現代唯物論発展のために(6)
流 広志
238号(2001年6月)所収
楊枝氏の貨幣・信用・中央銀行論,管理通貨制論・国独資論批判
拙稿(3)で,マルクスの『経済学批判』の記述に,価値尺度機能,価格の度量標準機能,流通手段機能の混同があるとする『貨幣・信用・中央銀行』(同文舘)での楊枝嗣朗氏の見解に注意しなければならないと述べた。そこで楊枝氏の見解を検討しておきたい。
楊枝氏が批判する対象は,国家独占資本主義論に概ね共通する金本位制から管理通貨制度への移行によって独占資本主義から国家独占資本主義へ転化したとする見解の基礎にある貨幣論・信用論・銀行論である。楊枝氏は前掲書の序で「不換銀行券を不換国家紙幣とみる支配的見解は,銀行の本質的機能を遊休貨幣資本の集中・融通媒介とし,銀行券の信用貨幣性や流通の根拠をその金兌換に求めた。したがって不換制への移行は,銀行券の信用貨幣性の否定,自立的流通根拠の喪失を意味するため,その流通根拠は国家の通用強制に求められたのである。銀行券と国家紙幣は同一視され,商業銀行とその他の金融機関との区別は消え去る」(D)と管理通貨制度論を批判する。さらに,「論者によれば,管理通貨制度は,金融資本=独占体の蓄積の限界を不換制への転換により打開するものと位置づけられる。金融資本の蓄積限界(独占価格,過剰生産,生産制限,大衆消費力の削減・狭隘化,最終実現の矛盾の激化)→兌換制から不換制への転換→外部貨幣たる不換中央銀行通貨の供給・公信用・財政スペンディング→有効需要の創出・最終実現制約要因の排除→金融資本の蓄積限界の打開等々。/自動復元力を喪失した現代資本主義は,その再生産再開を起動する要因を不換中央銀行券の発行・公信用(国債)・財政スペンディングの関連に求め,経済外的に与えられた名目的過剰購買力によって,実現条件の打開をはかり,インフレーションを伴いながらも恐慌の発生を回避しつつ経済成長をなしとげてきたとする。金融市場においては,外生的に創出された過剰貨幣資本(過剰流動性)の圧力に押されて,利子生み資本は銀行信用の新展開たるターム・ローン,消費者信用,レンタル,リース等の新たな運動領域を開拓し,金融媒介機関をも生む。他方,企業段階では,国家のスペンディング政策で保障される独占利潤の獲得,国債価格支持のための低金利政策→証券価格の上昇→配当性向の低下→株式の時価発行→内部留保の増大→自己金融現象が発生する。戦後の高度成長は,この国家機構の創出する過剰流動性を基礎にした民間信用の拡張から説明されている。これはまさに,貨幣・金融・国家政策の経済・生産に対する主導性の主張であ」(D〜E)り,「価値形態論における相対的価値形態にある商品が「能動的役割を演じ」,等価形態にある商品が「受動的役割を演ずる」というもっとも基本的な論点を忘却したものであ」(F)り,「利子生み資本が産業資本の運動から分化したその副次的・派生的形態であるという認識は,その理論体系から脱落する。支配的な今日の貨幣・信用論は,不換銀行券の信用貨幣性の深い意味を考察することなく,貨幣流通の諸法則の支配を否定することで,「信用制度の否定」論まで行きつき,価値論・貨幣論を放擲することとなった」(同上)と批判する。
楊枝氏は,主に宇野経済学派をターゲットにして,国家独占資本主義段階における国家介入による資本主義経済法則の自律性喪失というシェーマを根本から打ち砕く意図をもって同書においてまず貨幣論を取り上げ,『経済学批判』の鋳貨論での価値尺度機能,価格度量標準機能,流通手段機能の混同を指摘し,それを無批判に受け継ぐ貨幣論を批判した。
楊枝氏は,兌換停止した中央銀行券を不換紙幣とみなし,その流通根拠を国家の強制通用力,排他的通用強制にもとめる見解はいまや「常識」とすらされているが,その発想は管理通貨制度論の基礎理論となっていると指摘し,生産の過剰と資本の過剰→兌換停止→公信用→スペンディング政策・有効需要の創出→銀行券の減価・インフレーション→通貨管理,換言すれば,有効需要創出のためのマネー・サプライがインフレを引き起こすため,金融政策による通貨管理を必要とするというのが「管理通貨制度」論の核心であろうが,「そこでは名目的物価騰貴と実質的物価騰貴の区別,貨幣の支払手段機能と流通手段機能の区別も通貨の発行経路の相違も意識されることなく,一切の通貨供給の拡大が通貨の減価に結びつくとみられ,貨幣数量説がマルクス貨幣論の衣を着せて展開されている」(同上 27〜28頁,以下ページ数のみ)と批判している。
楊枝氏はさらに信用論・銀行論・中央銀行論へと論を進める。氏は,宇野派に見られる商業信用からの銀行信用への上向から信用貨幣の成立を説く主張を批判した上で,「貨幣取扱業務を産業資本や商品取扱資本が自ら行っている段階では,諸支払の完了は,彼等が行う現身の貨幣授受の時点であろうが,貨幣取扱業務が貨幣取扱業に集中され当座預金=決済性預金が形成されてくると,貨幣支払,受納,決済等がそれら信用貨幣の流通を介して行われる。すると,当然にそれらでの支払,決済が何時の時点で完了したとみなすかが問題となってこよう。そこで当座預金(=決済性預金)の振替の時点や,小切手や預金受領証での支払後の一定時間経過時点で,支払が完了したとみなす社会的慣行が必然的に形成されてこざるをえないであろう。貨幣取扱業務の社会的集中(→当座勘定業務の生成)に伴うこれら信用貨幣の流通は,商業手形の流通とは異なって,これら信用貨幣に「絶対的貨幣機能」を与えるという社会規範を形成せしめるのである。貨幣取扱業のもとでの預金の振替,小切手や貨幣取扱業者の一覧払約束手形での支払は,その支払から一定時間経過以降,たとえ債権者が貨幣取扱業者から現実に貨幣を入手しえなくとも,それらの支払を現実の支払とみなし,債権者の遡及を認めず,債務者を免責する慣行を生み出すのである。明らかにそれは受取人が現実に支払われないかぎり,債務者や裏書人が免責されない商業手形の場合と異なるし,商業手形での相殺にみられる絶対的貨幣機能とも異なる。/信用貨幣の「絶対的貨幣機能」=信用の貨幣化(→支払決済システムの生成)こそが,利子生み資本範疇の成立を前提に,信用の貸付=信用創造(→信用の利子生み資本化)を,すなわち貨幣取扱業務の銀行業への転化を不可避とするのである」(256〜257頁)という見解を対置している。
氏は,中央銀行の成立と発券集中の問題は,中央銀行が「国民的信用」をもっているので,経済・国家・法の原理的連関と国家の信用制度への介入とその形態が解明されねばならず,それから,「最後の貸手」「銀行の銀行」という中央銀行の機能規定という国家意志が経済社会のいかなる規範関係によって与えられ,形成されるのかが解明されなければならないが,それは支払決済システムの生成にかかわる,という。「資本制社会の経済的運動法則が国家権力の介入によって生成したものではなく,近代的私的所有の矛盾の展開によって形成されたことは自明であろうが,しかし,近代市民社会が国家を不可避に生み落とさざるをえなかったことは経済法則の展開が国家の存在を前提せざるをえないことを意味しているのであり,経済と国家の連関を明確にせずして資本運動の全体をとらえきれない」(279頁)ので,その介入の原理,形態は国家生成の論理によって明らかになるが,それを川島武宜,沼田稲次郎,藤田勇,渡辺洋三氏らの所説に依拠しつつ解明したいとして,まず資本制経済社会における国家生成の根拠は,近代的所有権の矛盾,相克にある,という。
近代的所有権の富の実体である商品は社会的・経済的関係としての交換を前提とするが,その商品交換関係の展開は,@商品は商品所有者の意志支配下にあるものとして私的所有権の客体となり,A私的所有の社会的性格を実現する交換は,商品所有者の意志=契約に媒介されて成立するところの,平和的な,一切の暴力を排除した関係であり,B商品所有者は主体的な自由意志の担い手としての権利主体となる,というもっとも基本的な社会規範関係を生みだす。所有権の絶対,契約自由の原則,独立,自由,平等な人格という規範ならびに,そこから派生する多様な社会規範は,社会の物質代謝の一切が商品生産,交換を媒介に遂行されてくるにつれて,市民社会のすみずみにまで及び,「市民社会自らの中にある社会的強制」として,経済社会の構成員の行為規範となって立ちあらわれる。彼らがそれらの行為規範に基づき,社会経済的関係をとりむすぶことが社会そのものの存立,発展を支え,同時に商品所有者としての自己自身の生産ならびに所有権をつうじての精神の自由を保障することから,いまや,それら社会規範の維持が商品所有者の共同利害と観念されるに至る。その結果,経済社会は第一義的には構成員の自由意志によって存立する私的自治社会として登場する(280頁)。
近代市民社会は,商品所有者として,生産手段の非所有者だが労働力商品の所有者たる労働者をも自由・独立の権利主体にした。労働者は,主体的精神の獲得を媒介に,共同利害として定立された社会規範を幻想の共同利害として,「支配と強制の媒介者,基礎」と把握せしめる。ところが,生産過程では,生産関係の実態によって,近代的所有権の内的矛盾,抽象性と欺瞞性が白日のもとにさらされる。労働力が人格から切り離されることの必然性と労働力商品の消費過程においての資本家と労働者の関係,そこでの規律・規範が搾取関係をひめた支配・従属関係にならざるをえないために,近代的所有権の自由な意識は対立的なモメントを内包する。規範意識の階級的分裂を媒介に,商人社会的人間関係を基盤に形成された社会規範=虚偽的共同利害は,近代的所有権の矛盾,相克からの恐慌等の経済危機に際して崩壊の可能性と必然性に直面し,市民社会の運動法則のノーマルな展開自体が社会規範の侵害→賃労働と資本の関係の破壊をうみだすこととなる。かくして近代市民社会は,このような社会規範の侵害→近代的所有権の侵害→商品所有者の人格,精神の自由の侵害に対し,社会規範=内生的に形成された社会的強制を暴力をもって固定,維持せんとする。ここに国家生成の根拠が求められる。市民社会は暴力を許容しない権利・義務関係の私的自治の社会であった。そこで市民社会はその外に,共同利害の維持という名目のため,市民の「合意」という擬制のもとに,国家=権力機構を生み落とし,国家意志をつうじて社会規範を法規範として固定する。法規範が社会規範=自生的な社会的強制の国家レベルでの再生産,固定であることから,国家権力の発動の規準,内実,その形態は,国家生成の根拠に規定され,市民社会に形成される経済的・社会的関係から与えられる(280〜281頁)。かかる「経済的諸関係の範型の国家権力による規範化」によって経済法則はその法則的展開の場を獲得する。近代市民社会の自律的秩序や私的自治的性格もそのような脈絡で理解されるべきであり,したがって経済法則と国家権力の存在は対立,矛盾するものではなく,経済過程への国家介入は経済法則の貫徹をゆがめるものではなく,その法則的展開の場を保障するもの(282頁)だというのである。
楊枝氏は,『資本論』の中央銀行論が,中央銀行が一方では「国家信用」を有する官的性格をもち,他方では全国民の後ろ盾をもつ「国民的信用」=民的性格をもつ半官半民の存在であるとしていることから,「国民的信用」「国家信用」の理解が鍵を握るという。氏は,「国民的信用」を考える上で,イングランド,ウェールズ,スコットランド,アメリカにおいて貨幣恐慌に見舞われた経済社会が創り上げた支払決済システムの全面崩壊を回避し支払決済システム→信用制度を維持せんとする共同意志,共同行動を自生的に生みだした事実に注目し,いまだ理論的に整理しえていないと断った上で,「「国民的信用」とは市民社会の非常事態である恐慌下において,支払決済システム→信用制度を支えんとする諸資本の自然発生的な共同意志,その共同の規範意識に支えられ,「市民社会自らの中にある社会的強制」を伴う共同行為ととらえられないであろうか。とするならば中央銀行の有する「国家信用」は,信用=債務の貨幣化なる社会規範を論理的・歴史的前提とし,一定の経済的・社会的規範として成立した「国民的信用」の,国家レベルでの再生産,法規範化といえよう。ここに支払決済システムの確立をみるのである。地方的・国民的な信用制度の組織化,連動機構の成立を前提に,恐慌下の対内的・対外的金流出に見舞われた諸資本は,叙上の共同意志,共同行動を組織し,それが市民社会の共同利害として国家意志にまで高められ,「国家信用」となり,改めて国家の側から信用制度に一般的に強制されるのである(287頁)という。
中央銀行の存在態様,機能規定は,資本所有の私的性格の枠組みにおいて構成されている。国家の信用制度への介入がなされうるのは経済社会に形成された「国民的信用」を前提しうるためである。あくまで,経済社会が国家に「最後の貸し手」という機能規定を与えたのであった。しかも,その機能は国家紙幣の発行といった権利形態や一方的関係行為の発動といった形態をとらないで,債権・債務関係の枠内で形成された「国民的信用」に規定され,あくまで,信用貨幣の発行という信用関係をまといながら,信用関係をとおして発動されるので,「国家信用」発動の機関が中央銀行とされるのである。また中央銀行券の兌換規定が停止されようと,銀行券が不換国家紙幣化するわけではなく,中央銀行も大蔵省の一部局になるわけではない。「国家信用」という一般的強制通用力を有するがゆえに中央銀行券は法貨規定を与えられているとはいえ,「国民的信用」が資本所有の私的性格に立脚するがゆえに,その法貨規定も不換国家紙幣のそれと同一視できないし,中央銀行の半官半民的性格も「国民的信用」と「国家信用」とのこのような関連において理解されるべきだという。
中央銀行が恐慌期の「国民的信用」→「国家信用」から導かれたために,中央銀行は,直接能動的,日常的に金融市場で商業銀行と競合して取引を行うことはなく,ただ信用の逼迫期あるいは緊急時に市場の必要とするかぎりにおいて信用を拡大あるいは収縮するのであり,ここに金利政策が重視され,商業銀行が金融政策のトランスミッション・ベルトとなる。信用制度の全国的規模での組織化,連動の進展により,機能資本の諸取引,手形割引市場,証券市場,外国為替市場での取引の圧倒的部分が商業(普通)銀行の当座勘定を媒介にして遂行されるようになってくる(→支払決済システムの生成)と,恐慌期,これら金融市場での信用の動揺,震撼は,支払決済システムの動揺を結果せざるをえないことから,中央銀行は金融市場の動揺,逼迫に対処するため,信用関係の国民的凝集点たる銀行制度に対し,信用関係をとおして支払決済手段(中央銀行預け金勘定での預金創造)を供給し,金融市場での多様な信用関係に入る。中央銀行の金融政策を手形割引市場の手形再割引関係の関連のみから考えられてはならない。中央銀行は「銀行の銀行」となる。以上のように金本位制下の中央銀行生成の必然性,中央銀行の機能規定,行動様式をとらえるならば,「管理通貨制度」も,そのよって立つ経済・金融制度の動向に規定されたものであり,貨幣流通法則の支配が健在であることはいうまでもない(289〜290頁)。
資本主義の自律性喪失を前提とする管理通貨制度・国家独占資本主義論を対象にした楊枝氏の論はここまでであり,管理通貨制度論をつぎの研究課題であるとしている。なお,楊枝氏の展開する国家論その他の点でなお議論の余地があるだろうし,独占や金融独占資本主義,帝国主義の問題がまだ論じられていないので,それとの関係がこの論の展開とどう関わってくるのかという論点が残る。だが宇野弘蔵氏がすでに『経済原論』(岩波全書)で主張する国家政策による貨幣制度の変更が銀行券の国家紙幣化をもたらすという見解や国独資論が主張する管理通貨制下の貨幣流通法則の国家紙幣流通法則専一支配化論などを覆したのは見事である。国独資論を帝国主義=独占資本主義論との関係でとらえ直し,マルクス主義的な基礎の下にすえ直さなければならない。
ここで,拙稿(2)で課題とした日本銀行の通貨供給量拡大策について述べておきたい。今年5月,日銀は,3月に量的緩和措置によって金融機関が日銀の当座預金に預ける額を5兆円に増やした日銀の当座預金残高をさらに6兆2千億円に増やす公開市場操作を行った。毎日新聞によれば,金融機関が日銀当座預金に準備預金を1カ月かけて積み上げる最終日に,一部の金融機関で積み立てが遅れ,最終日の駆け込みで短期金融市場の資金需要が高まったため,資金供給を拡大し,短期期金利の指標になる無担保翌日物の金利は,加重平均で前日比0.14ポイント高い0.16%に上昇した。ここで預金が債権によっても行われることに注意。その上で,日銀は,売り戻し条件付きで短期国債を金融機関から買い上げる「短期国債現先買いオペ」と手形を買い上げる「手形買いオペ」の資金供給オペレーションによって,金融機関の資金量を増加させたわけである。3月の量的緩和措置の結果,日銀の3月期決算では過去最大の115兆円の資産残高となり,自己資本比率が8.98%に低下した。債権の売り買いといっても,最終的には債務と相殺されるものであるから,この日銀資産の膨張は,金融機関の抱える不良債権の相殺に要する信用貨幣の量の膨大さを表している。それは,多くの企業の信用によって支えられている割合がきわめて高まっている事実を示している。国債・諸債権などの日銀資産の膨張は,信用崩壊,貨幣恐慌が勃発した場合の影響の巨大さを暗示する。その作用の凄さは4大証券の一つであった山一証券がコール市場で信用を失い急速に倒産に追い込まれたことが垣間みせた。
帝国主義=独占資本主義段階の一段としての国家独占資本主義論について
レーニンによれば,国家独占資本主義は,自由競争的資本主義に代わって20世紀初頭に成立した帝国主義・独占資本主義が,戦争遂行のために生産や物資,貨幣,労働力を統制することによってよって生まれた。かれは,それを,社会主義へのもっとも完全な物質的準備であり,社会主義の入り口であり,それと社会主義とよばれる一段のあいだにはどんな中間の段もないような歴史の階段の一段であると述べている(『さしせまる破局,それとどうたたかうか』)。かれは,全般的労働義務制は,最新の独占資本主義にもとづいて一歩をすすめたものであり,一定の全体的な計画に従って経済生活全体を規制する方向への一歩であり,人民の労働の節約への,資本主義による人民の労働の無駄遣いを阻止する方向への一歩であるとした上で,ドイツのユンカー(地主)と資本家の下では全般的労働義務制が労働者の軍事的苦役にしかならないが,革命的民主主義国家の下での,労働者・兵士・農民代表ソヴィエトによって実施され,規制され,指導される労働義務制は,まだ社会主義ではないが,もはや資本主義ではない,と述べている。かれはそれを戦時国家独占資本主義と呼び,戦争という要因を重視している。
レーニンは『帝国主義論』において帝国主義=独占資本主義の統制の側面を強調したが,同時に「独占は,競争から成長しながらも,自由競争を排除せず,自由競争のうえにこれとならんで存在し,そのことによって幾多のとくに先鋭で激烈な矛盾,あつれき,衝突を生みだす」(国民文庫 114〜115頁)ことを指摘している。ところが,国独資論者は,1929年にアメリカから始まった世界大恐慌をきっかけにして,独占資本主義諸国家が相次いで金兌換制から管理通貨制に移行したことを決定的な契機にして,国家が金融資本の蓄積機構を補強する介入を常態化して独占資本主義段階の特殊な段階=国家独占資本主義が確立したとする。例えば向坂派とみられる大間知啓輔氏は,大恐慌の契機を重視し,「国家独占資本主義の経済的本質からみて重要なことは,危機に対処して国家が不換銀行券を増減する機構を掌握しながら,資本の循環過程に介入し,これを補強し,剰余価値の生産と実現をうながす点にある」(『国家独占資本主義論』ミネルヴァ書房,1969年 44頁)といっている。
レーニンが『帝国主義論』で強調しているのは,金融独占資本の成立が国家を規定するという資本の側からする国家へのその性質の反映であり,国独資論でも同じである。前者については『帝国主義論』にわかりやすい例がある。「貯蓄金庫は預金にたいして四%とか四・二五%とかいう利子を支払うので,その資本の「有利な」投下場所をさがし,手形業務,抵当貸付業務その他の業務に乗りださなくてはならない。銀行と貯蓄金庫との境界は「しだいに消滅しつつある」。たとえば,ボーフムやエルフルトの商業会議所は,貯蓄金庫が手形割引のような「純粋の」銀行業務を営むのを「禁止する」ことを要求し,また郵便局の「銀行」活動を制限することを要求している。銀行の有力者たちは,予期しない方向から国家的独占が彼らに忍びよってくるのではないかとおそれているかのようである。しかし,いうまでもなく,その危惧は,いってみれば同一官庁内の二人の課長の競争以上のものではない。なぜなら,一方からすれば,貯蓄金庫の幾十億の資本を自由にするのは,結局は,銀行資本のあの同じ巨頭たちだからであり,他方からすれば,資本主義社会における国家的独占は,あれこれの産業部門の破産に瀕している百万長者のための,所得を高めたり確実にしたりする手段にすぎないからである」(同上 49〜50頁)。国独資については,ドイツで戦争のための国家統制を規定しているのはユンカー(地主)と資本家であると述べている。
『帝国主義論』であげられている帝国主義段階の特徴は,生産の集積→独占,金融資本ー金融寡頭制の支配,資本輸出,資本家の国際的独占体の発展,資本主義列強による地球の領土的分割の完了,の五つの指標に表される。国独資論者は,それへの転化を国家による経済管理,経済統制,国家が介したシンジケート,トラスト,シンジケートの組織化や国有化などの国家独占の組織化,生産・資源の統制,分配の統制,管理通貨制をテコとした金融統制,等々,を指標とする。これらの諸現象をそれとして認めるのは当然だが,それは社会経済の矛盾を解明する弁証法的解剖によって基礎づけられなければならない。国独資論者の国独資になると資本主義の自律性が失われ,国家が全能の能動的経済主体に化すかのような主張は誤りである。
マルクスは,『資本論』第三巻第5篇第27章 資本主義的生産における信用の役割 で,信用の発展にともなう株式会社の形成によって,生産規模の巨大な拡張,個別資本によって不可能であった諸企業と政府企業であった諸企業が会社企業となること,社会的生産様式の上に立つ生産手段と労働力の社会的集積を前提とする資本が個人資本と対立した社会資本(直接に結合した諸個人の資本)の形態をとり個人企業にたいする社会企業として現われること,機能資本家が他人資本のたんなる管理者に転化しまた資本所有者がたんなる貨幣資本家に転化して貨幣資本家の受け取る利潤が配当という利子形態でのみ,すなわち資本所有の報酬としてのみ受け取られること,機能と資本所有が分離されるが,それは,資本主義的生産様式の限界の下での私的所有の止揚であり,資本が生産者の所有である結合された生産者の所有,直接の社会有,への再転化の,また,資本所有と結合されていた再生産過程における一切の機能の結合生産者の単なる諸機能への,社会的諸機能への,再転化の,一通過点である,と言っている。注意されるべきは,ここでは利潤が純粋に利子形態をとるので,こういう諸企業は利子のみをもたらすばあいでも可能であり,したがって,それは一般的利潤率の低下を阻止する諸原因の一つだということである。なぜなら,不変資本が可変資本にたいして巨大な比率をなし,資本の有機的構成がきわめて高いこれらの諸企業は,必ずしも一般的利潤率の均等化に参加しないからである。「これは,資本主義的生産様式そのものの内部における資本主義的生産様式の止揚であり,したがって自己自身を止揚する矛盾であって,それは明らかに一つの新たな生産形態への単なる通過点として表示される。かかる矛盾として,次にそれは現象においても表示される。それは若干の部面では独占を作り出し,したがって,国家の干渉を誘発する。それは一つの新たな金融貴族を,発起人,創立人,単に名目的な重役の態容における新たな種類の寄生虫を,会社創立,株式発行,株式取引にかんする山師と詐欺との全制度を,再生産する。それは私的所有の統制を欠く私的生産である」(岩波文庫9分冊 178頁)。ここでマルクスは独占が国家の干渉を誘発するとだけ述べている。
株式会社においては,機能資本家が他人資本を管理する単なる一経営者に転化しその俸給は労働市場で価格調整される一種の熟練労働の単なる労働賃金となり,貨幣資本家が単なる資本所有者に転化し,その総利潤(利子プラス企業者利得)を単なる利子の形態でのみ,資本所有の報酬としてのみ受け取る。国家の介入を誘発するのは,資本主義的生産様式の内部における資本主義的生産様式の止揚,自己自身を止揚する矛盾,が,新たな生産形態への単なる通過点として表示する矛盾の現象における表示であるところの独占である。すなわち,資本主義的生産様式の基礎の上での,私的資本にたいする社会資本,私的企業にたいする社会企業,私的所有にたいする社会有,等々の矛盾と同じく私的競争の直接的な対立物である独占を生みだす生産の社会化の発展が国家の介入を誘発するのである。
生産の社会化の発展は,独占資本主義段階の特徴である。独占資本主義段階は,生産の集積が独占を生みだし,それがカルテル,シンジケート,トラストを生みだし,国際的な資本家団体の結成とそれらによる世界市場をめぐる闘争が発展し,植民政策が独占をさらに促進し,産業資本と銀行資本の融合によって金融資本が生まれ,金融資本は金融独占資本となって金融寡頭制を生みだした段階である。レーニンは帝国主義を「死滅しつつある資本主義」であり,何かへの過渡である,なぜなら,その基礎には変化しつつある社会的生産関係があるからである,といっている。「大企業が巨大企業になり,大量の資料の精密な計算にもとづいて,第一次原料の供給を,幾千万の住民にとって必要な総量の3分の2とか4分の3とかを計画的に組織化するとき,またときには幾百あるいは幾先ヴェルスタもはなれている最も便利な生産地点への原料の輸送が系統的に組織されるとき,幾多の種類の完成品が得られるまでの一貫した原料加工の段階が一個の中心から管理されるとき,またこれらの生産物の分配が幾千万,幾億人の消費者のあいだに単一の計画にしたがっておこなわれるとき(アメリカの「石油トラスト」によるアメリカとドイツでの石油の販売)ーそのときには,われわれの目のまえにあるのはけっして単純な「絡みあい」ではなく,生産の社会化であること,私経済的関係と私的所有の関係は,もはやその内容にふさわしくない外皮をなすこと,そしてこの外皮は,その除去を人為的に引きのばされても,不可避的に腐敗せざるをえないこと,(最悪の場合に日和見主義の腫れ物の治療が長びくと)その外皮も比較的長いあいだ腐敗したままの状態にとどまりかねないが,しかしそれでもやはり不可避的に除去されるであろうことが,明白になるのである」(同上 164頁)。
国独資論は,第一次世界大戦と世界大恐慌の経験を独占資本主義の国家独占資本主義への転化を推進した要因として捉えている。だが,独占資本主義は,自由競争を完全に排除するものではなく,それらの対立を激化するだけである。独占は国家の介入を誘発するが,それは資本主義的生産様式の内部でのそれ自体の止揚であって,内在的矛盾を現象として表示するにすぎない。この矛盾は,国独占資下においても当然作用するはずである。ところがその反対を主張するマルクス主義者があった。例えばブハーリンは『過渡期経済論』で,資本主義的な組織化過程を想定して,カルテル,シンジケートなどの組織化から,国家が共同所有者や大株主になる過渡的な型から国家的独占へ,そしてより高度な組織化の型である国家資本主義へ転化させる金融資本主義の傾向を促進する国家資本主義的発展の一般傾向が作用するという。「金融資本主義の生産関係の再編成は,国家資本主義的な組織化への道を進んだのであり,それとともに商品市場が廃止され,貨幣が計算単位に転化され,生産が国家的な規模に組織化され,あらゆる「国民経済」機構が世界的競争の目的に,・・・・とりわけ戦争目的に従属せしめられた」(現代思潮社,43頁)。かれは,金融資本主義の傾向の発展にすぎないはずの国家資本主義下での,商品市場の廃止,貨幣の計算貨幣機能への特化,国家の全能者への転化,を結論してしまい,いわゆる「組織された資本主義」による資本主義的諸矛盾の消滅という主張に事実上おちいった。かれは,マイナス拡大再生産,資本主義の全般的(一般的)危機という資本主義崩壊の「自然法則」をもちだしたが,現実の前に破産した。
大間知氏は,前掲書で,@第一次大戦とその戦後処理の時期(1914−24年),第一次大戦により,参戦諸国は金本位制を離脱し,戦時国家独占資本主義となったが,統制経済は,臨時的で,西欧諸国にかぎられていた,A1930年代前半,社会主義国の成立で,社会主義運動は影響をうけるが,資本主義は相対的安定期を迎え,金本位制に復帰する,国家による経済過程の介入はまだ広範かつ強力ではない,B1930年代前半,1929−33年世界大恐慌とそれに続く不況期に世界のすべての国は終局的に管理通貨制へ移行し,これにより,国家は支出,投融資,金融政策,貿易管理など資本の循環過程に広範かつ強力に介入する手段を獲得し,古典的な独占資本主義から国家独占資本主義への移行を完了した,としている。そして,国独資は独占資本主義の延命のためと革命抑圧のためにとる体制だが,社会主義圏の成立を押さえられず弱体化し,全般的危機が深化していると述べる。前掲書239頁で,「国家独占資本主義は,革命の抑圧のためにとられる独占資本主義の体制であるが,・・・・恐慌,合理化,革命を抑圧するための戦争,インフレーション,増税,民主主義的権利の剥奪,議会制民主主義の形骸化はさけられない。国家独占資本主義の抑圧政策は,労働者階級のみならず,中間諸階層にまでおよぶ」ので,「国家独占資本主義と対決しつつ,平和と民主主義を要求する運動,窮乏化に反抗する運動は,労働者階級を中核とした反体制連合戦線にまで高まらざるをえない。・・・・国家独占資本主義は,危機を克服できず,歴史的にみれば独占資本主義の最後の局面であり,社会主義の前夜なのである」と,その抑圧への対決点を,窮乏化への反抗である経済闘争と平和と民主主義を要求する政治闘争に求め,全般的危機を前提に,国独資政策に反対する連合戦線による一般的な平和と民主主義,生活向上の要求を対置した。
それにたいしてレーニンは,『帝国主義論』と『さしせまる破局,それとどうたたかうか』において,マルクスが信用の発展と結びついた資本主義的株式企業と協同組合企業とを資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡的形態と示した弁証法を現実に適用して,独占資本主義が過渡を示すその形態を明らかにすることによって,プロレタリア革命の具体的任務を指し示し,帝国主義戦争に自国帝国主義打倒の内乱を対置し,戦時国家独占主義には,革命的民主主義国家を対置した。レーニンは,独占資本主義,国家独占資本主義が,社会主義の物質的な準備,独占体が実現したブルジョア的な大規模な企業計画の計算形態や銀行の記帳と管理の形態,信用による貨幣のその代理への置き換えの発展,国際トラストや国際シンジケートや国際カルテルの発展が示した国際的な協同組合企業の発展の可能性,等々の諸々の過渡形態を示していることに着目してそれを具体的に示し,結合生産様式への前進を促進するための転化形態を提起して,国際共産主義運動を発展させ,帝国主義打倒とプロレタリア革命を成功に導く針路を明らかにし,また資本家団体の結成とそれらによる世界市場の分割戦の激化を国際的に連合した金融資本による世界の共同搾取によって置き換える超帝国主義政策を提唱しあらゆる戦争を同列に扱って戦争一般を否定する資本主義下の恒久平和という意味での平和と民主主義を対置したカウツキー主義を批判し,帝国主義が超過利潤によって労働組合指導者やブルジョア化した労働者=「労働貴族」を労働運動での手先としていることを明らかにした。
国独資論の基礎に,管理通貨制をメルクマールとして成立した国独資下の政策的介入による貨幣流通法則の変更(専一的貨幣流通法則の支配)という,マルクスが明らかにした貨幣流通法則の否定や一面化があることが,楊枝氏によって明らかにされた。それは,レーニンの独占資本主義論でも国独資論でも主張されていない。例えば『帝国主義論』でレーニンは,「銀行の基本的で本来的な業務は支払の仲介である」(国民文庫 40頁)が,銀行業の集積によって,その控えめな役割から生産手段と原料資源の大部分を意のままにする全能の独占者に転化すると述べ,その転化の過程を,「ばらばらな資本家たちから一人の集団的資本家が形成される。幾人かの資本家に当座勘定をひらくとき,銀行はあたかも純粋に技術的な,もっぱら補助的な業務を遂行するかのようである。しかしこの業務が巨大な規模に成長すると,ひとにぎりの独占者たちが全資本主義社会の商工業業務を自己に従属させるようになる。彼らは―銀行取引関係を通じ,当座勘定その他の金融業務を通じて―,はじめは個々の資本家の事業の状態を正確に知ることができるようになり,のちには彼らを統制し,信用を拡げたり狭めたり,信用を緩和したり引き締めたりすることによって彼らに影響をおよぼすことができるようになり,そして最後には,彼らの運命を完全に決定し,彼らの収益性を決定し,彼らから資本を引きあげたり彼らの資本を急速かつ大規模に増加させる可能性をあたえたり,等々のことをすることができるようになる」(同上 45〜45頁)と描いている。レーニンは,楊枝氏と同じく銀行の本来の業務が資本家に当座勘定を開いて行う純粋に技術的でもっぱら補助的な支払決済業務であるとしている。それにたいして宇野弘蔵氏は,銀行は遊休貨幣資本の預金による吸収とその貸付で資金を媒介する資金の媒介機関であり,手形割引業務に代表される商業信用の限界を社会的信用関係に転換する機関だというのである。しかしそれでは楊枝氏が言うように,支払決済業務からの信用貨幣の生成と信用の貨幣化(信用の利子生み資本化)=擬制的貨幣資本の形成という銀行信用の内容が捉えられないし,銀行業務が現実資本の運動との関連に還元されてしまう。また,引用部分でレーニンが言っている銀行による当座勘定業務による事業内容の把握と信用操作による資本のひきあげや規模拡大による統制が何故可能になるのかを解けない。利子生み資本と信用制度の発展にともなって,同じ資本や債権が,種々の手において種々の形態で現れるその種々の仕方によって,一切の資本が二倍,三倍に見えるようになる。この貨幣資本の最大部分である預金は純粋に仮想的である。「すべての預金は,銀行業者にたいする貸越金ではあるが,預託現金としては存在しない貸越金にほかならない。預金が振替業務に役立つかぎり,それは銀行業者によって貸出された後にも,彼らにとって資本として機能する。彼らは,これらの貸越金の相互清算によって,存在しない預金の相互の支払指図券を相互のあいだで支払い合うのである」(『資本論』岩波文庫9分冊 228頁)。当座預金の振替決済業務その他の金融業務を通じて資本家の事業状態を把握し,二倍三倍に資本を膨張・縮小させる信用操作等を通じて,資本家の運命を握る銀行の力が増大していくのである。
現代は20世紀初頭に成立した帝国主義=独占資本主義段階にある。戦争と大恐慌による社会危機に対処するために,この段階の一段として国独資が生み出された。現在,国際的な独占体のトラスト・シンジケート・カルテルなどの資本家的諸団体による激しい世界市場分割戦の過程にある。例えば日本では,大銀行の4大グループへの統合,自動車産業でのダイムラー・クライスラー,日産・ルノーなどの国際的な巨大グループの誕生,粗鋼生産量世界一位の韓国の浦項総合製鉄と二位の新日鉄の技術面などでの提携等々,大規模な国際的資本家団体の結成が展開されている。
現代帝国主義は,形式的独立を犯すことなしに多くの国を金融的・経済的・政治的な事実上の従属国・半植民地にしている。帝国主義による支配従属関係として形成されているこの世界秩序そのものの維持・防衛は,帝国主義同士の共通的一般的利害として思念され,そのための治安任務などの共同事務の形成を課題として意識にのぼらせている。それは,世界プロレタリア単一共和制への過渡点を示しはするが,帝国主義間の矛盾の現象を示す対立的な形態において表すにすぎない。資本家独占団体間の競争と対立は,一時的な協調を生み出しつつ,激化し,帝国主義戦争の危険を高める。同時に独占資本主義は,生産の社会化,株式企業という私企業に対する社会企業,銀行における記帳と管理の形態,生産・流通・分配の社会的形態,等々をただ消極的に止揚された形態で,対立的な形態で,過渡形態を示す。独占資本主義段階は資本主義的生産様式の結合生産様式への過渡点を示す「死滅しつつある資本主義」の段階なのである。