共産主義者同盟(火花)

「罠に嵌った日本史」を読む

渋谷一三
235号(2001年3月)所収


 この本は最近,書店の店頭に目立つように山積みされているシリーズの一つです。
この手の本は通常,都合の良い史実のみを抜き出し,恣意的に解釈を加えまくるのだが,筆者の見る限り,恣意的解釈というより思い入れの範囲内で,真面目に書評する価値があると考えた。また,この筆者の世界観が,程度の差こそあれブルジョアジーに共通する世界観であることも,書評をする動機となった。

1.戦後処理をめぐって

 95年前後の状況から言うと,日本のブルジョアジーはドイツにならって戦後処理をしてしまい,戦後に決着をつけ,円の国際化を果たすという路線を採用した。もちろん,戦後処理はすでに終わっており,この上補償問題などを出せば決して払いきれる額ではないと主張する他方のリアリズムの潮流もあった。
 政権をとったのは小沢の主張の側であり,連立政府の登場によって戦後処理を最終的に済ませようとする側の流れは,社民党が自民との連立に組み替えても,ストップすることなく継続していった。
 この状況を受けて,黄さんは次のように総括する。

 『1994年9月には広島でアジア競技大会が開かれたが,台湾の李登輝総統がクウェート大会会長から送られた招待状に応じて開会式出席のため訪日しようとしたところ,日本政府は「李登輝訪日断固反対」を唱えた中国政府に気を使って入国を拒否,台湾行政院副院長・徐立徳氏の来日に関しては何も言われないうちから中国政府に弁解にいくという腰抜け外交をみせた。翌95年には国会ですったもんだの末,戦後50年国会「謝罪」決議が作成された。とにかく「おわびと反省」気分の総決算をしようとしたのだろう。
 しかし,この考えは甘かった。このような弱腰は中国と韓国の威勢を増長させるだけだったのだ。当時の村山首相が「反省とパフォーマンス」をすればするほど中韓は「もっと反省しろ」「謝罪が足りない」「おわびではすまない」と居丈高になった。・・・・
 長い眉毛がチャーム・ポイントだった村山のおじいちゃんはとても謝罪好きで,イギリスにまで謝罪文書を出しイギリスのマスコミをにぎわせてしまった。なぜイギリスに謝罪などしなければならないのか。イギリスこそアジア侵略の本家ではないのか。日本は村山首相の登場によって,世界に「いいカモ」として知れわたってしまったのだ。』

 確かに,第2次世界大戦が植民地の争奪をめぐる強盗同士の戦争であったという本質からすれば,イギリスに謝罪する必要など一切ない。だが,それは日帝が強盗として居直る限りにおいて正当であるだけのことである。
 戦後処理は既に済んでおり,これ以上の戦後処理は必要ないとする立場の黄さんは,その傍証として,中国と韓国以外の国々の反応を示す。

『村山内閣時代,土井たか子氏が東南アジアに謝罪旅行したとき,・・・・マレーシアのマハティール首相もフィリピンのラモス大統領も台湾の李登輝総統も打ち合わせをしたわけでもないのに,全員口をそろえて「過去はどうでもいい」「これからが大切である」という返事をしたのだった。マハティール首相はそればかりか日本の常任理事国入りを支持したのだ。
 なぜなのか。それはマレーシアにおける大東亜戦争に対する認識が中国と違うからだ。1992年10月14日,香港の「ワールド エコノミック フォーラム」の席上,マハティール氏は次のように述べた。
「日本の成功は東南アジアに大きな自信を与えた。日本の進出がなければ欧米の世界支配はさらにつづいていただろう」「日本の戦争責任を問うならば,それ以前,非人間的な支配と収奪をつづけた欧米の宗主国の責任はどうなるのか。日本が来たことで植民地支配から解放され近代化がもたらされた」
 欧米の元宗主国はただの一度も謝罪したことがない。
 親日的なの政治の指導者ばかりではない。アジアでは一般民衆も親日的である。日本がかつて東南アジアに進出したことを「侵略」として考えているのは現地の経済を握っていた華人だけである。』

さらに続けて,

『中国人,韓国人が嫌われるのは経済問題だけが原因ではない。彼らの民族性そのものが受け入れられない要因となっている地域である。仏教を信仰する人々は他人に対する思いやりが深く,こまやかな気配りをする。イスラム教の人々は富める者が貧しき者を救済しなければならないという宗教的な理念をもっている。
 しかし,中国人と韓国人はもともと自分さえ利益を得られたらそれでよいという社会性に乏しい儒教文化で育った人々であり,他人との間に信用というものがなかなか成立しない。』
と,宗教の影響を指摘しつつ,韓国・中国以外は親日的だと展開する。

 筆者は,黄さんのこうした宗教観に強い異を唱える者ではない。儒教に関しては否定的見解を持っているので,共感してしまいそうでさえある。また,ビジネスでこうした国々の人々と接触をもっている人たちも,こうした印象をもっているがゆえに,その根拠を見い出したかのような共感をもってしまうのではなかろうか。商習慣は国民経済の影響を根強く残しているがゆえに,個性の入り込む余地はない。その国で商売しようとすれば,その商習慣に従わざるをえない。
 だが黄さんの民族性をキーワードに,韓国・中国の反日感情を不当なものと論証しようとしている脈絡の中では,それが,商習慣によるものか民族性によるものなのかは別として,韓国・中国の反日感情をこうしたことに求めて結論づけてしまうことに対しては慎重であるべきだ。
 筆者個人は,韓国や中国が直接により強烈に日帝に侵略された歴史をもっており,米帝や英・仏帝国主義の支配から擬似的解放してくれたなどという立場にないことが,マハティール首相との相違をもたらしていると考えている。

 さて,さらに黄さんの論旨を追っていこう。
 彼は,自分の論旨を補強するために,韓国や中国だけが反日感情をもっているばかりではなく,その裏,すなわちアジアの韓中以外の国は親日的であるばかりか,韓国・中国に対して反感を持っているのだと主張し,論理学的完璧さを貫く。
『韓国企業がアジアに進出すると彼らは現地の人に横柄な態度をとり,傲慢なやり方で人を見下すのでトラブルが絶えない。アメリカで韓国人のスーパーマーケットが黒人に襲撃されたりするが,韓国の報道では韓国人の成功を黒人やイスパニア系のねたみスケープゴートにしていると伝えている。だが実際はそれだけのことではない。韓国人がどこへ行っても隣人と良好な関係を結ぼうとしないことも原因している』
『アジアの中国・韓国嫌いのなかで最も過激なのがインドネシアだろう。インドネシアの在住華人は人口の3%いるが,華語,華文の使用が禁止され華文の書籍は国内持ち込み禁止である。・・・・ただし,同じ漢字を使っていても日本語の書籍は問題ない。』
 華僑の経済支配はきわめて資本主義的問題だし,日系企業が襲撃されないという話も聞いたことがないが,韓国系スーパーの襲撃は,上記のような乱暴な論旨の傍証にされてしまう。
 かくして,黄さんはこう結論づける。
『中国・韓国の反日の正体は遅れた近代化の言い訳』

 日本人が黄さんと同じ本を書いたら,まず売れないだろう。売れたとしたら,物議をかもすことは間違いない。台湾人である黄さんが書いたからこそ,このように書けるのであり,台湾人(華人)自らがこう書くがゆえに,批判を予め封じることができる。この華人ならではの独特の役割のみに利用価値があり,少なくないブルジョア政治家が,黄さんを盾にして,その影響の浸透した時点で,共感を煽る形で,自らの発言として黄さんの論旨を述べる。
 その政治家の発言を聞いた聴衆は,黄さんの本を読んでいればいるほど,よく言った,見識のある政治家だ,等々,思うであろう。
 本稿を書いている間に行われた,野呂元防衛庁長官の講演などは,黄さんの論旨のまる写しであり,上記の事情の典型的事例である。

2.国家間力学からの歴史分析を試みると,日本は罠に嵌められたことになる

『この100年の間で日本は日清・日露という二つの大戦に勝利した。さらにその後,日本はアメリカと開戦せざるをえなくなった。島国日本が戦った相手,
すなわち清国,ロシア,アメリカはみな超大国なのである。ちっぽけな国,しかも後進国だと思われていた日本がなぜ実力以上の相手と戦争しなければならなかったのか。』
『清国とロシアという二つの世界帝国の敗北は,前近代的な帝国の終焉と近現代国民国家の興隆を意味したものである。
 もし日清戦争がなかったら「眠れる獅子」は二〇世紀も眠ったままだったろう。日露戦争がなかったら中国は分断され,大東亜戦争がなかったらアジアはもちろん地球的な規模の白人支配はそのまま現在もつづいていたことだろう。』

 かくして一章で述べられた大東亜戦争非否定論は,白人支配とのからみで積極的に述べられることのなる。
 日清戦争がなければ,中国は眠れる獅子のままでいたのではなく,黄さん自身が認めているように,中国は「白人」列強に分断支配されていただけのことだろう。黄さんは珍しく論理の自己破産をしている。
 日露戦争がなかったとしても,中国の列強による分断支配の地図に大差はなかったであろう。というのも,日本は決して三つの超大国と戦ったのではなく,征服王朝の清国の衰退期・帝政ロシアの衰亡期に帝国主義諸国分割合戦の仲間入りをしただけのことであり超大国アメリカにはきっちり負けたのである。
 植民地という概念,帝国主義という概念,市場争奪という概念,こうした概念はマルクス主義がもたらした概念である。したがって,マルクス主義を否定する人々がこうした概念自体を拒否するのは,むしろ一貫した立派な態度である。
 そうすると,途端に,黄さんの歴史観に立つことになる。
 歴史が解釈できなくなる。中国を植民地にしようとする分割戦,だから強盗同士の戦いという歴史観を持てば簡単に解釈できることが,解釈不能になり,黄さんのような結論に至る以外にはなくなる。このことは,とても示唆的なことだ。
 こうした位置から,すなわち,マルクス主義を否定した歴史観から多かれ少なかれ導きだされる歴史観の良質な典型的な代表例を黄さんの著作は提示している,という位置から以下,読みすすめていく。

『1997年10月,中国の江沢民主席がアメリカを訪問した。その際,わざわざ太平洋戦争の資料展示のあるアリゾナ記念館に立ち寄って花を捧げ,米中がともに日本と戦った盟友同士であることを印象づけるパフォーマンスを演じて見せた。その前にも「ワシントン・ポスト」のインタビューに答え,日本に軍国主義が復活しているなどと訴え,アメリカに日本をもっと警戒するようにと呼びかけた。・・・・
 だいたいアメリカは国共内戦では共産党軍を叩くために蒋介石の国民党軍と手を組んだのであって,中国共産党は永遠の敵だったはずだ。』
『朝鮮半島のほうにしても停戦後40数年もたっているのに平和でもなければ戦争でもなく,しかも不思議なことに韓国はかつての敵であるロシアと中国ともすでに国交を樹立し朝鮮戦争のころの謝罪や賠償の話などまったく忘れているようなのである。韓国が追及するのはそれよりもずっと以前の「日帝三六年」ばかり・・・・。』

 日本が謝罪外交などするから,韓国・中国がつけあがるのだというのが一貫したシェーマとなっており,こうした間違った謝罪外交を始めたのが村山内閣だと主張する。それに追随するのが「反省好きの日本人」であり,こうした日本人が韓国・中国をますます「増長」させるというトーンで書き進められていく。

『1979年,ト小平がアメリカ訪問の帰国の途上で日本に立ち寄り「ベトナムを懲罰する」と軍事介入を公言したにもかかわらず,かつてベトナム反戦運動で盛り上がっていた人々はなぜだれも抗議しなかったのか。』
『ジュネーブの軍縮会議で中国代表は日本に対する原爆投下は自業自得だと発言したと言い,中国政府は当然受けるべき懲罰であると言っているのである。そのような一方的な論理になんの反論もしないというのは「罪」を認めたということか。懲罰の名目が立つならば核兵器の使用は可能だというわけか。』

 こう一国社会主義者の矛盾を指摘した上で,日本が韓国・中国にいいように「金づる」にされているのは,PKOなどでの人的貢献をせず,血を流さないからであり,キリスト教の唯一絶対主義の排他的白人国家や中華思想で凝り固まった唯一絶対の中国に出し抜かれてしまうだろうと警告する。すなわち日本の頭越しに米中両国が手を結ぶという国家間関係への転換の可能性を警告している。『国家主義なくして日本は存続できない。』『愛国主義を否定すれば日本は亡国の道を歩む。』

 台湾の独立をおそらく立場としているであろう黄さんからすれば,中国はそれを抑圧する敵であり,力をもってして抑圧している中国に対して何も言わない日本は歯痒い存在になる。日本が中国に対して牽制をしてくれれば,台湾が独立できる政治力学的空間が生まれると思っているのだろう。
 一方,国家というレベルでしか発想できないブルジョアジーの多くの部分は,黄さんの上記のような主張に対して,よく言ってくれたという共感を感じるだろう。国家の枠組みに守られて存続している企業にとってみれば,国境という「障壁」を取り除こうとする試みは外圧としか映じない。「外圧」と戦わないのは,物言えぬ腑抜けと映ずるからである。
 多国籍企業の利害を代弁する政治家というのは,ほとんどいないはずだ。というのも,多国籍企業にとっては国境という障壁=非関税障壁をなくすために国家外交が必要なのであって,それ以外には国家は必要ないからである。
 したがって,公共事業だの利権だのにたかる議員が集まる自民党には,皆無である。公共事業だの内需喚起だのというケインズ主義的政策は,国家を盾に国内の企業を守り,その利益のおこぼれにあずかる構造の内にある。

3.終わりに

 中越戦争時,わが同盟は,これを国境を越えた党派闘争の時代と規定した。
 とすると,この時点でベトナム共産党の路線・党派性と中国共産党の党派性とを分析しこのいずれかを支持するか,党派闘争を自ら領導するしかなかった。
 我々は,分析を急ぐとともに,天安門事件を契機に中国共産党を公然と非難した。
 世界は今,この課題の前で立ち止まっている。
 中国もベトナムも社会主義市場経済なるものを唱え独裁体制を維持しているが,従来のマルクス主義の常識から言えば,市場経済=商品生産=資本主義であった。中国のプロ文革・四人組もこの常識にそって闘争したのであり,小商品生産が資本主義を復活させ,この政治的反映が修正主義の不断の発生のであるとしたのである。
 市場は,資本主義とイコールではないという論説なくして社会主義市場経済なる概念は成立しない。さらに,市場を存続させたとしてどのように社会主義が実現できるのかという理論的発展なくして,社会主義の階級独裁と主張することはできない,
 社会主義市場経済を唱えてはや20年近くが経過する。だが,上記のような,理論的発展は全く垣間見ることすらできない。したがって,これらの諸国で行われている独裁は階級独裁ではなく,特定の集団による(官僚層)独裁であり,これらの諸個人が世界的に通用する資本家になった時,すなわち多国籍化に成功し,世界的企業のいくつかに育つようなことがあった時,中国やベトナムの資本主義化が完了する。

 だが,黄さんをたよりに,資本主義的世界観を見てきて分かるようにここからでてくるのは永遠の戦争と利害の対立する世界であり,歴史そのものの解釈すらできなくなる立場である。
 我々は今,市場の分析,協同組合運動の再検討,貨幣の分析,架空資本が主要になった段階での資本主義などなどについての分析作業に入っている。こうした,努力は,1980年代で止まった国際共産主義運動の位置から一歩も下がらず,直接にこの課題に応えようとする努力である。




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