現代唯物論発展のために(5)
流 広志
237号(2001年5月)所収
貨 幣
ここでマルクスは,これまでの貨幣を定義し直している。
「価値尺度として機能し,したがってまた自分の肉体でかまたは代理物によって流通手段として機能する商品は,貨幣である。それゆえ金(または銀)は貨幣である」(『資本論』大月書店 第1分冊 229頁,以下ページ数のみ)。
でもなく,流通尺度の場合のように代理可能でもない場合であるが,同時にその機能が金自身か代理物によって行われるかにかかわりなく,その機能が金を唯一の価値姿態または交換価値の唯一の適当な定在として,単なる使用価値としての他のすべての商品に対立させて固定する場合である。このような交換価値の独立化をもたらす機能には,蓄蔵貨幣,支払手段,世界貨幣,の三つがある。
a 貨幣蓄蔵
売りと買いとの流動的な転換は,無休の貨幣流通としての機能に現れる。売りがそれに続く買いによって補われなければ,貨幣は不動化され,鋳貨から貨幣に転化される。
「商品は,商品を買うためにではなく,商品形態と貨幣形態と取り替えるために,売られるようになる」(230頁)。貨幣は蓄蔵貨幣に化し,商品の売り手は貨幣蓄蔵者になる。商品流通の初期の段階では,使用価値の余剰分だけが貨幣に転化する。こうして金銀は富の社会的な表現になる。
商品生産が発展するにつれて,どの商品生産者も,貨幣を確保しておかなければならなくなる。彼の欲望は絶えず更新され,他人の商品を買うことを命ずるが,彼自身の商品の生産と販売は,時間がかかり,偶然に左右される。彼は,売ることなしに買うためには,まえもって,買うことなしに売っていなければならない。貴金属はその生産源で直接に他の諸商品と交換される。ここでは,売り(商品所持者の側での)が,買い(金銀所持者の側での)なしに行われる。そして,それ以後の,あとに買いの続かない売りは,ただすべての商品所持者のあいだへの貴金属の再分配を媒介するだけである。こうして,交易のすべての点に,大小さまざまな金銀蓄蔵が生ずる。商品流通の拡大につれて,貨幣の力が,すなわち富のいつでも出動できる絶対的に社会的な形態の力が,増大する。
貨幣では商品のいっさいの質的な相違が消え去っているように,貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去るのである。しかし,貨幣はそれ自身商品であり,だれの私有物にでもなれる外的な物である。こうして,社会的な力が個人の個人的な力になるのである。
使用価値としての商品は,ある特殊な欲望を満足させ,素材的な富の一つの特殊な要素をなしている。ところが,商品の価値は,素材的な富のすべての要素にたいするその商品の引力の程度を表わし,したがってその商品の所有者の社会的な富の大きさを表わしている。
貨幣蓄蔵の衝動はその本性上無際限である。貨幣は,質的,形態的には無制限であり,素材的な富の一般的な代表である。貨幣はどんな商品にも転化できるのである。しかし現実にはどの現実の貨幣額も,量的に制限されており,したがってまた,ただ効力を制限された購買手段でしかない。このような貨幣の量的な制限と質的な無制限との矛盾は,貨幣蓄蔵者を絶えざる蓄積に駆り立てる。
金を,貨幣として,したがって貨幣蓄蔵の要素として,固持するためには,流通することを,または購買手段として享楽手段になってしまうことを妨げなければならない。勤勉と節約と貪欲とがかれの主徳をなすのであり,たくさん売って少なく買うことが彼の経済学の全体をなすのである。
蓄蔵貨幣の直接的な形態と並んで,その美的な形態,金銀商品の所有がある。金銀の貨幣機能にかわわりのない,金銀商品市場が形成され,貨幣の潜在的な供給源が形成される。
貨幣蓄蔵が金属流通に果たす一つの機能は,金属鋳貨の流通条件から生ずる。商品流通が規模や価格や速度において絶えず変動するのにつれて,貨幣の流通量も休みなく変動する。貨幣流通量は収縮・膨張できなければならない。あるときは貨幣が鋳貨に引き寄せられ,あるときは鋳貨が貨幣としてはじき出されなければならない。現実に流通する貨幣量がいつでも流通部面の飽和度に適合しているようにするためには,一国にある金銀量は現に鋳貨機能を果たしている金銀量よりも大きくなければならない。この条件は,貨幣の蓄蔵貨幣形態によって満たされる。蓄蔵貨幣貯水池は流通する貨幣の流出流入の水路として同時に役だつのであり,したっがって,流通する貨幣がその流通水路からあふれることはないのである。
貨幣蓄蔵の第一の機能は流通手段の量を調節するという機能である。後に明らかになることであるが,第二の機能は支払いに備えるという機能であり,第三の機能は国際支払いに備えるという機能である。
b 支払手段
「商品流通の発展につれて,商品の譲渡を商品価格の実現から時間的に分離するような事情が発展する」(237頁)。その事情とは,商品種類による生産時間の長短や季節の違い,その商品市場の遠近などである。「したがって,一方の商品所持者は,他方が買い手として現れる前に,売り手として現れることができる。同じ取引が同じ人々のあいだで絶えず繰り返される場合には,商品の販売条件は商品の生産条件によって調整される。他方では,ある種の商品の利用,たとえば家屋の利用は,一定の期間を定めて売られる。その期限が過ぎてからはじめて買い手はその商品の使用価値を現実に受け取ったことになる。それゆえ,買い手は,その代価を支払う前に,それを買うわけである。一方の商品所持者は,現に在る商品を売り,他方は,貨幣の単なる代表者として,または将来の貨幣の代表者として,買うわけである。売り手は債権者となり,買い手は債務者となる。ここでは,商品の変態または商品の価値形態の展開が変わるのだから,貨幣もまた別の一機能を受け取るのである。貨幣は支払手段になる」(238頁)。
「債権者または債務者という役割は,ここでは単純な商品流通から生ずる。この商品流通の形態の変化が売り手と買い手とにこの新しい極印を押すのである。だから,さしあたりは,それは,売り手や買い手という役割と同じように,一時的な,そして同じ流通当事者たちによってかわるがわる演ぜられる役割である」(同)。
流通部面において,商品と貨幣は二つの等価物として売りの過程の両極に同時に現れることはなくなった。貨幣は,まず,売られる商品の価格決定において機能する。「契約において確定されたその商品の価格は,買い手の債務,すなわち定められた期限に彼が支払わなければならない貨幣額の大きさを示す」(239頁)。「貨幣は,第二には,観念的な購買手段として機能する。それはただ買い手の貨幣約束のうちに存在するだけだとはいえ,商品の持ち手変換をひき起こす。支払期限がきたときはじめて支払手段が現実に流通にはいってくる。すなわち買い手から売り手に移る」(同)。流通手段は蓄蔵貨幣に転化した。
流通過程は第一の段階で中断した。商品の転化した姿が流通から引き上げられた。支払手段が流通にはいってくるのは,商品がすでに流通から出て行ってからのことである。貨幣は過程を媒介しない。「貨幣は,交換価値の絶対的定在または一般的商品として,過程を独立に閉じる」(239〜240頁)。
売り手が商品を貨幣に転化させたのは,貨幣によってある欲望を満足させるためであった。貨幣蓄蔵者が商品を貨幣に転化させたのは,商品を貨幣形態で保存するためであった。負債を負った買い手が商品を貨幣に転化させたのは,支払ができるようになるためであった。もしかれが支払わなければかれの持ち物の強制売却が行われる。かくして,商品の価値姿態である貨幣は,流通過程そのものの諸関係から発生する社会的必然によって,売りの自己目的になるのである。貨幣が売りの目的となる。
買い手は自分が商品を貨幣に転化させるまえに貨幣を商品に再転化させる。すなわち,第一の商品商品変態よりもさきに第二の商品変態を行なう。売り手の商品は流通するが,その価格をただ私法上の貨幣請求権に実現するだけである。その商品は貨幣に転化するまえに使用価値に転化する。その商品の第一の変態はあとからはじめて実行されるのである(240頁)。
「流通過程のどの一定期間にも,満期になった諸債務は,その売りによってこれらの債務が生まれた諸商品の価格総額を表している」(241頁)。
この価格総額実現に必要な貨幣量は,第一に支払手段の流通速度によって決まる。この流通速度は,@ Aが自分の債務者Bから貨幣を受け取って次にこの貨幣を自分の債務者Cに支払うという債権者と債務者との関係の連鎖によって,また,A 支払期限と支払期限とのあいだの時間の長さによって,制約される。
流通手段の流通が,売り手と買い手のとの関係が表現されているだけではなく,この関連そのものが貨幣流通において,また貨幣流通とともにはじめて成立するのにたいして,支払手段の運動は,すでに貨幣流通以前にできあがっている社会的な関連を表している。したがって両者は本質的に異なる。
多くの売りが同時に並んで行われることは,流通速度が鋳貨量の代わりをすることを制限する。反対に,このことは支払手段の節約の一つの新しい梃子になる。同じ場所に諸支払が集中するにつれて,自然発生的に諸支払のための固有な施設と方法とが発達してくる。AのBにたいする,BのCにたいする,CのAにたいする,等々の債権は,ただ対照されるだけで或る金額までは正量と負量として相殺されることができる。こうして,あとに残った債務差額だけが清算されればよいことになる。諸支払の集中が大量になればなるほど,相対的に差額は小さくなり,したがって流通する支払手段の量も小さくなるのである。
支払手段としての貨幣の機能は,媒介されない矛盾を含んでいる。諸支払が相殺されるかぎり貨幣は,ただ観念的に計算貨幣または価値尺度として機能するだけである。現実の支払がなされなければならないかぎりでは,貨幣は,流通手段として,すなわち物質代謝のただ瞬間的な媒介的な形態で現れるのではなく,社会的労働の個別的な化身,交換価値の独立な定在,絶対的な商品として現れるのである。
与えられた一期間に流通する貨幣の総額を見れば,それは,流通手段および支払手段の流通速度が与えられていれば,実現されるべき商品価格の総額に,満期になった諸支払の総額を加え,そこから相殺される諸支払を引き,最後に,同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額を引いたものに等しい。
信用貨幣は,支払手段としての貨幣の機能から直接に発生するものであって,それは,売られた商品にたいする債務証書そのものが,さらに債権の移転のために流通することによって,発生するのである。他方,信用制度が拡大されれば,支払手段としての貨幣の機能も拡大される。このような支払手段として,貨幣はいろいろな特有な存在形態を受け取るのであって,この形態にある貨幣は大口商取引の部面を住みかとし,他方,金鋳貨は主として小口取引の部面に追い返されるのである(245頁)。
商品生産が或る程度の高さと広さとに達すれば,支払手段としての貨幣の機能は商品流通の部面を越える。貨幣は契約の一般的商品となる。地代や租税などは現物納付から貨幣支払に変わる(246頁)。
どの国でも,いくつかの一般的な支払時期が固定してくる。社会の全表面に分散したこれらの支払のための一年のうちの何日かに必要な貨幣量は,支払手段の節約に周期的な,しかしまったく表面的な撹乱をひき起こす。すべての周期的な支払手段の必要量は支払周期の長さに比例する。
支払手段としての貨幣の発展は,債務額の支払期限のための貨幣蓄積を必要にする。独立な致富形態としての貨幣蓄蔵はブルジョア社会の進歩につれてなくなるが,反対に,支払手段の準備金という形では貨幣蓄蔵はこの進歩につれて増大するのである。
C 世界貨幣
国内流通部面から外に出るときには,貨幣は価格の度量標準や鋳貨や補助貨や価値商標といった国内流通部面でできあがる局地的な形態を再び脱ぎ捨てて,貴金属の地金形態に逆もどりする。世界貿易では,諸商品はそれらの価値を普遍的に展開する。したがってまた,ここでは諸商品にたいしてそれらの独立の価値姿態も世界貨幣として相対する。世界市場ではじめて貨幣は,十分な範囲にわたって,その現物形態が同時に抽象的人間労働の直接に社会的な実現形態である商品として,機能する。貨幣の定在様式はその概念に適合したものになる。
世界貨幣は,一般的支払手段,一般的購買手段,富一般(universal wealth)の絶対的物質化として機能する。支払手段としての機能は,国際貸借の決済のために,他の機能に優越する。
各国は,その国内流通のために準備金を必要とするように,世界市場流通のためにもそれを必要とする。だから,蓄蔵貨幣の諸機能は,一部は国内の流通・支払手段としての貨幣の機能から生じ,一部は世界貨幣としての貨幣の機能から生ずる。
金銀の流れの運動は二重のものである。一方では,金銀の流れはその源から世界市場の全面に行き渡り,そこでこの流れはそれぞれの国の流通部面によっていろいろな大きさでとらえられて,その国内流通水路にはいって行ったり,摩滅した金銀鋳貨を補填したり,奢侈品の材料を供給したり,蓄蔵貨幣に凝固したりする。この第一の運動は,諸商品に実現されている各国の労働と金銀生産国の貴金属に実現されている労働との直接的交換によって媒介されている。他方では,金銀は各国の流通部面のあいだを絶えず行ったり来たりしている。それは,為替相場の絶え間ない振動に伴う運動である。
ブルジョア的生産の発展している諸国は,銀行貯水池に大量に集積される蓄蔵貨幣を,その独自な諸機能に必要な最小限に制限する。いくらかの例外はあるが,蓄蔵貨幣貯水池が平均水準を越えて目につくほどあふれるということは,商品流通の停滞または商品変態の流れの中断を暗示するものである(254頁)。
これで,商品流通から生まれる貨幣諸機能が明らかとなった。貨幣機能の第一は,価値尺度であり,価格の度量標準を果たす。次に,商品交換を媒介する流通手段機能(買い手の側,貨幣の側から見れば,購買手段)である。それから最後に支払手段機能がある。価値尺度としての機能は,単に想像的で,観念の中で果たされればよい(この場合は計算貨幣とも呼ばれる)。流通手段としての機能は,鋳貨さらには相対的に無価値な紙券である国家の強制通用力を与えられた国家紙幣などの象徴によって置き換えられる。それが可能なのは,流通過程が商品交換の過程であって,流通手段はただ瞬間的に価値表示として機能し,商品の持ち手の変換を媒介するだけで,この過程からは絶えず遠ざけられるからである。それは物質代謝の瞬間的で媒介的な形態にすぎないのである。
支払手段としての貨幣は,まず売られる商品の価格決定の際に価値尺度として機能する。契約によって価格が確定される。それは買い手の債務,定められた期限に支払われなければならない貨幣額を表す。それから,貨幣は,観念的な購買手段として機能し,商品の持ち手変換を引き起こす。支払期限が来たときにはじめて支払手段が流通に入ってくる。流通手段は蓄蔵貨幣となる。支払の時まで流通過程から引き上げられ,支払に備えるために買い手によって蓄えられるからである。支払がなされる時にはすでに商品は流通からでているので,貨幣はこの過程を媒介しない。この商品の流通過程が終わるまで,流通手段は蓄蔵貨幣と化していたからである。「貨幣は,交換価値の絶対的定在または一般的商品として,過程を独立に閉じる」(240頁)のである。支払手段は,価値尺度機能も流通手段機能をもまったく幻想的に観念上で果たす。債権債務を決済する機構が集中し発達していれば,貸借差額を相殺しその差額を支払えばすみ,支払手段の量は節約できる。
国際流通部面では,諸商品の価値が普遍的に展開されるので,貨幣もまたその独立した価値姿態として,その現物形態が抽象的人間労働の直接に社会的な実現としての商品として機能する。すなわち世界貨幣として。為替相場は,流通部面での金銀量の変動を反映して絶えず動揺する。世界貨幣は,一般的支払手段,一般的購買手段,富一般の絶対的な物質化として機能するが,国際貸借の決済のために,一般的支払手段としての機能が他の機能に優越する。
以上,マルクスの『資本論』における貨幣論を見た。それによって単純な商品流通の過程から生じる貨幣機能が解かれた。しかし前回指摘した流通手段機能を果たす鋳貨機能をもつ紙製の代理であり象徴である強制通用力を国家によって与えられた国家紙幣と支払手段機能に自然発生的な根源をもつ信用貨幣の区別があまり明確にならなかったと思われるので,その点を補足しておきたい。発達した信用や信用制度や信用諸関係の上で発展する信用貨幣については,『資本論』第三巻で詳しく展開されている。そのうち,銀行券についてだけ触れておきたい。この場合に前提となるのは,貨幣資本においてはじめて資本が商品となり,自己を増殖するという性質がそのつど利子率として示される一つの固定価格を持ち,G−G’という純粋な物神形態に到達し,信用制度が発達しているということである。信用が自身のために生み出した用具である信用貨幣は,支払手段としての貨幣機能から直接に発生し,債務証書が債権商品の移転のために流通することによって発生する。
銀行券は,銀行によって与えられる信用であり,いつでも持参人に支払われるという銀行業者あての手形であり,個人手形の代用物である。この信用貨幣は,商業流通から出て一般的流通に入って,貨幣として機能する。またたいていの国では,銀行券を発行する主要銀行は,国立銀行と私立銀行との奇妙な混合物として事実上その背後に国家信用を有し,その銀行券は,多かれ少なかれ法定の支払手段である。銀行券はただ流通する信用標章を表示するにすぎないものであるために,銀行業者の扱うものが信用そのものであるということが明瞭になる。ただし,マルクスは,銀行自身については預金が重要であることを注意している。また,「銀行が,その地下室にある金属準備によって保証されていない銀行券を発行するかぎりでは,銀行は価値標章を創造するのであって,この標章は,単に流通手段を形成するのみではなく,この無保証銀行券の名目額だけ銀行にとっての追加資本――空資本であるとはいえ――をも成すのである。そして,この追加資本は銀行にとっての追加利潤をもたらす」(『資本論』第三巻 資本主義的生産の総過程 第5篇 利子生み資本 第33章 信用制度のもとにおける流通手段)。等々。
銀行券は,銀行信用に基づく支払手段であり,国家信用をもつ法定の支払手段でもあり,商業流通から一般的流通に入って,貨幣として機能する信用標章である。支払手段は,観念的に価値尺度および流通手段として機能することができるということはすでに見た。またそれは観念的に購買手段としても機能できることも見た。支払手段としての貨幣は契約の一般的商品である。銀行券は,債権の商品化にたいして信用ー債務が貨幣化し,支払手段として機能する標章として一般的流通に入って貨幣機能を果たし,この信用標章が貨幣として機能するのである。
流通手段は商品交換を瞬間的に媒介する。それにたいして,支払手段は過程を媒介せず,交換価値の絶対的定在,一般的商品として過程を独立に閉じ,貨幣商品として機能する。