[学習ノート]経済学ウオッチング(9)
斉藤隆雄
246号(2002年2月)所収
はじめに
ケインズとフリードマンを学習した後に、傍流のポラニーを学習することにします。これまで学習してきた二つの経済理論は資本主義市場が自動調節的に均衡するか否かを巡って、主要に需要サイドと供給サイドの両面から意識性を付与するものでした。ケインズは、労働市場の不均衡を政府の介入で需要を創出し均衡させようとするものでした。フリードマンはケインズへのルサンチマンを除けば、要するに供給面での企業家精神を鼓舞することで「全員資本家になろう」というユートピア論でした。そのどちらも市場が不均衡であることを、明示的か否かは別にして、認めていると考えて良いでしょう。
市場の不均衡、すなわち景気循環や恐慌、バブル、インフレ、デフレ、失業、企業倒産、更には貿易不均衡、為替変動など、その循環過程に現れる様々な社会的・文化的現象、戦争を含めた政治的政策遂行などが種々の回路を通じて生じてきます。これらの現象が人間の意識性の下に押さえ込むことができるのか、それとも必然の(運命の)領域なのかについて我々はこれまで様々に論じてきました。そして、近代の経済学の二つの代表的な論客がこれに対して与えた解答は、既に現実によって破棄されたと言っていいし、更にそれらが何故そうなったのかについても、我々は垣間見てきました。
今回取り上げるK.ポラニーの見方はこれまでの経済学とは幾分異質なものを含んでいます。つまり、市場そのものを資本主義経済の根幹と据えながら、市場と社会という観点から「社会」という概念を抽出しようとしている所が領域の広さを感じることができます。どちらかと言えば、経済学というよりも社会経済学というべきかもしれません。
彼の代表作である『大転換』(1957年 翻訳1975年 東洋経済新報社)は、第二次世界大戦中に書かれ、戦後出版されたものです。ハンガリー系の社会学者と訳書の解説には記されています。この著書を取り上げる理由は、資本主義の変容としてレーニンが帝国主義と規定した20世紀初頭の資本主義の転換期をその後20年代30年代の戦間期を含めて独自の観点からまとめ上げていることによります。少なくとも、当時の古典派経済学への批判の書として書かれ、古典派が前提としていた社会の基礎理論そのものを根本から問い直そうとしている所に着目したいと考えたからです。
更にもうひとつ取り上げた理由を言うと、90年代の日本の経済学潮流の中に新古典派や新自由主義へ行かず、かと言ってレギュラシオン派でもない一部の経済学はポラニーを始めとしたこれまで傍流とされてきた潮流へ合流しつつあるからです。制度学派や厚生経済学、環境経済学などがありますが、それらの一つとしてポラニーを見ていきたいと思います。
1.市場経済の起源
マルクスが『資本論』の中で展開した資本主義創世記は、第24章の本源的蓄積においてイギリスの驚くべき歴史と共に語られています。冒頭、彼が「資本主義時代はやっと16世紀から始まる」と述べて、封建制から資本制への暴力的移行を様々な角度から繰り返し歴史的に振り返っています。そこでは、資本主義の生成過程が社会経済的に分析され、市場経済の生まれ育った履歴が見事にまとめられています。
16世紀から18世紀にかけての300年間にイギリスでは二度の囲い込み運動(一度目は羊毛工業のための耕地の牧場への転化であり、二度目は大規模農業への転換であった)が起こり、土地からも封建的紐帯からも追放された大量の貧民が産み出されました。彼ら彼女らは産業革命を経て資本主義生産様式の中で完成された労働者として登場します。そしてこの歴史過程の中で国家権力がきわめて重要な役割を果たします。マルクスの叙述の中からこれを見てみましょう。
「人民大衆の暴力的収奪過程は、16世紀に、宗教改革とその結果たる巨大な寺領盗奪とによって、新たな恐るべき刺激を受けた。旧教の教会は、宗教改革当時には、イギリスの土地の一大部分の封建的所有者であった。僧院などの抑圧は、そこの居住者をプロレタリアートの中に追い込んだ。」(長谷部訳、河出書房版p566)
「『名誉革命』は、オレンジ公ウイリアム三世とともに、地主的および資本家的貨殖家をも支配者たらしめた。彼らは、これまで控えめにしか行われなかった国有地盗奪を大規模に行うことによって、新時代を開始した。」(p568)
この時代の王権、新興ブルジョアジーたちの権力行使の有様は苛烈を極めるものでした。大量の貧農が農地から追放されたが、教区内からは出られませんでした(1662年の定住法によって)。当然、彼ら彼女らが仕事にありつける機会はそう多くはなかったはずです。現代で言う非自発的失業者の群が教区の町に溢れていたでしょう。教区内で失業者を収容する授産施設が建てられ、中には失業者のための監獄を建てる計画もあったぐらいです。更にまた、これらの流民・浮浪者に対して労働の義務をも課す法律も考案されました。
「ヘンリー八世、1530年の条例、老いて労働能力なき乞食は乞食免許を受ける。これに反し、強健な浮浪者は鞭うたれ、監禁される。彼らは荷馬車の後につながれて体から血が流れるまで鞭うたれ、しかる後、自分の出生地または最近三年間の居住地に帰って『労働につく』誓いを立てなければならない。」(同576)
この条例は、後に改悪されて、二年間労働しなければ死刑にするとされました。このような法律は囲い込みで流動化した農民たちにとって「悪魔のひき臼」と感じられただろうことは疑いないでしょう。これらのことから、資本主義的生産様式の歴史的成立の為には国家的暴力は本質的な契機であったのです。
マルクスはこの歴史過程をかの有名な一節にまとめています。
「封建制的生産様式の資本制的生産様式への転化過程を温室的に助長して過渡期を短縮するために、社会の集中的で組織的な暴力たる国家権力を利用する。暴力は、新たな社会を孕むあらゆる旧社会の助産婦である。それ自身が一つの経済的力能である。」(p583)
かくも長々と引用をしたのには理由があります。実はこの一節がポラニーを論じる際に重要になってくるのです。つまり、マルクスは封建制から資本制への転化過程に国家権力が大きな役割を果たすとしている訳ですが、ポラニーはその果たす役割を違う角度から見ているのです。
では、ポラニーはこれらの事実を否定しているのかというと、そうではありません。むしろ、資本主義市場の成立には国家権力が欠かすことのできない要素だと断言しています。資本主義市場は古典派が言うように自動的に生まれたものでもなく、自由放任などと言う麗しい歴史を経験したことなど一度としてないということを強調します。一度目の囲い込みついて彼の描写を見てみましょう。
「囲い込みは、正しくも貧民に対する富者の革命と呼ばれてきた。領主と貴族は、時には暴力的手段を用い、またしばしば圧迫や脅迫によって、社会的秩序をくつがえし、旧来の法と慣習を破壊しつつあった。彼らは文字通り貧民から共同地用益権を奪い取り、またそれまで慣習の犯しがたい力によって貧民が彼らおよび彼らの子孫のものと久しく見なしてきた家作を奪い去りつつあった。社会の骨組みは崩壊に瀕していた。荒廃した村落と廃墟と化した住居が、荒れ狂った革命の激しさを物語っていた。この革命は国土の防衛を危険にさらし、都市を衰弱させ、多くの住民を殺害し、負担のかかりすぎた土壌を塵あくたに変え、人々を苦しめ、礼儀正しい農夫を乞食や泥棒の群れに変えた。」(p46)
彼は、マルクスの叙述にも劣らないほどこの時代の過酷さを描いています。それは彼の時代認識が古典派的でないことを証明しています。では違いはどこにあるのでしょうか。マルクスは市場経済について、国家の役割を分離して叙述することはしませんでした。国家の権力は自明の力であり、それは新たに勃興してきた支配階級のために奉仕し、歴史の進行の梃子となるものでした。他方、ポラニーは国家権力を社会的な力として捉えながらも、市場経済と相対的に異なったものとして規定します。
「経済システムと市場とをそれぞれ概観してみて知り得たことは、われわれの時代以前には、市場は経済生活にとってはたんなる付属物にすぎなかったということである。…一般に経済システムは社会システムのうちに埋没していたのであり、その経済においていかなる行動原理が支配的であっても、市場パターンはそれと両立できていた。」(p91)
「市場は経済の内部ではなく、もっぱらその外部で機能する制度なのである。」(p78)
このように、経済と市場を分離することにおいてポラニーは独特の理論を展開している訳です。彼によれば市場は分配機能を果たすように考えられているが、実はそうではなくて市場とは略奪であり、狩猟、探検、海賊行為であるというのです。そして経済生活にとっての本来の分配機能とは「贈与」であり、「互恵の原理」に基づくものであったとします。古典派経済学が考え出した「交換」という美辞を否定する訳です。交換など初めからなかったと。
そして、それに基づいて市場経済を捉えるなら、それは人類史上特異な制度であり、人間社会に本来的に備わった制度ではないということになります。ですから、市場経済という制度は常に社会から拒否反応を受けざるを得なくなります。その一つの例として、先に挙げたイギリスにおける囲い込み運動の時代を取り上げる訳です。マルクスによって描写された本源的蓄積期の苛烈さをひとつとして値切らずに見つめながらも、それでも尚かつこの時代の実相は本来の資本主義的市場経済とは異なるものであったというのが彼の特異な分析の事例なのです。資本主義経済の黎明期における彼の分析は、古典派経済学ばかりではなく、マルクスの分析した資本主義そのものをも批判するものになっていることを押さえながら、彼の事例分析を見ていきたい。
2.スピーナムランド
『資本論』第24章を読む限りでは、ポラニーの言説をにわかには信じられません。しかし、古典派経済学を学ばれた方であれば少し察しが付くかも知れません。スミスにしろ、リカードにしろ、古典派経済学は極端に言えば、経済生活上で起こるすべてのことは市場に任せておくべきだという、いわゆる自由放任の原則を提唱します。当時の経済学者たちが政策を論じることと言えば、対外政策ぐらいでした。関税や農業保護の問題は議論されましたが、国内問題は看過されていました。18世紀半ばから本格的に始まった産業革命によって国内経済には様々な問題が生じてきましたが、政策問題として浮上してきたものの中に、マルサスの人口論に関連する議論があります。これは、今で言う労働市場の問題ですが、同時に税の問題でもありました。ポラニーが注目するのは1795年に制定されたスピーナムランド法です。
ポラニーによれば、この法律はきわめて特殊な役割を果たしたというのです。15世紀に始まった本源的蓄積期に農地から追放された人々、すなわち今日の労働者階級の祖先は追放と同時にマニュファクチュアに吸収されませんでした。「自分の馴れた生活軌道からとつぜん放り出された人々が、とつぜん新状態の規律に馴れることもできなかった」(資本論p576)訳です。「彼らは大量的に乞食や盗賊や浮浪民に転化した」(同)ので、政府は彼ら彼女らに労働の義務制をひくことになるのです。「かくして、暴力的に土地を収奪され、追放され、浮浪民とされた農村民は、グロテスクでテロル的な法律によって鞭うたれ、烙印され、拷問されて、賃労働制度に必要な訓練を仕込まれた。」のです。先に挙げた定住法とともに、その時に彼らに課せられた法の網は救貧法でした。この法は救貧院や授産施設、救貧税などを伴う法律で、エリザベス一世が制定したもので(1601年)、19世紀初頭まで存続しました。この法律は貴族や大地主にとっての倫理的な慰めだけではなく、マニュファクチュアと農業労働者への労働力プールの役割を果たしていました。しかし、それでも産業革命が本格的に始まるまではまだ牧歌的だったと言えます。
このことは『資本論』第八章労働日第五節「標準労働日のための闘争」に目を通していただければ理解できると思います。問題は、18世紀中頃からこれらの法体系が産業ブルジョアジーにとっては労働力供給と賃金問題にとって死活問題となったのです。労働力の自由な移動は彼らの政治的な課題となりました。そして、定住法の解除と入れ替えに制定されたのが、このスピーナムランド法だったという訳です。
この法の特徴は、現在で言う生活保護法でありました。ある一定の額より少ない賃金で生活している者を対象に不足分を支給するというものです。この法律は当初より論議を呼んだ法律だったようですが、制定された年次を見れば分かるように、ドーバー海峡を挟んでフランスでは革命が始まっていましたし、イギリス本土においても農民暴動が各地で勃発していました。そのような情勢の中でイギリスへの革命の飛び火を畏れたブルジョアジーの妥協の産物であったのです。
では、この法律を誰が求めたかというと、大陸での革命騒ぎで農産物の輸入が止まり、大規模農業での生産拡大が課題となり、地主階級は安い賃金で労働者を雇用することが課題だった訳ですが、都市における工業は定住法による労働者供給不足から、賃金が高留まりであったことで、地主階級の利害からすれば、定住法の解除は彼らの利害に反するので何らかの代替措置が必要だったのです。まさに、この法律は農業経営者と地主にとって必要不可欠な法律であった訳です。そして、この法律によって、農業労働者は、たとえ安い賃金でも政府からの補助があるので、団結して闘うことはせず、また都市における雇用状況の変動にも柔軟に対応できるという効用をもたらしたのです。
「賃金騰貴から農村の基盤を守り、伝統的権威を強化し、農村労働の流出を阻止し、そして農業賃金を上昇させる方法が見つけ出されなければならなかった。その手段がスピーナムランド法であった。それは産業革命の荒れ狂う水流の中に突きたてられ、そこに経済的渦潮を巻き起こすことになったのである。とはいえ、農村に基盤を持つ支配者地主が判断したように、それがもっていた社会的な作用はまさに状況に適合していたのであった。」(p127)
問題はそこから始まります。この麗しい法律が重大な厄災をもたらすことになります。農村に於いては小規模農家や土地契約農家などが没落し、大規模農場では救済を受ける貧民が過剰に雇用されていくことになります。彼らは低い賃金で雇うことができ、またそれを受け入れる労働者は、没落農民によって絶えず供給されるということになり、農村社会は崩壊していきます。更に、都市に流出した農民たちも工場での労働をサボタージュし、働くことにさえ自らの生きる道を見いだし得ないと言う状況が生まれます。このことは、イギリスの於いては欧州大陸の於けるような都市文明を支える中産階級が居なかったこともあって、当時の多くの知識人たちが描いた都市文明の悲惨さは当を得ていたと言います。
「スピーナムランドは、社会的破局を促進したのであった。われわれは、初期資本主義についての悲劇的な描写を『お涙頂戴劇』として割り引いてしまうことに慣れきってしまっている。しかしこれはまったく正当さを欠いている。…チャールズ・キングスリーやフリードリッヒ・エンゲルス、ブレイクやカーライルがあの恐ろしい破局に人間の像そのものが汚されてしまっていると信じた点において、彼らはだれも過ちを犯していなかった。」(p132)
この法律によって労働者は団結する力を失い、自らの階級意識を形成することができず、イギリスに於いて政治革命の思想が生まれなかった根拠でもあると、彼は言います。そして、この資本主義社会の生まれてきた経過そのものが、まさに資本主義発祥の地であるイギリスに於いて起こったことであり、また自由主義思想発祥の地でもあるということなのです。
ポラニーの言いたかったことは、古典派経済学や自由主義思想あるいは経済的自由主義思想はこのスピーナムランドによって生まれたということなのです。当時の経済思想家や哲学者たちの見ていたものは、資本主義そのものではなく、当時の政府と様々に利害が絡む支配階級の政策によって生まれた経済システムだというのです。
「正統派経済学の基礎にある自然主義的要素は、主としてスピーナムランドによって作り出された状況の結果であった。…/したがって、リカードもマルサスも資本主義制度の機能を理解していなかったということになる。」(p167)
つまり、当時の資本主義経済はスピーナムランドによって競争的労働市場が存在しなかった、まさに不完全な資本主義であったということになります。ということは、社会思想としての経済学という観点から見て古典派経済学は、たとえば適者生存という自然界の進化法則を人間社会の法則と同義としたり(同時一体のものであるということ)、それを市場原理と見なすことで資本主義社会を描こうとしているのは、基本的な誤りであるということになります。労働の価格水準が労働者の生産と再生産が可能なレベルで決まるという古典派の労働市場の見方も当然根本的に間違っていると言うことになります。
彼の指摘は私がかつて環境問題を学習に取り上げた、共生の思想は共貧の思想だと言ったことと関係があります。自然界の共生は限られた環境の中で共に餌と排出物と生命活動のバランスで保たれるのですが、古典派の社会観はこれと同じで、アダムスミスの自由放任の思想はこれを社会に適応することで成り立つのだと言うことになります。だから、政府はいらないし、おそらくそこには社会さえ存在しないことになります。かつて、サッチャーが社会など存在しないと豪語したのも理由がありそうです。
飢餓による調和という、あからさまな帰結を明言した経済学者はいませんでしたが、当時のイギリスで救貧法を巡る論争の中で、人口法則や収穫逓減の法則などの自然法則を社会にあてはめた事例は我々も知ってます。ポラニーの指摘は、今日の我々に示唆に富むものを残したと思われます。