共産主義者同盟(火花)

現代唯物論発展のために(8)

流 広志
245号(2002年1月)所収


 「第四章 経験批判論の戦友であり後継者である哲学的観念論者たち」では,それまで,経験批判論をそれだけ切りはなして取り扱ったのにたいして,今度は,それを歴史的発展のなかで,また他の哲学上の諸流派との関連と相互関係のなかで考察される。問題になるのは,マッハとアヴェナリウスのカントとの関係である。
 マッハとアヴェナリウスは,1870年代に,「カントにかえれ!」というドイツの新カント主義が勃興した頃に登場した。マッハは,自ら,カントから出発して,バークリとヒュームの路線にそって進んだことを認めている。さらに,彼らは,カントをも不徹底だと批判して,カントを不可知論の方向に純化させようとした。レーニンは,カント哲学の特徴を次のように述べている。それは,「唯物論と観念論との和解,両者のあいだの妥協であり,種類のちがった,対立しあっている哲学的流派を一つの体系のなかでむすびつけていることである」(下14)。カントのこのような中途半端さのために,かれの哲学は,唯物論者からは観念論的な部分を,観念論者からは唯物論的な部分を,批判された。このようなカント哲学の中途半端さは,現象学にも受け継がれている。たとえば,ユング派心理学と現象学を結合せんとする河合隼雄氏は,客観科学としての心理学においては,「物質と精神とのどちらかに割り切ることなく,矛盾をもったそのままを心の現実として受け取ってゆこうとの態度」(『ユング心理学入門』培風館 11頁)をとるべきだと主張している。それは,心理療法家としての実際問題の追求から,視野の拡大→主体の関与→心の現象・心的現実の因果律的な方法の限界→現象学と展開するとされている。そして河合氏は,現象学的接近法として,個人の内的世界,主観の世界の尊重をあげている。その上で,氏はあくまで,実際家としての立場を強調して,自らの現象学を「自分の視野をできるだけ拡大することに努めつつ,自分の主体をその事象に関与させることにより,その主観と客観を通じて認められる一つの布置を,できるだけ的確に把握しようとするもの」(前掲書)と述べている。かくして,河合氏は,物質と精神のどちらにも割り切らないし,実際家としての立場から,科学的方法や因果律は否定しないで現象学的方法を併用し,主観と客観の双方を事象としてとらえるとしながら,前者の現象学の個人の内的世界,主観の尊重を後者の上に置く。さらに,氏は,実際家としての立場を強調して,プラグマティズムとの親近性も示している。
 マッハ主義者たちは,一方でカント哲学から出発しながら,同時にカントを批判した。しかし,それは,カントが観念論者として徹底していなかったということを批判するというものだった。それに対して,フォイエルバッハは,カントが唯物論者として不徹底であり,カントが物自体を悟性的な本質として,それをたんなる思想とみなして,物自体の客観的実在性を認めていない点を批判した。
 つぎにレーニンは内在論学派について取り上げている。その代表者としてあげられているのは,シュッペ,ルクレール,レームケ,シューベルトーゾルデルンである。マッハは,経験批判論者,内在論哲学者,少数の自然科学者が,一点に収束するだろうと述べている。その一点とは,レーニンによれば,古いヒューム=バークリ主義哲学のことである。かれによれば,内在論学派について重要なのは,かれらが,「最も悪評のたかい反動主義者であり,信仰主義のあからさまな説教師であり,その蒙昧主義の点で欠けるところのない人物どもである。認識論にかんする自分たちの最も理論的な労作を,宗教の弁護のために,あれこれの中世主義の正当化のために公然とつかわないものは,彼らのなかにただの一人もいない」(36)ということである。たとえば,レーニンは,シューベルトーゾンデルンが,『認識論の基礎』で,自己の肉体が成立する以前の自我の先在,死後の自我の存在,すなわち霊魂の不滅などをみちびきだしていることをあげている。シューベルトーゾルデルンなど現在では知る者もないが,先にあげたユングは,かれらと近い。
 ボグダーノフの『経験一元論』は,(1)「要素」の混沌,(2)人々の心理的経験,(3)人々の物理的経験,(4)「それからうまれる認識」というものだとレーニンはいう。そして唯物論的認識を得られるというのだ。すなわち,前二者を除いて,後の二者を正確に述べるなら,「(1)物理的世界は人間の意識から独立に存在しており,人間よりも,すべての「人々の経験」よりもはるかに以前に存在した。(2)心理的なもの,意識等々は物質(すなわち物理的なもの)の最高の産物であり,人間の脳と呼ばれるとくに複雑な物質の塊まりの機能である」(59)ということになる。レーニンは,観念論者たちについて言う。「世界はわれわれの自我によってつくりだされた非我である,とフィヒテは言った。世界は絶対的理念である,とヘーゲルは言った。世界は意志である,とショーペンハウアーは言った。世界は概念と表象である,と内在論者のレームケは言う。存在は意識である,と内在論者のシュッペは言う。物理的なものは心理的なものの置換である,とボグダーノフは言う」(59)。つづけてレーニンは,記号理論(象形文字理論)とヘルムホルツの批判とデューリング批判,ディーツゲンの弱点について,マッハ主義者たちがそれらをいかに利用して唯物論を攻撃したかについて補足している。いずれも,マッハ主義者は,観念論から,右から批判したのである。

 第5章 自然科学における最近の革命と哲学的観念論 では,当時の最新の自然科学が対象となっている。その場合,当時の自然科学は絶えず変化していたのであり,その中で,正確な自然科学像を描くことは困難である。問題は,このような変化の過程の中で,唯物論の形態を修正することであって,「マルクス主義の形態の批判という見せかけのもとにその本質を変更し,たとえば「・・・・物質のない運動は考えられない」(『反デューリング論』,五〇ページ〔全集,第二〇巻,六一ページ〕という主張のような,あたえられた問題において無条件的に極度に本質的なエンゲルスの主張と,率直に,公然と,かつきっぱりと決着をつけようとするなんらの試みもすることなく,反動的なブルジョア哲学の基本命題をとりいれる,そういうやりかたを非難する」(95)ことにある。かれは,「最近の物理学の一学派と哲学的観念論の復興との連関を吟味するにあたって,われわれが物理学の特殊な諸学説に言及しようなどとは思ってもいない,ということは自明のことである。われわれの興味をひくのは,もっぱら,いくつかの一定の命題と周知の発見とからの認識論的結論である。これら認識論的結論は,おのずから迫力をもって出てくるものであるので,すでに多くの物理学者たちが,それにふれているほどである。そればかりでなく,物理学者のあいだにはすでにいろいろの流派があり,それを地盤として,一定の諸学説がつくられている。だからして,われわれの課題は,これらの流派のちがいの本質はなににあるか,また,それらは哲学の基本路線にたいしてどのような関係にあるか,をはっきりと叙述することにかぎられる」(95〜6)ことをことわっている。
 まず,かれは,現代物理学の危機に関するフランスの物理学者・数学者のアンリ・ポアンカレの物理学における重大な危機の徴候の指摘を要約している。ポアンカレは,ラジウムがエネルギー保存の法則やラヴォアジエの原理または質量保存の法則やニュートンの作用と反作用は等しいという法則をくつがえしたと述べた。レーニンは,「最も基本的な諸原理の崩壊は,これらの原理が自然のなんらかの写し,写像ではなく,人間の意識にたいして外的ななにものかの模写ではなくて,この意識の産物である,ということを証明している(というのがポアンカレの考えの経路である)」(97)ことを指摘している。この点について,かれは,実証主義者でヒューム主義者のレイの著作からを引用した。レイは,19世紀後半の物理学が伝統的な機械論を批判して,そのかわりに,「科学は記号的定式以上の,符号をつける手段」(標示すること,reperage 符号,しるし,記号をつくること)「以上のなにものでもなく,そしてこの符号づけの手段が学派に応じてちがっているので,符号をつけるために」(記号をつけるために)「まえもって仕上げられている(faconne)ものだけが符号をつけられるのだ,ということを人々はすみやかに見いだすにいたった。科学はジレッタント〔好事家〕たちのための芸術作品,功利主義者たちのための芸術作品となった。この態度は,正当にも一般的に科学の可能性の否定と解釈されているものである。自然にはたらきかけるための純粋の人為的な手段,たんなる功利的技術としての科学は,ことばの意味をかえるのでなければ,科学と呼ばれる権利をもたない,科学はこのような働きかけの人為的な手段以外のなにものでもない,ということは,ことばのほんとうの意味での科学を否定することを意味する」(100)と書いた。このようなレイの言い方を正して,レーニンは,「以前の物理学によってうけいれられていた唯物論的な認識論が,観念論的ならびに不可知論的な認識論にとってかわられた,そしてこれを,観念論者や不可知論者たちの願望に反して,信仰主義が利用した」(102)と述べている。レイは,現代の物理学者を認識論上の傾向から,(1)エネルギー論的または概念論的(conceptuelle)学派,(2)機械論的または新機械論的学派,(3)両者の中間の批判的学派,の三つの学派に分けている。レーニンは,(1)にはマッハ,デューアンが属し,(3)にはポアンカレが属し,2)にはキルヒホフ,ヘルムホルツ,トムソン(ロード・ケルヴィン),マックスウェル,ラーモア,ローレンツが属しているとしている。
 このような現代物理学の危機の本質は,古い諸法則や諸基本原理の崩壊に対して,意識外の客観的実在を拒否した点にある,とレーニンは言う。それは,唯物論の古い形態を新しい形態に発展させるのではなく,唯物論を観念論や不可知論で置き換えようとするものである。したがってその危機は,「物質は消滅した」という命題に典型的に表現される。この命題は,自然科学においては,それまで物理的世界のすべての研究を一つの究極的概念である物質,電気,エーテルに帰着させてきたが,今では,後の二つに帰着させることができるという意味であった。それは,物質を電気に還元することによって,物質の統一性にみちびいてゆくということである。これによって,それまでの物質についてのわれわれの知識の限界が消滅して,かつて絶対的,不変的,根源的と思われていたような物質の性質(付加入性,慣性,質量等々)は消滅しており,これらの性質がいまでは相対的な物質の若干の状態にだけそなわっているものであることがあきらかになっている。 「というのは,哲学的唯物論がその承認とむすびついているところの,物質の唯一の「性質」は,客観的実在であるという性質,すなわちわれわれの意識のそとの存在するという性質であるから」(107)。現代のわれわれは,三番目のエーテルが存在しないということを知っているし,量子論も知っているが,最新の物理学によって,レーニンの唯物論の命題の正しいことが証明されている。物理的世界に関する研究の進展に伴う変化にたいして,弁証法的唯物論は,「物質の構造とその性質にかんするあらゆる科学的命題の近似的・相対的性格を,自然には絶対的な境界がないということを,運動する物質が一つの状態から,われわれの観点からみると外見上それと融和しがたいようにみえる他の状態へと転化すること,等等を主張している」(108〜109)。弁証法的唯物論が認めるただ一つの不変のものは,すなわち,「人間の意識は(人間の意識が存在している場合に),それから独立して存在しておりかつ発展している外界を反映する,ということである」(110)。
 つづけてレーニンは,「新しい物理学が,ブルジョア学者たちにとって未知のままに残されている弁証法的唯物論と,不可避的に主観主義的な(さらにすすんで明白に信仰主義的な)結論に達する「現象論」とのあいだを,どのように無意識的にかつ自然発生的に動揺しているか」を例証する。それから,物質は消滅したという命題から観念論者がいかなる認識論的結論を引き出したかを明らかにして,それを批判している。観念論者は,私の外にはなにもない,ただ私の感覚の交代があるだけで,それが「運動」なのだという。では,物質が消滅したということは何を意味するのだろうか? レーニンは,それに対して,物質が消滅後に思考は残ったか?,というふうに,問いを変えている。否,と答えれば,「物質の消滅とともに思考もまた消滅し,脳や神経系統の消滅とともに観念や感覚も消滅したのである,―そしてそのときには,つまり,いっさいが消滅したのであり,どのような「思想」(または無思想)であってもよいが,とにかくその見本の一つとしての君たちの議論も消滅したのである。だが,もしも,しかりとすれば,すなわち物質が消滅する場合に思想(観念,感覚等々)が消滅しないものと仮定すれば,君たちは,つまり,こっそりと哲学的観念論の観点にうつったのである」(115)。そして,後者の観念論は,二つの立場に帰着する。第一は唯我論で,全世界は私の感覚であるという単純な立場である。第二の立場は,「非常に複雑な,というのは,生きた人間の思想,観念,感覚のかわりに,死んだ抽象,すなわちだれのものでもない思想,だれのものでもない観念,だれのでもない感覚,思想一般(絶対的理念,普遍的意志等々),不定の「要素」としての感覚,全物理的自然と置換えられる「心理的なもの」等々がとりあげられる場合」のような複雑な立場である。たとえば,ユングは,最後まで自我と死んだ抽象としての元型の両者を同時に主張して,こうした二つの観念論的立場を折衷していた。つぎにレーニンは,当時の物理学における唯物論的傾向と観念論的傾向の二つの潮流の対立を,イギリス,ドイツ,フランス,ロシアのケースについて,検証して,後者の例として,イギリスの唯心論,ドイツの観念論,フランスの信仰主義,ロシアの「観念論的物理学者を批判している。
 最後に,レーニンは,物理学の危機に結びついて勃興してきた物理学的観念論の原因を,第一に,「自然科学の大きな成功,その運動法則が数学的処理をゆるすような,同質的でかつ単純な物質要素への接近が,数学者による物質の忘却をうみだしている」(174)こと,第二に,「相対主義の原理,われわれの知識の相対性の原理である。この原理は,古い理論の急激な崩壊の時期に特別の力をもって物理学者たちにしつこくつきまとい,―弁証法を知らない場合には―不可避に観念論へとみちびくものである」こと,と総括している。第二の相対主義については,物理学的観念論は,すべての古い真理は相対的真理であり,人類から独立した客観的真理はないと言う。それに対して,弁証法的唯物論は,「発展していく相対的真理の総和から絶対的真理が形づくられること,相対的真理は人類から独立した客観の相対的にただしい反映であること,これらの反映はますますただしいものになってゆくこと,おのおのの科学的真理のうちには,その相対性にもかかわらず,絶対的真理の要素があること」(176)を認める。一言でいえば,今日の「物理学的」観念論は,自然科学の一部門における自然科学者の一学派が,形而上学的唯物論から弁証法的唯物論へとまっすぐにかつただちにのぼることができなかったので,反動的哲学へところがりおちた,ということを意味するにすぎない(180),というのが,レーニンの結論である。しかし,現実は,ジグザグと動揺しながら,ときにはうしろむきに,自然発生的に弁証法的唯物論という自然科学における唯一の正しい方法と哲学に向かっているのであり,そのお産の床についているにすぎないというのである。
 この後,たとえば,相対性理論を生み出したアインシュタインは,マッハ主義を信奉して,不可避的にその哲学を動揺させながら,物理世界の数学的な完成を目指して,統一場理論を展開し,単純な数式の探求を続けた。そのために,テンソルを使ったのだが,統一場理論は未完に終わった。他方で,かれが批判し続けた量子力学の領域では,観測精度の向上などによって,つぎつぎと新量子・新素粒子の発見が続いている。物理学者たちは,それらの性質について調べる作業を地道に継続している。その研究成果から,われわれは,量子の世界が,弁証法的な運動世界であることを知ることできる。

 第6章 経験批判論と史的唯物論 では,社会科学の分野の観念論者としてのドイツの経験批判論者とそのロシアの弟子たちが批判の対象とされる。まず,レーニンは,アヴェナリウスの発行していた哲学雑誌に掲載された彼の弟子であるF・ブライのマルクス主義批判を取り上げる。ブライは,「従来の国民経済学が,経済生活の諸現象を説明するというその試みで,形而上学的前提を使っていること,また,それは経済の『法則』を経済の『本性』から『演繹する』のであって,この『法則』にたいして人間は偶然的なものとして現われるにすぎないこと」(184)を証明し,そうではなく,その分析の成果を諸個人の行動と関係づけるべきだと主張する。こうした主張は,個人主義者や功利主義者,プラグマティズムの立場の人達から,くりかえされている。ブライは,マルクスの経済思想を形而上学だと決めつけ,「独立のE価値,『絶対的真理』としての『社会主義的世界観』は,『あとから』『特殊な』認識論,――すなわちマルクスの経済学体系と唯物論的な歴史理論によって『基礎づけ』られる。・・・・この剰余価値の概念の助けをかりて,いまや,マルクスの世界観の『主観的に』『真なるもの』は,その『客観的真理性』を『経済学のカテゴリー』の認識論のなかに見いだす――始源価値の確保は成し遂げられた,形而上学はその事後の認識批判を獲得した」(187)と書いている。ようするに,マルクスは,自らが頭の中で作り上げた主観的な社会主義的世界観とその価値を,経済学の認識論のカテゴリーの中にその客観的真理性を見つけだして基礎づけたが,それは特殊な認識にすぎず,それは形而上学であり,それによって,マルクスは事後的に認識批判を獲得したといったことだろうが,ちんぷんかんぷんである。ここには用語自体にカント哲学が現れているが,レーニンはこれを六点にわたって批判している。
 つぎに,ベツォルトが取り上げられる。ベツォルトは,人類の発展の目的は持続であるという命題を基礎にして,安定状態の概念から経済的社会的平等を導きだすこと,倫理的持続状態としての道徳,自由な生成による理想状態の成立,「多数者」による社会主義権力による理想実現の否定等を主張している。そして美的持続状態の概念からロマン主義の否定が導き出されているが,このロマン主義には,「自我の法外な拡大も,観念論も,形而上学も,神秘論も,唯我論も,利己主義も,「多数者が少数者を暴力的に票数でおさえること」も,「国家による全労働の組織という社会民主主義の理想もが属するのである」(193)。レーニンは,「同じ精神でマッハは「個人の自由」を保証している,ポッパーとメンガーの官僚的社会主義に賛成の意見を述べている,これに反してこの社会主義から「不利な相違点をもつ」社会民主主義の学説は「君主制国家または寡頭制国家においてよりもいっそう一般的でいっそう重苦しい奴隷制」を生むおそれがある,とマッハはいうのだ」(193〜4)ということを注記している。ソ連・東欧体制を見てきた今日のわれわれには,マッハの主張が正しいように映るが,しかしよくよく事態を見るならば,ソ連・東欧体制は,ベツォルト,マッハ,ポッパー,メンガーの理想とした官僚「社会主義」的なものであったことがわかっている。
 ボグダーノフは,「社会的形態は生物学的適応という広範な類に属する,ということをわれわれはしめした。しかし,このことによってわれわれはまだ社会的形態の領域を確定したのではない。・・・・人々はその生存闘争において,意識の助けをかりるのでなければ団結することができない。すなわち,意識がなければ交際もない。それだから,社会的生活はそのすべての現われにおいて意識的=心理的な生活である・・・・。社会性は意識性と不可分である。社会的存在と社会的意識とは,このことばの正確な意味で,同一である」(195)と述べている。レーニンは,これを,存在一般と意識一般が同一でないのと同様に,社会的存在は社会的意識と同一ではない,と批判している。「人々は,交際するにあたって,意識のある存在として交際するということから,どんな仕方によっても,社会的存在が社会的意識と同一である,ということは結論されない」(196)とかれは言う。「交際するにあたって,すべてのいくらかでも複雑な社会構成体では――とくに資本主義的な社会構成体では――人々は,そのさいにどんな社会関係が形成されているか,それはどんな法則にしたがって発展しているか,等々のことを意識していない。たとえば農民は,穀物を売るときに,世界的市場で世界の穀物生産者と「交際(交渉)するが,しかし彼はこのことを意識していないし,交換からどんな社会関係が形成されるかをも意識していない。社会的意識は社会的存在を反映する,――ここにマルクスの学説がなりたつ。反映は反映されるものの近似的にただしい写しでありうるが,ここで同一性をうんぬんすることはばかげている。意識は一般に社会的存在を反映する,という史的唯物論の命題とが直接的にかつ不可分に結びついていることを見ないことは,不可能である」(同上)。
 個々の生産者は個別の生産技術を変化させていることを,また個々の経営者は個別の生産物を他の生産物と交換していることを意識しているが,かれらはこのことによって社会的存在を変化させていることを意識してはいない。これらすべての変化の総体をとらえることはできない。「これらの変化の法則が発見され,これらの変化とその歴史的発展の客観的論理が主要なかつ基本的な点でしめされるのがせいぜいのところである,――ここで客観的というのは,意識のある存在物,すなわち人間の社会が,意識のある存在物の存在から独立に存在したり発展したりできる,という意味ではなく(これらのつまらないことだけはボグダーノフは自分の「理論」で強調している),社会的存在が人々の社会的意識から独立している,という意味である。諸君が生活し,世帯をもち,子供をうみ,生産物を生産し,それらを交換することから,諸君の社会的意識から独立した,そしてそれによってけっして完全にはとらえられていない,諸事件の客観的=必然的連鎖,発展の連鎖が形成されるのである。人類の最高の課題は,経済的進化(社会的存在の進化)のこの客観的論理を一般的かつ基本的な諸特徴においてつかみ,このことによって自分の社会的意識およびすべての資本主義諸国の先進的諸階級の意識をこの客観的論理にできるだけ明確に,はっきりと,批判的に適応させるようにすることである」(198〜9)。かくして,レーガン,サッチャーが信奉したことで復活させられたハイエク流の計画主義批判などは,官僚的社会主義批判にすぎず,マルクス主義的社会主義批判や弁証法的唯物論批判としてはまったく的外れであり,かすりもしていないということがわかる。
つぎにスヴォーロフの『社会哲学の基礎』を批判した上で,レーニンは,哲学における二つの陣営の路線対立を改めて確認している。かれは,新しい物理学の登場に際して,新しい用語,新しい術語の小細工や博学ぶったスコラ学のかげで,観念論と唯物論の闘争があるということ,そこには二つの基本的な路線,二つの基本的方向があるということを明らかにしたのであった。マルクスとエンゲルスの天才は,ほとんど半世紀にわたるあいだ,唯物論を社会科学の領域に首尾一貫して適用し,哲学における新路線を発見し,「新」方向を発明しようとする無数の試みを,「ごみ,たわごと,大げさな,思いあがったちんぷんかんぷんとして容赦なく一掃したことにあった」(214)。レーニンは,1843年には,マルクスがほんとうのマルクスになりつつあり,現代唯物論の創始者になりつつあったとして,マルクスがフォイエルバッハにあてた手紙で,すでに哲学上の根本的路線対立について書いていることを明らかにしている。マルクスは,1843年10月に,『独仏年誌』のためにフォイエルバッハにシェリング批判の文章を書くようにすすめ,その中で「シェリングは,従来のあらゆる哲学的流派を包みこみのりこえたと僭称している空虚なほらふきである。「彼(シェリング)は,フランスのロマン主義者と神秘主義者にむかっては,私は哲学と神学との結合である,と,フランスの唯物論者にむかっては,私は肉体と理念の結合である,と,フランスの懐疑論者にむかっては,私は教条主義の破壊者である,とさけんでいる」と述べている。懐疑論者は,ヒューム主義者と称していようと,カント主義者と称していようと,マッハ主義者と称していようと,唯物論と観念論の双方の「独断論」に反対してわめきたてることを特徴としている。かかる観点からすると,中沢新一氏の『はじまりのレーニン』には,一方では意識の外にある客観的実在とその意識への近似的反映というレーニンの唯物論のテーゼを認めつつも,同時にそれをグノーシス主義と融和させようとするという懐疑論的なやり方が認められるのであり,その点で,懐疑論者と共通の誤りを犯している。
 『資本論』第一巻第二版への後書きでマルクスが,「自分の唯物論をヘーゲルの観念論,すなわち最も首尾一貫した,最も発達した観念論に対置するとともに,コントの「実証主義」を軽蔑的な態度で拒否し,またヘーゲルを粉砕したとうぬぼれながらそのじつカントとヒュームの前ヘーゲル的誤謬のくりかえしに逆もどりしている同時代の哲学者たちをみじめな亜流であると宣言している」ことをレーニンは強調している。それから,マルクスのこの精神にたって,エンゲルスが,あらゆる問題で,唯物論的路線と観念論的路線を対置していることを証明している。エンゲルスは『反デューリング論』で,デューリングに対して,唯物論の首尾一貫した適用というスローガンの下で行い,「唯物論者デューリングを,問題の核心をことばで塗りかくし,空文句をもてあそび,観念論への譲歩,観念論の立場への移行をあらわすような議論の仕方をしているというかどで,非難したのである。最後まで一貫した唯物論か,それとも哲学的観念論のうそと混乱か,そのどちらかである」(216)とレーニンは言う。他方,ハックスリなどの「実証主義」と「実在論」に対して「エンゲルスは,最もよい場合でも,唯物論をこっそりひきいれながら,公衆のまえではそれを罵倒し否認する俗物的なやりかただ,と宣言している!」(218)ことをレーニンは指摘している。
 レーニンは,「マルクスとエンゲルスは,哲学において終始党派的であり,ありとあらゆる「最新の」流派のうちに,唯物論からの逸脱と観念論および信仰主義にたいする過度の寛容とをあばきだすことができた。だから,彼らはハックスリを,もっぱら唯物論の一貫性という観点から評価したのであった。だから,彼らは,フォイエルバッハが,唯物論を終わりまでつらぬかなかったことで,――個々の唯物論者がおかした誤りを理由に唯物論を放棄したことで,――宗教を更新しまたは新宗教をあみだす目的で宗教とたたかったことで,――社会学の領域では観念論的空文句を脱却しえず,唯物論者になることができなかったことで,彼を責めたのであった」(218)と述べている。レーニンは,唯物論者ディーツゲンの言葉を引用して,政治においてと同様に科学においても,観念論者と唯物論者の二大潮流にわかれ,唯心論者,感覚論者,実在論者等々の中間項や調停派は,途中でどちらかに合流してしまう,と述べている。そして,実在論者,実証主義者,マッハ主義者は,個別的な問題で唯物論的流派と観念論的流派とを混乱させる,「哲学上のいやしむべき中間党派である」(220)と厳しく批判している。
 マッハ,アヴェナリウスとその学派は,無党派を誇っているが,それは,唯物論と観念論よりも上に高まり,古くさくなった対立をのりこえたという自負の現れであって,実際には,この仲間の全体はどんどん観念論に踏みこんで,唯物論と対立している。「アヴェナリウスとかいった人たちの洗練された認識論上のこじつけが,教授ふうのたんなる思いつきであり,「自分自身の」哲学的小宗派をつくろうとする試みであることにかわりはないが,実際には,現代社会の諸思想,諸流派の闘争の全体的環境のなかでは,これらの認識論上の小細工の客観的役割はただ一つ,観念論と信仰主義への道をきよめ,それらに忠実に奉仕することである」とレーニンは看破している。結局,マッハ主義とマルクス主義を和解させようとしたロシアのマッハ主義者たちは,反動的哲学教授を信頼してしまったために,斜面をころげおちてしまったことになる。レーニンは注意している。「化学,歴史,物理学の専門分野ではきわめて貴重な仕事をすることのできるこれらの教授たちのただ一人をも,いったん話が哲学のことになったら,ただの一語でも信じてはならない。なぜか? 事実にかんする専門研究の分野ではきわめて貴重な仕事をすることのできる経済学の教授のただ一人をも,いったん話が経済学の一般理論のことになったら,ただの一言でも信じてはならないのと,同じ理由によってである。というのは,経済学の一般理論は,近代社会では,認識論と同じように党派的な科学だからである。だいたいにおいて,経済学の教授たちは資本家階級の番頭以外のなにものでもなく,そして哲学の教授たちは,神学者の学識のある番頭以外のなにものでもない」(223)。
 つづけて,レーニンは,ルナチャルスキーが信仰主義に陥っていること,自然科学的唯物論者ではあるが史的唯物論者ではなかったヘッケルをマッハ主義者たちが批判したことを批判し,マルクス主義者フランツ・メーリングのヘッケルへの批判的評価を引用して,章を閉じている。

 全体の結論として,レーニンは,四つの観点から経験批判論の評価にとりかからねばならないと述べている。それは,第一に,この哲学の理論的基礎と弁証法的唯物論の理論的基礎とを比較すること,第二に,専門的哲学者たちの一小学派としての経験批判論の現代哲学上の諸学派のあいだの地位を規定すること,第三に,マッハ主義と最新の自然科学の一部門における一学派との結びつきを考慮に入れること,第四に,経験批判論の認識論的スコラ学の背後に,哲学における党派闘争,結局において現代社会の敵対的諸階級の傾向とイデオロギーを表現している闘争を見ること,である。最新の哲学は,2000年前と同様に党派的であるとレーニンは言う。闘っているのは,博識ぶった山師的な新しい呼び名や愚鈍な無党派性によっておおいかくされているが,唯物論と観念論の二党派である。観念論は,信仰主義の洗練され,みがきをかけられた形態にすぎない。この信仰主義は,完全に武装し,巨大な組織を思いのままに動かし,哲学的思考のほんのわずかの動揺をも自分の利益になるように利用し,大衆に着実にはたらきかけつづけている。「経験批判論の客観的・階級的役割は,一般に唯物論に,とくに史的唯物論に反対するその闘争において信仰主義者に忠勤をはげむことにまったく帰着している」(244)

終わりに

 現代唯物論を発展させるため,観念論的学者たちの批判の対象となってきたレーニンの『唯物論と経験批判論』をみてきた。レーニンの立場は明確であって,観念論とそれと唯物論の中間党派を,感覚の源泉は人間から独立した外部の客観的実在である等々という唯物論を首尾一貫するということであり,それを曖昧にしたり,逸脱することを容赦なく批判することである。現代のマッハ主義者の例として取り上げたユング派心理学者河合隼雄氏は,前掲書で,現象学とユング派心理学の融合を提唱しているばかりではなく,観念論に対しては哲学者バートランド・ラッセルの新実在論を対置して,唯物論でもなく観念論でもないという中間党派としての立場を明らかにしている。同時に,実際家としての臨床的立場を強調して科学的心理学を批判し,「実証主義」・プラグマティズムをも立場としていることを述べている。この河合氏の著作には内面と主観の強調(内在主義),実在論,実証主義,と,マッハ主義の「要素」が見事に揃っている。レーニンが対置した2000年以上にわたる唯物論と観念論の対立は,現代でも繰り返されている! 『唯物論と経験批判論』はまったく古くさくなどなっておらず,21世紀の今日においても,観念論と中間党派との哲学上認識論上の闘争において,意義を深めているのである。
 中沢新一氏は前掲書で,レーニンが首尾一貫して掲げたテーゼを正しいとしながら,同時にシェリング的な折衷をも試みるという誤りを犯している。唯物論者は,この本の革命的な部分を断固として擁護し評価するが,同時にそうでない部分,反動的な部分については,拒否し批判することを忘れない。中沢氏の試みは,ソ連・東欧体制崩壊後,急速に広まったレーニン主義清算の動きと事態を徹底的に利用しようとした反動的観念論者やブルジョアジーや宗教者たちの信仰主義と観念論を吹き込もうという策動の嵐の中で,レーニンの唯物論的テーゼを擁護した点は評価できる。しかし,和解できないものを和解させようとしたという点は誤っている。唯物論者としてのわれわれは,レーニンの唯物論を断固として擁護して,現代のあらゆる分野において,その立場にたつ観念論との闘いを継続していかなければならない。それは,唯物論の古い形態に固執するという保守的なものではなくて,唯物論の新しい形態を生み出すという豊かで多様な変革的諸実践を遂行することである。


    (了)




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