[学習ノート]経済学ウオッチング(7)
斉藤隆雄
236号(2001年4月)所収
長らくフリードマンに付き合っていただいたことを感謝しています。ここらで、いわゆる新自由主義と呼ばれている一連の潮流につきまとっている経済思想をまとめて論じておくことが必要になってきたように思われます。今回は、取りあえずのまとめとして、この章の表題に応えていかなければなりません。
第四章 新古典派経済学とは何か
(3)新自由主義あるいは新古典派なるものの総括
1)反ケインズ主義の潮流
1970年代アメリカにおいて始まった反ケインズ主義潮流には様々な流れがあり、一括して論じることはできないかもしれないが、概ね四つぐらいのものに分けられているようだ。第一はフリードマンに代表されるマネタリストである。彼らの理論は経済の現状追認としての均衡市場論であるから、唯一の政策は通貨管理のみとなる。第二には、ルーカスに代表される合理的期待形成理論の一派である。これは、均衡論の極地と言えるもので、市場参加者がすべての供給される商品情報を熟知し、完全競争市場の場合に成り立つマクロ理論であり、政府の財政政策は予知されるので有効ではないという、ある種の市場社会主義のようなものである。第三に、サプライサイド経済学である。ラッファーが減税による税収増と経済浮揚を予想したもので、レーガン政権時代にこの理論を元に政策が立てられ、見事に失敗したというものである。あまりにも粗雑な理論なので、ケインズ派からは問題にもされなかったが、今ではフェルドシュタイン等によっていくぶんかの工夫が施されている。以前に小野氏の経済政策を取り上げたときに、彼が批判していた相手がこの供給サイド経済学であった。第四に、これも以前に少し紹介した財政学からのケインズ批判として、ブキャナン等の批判がある。これは、ケインズ政策が想定する政府のあり方は、賢人政治でしか実現できず、民主主義政治の下では経済合理性のみでは政策は実現しないというものである(「ハーベイ・ロードの原則」)。
第四の財政論からの批判を除いて、基本的に古典派経済論の発展としてこれらの経済理論は構成されている。そして、フリードマンを分析して分かったように、これらの理論は市場が最適の資源配分機能を持っているとするところにあり、またそれ以外にはありえないという限り、経済政策はケインズ派への批判以外には取り上げる意味がなくなる。そして当然、それが社会主義政策に通じているということで論証を終わるのである。
ところが、経済政策的に何も語るものがないということは、単なる現状追認でしかなくなるので、現状が如何に歪められたものであるかを論証する必要に迫られるのであるが、それを均衡理論の上で論証しようとすると、完全自由競争であったり、情報の完全公開であったりという、ユートピア的前提が必要となってくる。すなわち、未来予想をしやすい条件を前提としなければ論証が成り立たないのである。これは、古典派的な宿命であり、共産主義が前提としている理想の人間が構成する社会を想定することになる。
先にも述べたようにフリードマンが富を人間労働に基礎を置き、勤勉と誠実を条件としているように、彼らがケインズを批判すればする程、市場を介した共産主義思想に近づかざるを得ないことになる。もう読者も気づかれたかもしれないが、フリードマンの思想がかくも協同思想に近いのはそのためなのである。そして、彼が現状を語れば語るほど、優れた社会批判となっていることも事実ある。すなわち、彼の社会主義批判というのは国家批判であり、官僚批判なのである。国家社会主義を批判し、市場社会主義を目指しているというのが、フリードマンの思想であると言い替えることができる。
彼が理想としている社会が、18世紀初頭のアメリカ開拓時代の草の根民主主義であることも、これを裏付けている。しかし、だからこそ21世紀の国家金融資本市場に対する分析が全く存在しないというのも然りなのである。資本が機能資本からも遊離し、架空資本として世界を駆け巡る時代には、彼の思想はもはや有効性という意味では機能していない。むしろ、ケインズ派からは「反社会的」とさえ糾弾され、社会運動家たちからも「ブルジョア経済学」の極致であるが如く批判されているが、これは角を矯めて牛を殺すの類となりはしないだろうか。
現在のアメリカ経済の理論は「ニューエコノミー」とされている。90年代のIT産業を先頭とする好景気を擁護する理論としてもてはやされていたが、ここ数ヶ月の株式市場の急落で怪しくなってきた。おそらく、フリードマンのような素朴な思想は忘れ去られていくであろう。
2)共産主義と市場
これまで長々と新古典派と付き合ってきた理由は、かつて我々が「計画性」について論じた時、「共産主義的無償労働」を取り上げたり、あるいは企業内で実現している計画性やIT機器の発展により実現するかもしれないいくつかの期待を取り上げたりしてきたが、これらは市場そのものを真正面から分析したものではないという意味では不十分であったからである。古典派が「市場」を最適資源配分機能を実現する唯一のものとしていることは周知の事実であるが故に、彼らがこれを如何に分析しているかを見るためであった。
しかし、その期待は見事に破られた。彼らは、市場についてただ信仰しているだけに過ぎない。というよりも、市場についてはきわめて狭い領域に限定したゲーム理論と数理解析だけを開発しただけであった。97年ロシア経済危機の際に倒産したアメリカの資産運用会社LTCMにノーベル経済学賞を受賞した学者が関与していたことは、あまりにも有名だが、彼らの市場理論はまさに市場に乗り越えられたという意味で資本主義理論の敗北であっただろう。
我々はもう一度、市場について再検討する必要がある。そしてそれは「計画性」について、更には「政府」について根底から問い直さねばならないということでもある。とりわけ、市場については貨幣の生成についての論議と共に最も経済についての根本的な問いかけであるにもかかわらず、これまで疎かにされてきた。これは資本市場や金融市場、商品市場などといった何らかの流通するものを前提として語られてきたが、いわゆる市場機能というもの自体は極々自然発生的な交通形態として前提的に背景化し、古典派の称揚する機能を暗に認めてきたとしか言いようがないのである。
その意味で、むしろケインズ派はこの市場機能を否定的に捉え、市場が資源の最適配分を、とりわけ労働資源の最適配分しない、すなわち完全雇用しないことを言い切ったことは注目に値する。それに対し、計画経済(社会主義経済)派は、市場を一切認めず管理するという架空の想定をしながらも、実際には無数の市場を潜在させたという現実を分析できなかった。これは、古典派の市場信仰の裏返しとしての計画性信仰でしかないと言うべきだろう。
では、共産主義にとっての市場とは何なのかが改めて問われるということにもなる。そこで再度フリードマンの素朴市場信仰の原点とは何であったかを振り返ってみたい。彼の信仰の原点にはアダム・スミスの労働価値説があり、「国民の勤労」の成果を分配するという基本的な枠組みがある。我々が現時点での人間の経済政策的な意識性を過大に評価しなければ、彼の市場機能に対する信仰の一面を評価しながら、他方では彼が世界経済について語れないという影の部分を注目することになるだろう。そして、彼の宿敵ケインズも国際金融に関する理論的な限界を吐露していることは既に取り上げた以上、我々がこの市場経済の謎を解明するにあたって、焦点に据えるべきは国際的な商品経済であり、金融市場であるということは論を待たないのである。
ここで私は何かしら市場について結論めいたことを仮説として提出するつもりも用意もないが、この連載の方向として、市場経済の実際を現実に照らして論議する必要性が求められていることだけは確かであろう。
次回以降、今焦点となっている赤字国債について、国家財政について見ていきたい。というのは、小さな政府論ばかりではなく、今資本家階級の政府論は完全に袋小路に行き着き、現実と理論との乖離が甚だしい。むしろ、何の展望も持っていないというのが現状であろう。しかし、他方で我々はそれに替わりうる政府論を持っているのか、持つ必要があるのか、具体的政治闘争において課題を追い求めるばかりではなく、また空想的プロ独論を振り回すばかりではなく、論議する必要に迫られているからである。