脳死臓器移植について(4)
渋谷一三
252号(2002年8月)所収
<はじめに>
本稿は連載した原稿の続稿になる。その(3)からずいぶんと時間が空いたのは、生死観の領域を取り扱わざるを得ないところに行き着いてしまったからである。
臓器を提供させられる側は、例えば交通事故で即死せずに脳死状態にならなければならない。こうした「死体」を手に入れるためには、例えばシートベルトの着用を義務付けるなどの社会的方策が必要であった。
こうした準備をした上でなお、脳死にさせられ、その生命を軽く扱われる側の存在を渇望する位置に臓器提供を受ける側が立たされる。一方での軽く扱われる生命と、その軽く扱われた生命をあてにした上で「最大限の努力」を享受する生命という問題が浮上してしまっていた。
ヒューマニズム一般では扱えない領域に突入していたのである。意地悪く言えば「他者の作為的脳死を当てにしてまで生き延びたいのか。そういうあなたの命はナニサマなのだ」と言いうる状況が現出してしまったのである。
この領域を扱うには宗教の問題が避けて通れない。すなわち宗教は死を受け入れるためのEase(癒し)をその存立基盤としているからである。この切開のためには、フォイエルバッハからの系譜を概括し、総括する必要がある。
さらに、キリスト教文化圏から臓器移植の思想が発生し、発展し、ついにはそれが、グローバル・スタンダード化され「強要」されたという事実を分析するために、特殊、キリスト教に限った分析が必要とされる。キリスト教に限った分析をするためには、他の主要な宗教との対比が必要とされる。
かくして膨大な作業が必要とされるわりには、結論が先に出ている。
ある人の死生観がある程度確立されていれば、そのひとが脳死臓器移植にどのような態度を取るかは、はっきり決定できるという性質のものなのだ。
このような事情で筆者の筆は、一旦止まってしまったが、2002年のアソシエ9月号で、土井健司さんが『「生命の尊厳」と人体の商品化』という論文を掲載してくれた。
この論文のおかげで、先に挙げた膨大な作業を経ることなく、死生観の問題に立ち入ることが可能になった。
本稿では上記論文(以下、土井論文とさせていただく)に依拠して、死生観の問題に立ち入ることにする。
1.
土井さんが論を興すにあたって、まず脳死・臓器移植に反対するキリスト教原理主義を批判することが必要であった点に注目しておきたい。脳死に反対し、臓器移植に反対するキリスト教原理主義と自らを峻別しないかぎり、みずからの反対の意味を理解してはもらえないからである。
土井さんはキリスト教原理主義を批判するにあたって、人間中心主義を立脚点として自己確立する。
『原理主義が進化論に反対するのは、動物と人間の区別が相対化されることで、絶対的な人間的生命の尊厳が侵害され、能力いった質が問われるようになるからであるという。こうした絶対的な人間的生命の尊厳も「神の像」から導出されている。』
『しかし、神の至高性をもとにした教条主義的な「生命の尊厳」の議論はやはりイエスの福音に反している。というのもマルコ伝2章27節のイエスの言葉にあるように、「安息日は人間のために定められた。人間が安息日のためにあるのではない」からである。』
『原理主義に対しては、宗教批判、また聖書でさえも人間のために存在するのであって、決してその逆ではないと言いたい。むろん原理主義にとってはこのようなヒューマニズムこそ批判されるべきでものあろう。しかし教条主義的に「生命の尊厳」を主張することはキリストの福音の律法化であって、福音にとっては非本来性への堕落である。ここでは、こした神の至高性に関する教条主義的視点から「生命の尊厳」を論じることは控えたい。とりわけ神の至高性の主張が至高存在として神を偶像化する場合、また神の至高性の名の下に実はそう語る者の優位性を誇示する場合はなおさらである。』
このように土井さんは自己の立脚点を明確にする。
すなわち、進化論を否定せず、神と人間の転倒を再転倒し、神の像という恣意的な立場からの人間生命の尊厳を否定し、人間生命の尊厳の問題を議論の俎上に上せる立場を手中にしたのである。