共産主義者同盟(火花)

日本国家の現状についてのノート

流 広志
248号(2002年4月)所収


 日本国憲法第15条は,公務員一般について,その選定・罷免権を国民固有の権利とした上で,公務員を全体の奉仕者と規定し,普通選挙権を認め,投票の秘密の保証するとしている。ここで,公務員とは,前文で,「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」,主権在民,国民由来する権威,国民の代表者による権力行使,等々を規定しているように,普通選挙による代表者を意味する。したがって,憲法によれば,選挙によって国民から選ばれた代表者ではない公務員というのは,直接的には公務員ではなく,間接的に公務員であるにすぎないわけである。だから公務員とされている官吏は,選挙された代表者としての公務員からの任免や認証を要する身分である。しかし日本国憲法においては,選挙された国民の代表者の内閣総理大臣と最高裁判所の裁判官は天皇によって任命され,大臣や特別の官吏の任免や全権委任状や大使公使の任免状は天皇が認証する。なぜなら,天皇は日本国と国民統合の象徴だからである。国家と国民統合の象徴による任命や認証が,その身分を保証するわけである。これらの場合,その身分を保証してくれるのは,生まれをその身分とする特別な人物なのである。
 公務員はさらに国家公務員と地方公務員に分かれ,そしてその身分は一般公務員と特別公務員に分かたれる。特別公務員には,内閣総理大臣など,この間問題になっている国会議員秘書,それから,防衛庁職員が入っている。「行政権は,内閣に属する」(憲法第65条)。そして内閣は,行政権あるいは統治権は,その行使について,国会にたいして責任を負う(第66条)。一般的規定として公務員は選挙されるものとされているにも関わらず,行政権に属する官吏の身分が公務員とされているのは,あくまでも,内閣に属して行政権行使を職務とするためであり,それが内閣の延長として,その手足として職務を遂行するためである。それは試験という儀式による知の位階制,二重化した知と意志を持つ官僚制として存在する。その官僚制は一般的には市民社会と政治的社会の分離に基づいている。
 内閣総理大臣は,内閣を代表して国会に議案を提出し,国務・外交関係を国会に報告し,行政を指揮監督する(第72条)。それから,法律の執行,国務の総理,外交関係の処理,条約締結,官吏の事務の掌理,予算作成,政令の制定,大赦・特赦・減刑・刑の執行免除・復権の決定,その他の一般行政事務を行うものとされている(第73条)。これらの内閣の行政権を行使するための組織が行政上の官僚組織である。そしてそれ以外に,立法権行使に関わる国会関係の官吏があり,司法権行使に関わる官吏がある。それらも公務員である。立法権,行政権,司法権は,独立するものとされ,三権分立とされている。しかし,それら三権の内で,最高権力とされているのは,立法権であって,それは内閣総理大臣の国会議員の選挙による選任,最高裁判事の投票による信認,国政調査権,国会の裁判官にたいする弾劾裁判権,不逮捕特権をもつことなどに表わされている。
 行政権・司法権・立法権の三権の執行に当たっては,これを職務とする公務員がそれぞれあてがわれているわけである。行政権は,内閣が総理する諸行政事務の執行官が行政組織として公務にあたることになっており,それはまずは国務大臣をトップに置く省庁として存在する。それは結局は内閣に属するものである。その内閣は,内閣官房を置き,閣議・行政各部管の総合調整,重要政策についての情報収集調査を行なう(内閣法第12条)。内閣官房長官が置かれ,内閣官房副長官2名,さらに内閣総理大臣補佐官3人以内が置かれることになっている。この補佐官は,内閣の重要政策について,総理大臣に進言し意見具申することになっている。それから第14条の3で閣議事項の整理と庶務を掌る内閣参事官,閣議事項と行政各部間の総合調整を行う内閣審議官,内閣官房の事務を行う内閣事務官を置くとされている。そして内閣総理大臣に三人,国務大臣に1人ずつの秘書官を置くことが,第15条で規定されている。秘書官は,機密に関する事務を掌り,内閣官房その他の関係各部局の事務を助けるものとされている。かくして,内閣は秘書官の職務として,機密の仕事を内閣の公務とすることをあらかじめ規定しているのである。
 発議権は,まず内閣総理大臣が内閣を代表する形で持っている。それから,国会法において,議員の委員会に法案提出権が認められている。ただし,国会議員は立法権の本質からして,法案提出権をもつ。現に議員立法は,賛同者の数に制限を付けた上で認められている。しかし実際には,法案形成過程は,行政機関に置かれる審議会等の機関や私的諮問機関等における提案を,官僚が,与党内の政策担当機関にはかって決定され,それが内閣から法案提出されるというものが多い。各種審議会や諮問機関の合議による意見は,なるほど直接法案の形をとるものではなく,また結局は,国会審議と議決を経なければならないという制約があるとはいえ,そのメンバーの選定が官僚主導でなされていることからしても,立法権にたいする間接性,あるいは中立性という点からしても,問題である。けだし,立法権は,普通選挙による代表によって直接的に行使されるべきものとされているからである。審議会や諮問会議のメンバーは,国民を直接代表するものではなくて,代表者による任命という間接的な社会的立場,身分であるにすぎないからである。その身分はあくまで私的身分にたいして,一時的に公的身分が与えられたにすぎず,しかも選任しそれを付与したのは,最高の国権たる立法権外にあるとされた行政権だからである。
 日本国憲法は,公務員という身分を,国民の普通選挙による代表者という立法権から直接規定した。ところが,行政権(執行権)は,間接的な公務員の身分であるにも関わらず,立法権行使を独占し,国民からそれを事実上の簒奪を行っている。かくして,マルクスが,『ヘーゲル国法論批判』で述べたように,憲法は変化の形式を持たずに変化したのである
 ここまでであきらかなように,憲法をめぐる矛盾は,立法権と行政権(執行権)の間にある。すなわち,国権間の相克こそ問題のポイントであり,これは権力問題である。憲法は三種の国家権力しか認めておらず,しかもその中で立法権を最高の国権としている。しかしながら,それが執行権によって,実質的に骨抜きにされている。したがって,憲法論議の課題の一つは,こうした実態を,改憲によって追認するのかどうかということである。立法権は,ユートピアを法化するのではなく,現にある国民の意志を法に転化し法的に規定することしかできないからである。理想を宣言するというのは法のするところではなく,宣言・決議・綱領等のすることである。「官僚は市民社会へむけて出された国家の代表であるように,議会は国家へむけて出された市民社会の代表である」(『ヘーゲル国法論批判』),そこで両者の対立意志の取引が行われているのである。通常は与党が前者を代表し野党が後者を代表する。それから言えば,与党自民党に対して小泉首相が野党の立場に立つことでしか,国民の意志を代表することができなかったのは当然である。この党は与党と野党のヤヌスの顔を持つことになったのである。国家代表と国民代表の一人二役を演じる小泉首相の1人芝居は,まさに国会の仮象性・舞台性を露にし,その真理を誰の目にも見えるようにしたのである。
 新保守的国家論は,1980年代から90年代にかけて,広く普及した考えであるが,それは,国家機能を治安・防衛と外交にできるだけだけ限定するというものであり,日本では,自由党,民主党,自民党内の保守派,そして小泉政権が採用しているものである。官邸では,内閣調査室と外務省をメンバーとする定期会合が開催されているが,外務省の機密費を官邸機密費に流用しているという疑惑が持たれているような密接でシークレットな関係がつくられてきているのである。このような関係が形成されていることによって,9・11事件後の対応について,官邸主導での外務省と自衛隊などとの協議がスムースに進行したのであろう。しかし,それは田中元外務大臣が,外務省人事や外交政策を自由に進めることの妨げとなり,同時に,官邸による黙認によって 鈴木宗男議員の介入にもさらされるという事態を生み出したものである。こうした官邸主導型で形成されてきた外交・安保・治安行政の枠組み自体が,田中問題と鈴木問題を生み出したものである。新保守主義的な国家論を背景にしたこうした枠組みが残されている限り,第二第三の鈴木宗男問題が再発するのは間違いない。ところが,中曽根と小泉首相は,官邸主導をより強めることが,族議員を排除し,官僚政治の弊害をなくす道だという考えで一致したという。ようするに,事実上,執行権が最高権力たるべきだといっているわけだ。そこで,政策や法案の形成過程も,大臣の私的諮問機関だとか,審議会だとか,臨時の提言機関であるとか,私的な顧問であるとか,そっちの方が重視され,それで,政策意志決定過程が見えやすくなるどころか,たとえば審議会がだした原案がいつのまにか官僚らの手で書き換えられて最終案になって成立したりして,その間の事情が見えなかったりするなど,実際には秘密の部分が多くなっているわけである。そして,最初から秘密や機密の仕事をするという秘書官という身分がつくられており,さらに外務省改革問題で明らかになった機密費の使い道に関する疑惑が生じるなど,官僚制の闇は,情報公開のかけ声にも関わらず,深まっているわけである。さらに,官僚制をめぐる位階制と身分の問題は,いわゆるキャリアとノンキャリアの二元制として制度化されていたことが暴露され,公的身分制の存在がそれ固有の矛盾によって展開し,全体の奉仕者なる規定など実際には機能していないことが暴露されている。それは封建的身分制とはもちろん違うが,近代主義者の抽象的な頭からは抜け落ちている近代官僚国家の公的身分制と市民社会の私的身分制の問題というものを改めて検討すべき課題として浮上させているわけである。
 バブル以来のエゴイズム全面開花の中で,私人としての消費者生活に安住しつつあった人々の中で,バブル崩壊後,社会的分業に基づく私的諸身分の再編成が,生産・産業における労働編成のダイナミックな再編成過程をへつつ進んでいる。私的身分制として編成されている市民社会において,ブルジョアジーは,これを階級内の諸身分として編成・組織することによって,私的身分秩序を貫徹しているのである。したがって,私的公的身分制の編成からの解放という課題は,一方では資本主義的分業の止揚から身分制の廃止にいたる一連の社会・政治革命と結びつけられねばならないのである。
 保守派の中心的な改憲論のポイントは,憲法9条に自衛権を明記し,そのための軍隊の保有を規定するというものである。その背景にある国家論は,国家の目的が,国民の安全・治安の維持私的所有の維持にあるというものである。治安・秩序の維持こそが国民が国家に求める中心的役割であり,そのためには,強制力としての自衛隊の存在は欠かせないという。しかし,9条は国家間紛争解決手段としての交戦権を放棄し,その目的に限っての戦力非保持を規定しているのであり,自然法であるとされる正当防衛権までは否定しているとはいえず,人民が外国による侵略・略奪を人民が実力で撃退することを否定していない。したがって,何者かによる武力侵略による生命や自由の剥奪に対しては,文句無く正当防衛権によって,人民は闘う権利があり,実際にそうするだろう。その場合にこの自然権の対象には,国家権力が含まれねばならない。有事立法は,一方では,治安のための国家の軍事的手段を強化するが,他方では,人々の国家防衛意識を他人まかせとすることで薄めることになるだろう。それを防ぐために,政府ー支配階級は,教育・教化・宣伝などによって,愛国心を意識的に強調し,鼓舞し,維持,拡大しなければならなくなる。すなわち,それは本来の防衛意識の内容にとっては外在的な形式によって,外的に人々に植え付けなければならない。それが,「国歌国旗法」以来の愛国心強要の狙いの一つだろう。
 有事立法をめぐる焦点の一つは,自治体に対する首相の指揮権の優越ということである。地方自治体は,本来,単なる偶然的なアトム的塊としての団体であるにすぎないが,それは,国家を規定する法とは別に,地方自治法によって規定される地方公共団体として位置づけられている。このことは,歴史的に,国家による上からの廃藩置県等を経て行政区分として成立したとして,形式的に捉えるとすれば,地方自治の実態を表面的にしか見ていないものである。実際には,住民生活の実情に合わせて,柔軟に行政区分を超えた結びつきがあり,それについては,行政も,黙認している。それからたとえば消防における広域行政の設定などを組み併せつつ,地方自治が展開されている。そうした地域の実態に即した歴史的な自治形成の在り方をみないで,有事における総理大臣による地方自治体の指揮権の優越なる規定を盛り込んでみたところで,現場での混乱と軋轢の発生は不可避であり,しかも,それは,有事後においても尾を引く課題として残るだろう。
 それから,憲法前文において立法権と共に行動するように規定されている国民が法案提出権を有するだけで国会との連帯を義務づけられている執行権である内閣の権限によって,自由と権利を尊重するという限定が記されているとはいえ,私権が制限されるという問題がある。そのことは,結局のところ,ブルジョアジーが,そのイデオローグを通じて公共の福祉による基本的人権の制限ということをさかんに強調してきたのは,自らの支配を,国家を通して,その実力,威嚇力,棍棒の力をもって貫くということを,有事法制の中でもはっきりと主張しているわけである。一方で新学習指導要領による道徳教育の推進や日の丸君が代強制の強化などの心理的な国家への従属心や愛国心やらを植え付ける攻勢を強めつつ,同時に国家の暴力装置の強化を,有事立法で果たそうというわけである。与党案では,国民の協力努力義務を記して,直接に諸個人(私人)を使役するという国家の権利を定めている。支配階級は,自然発生的にも生まれつつある日本帝国主義に対する人々の闘争であるとか,海外権益を脅かす事態であるとか,国際帝国主義秩序の動揺であるとか,それらに対する日米反革命同盟の強化による対応のためであるとか,様々な危機要因を想定し,それらに対応するための,軍事体制の強化を図ろうというのである。
 
 本稿は,直近の課題として,法案提出される有事立法に現れている内閣−官邸主導の執行権による有事対応ということが,憲法における立法権の優越の原則からの大転換を意味するということ,そのことが同時に米帝ブッシュ政権の国際帝国主義秩序確保のための反テロ軍事作戦の世界的展開に協力する体制を固めることで,日米反革命同盟をさらに強化するものであること,そしてそれは外国からの直接的武力攻撃ばかりでなく,国内テロや不審船対応などをも有事に含めようとするなど,人々の生命・財産を守るためとしながら,内閣ー執行権の大権を確立し,その統制の下に人々を従属させることで,結局はブルジョアジーの階級支配を貫徹しようとするものであることを国家ー権力の問題と結びつけて解明する必要があると考えたので,ノートのレベルで緊急に問題提起したものである。国家の緊急権とは実はブルジョアジーの緊急権のことである。それに対する闘いはすでに始まっているし,それを支持し,闘いを発展させなければならない。




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