共産主義者同盟(火花)

国家と革命をめぐって−『トランスクリティーク』等々(2)

流 広志
250号(2002年6月)所収


 5 ここで柄谷行人氏の問題意識を確認しておこう。氏は,『トランスクリティーク』(批評空間)の「序文」で,「私がトランスクリティークと呼ぶものは,倫理性と政治経済学の領域の間,カント的批判とマルクス的批判の間の transcoding つまり,カントからマルクスを読み,マルクスからカントを読む企てである。私がなそうとしたのは,カントとマルクスに共通する「批判(批評)」の意味を取り戻すことである。言うまでもなく,「批判」とは相手を非難することではなく,吟味であり,自己吟味である」(8頁)と述べている。氏が言うように,カントとマルクスを結びつける思想家は少なくなかった。例えば,新カント派の影響が強かったオーストリア=マルクス主義者の社会民主党が政権を握ったこともあった。ロシアでも,そうした一派の影響が拡がったため,初期のレーニンは,かれらとの論戦にかなりの力をさいた。
 氏は,「道徳的=実践的とは,カントにとって,善悪の問題ではなくて,「自由」(自己原因)であること,また他者を「自由」として扱うことを意味する。道徳法則とは,「君の人格ならびにすべての他者の人格における人間性を,けっしてたんに手段としてのみ用いるのみならず,つねに同時に目的として用いるように行為せよ」ということである。・・・カントはそれを歴史的な社会の中で,漸進的に実現すべき課題として考えていた。それは具体的には,商人資本主義的な市民社会に対して,独立小生産者たちのアソシエーションを目指すものであったといってよい」(8〜9頁)と述べている。このことは,カント主義から,自由主義的社会主義が生み出されたことやドイツ社会主義と真正社会主義が生まれたことが証明している。前者では,例えば,アインシュタインが一人で作業するレンズ職人に憧れていたというエピソードに独立小生産者の思想としての性格が現れている。後者については,マルクス・エンゲルスが『共産党宣言』で言っている。
 「支配的ブルジョアジーの圧迫のもとで生まれて,この支配にたいする闘争の文献的表現であるフランスの社会主義的および共産主義的文献は,ブルジョアジーがまさに封建的絶対主義にたいする闘争を始めたときに,ドイツに輸入された。/ドイツの哲学者,半哲学者および文芸家は,むさぼるようにこの文献をわがものとしたが,それらの著作がフランスからはいってきたさいに,フランスの生活諸関係が同時にドイツにはいってきたのではなかったことだけは忘れていた。ドイツの諸関係にたいしては,フランスの文献は直接に実践的な意味をすべて失って,純粋に文献的な外観を呈した。それは,真の社会についての,人間の本質の実現についての,無益な思弁として現れざるをえなかった。こうして,一八世紀のドイツの哲学者にとっては,最初のフランス革命の諸要求は,ただ「実践理性」一般の諸要求であるという意味だけをもっていて,革命的なフランスのブルジョアジーの意志表明は,彼らの目には,純粋意志の,真に人間的な意志の諸法則を意味したのである。・・・/ドイツ社会主義のほうもまた,この城外市民層(小ブルジョアジー引用者)の高慢な代弁者であるという自分の天職を,ますます認めるようになった」(新日本文庫 80〜4頁)。
 ここで彼らは,カント主義の「実践理性」「純粋意志」「あらねばならぬ意志」「真に人間的な意志の諸法則」を「無益な思弁」と批判し,また,かれらが生活諸関係を無視したことを批判している。ドイツ社会主義は,独立小生産者(小ブルジョアジー)の立場から,絶対主義政府を打倒する革命に立ち上がり始めていたブルジョアジーに反対して,絶対主義と手を結んで反対するものであった。それは中間的立場(小ブルジョアジー)の擁護論であった。かれらは没落しないためには,ブルジョアジーに対立する連合を作り,絶対主義政府と手を結ぶしかなかったわけである。ブルジョア革命後のブルジョアジーがプロレタリアートの革命に対立するという歴史的条件の下では,小ブルジョアジーは,両者の間で動揺する。氏は,「歴史的には,カント派マルクス主義者は消されてしまったが,これは不当な扱いである」(同)というが,カントに帰れという新カント主義をマルクス主義と結びつけたカント派マルクス主義は,カント思想を観念論として徹底させようとし,それによってマルクス主義を改造しようとしたのであり,それは階級闘争を保守的な小ブルジョア的立場から否定するものであった。それは同時に官僚的社会主義ともなった。その保守的な中間的立場が対立の調停を要請するからである。超越的立場から調停者としてふるまうのは,官僚制の常である。氏は,それは新カント主義であって,カントそのものではないと言い,「私がカントとマルクスを結びつけるようになったのは,このような新カント派とは何の関係もない。私はむしろカント派マルクス主義者の中に,資本主義に関する認識の甘さを見いださずにいられなかった」(同)と述べている。かれらが反ブルジョア的だったのは,ブルジョア革命の始まる時期で,没落を恐れたからである。ブルジョア革命に反対して,絶対主義と「連合」し,その立場からの擁護論としてカント思想が役だったのである。
 氏は,「私は政治的にむしろアナーキストであり,マルクス主義的な政党や国家に共感をもったことは一度もなかった。にもかかわらず,私はマルクスに深い敬意を抱いていた」(同)という。氏は,「一九八九年に至るまで,私は未来の理念を軽蔑していた。資本と国家への闘争は,未来の理念なしでも可能であり,現実に生じる矛盾に即してそれをエンドレスに続けるほかない,と考えていた,しかし,八九年以後に私は変わった。それまで,私は旧来のマルクス主義政党や国家に批判的であったが,その批判は,彼らが強固に存在しつづけるだろうということを前提していた。彼らが存続するかぎり,たんに否定的であるだけで,何かをやったような気になれたのである。彼らが崩壊したとき,私は自身が逆説的に彼らに依存していたことに気づいた。私は何か積極的なことをいわなければならないと感じ始めた。私がカントについて考え始めたのは,本当はそのときからである」(11頁)と述べている。
 現代思想の世界では,「一九八〇年代には,カントへの回帰は目立った現象であった」(12頁)。ハンナ・アーレント『カント政治哲学の講義』,リオタール『熱狂』,ハーバーマス,等々。それは,「カントを『判断力批判』において読むことだった。趣味判断では,普遍的であることが要求されるにもかかわらず,多数の諸主観の間では普遍性がなく,せいぜい共通感覚によって規制されるだけである。それは超越論的主体を想定した『純粋理性批判』とは異質であるように見える。しかし,カントに対して理性を「公共的理性」としてとらえなおそうとしたハーバーマスをもふくめて,こうしたカントの再評価の政治的な含意は明白である。それは「形而上学」としてのコミュニズムへの批判なのであり,それは社会民主主義に帰結する。/マルクス主義は,合理論的,目的論的な思考(大きな物語)として批判されてきた。実際,スターリニズムはそのような思考の帰結であった。歴史の法則を把握した理性によって人々を指導する知識人の党。それに対して,理性の権力を批判し,知識人の優位を否定し,歴史の目的論を否定することがなされてきた。それは,中心的な理性の管理に対して多数の言語ゲームの間の「調停」や「公共的合意」を立て,また,合理論(形而上学)的な歴史に対して経験の多様性と複雑な因果性を立て,他方で,目的のためにはいつも犠牲にされてきた「現在」をその質的多様性(持続)において肯定することである。しかし,私が気づいたのは,ディスコンストラクションとか,知の考古学とか,さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考−私自身それに加わっていたといってよい−が,基本的に,マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間,意味をもっていたにすぎないということである。九〇年代において,それはインパクトを失い,たんに資本主義のそれ自体ディスコンストラクティヴな運動を代弁するものにしたかならなくなった,懐疑論的相対主義・多数の言語ゲーム(公共的合意),美学的な「現状肯定」,経験論的歴史主義・サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が,当初もっていた破壊性を失い,まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では,それらは経済的先進諸国においては,最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論思考の優位−美学的なものをふくむ−である。八〇年代におけるカントへの回帰とは,実際は「ヒュームへの回帰」である」(12〜3頁)。
 柄谷氏は,ここで指摘されているような現代思想潮流に自身が参加していたことを認めている。しかし氏は変わったという。ディスコンストラクションや知の考古学とかの呼び名で呼ばれてきた思考(一般にポストモダニズムと言われる)は,マルクス主義(実際にはスターリニズム)が支配的地位にあり,現実に支配思想であった間だけ,意義があったにすぎなかったことに気づいたというのである。ソ連東欧体制崩壊後の90年代には,マルクス主義を批判した現代流行思想は「支配的思想=支配階級の思想」になった。それを氏は,合理論に対して経験論的思考が優位に立ったものだという。したがって,80年代のカントへの回帰(合理論)は,実はヒュームへの回帰(経験論)であった。しかし,カント自身は,合理論と経験論の間で考えたというのである。
 また,氏は,スターリニズムを思考の問題とし,思考の吟味(批判)に資本主義批判のカギを見いだしている。そして,ソ連・東欧のスターリニズム体制が崩壊して以降はスターリニズムが支配的思想ではなくなったのだから,どのような思考・思想であれ,問われているのは,資本主義という現実の批判であり,「思考の吟味(批判)」を生活諸条件から,行う実践であり,プロレタリアートの革命である。現在支配階級の地位についているブルジョアジーは,革命という戦争で,旧支配階級を打倒してその地位についたのであり,そうである以上は,法律上いかに革命を否定し,それを自然権の地位に追いやり,起源を抑圧し,自らの生まれを隠蔽しようとも,革命の自然権としての「合法性」を現実には否定できないのである。そのような意味で革命という戦争はまったく「合法的」なのである。だからこそ,革命権を究極的には否定できないブルジョアジーは,革命(戦争)に絶えず備えないではいられないし,革命にたいする戦争を仕掛け続けているのである。それは法律上の合法性ではないが,現実の社会諸関係が規定する「合法性」なのである。

 6 それから柄谷氏は,『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』を取り上げ,「重要なのは,社会的諸階級が「階級」としてあらわれるのは言説(代表するもの)によってのみだということである。マルクスは,自分たちの代表者も,自らの階級的利害を普遍化して擁護する言説ももたず,それゆえ他の誰かに代表されなければならない階級の存在を指摘している。それは分割地農民である」(213〜4頁)と述べている。分割地農民は一つの階級をなし,利害の同一性があるにも関わらず,地方的なつながりしかなく,なんらの共同も全国的結合も政治的組織もつくりだしていないかぎりでは階級をなしていないので,自分の階級利害を自ら主張する能力をもっていない。そこで,分割地農民はだれかに代表されなければならず,それは主人として,他の階級からかれらを保護する無制限な統治権力でなければならない。それが皇帝であるというのである。分割地は,資本によって課せられる抵当債務と税金がのしかかっている。したがって分割地農民は,ブルジョアジーと対立する。ところが,その孤立し打ちひしがれた境涯は,かえってかれらを保守的にした。
 「税金は,官僚,軍隊,坊主,要するに執行権力の全装置の生命の泉である。強力な政府と強力な税金とは,ひとつことである,分割地所有はその本性からして全能にして無数の官僚群の基礎となるに適している。それは,国の全表面にわたって境遇と人間とを均等の水準におく。したがってそれはまた一番上の中心からこの均等の大衆のあらゆる箇所にむかって均等の作用をおよぼすことができるようにする。それは,人民大衆と国家権力のあいだに介在する貴族階級のような中間段階をうちこわす。したがってそれは,あらゆる方面からこの国家権力の直接の干渉とその直属機関の介入をよびおこす。さいごにそれは,仕事のない過剰人口をうみだす,かれらは田舎でも仕事口を見出しえないから,したがって一種のていさいのいい施しものとしての国家の役職をつかもうとし,かくて〔いよいよ〕新規な官職の製造を誘発するのである。ナポレオンは,銃剣できりひらいた新しい市場や大陸の略奪で,強制租税を利子をつけてかえしてやった。〔ナポレオン時代〕強制租税は農民の産業にたいする刺激であった。ところがいまそれは,農民の産業からさいごの手段までうばいとり,かれらが貧窮に抗する力を完全になくしてしまう。そして金モールでかざりたて栄養たっぷりの巨大な官僚群こそ第二のボナパルトに何にもましてもっともぴったりくる「ナポレオン思想」なのである。またどうしてそれがそうでないはずがあろう。ボナパルトは,社会の実際の階級のほかにかれの政体を維持しなければめしの食いあげとなる人為的な特権閥をつくりだすことをよぎなくされているのだから。それゆえかれの最初の財政処置の一つは,役人の給料をもとの額へひきあげ,新しい冗職を製造することであった」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』岩波文庫 150〜1頁)。
 氏はここから,マルクスは,「ブルジョア国家は,国家の「実体」−官僚と軍−を,法治主義と代表制によって隠蔽する」(219頁)ものであるが,ブルジョア経済が行き詰まると,国家機構は「皇帝」のような指導者の下に,経済領域に積極的に介入することを明らかにしたのであり,彼は階級と階級闘争を多様に錯綜する差異において,また政治を言説と代表の機構においてとらえているのだと述べている。
 マルクスがここで問題にしたのは,当時のフランスで多数を占めていた分割地農民の保守性である。何が,分割地農民を,過去のナポレオン幻想,軍閥と官僚制の強化に追いやったのか。一つには彼らの孤立状態のためである。かれらは自分たちの利害を自ら主張できるような全国的組織を持っていなかったために,自分たち以外の者に自らを代表してもらわねばならなかった。二つには,かれらの土地がブルジョアジーによって抵当債務に取られていたために,それはブルジョアジーではありえなかったためである。最後に,プロレタリアートという革命的階級がまだそれが可能なほど成長していなかったためである。かれらがそういう力を備えたのがはっきりしたのは,1871年のパリコミューンの時点である。官僚と軍隊は,一方では農民を圧迫させる税金によって賄われているが,他方では貧窮した農民向けの官職の源泉ともなった。ルイ・ボナパルトは,官職を増やしてかれらの人気を取ろうとしたのである。農民には自分たちを救うための選択肢がなかったのである。全国的農民組織,農業協同組合を組織するという方法はただの可能性としてあっただけである。現代では,多くの国で農民は協同組合に組織され,あるいは全国組織を持つようになり,時には自らの農民政党を持っている。

 7 それから氏は,一般に『ドイツ・イデオロギー』でマルクスが史的唯物論を確立したといわれていることを否定している。しかし,氏の言う史的唯物論とは,産業資本主義の発展が可能にした,歴史を生産の観点から見るということである。アダム・スミスもそういう視点を持っていたという。資本主義は経済的下部構造ではなく,「人間の意志を超えて人間を規制する,あるいは,人々を互いに分離させ且つ結合する或る「力」であり,それはむしろ宗教的なものである」(21頁)と氏はいう。マルクスは「宗教の批判はあらゆる批判の前提である」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)と言い,資本と国家というかたちをした「宗教」批判を続けたのに,史的唯物論にはそれがないと批判する。しかし歴史を生産の観点から見ることは欠かせない。宗教・観念・意識・信念等々を第一の規定因とする観点を批判して社会的存在がそれらを規定するという観点を打ち立てたのがマルクスの史的唯物論である。彼の宗教批判はそういう観点からのものである。氏は,「マルクスは,宗教の啓蒙的批判をいくらやっても,それを必要とする「現実」を解決しないかぎり,宗教を解消することはできないと述べた」(30頁)と言っている。氏が批判するようなマルクス的な宗教批判のない史的唯物論がその名に値しないのは確かである。
 一般に史的唯物論の「公式」として有名な『経済学批判序言』でマルクスは言う。
 「人間は,彼らの生活の社会的生産において,一定の,必然的な,彼らの意志から独立した諸関係に,すなわち,彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は,社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり,その上に一つの法律的および政治的上部構造が立ち,そしてこの土台に一定の社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が,社会的,政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく,逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は,その発展のある段階で,それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と,あるいはそれの法律的表現にすぎないが,所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は,生産諸力の発展諸形態からその拮抗に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。経済的基礎の変化とともに,巨大な上部構造全体が,あるいは徐々に,あるいは急激に変革される。このような諸変革の考察にあたっては,経済的生産諸条件における物質的な,自然科学的に正確に確認できる変革と,人間がこの衝突を意識し,それをたたかいぬく場面である法律的な,政治的な,宗教的な,芸術的または哲学的な諸形態,簡単にいえばイデオロギー諸形態を区別しなければならない。ある個人がなんであるかをその個人が自分自身をなんと考えているかによって判断しないのと同様に,このような変革の時期をその時期の意識から判断することはできないのであって,むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾から,社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない。一つの社会構成は,それが十分包容しうる生産諸力がすべて発展しきるまでは,けっして没落するものではなく,新しい,さらに高度の生産諸関係は,その物質的存在条件が古い社会自体の胎内で孵化されおわるまでは,けっして古いものにとって代わることはない。それだから,人間はつねに,自分が解決しうる課題だけを自分に提起する。なぜならば,詳しく考察してみると,課題そのものは,その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか,またはすくなくとも生まれつつある場合にだけ発生することが,つねに見られるであろうからだ。大づかみにいって,アジア的,古代的,封建的および近代ブルジョア的生産様式を経済的社会構成のあいつぐ諸時期としてあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は,社会的生産過程の最後の敵対的形態である。敵対的というのは,個人的敵対という意味ではなく,諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味である。しかしブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は,同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。したがってこの社会構成でもって人間社会の前史は終わる」(国民文庫 15〜7頁)。
 これを読めば,マルクスが,史的唯物論者であり,経済的下部構造と上部構造をはっきりと区別していることがわかるし,ブルジョア的生産諸関係を社会的生産過程の最後の敵対的形態の生産関係とし,生産諸関係を規定的としていることがわかる。すでに『フォイエルバッハ・テーゼ』『ドイツ・イデオロギー』にその萌芽が現れているし,それが史的唯物論だと考える。史的唯物論は,エンゲルスとレーニンが言っているように方法である。マルクスはこれを「導きの糸」と言っている。ついでに言えば,レーニンは,精神を第一次とした方を観念論,自然を第一次とした方を唯物論とし,これらの概念をこれ以外の意味に使うことは,混乱するだけだと言っている。
 氏は,「史的唯物論者は,自然と人間の関係,人間と人間の関係が歴史的にどう変遷したかを考える。しかし,そこに抜けているのはそれらを組織してしまう資本制経済の考察である」(25頁)という。しかしマルクスは言っている。「ブルジョア社会は,最も発展した最も多様な歴史的な生産組織である。それゆえ,ブルジョア社会の諸関係を表現する諸範疇は,またブルジョア社会の編成の理解は,同時に,すべての滅亡した社会形態の編成と生産関係との認識を可能にするのである」「人間の解剖は,猿の解剖の解剖のための一つの鍵である。ところが,下等な動物種類に見られる高等なものへの暗示は,この高等なもの自身がすでに知られている場合にだけ理解されうる」(「経済学批判への序説」国民文庫 301頁)。本当の史的唯物論者ならば,「人間」「ブルジョア社会の編成」の解剖から,過去を認識するはずである。氏も,資本制経済の解剖から,「自然と人間の関係,人間の人間の関係が歴史的にどう変遷したかを考える」はずである。氏は本文の中で,日本資本主義論争について取り上げているが,それは資本主義の認識,資本主義批判の中身の違いから発生したのである。氏が批判する史的唯物論はマルクスの天才が現れているという価値形態論と流通過程を無視した生産重視史観である。しかし実際にはマルクスは生産関係を重視している。




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