現代唯物論発展のために(3)
流 広志
235号(2001年3月)所収
マルクスの貨幣論
前回は,『経済学批判』におけるマルクスの商品論を見た。そこで,商品を生産する抽象的一般的労働の一様性,無差別性,単純性,と一般的労働時間の質的に同一で量的にのみ分割可能という性質が,商品世界から特殊な一つの商品を一般的等価物として排除する商品世界の共同行為によって形成された貨幣商品の物理的性質となることが明らかにされた。この場合の貨幣あるいは貨幣商品の性質はその定在としての性質である。問題は,労働を抽象的一般的労働にする独特の生産様式にある。
なお,拙稿では『経済学批判』における商品論を『資本論』における商品論と基本的には同じであるとした。しかし,貨幣論の検討に移ると『貨幣・信用・中央銀行』(同文舘)で楊枝嗣朗氏が指摘する『経済学批判』での貨幣の価値尺度機能と価格の度量標準機能と流通手段機能の混同が『資本論』フランス語版になって克服されたとする見解などがあり,そういう点も注意しながらマルクス貨幣論を見ていく必要がある。マルクス貨幣論については『資本論』の記述を検討する。なお,楊枝氏の見解については後で検討する。
前回に指摘したように,『経済学批判』では,第1章商品に含まれていた交換過程論が『資本論』では第2章交換過程として独立した章として扱われている。交換過程では,人は商品の私的所有者同士として認めあい,契約という形態をとる法的関係すなわち経済的関係を反映した意志関係を結ぶ。商品世界の社会的共同行動(社会的過程)が一般的等価物としてある特定の一商品を排除して,この除外された商品で他の全商品の価値を表す。それによって,この除外された商品の現物形態は,社会的に認められた等価形態になる。この社会過程によって,一般的等価物がこの商品の独自な社会的機能になる。価値尺度として価値量を計る社会的機能をもつ商品として貨幣が生成する。物の使用価値と交換価値の分離が固定化し,物の量的な交換割合が生産によって決まってきて,慣習がそれらの物を価値量として固定させる。一般的等価形態はいろいろな商品に付着するが,やがて排他的に特別の商品に固着するようになり,ついには貨幣形態に結晶する。
貨幣の固有な形態規定性を把握するのは困難をともなう。というのは,ブルジョア的諸関係が,貨幣関係として現れるので,貨幣形態が多様な内容をもっているように見えるからである。マルクスは,商品交換から直接に発生する貨幣諸形態だけを取り上げ,生産過程のより高い段階に属する信用貨幣については扱わないと断っている。以下では金を貨幣商品としている。
T 価値の尺度
まず確認されるべきは貨幣の第一の機能が価値尺度機能だということである。「金の第一の機能は,商品世界にその価値表現の材料を提供すること,または,諸商品価値を同名の大きさ,すなわち質的に同じで量的に比較の可能な大きさとして表すことにある。こうして,金は諸価値の一般的尺度として機能し,ただこの機能によってのみ,金という独自な等価物商品はまず貨幣になるのである」(『資本論』第1篇第三章 第一節価値の尺度 大月書店 1分冊 171頁,以下ページ数のみ)。それが可能なのは,諸品が価値としては対象化された人間労働であり,通約可能だからである。そうだからこそ,商品は,その価値を同じ独自な一商品で共同に測ることができるのであり,そうしてこの独自な一商品を共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させることができるのである。「価値尺度としての貨幣は,諸商品の内在的な価値尺度の,すなわち労働時間の,必然的な現象形態である」(同)。
一商品の金での価値表現であるX量の商品A=Y量の貨幣商品という等式は,その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。等価物商品である金はすでに貨幣の性格をもっているので,「諸商品の一般的な相対的価値形態は,いまでは再びその最初の単純な,または個別的な相対的価値形態の姿をもっている」(172頁)。他方,展開された相対的価値表現,または多くの相対的価値表現の無限の列は,貨幣商品の独自な相対的価値形態になる。物価表を逆に読めば,貨幣の価値の大きさはありとあらゆる商品で表されている。しかし,貨幣は価格をもっていない。なぜなら「商品の価格または貨幣形態は,商品の価値形態一般と同様に,商品の,手につかめる実在的な物体形態からは区別された,したがって単に観念的な想像された形態である」(173頁)からである。
商品価値は,目に見えないが,これらの物そのもののうちに存在する。この価値は,これらの物の金との同等性によって想像される。商品価値の金による表現は観念的である。この機能のためには,ただ想像されただけの,観念的な金をもちいることができる。「価値尺度の機能においては,貨幣は,ただ想像されただけの,すなわち観念的な,貨幣として役だつのである」(173〜174頁)。
「商品価値はいろいろな大きさの想像された金量に転化されているのであり,つまり,商品体が種々雑多であるにもかかわらず,同名の量に,すなわち金量に,転化されているのである。このようないろいろな金量として,諸商品の価値は互いに比較され,計られるのであって,技術上,これらの金量を,度量単位としての或る固定された金量に関係させる必要が大きくなってくる」(176〜177頁)。
貨幣は,価値尺度,人間労働の社会的化身としては,種々雑多な商品価値を価格に,すなわち想像された金量に転化させるのに役だち,価値を計る。貨幣は,価格の度量標準としては金量を計る。
「価値の尺度として金が役立つことができるのは,ただ,金そのものが労働生産物,つまり可能性から見て一つの可変的な価値であるからこそである」(178頁)。
価格の度量標準としては,固定した金属重量を度量単位として,金量を計るのであり,いろいろな金量をある一つの金量で計るのである。金の価値変動は,価格の度量標準機能も価値尺度機能も妨げない。
商品価格の上昇は,貨幣価値が変わらなければ,商品価値が上昇する場合だけであり,商品価値が変わらなければ,貨幣価値が下落する場合だけである。逆に商品価格が下落するのは,貨幣価値が変わらなければ,商品価値が下落する場合だけであり,商品価値が変わらなければ,貨幣価値が上昇する場合だけである。
「価格,または,商品の価値が観念的に転化されている金量は,いまでは金の度量標準の貨幣名または法律上有効な計算名で表現される」(181頁)。「商品の価値量の指標としての価格は,その商品と貨幣との交換割合の指標だとしても,逆にその商品の貨幣との交換割合の指標は必然的にその商品の価値量の指標だということにはならない」(184頁)。価格と価値量との量的な不一致または偏差の可能性は,価格形態を,「一つの生産様式の,すなわちそこでは原則がただ無原則の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式の,適当な形態にする」(185頁)。
価格形態は,「価値量と価格との,すなわち価値量とそれ自身の貨幣表現との,量的な不一致の可能性を許すだけではなく,一つの質的な矛盾,すなわち,貨幣はただ商品の価値形態でしかないにもかかわらず,価格がおよそ価値表現ではなくなるという矛盾を宿すことができる」(同)。名誉や良心は貨幣とひきかえに売ることができ,価格をつうじて商品形態を受け取ることができる。「それゆえ,ある物は,価値を持つことなしに,形式的に価格をもつことができる」(同)。価格表現は想像的なものになる。商品は実在の姿のほかに,価格において観念的な価値姿態または想像された姿態を持つことができる。「商品に価格を与えるためには,想像された金を商品に等置すればよい」(186頁)。
「価格形態は,貨幣とひきかえに商品を手放すことの可能性とこの手放すことの必然性とを含んでいる。他方,金は,ただそれがすでに交換過程で貨幣商品としてかけまわっているからこそ,観念的な価値尺度として機能するのである。それゆえ,観念的な価値尺度のうちには固い硬貨が待ち伏せしているのである」(187頁)。
価値尺度機能は,貨幣の最初の機能であり,商品価値を計る尺度として機能することである。貨幣は,たんに観念的に想像の内で価値尺度機能を果たすことができる。価格は,価値量の指標であるとともに商品と貨幣の交換割合の指標である。価格形態はそうした指標にすぎず,価値量の表現から離れる可能性,価格と価値量の量的な不一致を許す可能性をもつ。価格表現は想像的であり,価格形態は価値量を離れ,想像された金を等置することによって価格を商品に与えることができる。こうして交換過程において形成された貨幣は価値尺度であり,それは価格の度量標準機能をもつが,それらの機能は,観念的に想像のなかで機能するだけでよいことが明らかになった。価格形態をもつにいたって,商品は現実の交換の可能性とその必然性を含むようになる。
U 流通手段
A 商品の変態
貨幣の価値尺度機能と価格の度量標準機能の次に登場するのは流通手段機能である。
交換過程は諸商品を非使用価値としている人の手からそれらが使用価値であるところの人の手に移す社会的物質代謝の過程である。使用価値として実現すれば商品は消費されるだけである。問題は,「全過程を形態の面から,つまり,社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態転換または変態だけを,考察」(188頁)することである。
交換過程は,使用価値と価値との内的な対立をあらわす商品と貨幣との二重化という外的対立を生み出す。この対立では,使用価値としての諸商品が交換価値としての貨幣と相対する。それらはどちらも商品であり,使用価値と価値との統一体である。「しかし,このような,差別の統一は,両極のそれぞれに逆に表されていて,そのことによって同時に両極の相互関係を表している」(189頁)。これはどういうことか。
商品は実在的には使用価値であり,その価値存在は価格においてただ観念的に現れているだけである。そして,この価格が商品を,その実在の価値姿態としての対立する金に,関係させている。これとはちょうど逆に,金材料は,ただ価値の物質化として,貨幣として,認められているだけである。それゆえ,金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は,その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において,ただ観念的に現れているだけである。「このような,諸商品の対立的な諸形態が,諸商品の交換過程の現実の運動形態なのである」(189頁)。
商品の交換過程は,商品−貨幣−商品 W−G−W という形態変換をなして行われる。素材的内容から見れば,この運動は,W−Wという商品と商品,労働生産物同士の交換であり,社会的労働の物質代謝であるが,結果では過程そのものは消えている。
W−G,商品の第一変態,売りは,商品体から金体すなわち貨幣体への価値の飛び移り,「商品の命がけの飛躍」(191頁)である。
商品を売って,貨幣を他人の手から引き出すためには,商品が貨幣所持者にとっての使用価値であり,商品に支出された労働が社会的に有用な形態で支出されており,その労働が社会的分業の一環であることが実証されなければならない。ここで,分業という「自然発生的な生産有機体」との関連が現れる。
商品の使用価値は保証されていない。第一に,商品にたいする社会的欲望の限度があり,すでにそれに達している場合がある。第二に,社会的平均労働時間を支出した商品の価格は,それに対象化されている社会的労働の量の貨幣名にすぎないのだが,その商品の生産条件が変化して,生産に必要な社会的平均労働時間が変化する場合がありうる。第三に,社会の総労働時間の大きすぎる部分がその商品生産の形で支出されるという場合がありうる。その結果は,生産者が自分の個人的生産物に社会的必要労働時間よりも多くの時間を支出したのと同じことになる。つまり等価原理が妥当する。
分業体制のうちにあらわれている社会的生産有機体の量的質的な編成は,自然発生的で偶然的である。分業は,商品所持者たちを独立の私的生産者にすると同時に社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係とを彼ら自身から独立なものにし,人々の相互の独立性を全面的な物的依存体制で補なう。「分業は,労働生産物を商品に転化させ,そうすることによって,労働生産物の貨幣への転化を必然にする。同時に,分業は,この化体が成功するかどうかを偶然にする」(194頁)。
「商品価格の実現,または商品の単に観念的な価値形態の実現は,同時に,逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり,商品の貨幣への転化は,同時に貨幣の商品への転化である。この一つの過程が二面的な過程なのであって,商品所持者の極からは売りであり,貨幣所持者の反対極からは買いである。言いかえれば,売りは買いであり,W−Gは同時にG−Wである」(195頁)。
かれが商品所持者に貨幣所持者として対することができるためには,かれの労働生産物が金などの貨幣材料であるか,かれ自身の商品を貨幣とひきかえに手放して貨幣をすでに所持していなければならない。金の生産源では,金は直接的労働生産物として,等価値の別の労働生産物と交換されるが,その瞬間から金はいつでも実現された商品価格を表す。この場合,金は,商品所持者が手放した商品の離脱した姿であり,第一の商品変態,W−Gの産物である。「金が観念的な貨幣または価値尺度になったのは,すべての商品が自分たちの価値を金で計り,こうして,金を自分たちの使用姿態の想像的反対物にし,自分たちの価値姿態にしたからである。金が実在の貨幣になるのは,諸商品が自分たちの全面的譲渡によって金を自分たちの現実に離脱した,または転化された使用姿態にし,したがって自分たちの現実の価値姿態にしたからである」(196頁)。貨幣に転化した商品が何かは貨幣を見てもわからない。
W−G−Wの運動の一商品の第一の変態の第一段階,W−Gは,別の一商品のW−G−Wの運動の最後の段階G−Wである。「一商品の第一の変態,商品形態から貨幣へのその転化は,いつでも同時に他の一商品の第二の反対の変態,貨幣形態から商品へのその再転化である」(同)。
つぎに,商品の第二の,または最終の変態である,G−W,買いが検討される。
貨幣は,他の商品の離脱した姿であり,絶対的に譲渡されうる商品である。貨幣は商品になるための材料としての商品体に自分の姿を映している。同時に諸商品の価格は,貨幣自身の量を示している。商品は貨幣になれば消えてしまうので,貨幣からは過程が消えている。貨幣は,「一方では売られた商品を代表するとすれば,他方では買われうる商品を代表する」(198頁)。
G−W,買いは,同時に,W−G,売りである。ある商品の最後の変態は,同時に他の一商品の最初の変態である。しばしば,商品所持者はひとつの種類の生産物を大量に売るが,他方でかれの欲望は多方向にわたるので,売ることで実現された価格すなわち入手した貨幣額を多くの欲望充足のための買いに分散せざるをえない。こうしてひとつの商品の最終変態は,他の諸商品の第一の変態の合計をなす。
商品の総変態は,「互いに補いあう二つの反対の運動,W−GとG−Wとから成っている」(199頁)。「商品の二つの反対の変態は,商品所持者の二つの反対の社会的過程で行われ,商品所持者の二つの反対の経済的役割に反射する」(同)。「商品のどちらの変態でも,商品の両形態,商品形態と貨幣形態とが同時に,しかしただ反対の極に存在するように,同じ商品所持者にたいして,売り手としての彼には別の買い手が,買い手としての彼には別の売り手が相対している」(同)すなわち,売り手には買い手という他者が,買い手には売り手という他者が相対する。同じ商品が貨幣になりまた商品になるように,同じ商品所持者が,売り手から買い手,買い手から売り手に役割を変える。売り手と買い手は商品流通の中で絶えず人を取り替える役割なのである。
一商品の総変態では,まず一方の極には商品があり,その対極にその価値姿態としての貨幣がある。こうして商品所持者には貨幣所持者が相対する。商品が貨幣に転化されれば,一方の極の貨幣は商品の一時的な等価形態となり,この等価形態の使用価値は対極の他の商品体にある。最初の売り手は今度は買い手になる。この買い手には別の第三の商品所持者が売り手として相対する。このように,この最も単純な形態では,4つの極と3人の登場人物が必要である。
商品形態→商品形態の脱ぎ捨て→商品形態の復帰は,ひとつの循環をなしている。
「ある一つの商品の循環をなしている二つの変態は,同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしている。同じ商品(リンネル)が,それ自身の変態の列を開始するとともに,他の一商品(小麦)の総変態を閉じる。その第一の変態,売りでは,その商品はこの二つの役を一身で演ずる。これに反して,生きとし生けるものの道をたどってこの商品そのものが化してゆく金蛹としては,それは同時に第三の一商品の第一の変態を終わらせる,こうして,各商品の変態列が描く循環は,他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っている。この総過程は商品流通として現われる」(200頁)。
売ることと買うことは,商品所持者と貨幣所持者が別人で対極的に対立している場合には,かれらの相互関係としては,一つの同じ行為であり,同一人物ならば,二つの対極的に対立した行為である。このような売りと買いとの同一性には,売り買いが実現しなければ,その商品が無駄になるということが含まれている。さらにこの同一性には,売り買いの実現が,一つの休止点をなすということが含まれる。商品の第一の変態は売りでもあり買いでもあるので,この部分過程は独立の過程である。自分の商品を売ったからといってすぐに買わなければならないということはない。
流通は,生産物交換に内在する,自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと,それとひきかえに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を,売りと買いとの対立に分裂させることによって,生産物交換の時間的,場所的,個人的制限を破る。
「独立して相対する諸過程が一つの内的な統一をなしていることは,同様にまた,これらの過程の内的な統一が外的な諸対立において運動するということをも意味している。互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化がある点まで進めば,統一は暴力的に貫かれる―恐慌というものによって」(203頁)。
商品には,使用価値と価値との対立,私的労働が同時に直接に社会的な労働として現れなければならないという対立,特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立,物の人化と人の物化という対立,が内在する。この内的な矛盾が,商品変態の諸対立において,発展した運動形態を受け取る。したがって,これらの運動形態は,恐慌の可能性を含むのである。
貨幣は,商品流通の媒介者として,流通手段という機能をもつ。流通手段機能としての貨幣は,商品流通を媒介するのであり,商品変態の対立的運動のなかで機能する。これで,貨幣の価値尺度機能,価格の度量標準機能に続いて,流通手段機能を知った。一方の極に商品流通の過程があれば,その対極には貨幣流通の過程がある。流通手段としての貨幣の機能からは,鋳貨姿態が生じる。貨幣流通には,鋳貨機能の他の材料からなる章標あるいは象徴への置き換えの潜在的可能性が含まれている。鋳貨機能は相対的に無価値な紙券・紙幣によって置き換えられる。だがそこにいく前に貨幣流通を見なければならない。それが次回の最初の課題である。