとして実現させたと言えるだろう。市場経済をそのような理論的な枠組みで捉えることが既に無効だということが明らかになった以上、次に我々が取りかからねばならないことは、ロシア革命に代表される計画経済派の位置ということになるだろう。