小泉政治批判とプロレタリア革命
流 広志
240号(2001年8月)所収
先の参議院選挙では,改選議席を上回り,過半数を越えた64議席を獲得した自民党が勝利し,改革を掲げた民主党と自由党は議席を増やしたが保守党だけが2議席を減らし,改革に反対した日本共産党と社会民主党が大幅に議席を減らした。マスコミは,この結果を,有権者が小泉政権の構造改革路線を支持したものだと伝えている。
森政権末には,内閣支持率が10%前後に,また自民党支持率が20%台に低下し,惨敗必至だったことが,自民党の地方党員の危機意識をかきたて,小泉政権を誕生させる原動力となった。そして小泉内閣の聖域なき構造改革路線が信認を得たというわけである。自民党は大勝したが,同時に反改革派と見られる橋本派が数を増やした。とりわけ比例代表では,郵政民営化反対の特定郵便局長会・建設業界・日本遺族会・日本医師会などの特定業種の利益代表が多く当選した。小泉首相は,選挙中,改革に反対して党内から足を引っ張る者がいれば自民党をぶっつぶすとまで叫び,また,予算編成過程で改革プランに反対するようであれば解散総選挙も辞さないとも言っているが,小泉改革推進派と反対派・消極派が共に伸びて対立激化が必至の情況になった。
小泉人気の正体の一つは景気対策の期待である。人々は,従来型の小渕政権のケインズ主義的な公共投資重点の景気対策があまり効果がないことがわかったので,構造改革による景気回復策に期待をかけたのである。それには,従来の経済政策と結びついて形作られてきた政・官・財癒着の利権構造を打破し,橋本派に象徴される利益誘導型の自民党政治を解体しなければならないので,自民党変革を内部から訴える小泉に期待したのである。そういう期待が人々の中に高まっていたことは昨年「加藤の乱」の際に明らかになっていた。実際には,小泉政権の聖域なき構造改革路線とは,金融独占資本の利益をはかるものであって,そのために誰がどれだけの犠牲を被るのかを決めるものである。
事前に60%台が予想されていた投票率が戦後三番目に低い52%に終わった。低投票率と無党派層の棄権は,小泉首相の構造改革にかけていいのかどうかの迷いが拡がっていることを意味する。その迷いに答えるためにも小泉改革政治の中身を批判・暴露したい。
小泉政権の構造改革の中身
小泉政権は,選挙中には抽象的スローガンを連呼し,断固たる姿勢の強調に終始したが,いくつかの具体策を出している。例えば補助教員5万人創出策である。それはイギリスのブレア政権がすでに実施している政策であるが,サッチャー政権以来,貧富の拡大で零落した人々の集中する都市貧困地区の教育問題の解決策として始まったものである。イギリスの場合,それは,貧困対策,階級政策,都市問題対策であった。特徴的なのは,コスト・効率を規準にし,教員の能力を厳しくチェックする仕組みをつくって管理強化し,民間を関与させている点などである。
それに対して小泉流構造改革路線では,補助教員5万人創出策は,構造改革に伴う失業者の一時的な受け皿としての雇用創出策であり,階級政策としての労働力処理策である。こういうセーフティネットをはっておけば,思い切ったリストラがやりやすくなるというわけである。それを公共サービス部門に負わせ,税金支出で賄おうというのである。ちょうど,日教組などからは30人学級実現のための教員増員要求が出されているし,民間人の教員登用が開放され,また学級崩壊問題などが喧伝される情況で,一時的な雇用の場としやすいということもあるのだろう。それは,待機児童の解消のための保育施設の増設や介護・福祉分野での雇用増などでも同じである。それらは,経済財政諮問会議の「骨太の方針」の「少子・高齢化への対応」という重点項目の現実化ではあるが,日経連会長の奥田があからさまに語ったように,構造改革に伴う大倒産・大リストラによる大失業の雇用の受け皿に公共サービス部門の拡大をあてようという雇用対策に他ならず,公共サービスを自らの階級利害のために使おうというわけである。
ブルジョアジーは,労働者大衆に犠牲を転嫁して利潤を確保したいのである。小渕政権の際の金融再生策では,痛みはリストラにあった労働者に重く嫁せられたが,銀行経営者の責任が追及されず,経営責任は不問に付された。小泉政権は,不良債権処理を急ぎ,2〜3年で最終処理するとしているから,その際に大倒産・大リストラによる大失業が発生するのは明らかである。だが,この問題で,経営責任を厳しく追及しようという姿勢は,「骨太の方針」にもないし,小泉政権内からも聞こえてこない。結局,銀行資本などの大資本は,責任をとる気も,自ら犠牲と痛みを率先して背負おうという気もない。大きな痛みを背負わされるのは,それ以外の部分であることは明白である。
財務省と経済財政諮問会議は,8月3日,「骨太の方針」で示された赤字国債発行額を30兆円以下に抑えるための方針の具体化として来年度予算から公共事業費を中心に5兆円を削減し,「骨太の方針」の予算の重点項目としてあげられた7分野に2兆円の予算を別枠で付け,差し引き3兆円の歳出削減をはかる方針を出した。削減対象には,聖域なく,社会保障費の伸び率抑制,政府開発援助(ODA),公共事業費,防衛費も含まれるという。今後,公共事業を通じて利益共同体を形成してきた族議員や業界団体の抵抗が本格化すると見られる。結局のところ,社会保障費も抑えられ,また公共事業費の削減で建設業界の再編・リストラは必至であり,地方農民の所得補填の機会も少なくなる。大資本は,合併や企業売却などの手段で生き延びる機会はあるが,合併は大抵大リストラを伴う。結局,節約道徳の実行と利潤のあがる産業育成が狙いなのであり,「痛み」は労働者や農民や大衆が重く被らされることになるのである。
靖国公式参拝問題に現れた小泉政治の反動・喜劇性
小泉首相は,「先の戦争で失われた尊い命のおかげで今日の日本の繁栄がある,それに敬意と感謝の真を捧げ,二度と戦争を起こさないことを誓いたい」という個人の信条から,8月15日に靖国神社に参拝したいと言った。なぜ8月15日なのか。それはこの日が日本帝国主義の敗戦の日であり,戦争責任が鋭く問われざるを得ない日だからである。戦後,極東軍事裁判によって裁かれた戦犯の中で最も罪が重く責任が大きいとされたA級戦犯合祀後の今,靖国公式参拝する狙いは,小泉首相自身が漏らしたように,「日本人は死ねばみんな仏になるので,死者には現世での責任は及ばない」として,戦犯の免罪をしてやることなのである。政府主催の戦没者追悼式典だけでは不足なのは,靖国神社には国のために殉じたとされた英霊が祭られているとされているためで,国益に貢献した者とそうではない者を区別して,霊にもその差をきわだたせたいからである。A級戦犯が合祀されている今,靖国神社に参拝すれば,日本国の代表である首相が,戦犯にも頭を下げて敬意と感謝を捧げることになり,それは戦犯の免罪につながることになる。
しかし,ことは小泉首相個人の信条のレベルではすまなくなっている。ASEAN外相会議の際の日中外相会談では中国外相からはっきりと「8月15日に,靖国神社に公式参拝すべきではない」と言われている。日韓外相会談でも同じであった。田中外相は,小泉首相に参拝中止を求めている。すでに,「新しい歴史教科書をつくる会」が執筆した扶桑社版歴史教科書問題で,韓国政府は,日本文化解禁の延期を決定し,これを批判する国会決議が採択され,自治体間の交流の中止が相次いでおり,強行すれば日中・日韓関係がより悪化することが必至である。
小泉首相は,日米同盟重視を掲げ,集団的自衛権行使の容認に踏み込みつつある。かれは,「戦後政治の総決算」の中曽根路線に接近しているとみられるが,当の中曽根元首相は,1985年の8月15日に靖国神社公式参拝を強行したが,内外の反発と批判の声によって,翌年には公式参拝中止に追い込まれた。その轍を再び踏もうというのだから,小泉首相は,歴史から教訓を汲む力がなく,政治思想の底が浅いことが知れる。
中曽根政権は,日米運命共同体路線をとり,一千カイリのシーレーン防衛論を叫び,日米の反ソ反共同盟強化のため,日米軍事協力体制の実戦化に踏み込もうとした。それは緊迫した世界情勢への対応であり,それなりに緊張感があった。ソ連・東欧でスターリン主義体制が崩壊し,中国が市場経済化している今日の情勢下では,日米同盟重視で実効的な日米軍事協力体制を整えようとする点では似ているが,「一度目は悲劇として二度目は喜劇として」という言葉を援用するなら,小泉首相の靖国問題への対応は中曽根の二番煎じであり,今度は喜劇にしかならない。ちょうどアメリカでレーガンの二番煎じがブッシュJrによって演じられている最中であり,それに見合っているとも言えるが。
小泉首相は,石原東京都知事と中曽根元首相と何度か会談し,意見交換を行っている。石原都知事は,もともと,日中国交回復の際には,中曽根と共に反田中派の青嵐会に属し,小泉首相と同じ森派(元福田派)であった。すでに昨年,石原東京都知事は,8月15日の靖国公式参拝を強行している。しかし都知事と首相では立場が異なる。たが,石原都知事と小泉首相は,それによって,過去の戦死者を追悼するという名目で,侵略戦争の免罪と未来における戦没者の存在を想定して,国のために死ぬことを美化しようとしている点は共通している。それは,戦前日本帝国主義の支配階級の利益のための侵略戦争にかり出されたことの責任から支配階級を解放し,新たな帝国主義利害のための戦死者を作り出す道へ踏み込むための地均しである。連立政府は,PKF業務への参加に踏み込もうとしており,また集団的自衛権行使の容認に踏みだそうとしているが,その場合には戦死者の出る可能性が高まることが予想される。ブルジョア国家のための戦没者の処遇問題はリアリティを増しているのである。ブルジョア国家のために殉じたとされた戦没者のみを「英霊」=神として祭り,軍国主義の精神的支柱となっている靖国神社は,そのための施設としてふさわしいために,石原都知事も小泉首相もそれに参拝したいのである。
プロレタリアートは,ブルジョア国家のための戦争に反対する立場から,また国際主義という点からも,靖国公式参拝問題に表れている日帝のための戦争へのプロレタリア大衆の動員策動と闘うことが必要である。
と同時にあらゆる戦争を一律に扱って,資本主義の下で戦争をなくせるかのような幻想を振りまく抽象的な平和主義を振り捨てなければならない。抽象的平和主義を叫んでいる世界の社会民主主義政党の多くは,湾岸戦争に参加し,多国籍軍を支持し,ユーゴ空爆に参加・協力・支持するなど,戦争に直接参加し加担し協力しているのであり,戦争を否定するどころか,人権のための戦争や民主主義のための戦争や平和のための戦争などの正しい正義の戦争とそうでない戦争を区別している。それに対して日本の社民の抽象的平和主義は,国家基本法である日本国憲法前文の国際紛争の武力解決拒否と第9条の抽象的平和主義と合致する特殊な存在になっている。日本国憲法は,第二インターのカウツキー主義国家を標榜しているようなもので,そのせいもあって,日本政治では,自民党にも社民思想が色濃く見られることになったのである。だから,自由主義派の標的が憲法に向かうのは必然といえる。だが革命的プロレタリアートは,抽象的平和主義では戦争をなくせないことを認識し,帝国主義的侵略・強盗戦争や反動的な戦争とプロレタリア的な革命戦争や民族解放戦争という進歩的戦争とを区別しなければならない。それは,戦争の政治的階級的性格,どの階級がどんな目的で戦争をやっているか,によって決まるのである。
また,「新しい歴史教科書をつくる会」が執筆した扶桑社版歴史教科書問題にも表れた右翼勢力がこの靖国問題を通じても勢力拡大をはかろうとうごめいているが,長年にわたる水面下での地道な反対運動や中国・韓国の抗議などによって,扶桑社版歴史教科書を採択するところは少なく,かれらの策動は基本的には打ち砕かれた。
かれらは,近代的諸制度と現存社会を賛美し,そのために,過去があったというふうに歴史を物語化して改ざんし,目の前の麗しい近代的理想郷を汚すものを悪として取り除こうする保守的近代主義者である。かれらは,今のブルジョア的近代社会のために靖国神社に祭られた戦没者は,ただの霊ではなく「英霊」なのであり,そのおかげで現代ブルジョア社会ができあがったとする歴史認識を強弁する。現存ブルジョア近代社会を褒めたたえ,それを歪め醜くする者たちに腹をたて,近代ブルジョア日本を批判する内外の声に過剰反応する。かれらの認識には,ただ近代化時代の理想像,産業資本主義時代の幻だけが真実であって,グローバリゼーションに向かっている現代資本主義の現実や金融独占資本の上層建築の圧倒的な規定力などは目に入らないか,都合よく無視されている。かれらの下では歴史は死んだ抽象にすぎないために物語化されるのである。そこでは歴史は自己賛美のための読み物でしかなく,現代の条件の下では,それはただの物語として一時的な楽しみのために消費されるのがふさわしいし,現にそういう扱いを受けている。そのイデオロギー的影響から労働者大衆を解放するために,かれらの思想を批判し闘っている運動体と人々を支援し武器を供給していくことは重要である。
ブルジョアジーのための構造改革路線の実際とその狙い
日経連は,8月2日,「緊急雇用対策プログラム」なるものをまとめ,政府に実現をせまることを決めた。その中身は,政府プランで530万人の新規雇用を創出することになっているが,時間がかかるので,それまでのつなぎ的な雇用対策が必要であるとして,一兆円の予算で100万人の雇用を確保するというものである。このプログラムの主な雇用策は,緊急地域雇用特別基金の創設(予算7000億円)であり,ゴミ分別収集パトロール隊,空店舗を利用した自営業支援,駐車違反取締や交通渋滞解消にあたる交通指導員,などに基金を支出して100万人の雇用を目指すという。結局,日帝ブルジョアジーは,ケインズ主義はだめだということでサッチャー主義やレーガン主義などの新保守主義・新自由主義への転換しかないと,構造改革路線にかけてはいるが,同時に階級闘争激化に脅えているのである。サッチャー主義・レーガン主義の下では,中間層の分解と大量の没落,零落が起きて,一部のマクロ経済指標が良くなったが,アメリカではロサンゼルス暴動が,イギリスではリバプール暴動などの都市暴動が起き,社会情勢が悪化した。すでに,7月時点で過去最悪の4.9% の失業率,390万の完全失業者を抱え,大失業時代に入っている情況で,さらに,失業者を大幅拡大させるようなことになれば,深刻な社会問題が発生し,階級闘争が激化することは必至である。それを一時的に公共サービス部門に引き受けさせ,税金で雇用して,緩和しようというのである。しかし,失業率4.9%は,職探しを諦めて職安に行っていない失業者ややむを得ずアルバイト・パートなどの臨時で働いている半失業者を含んでいない数字であり,実態はより深刻である。
また,銀行の抱える不良債権額は,発表の度に増えており,実際にはどれだけあるのか確定できず,景気が悪化すれば増えていく。「骨太の方針」は,IT国家化を掲げているが,現在,ソニー,富士通,松下電器などの大手半導体メーカーが業績不振に陥っている。民需主導どころか,光ファイバー網整備などの公的需要がより必要とされるようになっているのである。ブルジョアジーと政府は,構造改革と景気対策の折衷に傾きつつある。
斉藤氏は,前号の「学習ノート 経済学ウォッチング(8)」で,小泉政権が進めようとしている構造改革路線のブルジョア経済的な意味を暴露している。斉藤氏も(3)規制緩和 で指摘しているように,戦後日本政治は,これまで,民主主義派(経済計画派)と自由主義者の混淆,あるいは両者を折衷したサミュエルソン流の新古典派総合という立場で,基本的にはケインズ主義がメインであった。そして,税の配分をめぐって政・官・財の癒着した利権構造がつくられてきたのである。こういう構造は,国家独占資本主義的なものであった。こういう構造を前提として,ブルジョア的な計画経済体制が可能となっていたのである。それを,社会主義的と規定して攻撃してきた自由主義派は,しかし,ユートピア主義者,ブルジョア社会主義者である。自由主義的資本主義の時代はすでに過去のものであって,それはレーニンが言うように,現資本主義体制の下層部をなし,その上層に独占資本の体系がそびえているのである。それについて,斉藤氏は,田中直毅氏の年金制度の基本を社会的連帯から解放し,それを地域の市民活動・NPOにまかせるべきだという提言を引いて,「グローバル経済に対応した巨大債権国家としての日本の産業構造転換を一方で言いつつも,他方で国家ローカル部門での市民的連帯に言及するという,この二重構造こそ彼らが取りうるぎりぎりの選択肢であるということになる」(『火花』239号 15頁)ことを指摘している。田中氏は,401K(確定拠出型年金)の導入などによって,社会的連帯の重荷から年金制度を解放してやって,それを投資基金とすべきで,年金制度もまた資本の運動に完全包摂されるべきだと主張しているように思われる。そうなれば,社会的連帯は,地域の市民活動でやる以外にないが,そのための時間は,非労働時間を充てればよいという。では,その非労働時間はどこからくるのだろうか。
結局,自由主義派も,ただすべてを市場に委ねるという自由主義段階の古典派そのものに回帰するわけではなく,社会的連帯の必要をブルジョア利害から認めており,ただそれを公的サービスからボランティアの領域に移行させるなどの手段で確保しようというのである。自由主義からは,大統領選挙中にブッシュが掲げた「思いやりの保守主義」というブルジョア政治のためのブルジョア社会主義との妥協,折衷策が生み出されてきた。それによってブッシュ政権は,しばらくは60%台の高支持率を稼ぐことができた。だが,保守主義強硬路線をむき出しにした最近では支持率は50%前後に低迷している。
イギリスでは,サッチャー主義を基本的に引き継ぎつつ,効率的な福祉や教育改革地方分権などを進めるという「第三の道」を掲げるトニー・ブレア労働党政権が二期目に入っている。もともとイギリス労働党をはじめとするヨーロッパ社民は,資本主義のための国有化路線のブルジョア社会主義派でしかなかったが,それを現代化して,資本主義の悪い側面を取り除こうとしてあれこれの改良策を試している。持続可能な発展のための循環型社会なるものはそんなスローガンの一つである。それは,今の社会すなわち資本主義社会の持続的な発展を可能にするための節約道徳を実行しようというものであり,環境破壊の根本にある資本主義経済そのものには手を付けないで改革・改良で何とかなるかのような幻想を振りまくものにすぎない。このブルジョア的な自由主義的社会主義は,「あれこれの政治的変化ではなく,物質的生活諸関係,経済的諸関係の変化だけが,労働者階級の役に立ちうることを証明して,労働者階級にいかなる革命的運動をもきらわせるようにした。しかし,この社会主義は,物質的生活諸条件の変化ということを,革命的方途によってのみ可能なブルジョア的生産諸関係の廃止ということでは決してなくて,この生産諸関係の地盤のうえで行なわれ,それゆえ資本と賃労働の関係をすこしも変えないで,最良の場合でもブルジョアジーにその支配の費用を軽減して,その国家財政を簡素化する行政的諸改革であると理解する」(『共産党宣言』新日本文庫 86頁)。「第三の道」のブレア主義はブルジョア的労働運動と結びついたブルジョア社会主義である。日本でこの道をとっているのは,「連合」労働運動・民主党である。小泉政権は,より保守的なブッシュの「思いやりの保守主義」流のものに変えた上でそれを乗っ取った。しかし,この「ブルジョア社会主義は,それがたんなる言葉のあやとなるときにはじめてそれにふさわしい表現を得る」(同)のである。小泉政権の掲げるスローガンの抽象性や空疎さ,デマゴーグぶり,それらは金融資本的な幻想性の反映でもある。
しかしそういう危険をかぎ取った無党派層の多くが参議院選挙では棄権したと見られ,小泉政権の支持も徐々に低下している。世論の高支持率を頼みに構造改革路線を突き進もうとしている小泉政権にとっては厳しい情況になりつつある。また,数だけから言えば橋本派が勝ったわけで,今後そのことの重みが増してくることは必至である。小泉構造改革派と橋本派の対立が政界再編成の可能性をはらみつつ激化するだろうが,プロレタリアートは支配階級内部の対立に惑わされず,階級闘争を発展させていくことが必要である。
大資本のための小泉改革政治の隘路からはプロレタリア革命で脱するしかない
共産主義者は,プロレタリアートの中で,ブルジョアジーの階級敵対についての意識を呼び覚ますための活動をするし,そのためにもプロレタリアートの団結水準,社会性の高度化を実現するための党を建設していくし,それにふさわしい内容を作り出すために党の革命を継続していかなければならない。「階級闘争はすべて政治闘争である」(同上 39頁)。プロレタリア大衆は,自らを支配階級に高め,プロ独を実現して,旧生産関係−資本主義的生産関係を強制的に廃止し,商品・貨幣の廃絶にまで進まなければならない。ただ,商品・貨幣は,政府の強制ではなくせない。それには,社会諸関係を根本的に変革する社会革命が必要である。それは党とプロ独の課題である。プロ独は,ブルジョアジーの収奪・復活防止と国際主義的任務を重要任務とし,旧生産関係=資本主義的生産関係を強制的に廃止し,資本家を統制し,労働を組織し,生産・流通・消費を組織し,旧社会が残した膨大な無駄をなくし,徹底した民主主義=プロレタリア民主主義を実現して,社会主義転化を促進する。レーニンは,革命前のロシアでブルジョアジーが言葉だけの統制を主張しながらその実サボタージュによって迫りつつあった破局に対するプロレタリアートの革命的方策として,革命的民主主義国家による労働者統制を提起した。それは国家独占資本主義の破局的危機に対する緊急に必要な方策であった。
レーニンにとって,それは,社会主義への転化のための唯一の方策ではなかった。かれは,戦時共産主義からネップへの移行の際に,革命的な協同組合を通じての社会主義への道を提起した。それは,資本主義的な協同組合がそのまま社会主義の基礎だという意味ではなく,プロ独の基盤上の協同組合のことであり,革命的プロレタリアートと結合し,共産主義と結合した協同組合のことである。それは,ブルジョア的協同組合(自民党の支持基盤となっている農協など)やナチスのファシスト協同組合や労働者階級の政治闘争に反対する反動的な空想社会主義的協同組合等ではない革命的協同組合のことである。
プロ独は未来の理想を意味するだけではなく,現在の労働者大衆の諸運動の結合・構造・諸関係の内にその質と萌芽を含んでいる。したがって,現在の労働者大衆の諸運動と協同組合の関係において,この課題は現在の問題として問われる。党の質や中身も問われることはいうまでもない。革命党は,労働者大衆の諸運動と協同組合の結合と諸関係を,プロ独の質を発展させる意識性をもって高度化しなければならない。
その点で,プロ独は政府でないというマルクス主義のテーゼを曖昧にしたコミンテルン7回大会の統一戦線政府のスローガンは,社会革命の推進力としてのプロ独を消極化し,プロレタリア革命の中心任務を政府形態の問題にすりかえ,マルクス主義国家・権力概念を俗流化しブルジョア的に修正した。レーニンが晩年に強調したのは,プロレタリアートの権力奪取は始まりにすぎず,新しい条件の下で社会革命を発展させなければならないということである。レーニンは,スターリン派が「一国が単独で完全な社会主義へ移行できる」とした一国社会主義論を主張していないし,革命ロシアでの社会革命が国際革命を促進しインパクトを与えるという国際主義の見地をこの問題でも貫いたのである。
レーニンが,ロシア革命において,プロレタリアートの統制を実行したのは,それが社会主義に到達する唯一の積極的な革命的方策だったからではなかった。その意味ではそれは消極的な方策であった。それは,ブルジョアジーによって引き起こされた「さしせまる破局,それとどうたたかうか」という課題の解決が迫られた情況のためにその実行がまったなしに強いられたのである。だが同時にレーニンはそれを戦時国独資が社会主義の入り口として物質的に準備した諸条件を見逃さず,それを利用してプロレタリア革命実現をはかろうとし,一時は革命は成らないかもしれないという悲観的情況に追い込まれながら,革命を成功に導いた。ところが,今度は,戦時共産主義からただちに共産主義に移行できると信じる左派が現れた。レーニンは,その誤りを批判し訂正しなければならなかった。
こうしたことを踏まえつつ,ブルジョア政治を暴露し自国帝国主義を打倒する闘いを発展させると同時に,ブルジョア社会主義,小ブル社会主義,空想的・保守的・反動的社会主義,スターリニズム,ファシズム,ブルジョア労働運動,保守反動・右翼等を批判・暴露して,プロレタリア革命運動・実践的唯物論としての共産主義運動を発展させ,金融独占資本のための構造改革路線によって,プロレタリア大衆に,零落化,搾取強化,失業化,等々の攻撃を仕掛けているブルジョア階級との階級闘争を発展させ,労働者大衆の階級敵対の意識を発展させていかなければならない。小泉政権が,痛みへの覚悟や既存政治の打破を掲げ,それに世論の支持を必要としたために,無党派層をはじめ,女性や若者をも政治の場に引きずりこまざるをえなくなり,人々が政治意識を高めつつあることを好機として,かかる闘いを発展させることが必要である。
最後に,プロレタリア国際主義については『共産党宣言』からの引用で代えよう。
「ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの闘争は,その内容からではないが,その形式上,最初は民族的である。いずれの国のプロレタリアートも,当然まず自国のブルジョアジーをかたづけなければならない」(同上 42頁)。「労働者は祖国をもたない。彼らがもたないものを,それからとりあげることはできない。プロレタリアートは,まずもって政治支配をかちとって,民族的階級にみずからをたかめ,自分を民族として組織しなければならないという点では,ブルジョアジーの意味とはまったくちがうとはいえ,プロレタリアート自身やはり民族的である。/諸国民の国家的な分離と対立とは,ブルジョアジーの発展につれて,商業の自由や,世界市場や,工業生産とこれに対応する生活関係の一様化につれて,すでにしだいに消滅しつつある。/プロレタリアートの支配は,ますますこれを消滅させるであろう。すくなくとも文明諸国の共同行動が,プロレタリアートの解放の第一の条件の一つである/一個人が他の個人を搾取することがなくなれば,それに応じて一民族が他の民族を搾取することもなくなる。/一民族の内部の階級対立がなくなれば,民族と民族との間の敵対関係もまたなくなる」(同上 52頁)。