<緊急>権力−公安の不当弾圧とそれとの闘いについて
流 広志
233号(2001年1月)所収
昨年の日本赤軍メンバーのレバノンからの強制送還や11月8日の重信房子氏逮捕などの日本赤軍および赤軍関係の逮捕に合わせて,それと関係のない運動体や個人にたいしてまでもくり返し行われている公安当局による不当な政治・思想弾圧にたいして弾劾することを表明したい。このような公安当局の好き勝手を許容することは,政治活動や社会活動,思想・信条の自由や言論・表現の自由を権力が犯し続けることを意味する。それは人々の自発的な諸活動の自由が危険にさらされていることである。それを闘うプロレタリアート・人民と共産主義運動は黙って見過ごすわけにはいかない。それらの自由の条件の発展を利益とするあらゆる人々と諸運動と共に,こうした不当な弾圧と闘うことは共産主義者としてのわれわれの重要な任務であると考えるので,緊急に,今この件で考え,言いたいことを簡単に述べておきたい。
近年の権力−公安当局による不当弾圧の実態について
警察−公安当局は,この間つぎつぎと暴露されている自らの不祥事を棚に上げて,沖縄サミット時には不当な事前弾圧を行ない,世界各地から環境問題や第三世界の貧困問題などを訴えるために集まったNGO・NPOに対してまで尾行・監視・規制を行い,世界中にその強権性を印象づけた。
また,オウム真理教事件をきっかけにつくられた団体規制法成立以来,憲法違反の住民票不受理と就学拒否を要求する住民運動を規制するどころかその反対にそういう反オウム感情をいいことに正当性に疑問のある捜索をくり返すなど不当弾圧をエスカレートさせている。おまけに,マスコミやジャーナリストも,真実よりも反オウムという政治態度に言論を従属させてデマを垂れ流している。極論を言えば,無差別大量殺人を実行したオウムは解体以外にないというなら無差別大量殺人の侵略戦争を行った日本国という国家団体は解体する以外にないということもいえる。被害者の感情を考えれば,オウムに対して何をしてもいいというなら,いまだに戦争被害者への十分な補償を行っていない日本国家にたいして何をしてもよいということもいえる。
アレフ(元オウム真理教)が被害者への謝罪と補償を真剣に誠実に継続していき,無差別大量殺人をけっして行わないという方向へ向かっているとすれば,団体一般を対象に規制するなどという権力−公安に危険で余計な権限を持たせる団体規制法などは必要ないし,むしろそれは国家に,人々の自由な活動を萎縮させ,社会の活力を失わせるツールを与えるだけだということを強調しなければならない。団体規制法に基づく立ち入り捜査は,理由を言わずに行われているというが,それは公安がすでに法違反を犯し,法を超越した独裁権を行使していることを意味しているからである。
それは,赤軍・日本赤軍関連でのガサ入れにおいても,手続きが守られていないケースが報告されており,また,どう見ても関係のない市民団体や個人に対してまで,不当なガサ入れが行われていることでもあきらかである。この間,公安は,無差別性,野放図性,超法的独裁性を強めており,暴走しつつあるといえる。マスコミの多くがこうした危険を報道,暴露し,思想・信条の自由,言論・表現の自由のために闘うことをしないで,権力・公安に追従して,操作された情報やデマ情報を垂れ流しているのは情けない。一日もはやくこうした情況が改められなければならない。
簡単なクロニクル,重信房子氏の新路線の評価について
1960年代末のベトナム戦争などの国際的な反帝国主義植民地解放民族主義革命の高揚,国内での街頭実力闘争,学生運動,などの高揚という時代の中で,共産主義者同盟の路線論争の過程で,7回大会から世界同時革命を掲げ,軍事路線を純化させた赤軍分派が生み出された。ブント中央派との党内闘争をへて,赤軍派はブントから分かれ,別党を形成しようとした。赤軍派は,秋期前段階武装蜂起を目指して大菩薩峠での訓練中を警察権力に襲われ大量逮捕によって,挫折する。この総括から国際根拠地建設路線を導きだし,アラブ地区委員会建設,よど号ハイジャックによる朝鮮人民民主主義共和国でのピョンヤんグループの建設を行った。国内残留グループは,中国派の京浜安保共闘との合同軍である連合赤軍を結成し,党建設を目指したが,それに挫折して同志殺害事件を起こした。警察がアジトを発見した時,逃亡した一部メンバーが浅間山荘に人質をとって立てこもり,警察・機動隊との銃撃戦をくりひろげた後,逮捕された。同じ1972年,重信房子氏らのアラブ・グループは,PFLPと連帯して,イスラエル・シオニストのパレスチナ占領からの解放闘争に連帯しつつ,反帝武装闘争を担い,連合赤軍事件へのアンチテーゼとしての奥平剛士,安田安幸,岡本公三,によるリッダ闘争を闘った。アラブ・グループは,連合赤軍との決別を宣言し,日本赤軍を結成した。その後,1977年の日航機ハイジャックなどを行う。1980年代には,世界各地で,メンバーの逮捕が相次ぎ,2000年4月には,レバノンで拘束されていたメンバーの内,政治亡命が認められた岡本公三を除いて,日本に送られ逮捕収監された。そして11月には,重信房子氏が高槻市内で逮捕されたのである。
重信房子氏逮捕以後,氏の活動がいくらか明らかになっている。それはここ数年にわたって,日本国内で,人民革命党の組織のための準備活動を行ってきたことである。権力−公安は,その規約案などを押収しているが,それによれば,人民革命党は,合法政党として構想されており,その中核に非合法メンバーを含めた国際ビューローを持つものらしい。党大会が外国で行われることになっていたのは,それに国外メンバーが参加することになっているためであろう。重信氏の容疑は,ハーグ事件への関与容疑を除いては微罪であり,短期間で出獄する可能性が高いと見られている。綱領がどういうものかはっきりしていない現時点では氏の党構想がどういうものかわからない。1970年代の路線の人間主義とか人民主義とかがそのままだとすれば,火花綱領とは路線が違う。現時点では内容が詳しくわからないので,氏が「新しいからね」と語った新路線の分析・評価はその内容がわかった段階で行うしかない。
アレフ(旧オウム真理教)の新路線の評価と弾圧の問題について
アレフ(旧オウム真理教)の現在の路線は,相変わらず,松本智津夫(麻原彰晃)があれこれの宗教教義から組み合わせてでっちあげた教義体系を,一部の再解釈を行ってはいるが,そのまま受け継いでいる。出獄した上祐幹部を中心にして,独特の修業法を実践し,現実社会から離れた小世界の中で,自分たちだけが高い理想世界の境地をつくりうるとする発想のまま,一定の数の信者を保っている。アレフには,現世拒否という即自的な反資本主義があるが,それを階級闘争による資本主義世界の現実的な根本的変革に結びつけることなく,個人の内面の変革にとどめて内閉化した修行者集団へと純化しつつある。そのことが,現実社会を腐敗堕落した世の中と真理を体現し覚醒した理想集団との鋭い対立として現れたのが,オウム真理教事件であった。事件後,当時の幹部の大量逮捕と裁判を通じて,事実が明らかとなり,後を引き継いだ現幹部の中で,反省の態度が生まれてきてはいるが,それを教義自体と事件を結びつけるような形での総括にはなっていない。
確かに,殺人を正当化する教義として,タントラ・ヴァジラヤーナの教義は封印され,ポアという概念の再解釈などが行われてはいる。それによって,ポアという言葉が当時の最高幹部らの間で殺人を意味する隠語になっていたことは否定された。それから,活動拠点の住民への公開や話し合いなど,地域住民との協調路線が引かれるようになった。地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教事件の被害者にたいする謝罪と補償にも取り組んでいる。しかし,その中で,残された現幹部などが,なぜこんな事件が起きたのかわからないという無知の立場に止まっているということがある。それは事件が当時の一部の最高幹部らによって勝手に引き起こされたものであり,直接の責任はその部分にあるが,同じ組織にあるものとしてその責任は負わざるをえないというものである。
それはそれで一つの前進であることは間違いない。それを認めないで,一度大問題を起こした組織は解体されなければならないという意見を一般論として認めると,まず,欠陥タイヤでリコール問題を引き起こしたブリジストン系のファイアストンなどは解体されなければならないと主張しなければならなくなるだろう。組織・団体そのものを対象とする治安法規が危険なのは,それが一般的レベルで拡大していく傾向をはらんでしまうことである。またそれは権力−公安が法を完全遵守しているかのような幻想を振りまくだけである。実態はそんなものではない。団体規制法があろうがなかろうが,公安は,現場でいくらでも法を無視し,法を超越して独裁的に振る舞い行動している。非合法盗聴はその一例である。
アレフに対する現在の平然と憲法や法を犯している住民運動や団体規制法による公安の数々の不当弾圧行為を容認することはできない。その誤りは正されなければならない。それは確かであるが,同時に宗教による解放には展望などないということもまた言わなければならない。当然それには共産主義運動としての展望が対置されなければならないし,その点で一歩でも二歩でも前進と発展を実現することが共産主義者してのわれわれに問われている。
現時点での不当弾圧との闘いについて
現時点で重要なことは,公安の動きや不当弾圧の実態についての情報を集め,それを検討して,その特徴をつかむことが第一である。私は今のところそれを無差別性,野放図性,超法的独裁性,と見ている。しかしそれはより詳細な具体的情報が集まれば変更しなければならないかもしれない。まず情報収集が大事なことはいうまでもない。
第二に,それができれば,マスコミなどが流しているデマや垂れ流し情報を選別することが可能になる。そして,情報を選別し,正しいものにつくりかえていくことができるようになる。それによって,真実の情報を広く提供できるようになり,偽情報やマスコミの垂れ流し情報やデマ情報の信用が落ちて,真実の情報の価値がたかまり,その結果,多くの人々がこちらの真実情報を信用するようになるだろう。
第三に,思想・信条の自由,言論・表現の自由,政治・社会活動の自由,の価値を高め,広めて,それらの価値を失わせるような国家権力−公安のやり口を多くの人々が見抜き,それを許さないようにする一般的情況を形成することである。
第四に,権力−公安当局によって不当な政治・思想弾圧,言論・表現の自由を犯されているかその危険のある人々や運動体とは手に手をとって反撃し,権力−公安の攻撃を粉砕し,政治・社会運動の自由な活動のための,また言論・表現の自由のための,共同の闘いを前進させ,一歩でも二歩ででも,プロレタリアート・人民の自発的で積極的な諸活動の発展の場を押し拡げていくことである。その際に,政治・社会活動の自由,言論・表現の自由を自らのアイデンティティに組み入れている諸個人や諸運動体が,この間の権力−公安のそれらの自由を制限・規制しようとする動きに対してそれを許さないという声をあげ,また行動を起こすことが具体的なよい効果をもたらすのは確実である。そうした諸個人と諸運動体は,ただちに実践を開始するよう訴えたい。それは,路線云々の問題があるにしても,プロレタリアートにとっては一般情況を悪化させないことで闘争条件を前進させるための闘いとして重要である。
権力の弾圧にたいする闘いをねばり強く実践しつづけている救援運動との協力・連携を深めることは,現在の野放図性,無差別性,超法的独裁制,を強めている公安の弾圧攻撃に対処するのに役立つに違いない。かかる救援運動体が闘うプロレタリアート・人民などの間で信頼され信用を高められるような双方向のサポートが求められているといえる。
これまでも様々な闘いの現場で,闘う人々と諸運動体は,権力−警察・公安による不当な運動の妨害と破壊攻撃に直面してきた。闘う人々と諸運動体は,そういう妨害と破壊攻撃を乗り越えて,今日まで,闘いを継続し発展させてきたのである。そういう実践と努力と経験の質を無視して,たんに外面を見て,プロレタリアート・人民の運動の停滞を云々するという評論家的な見方がマスコミなどで流されているが,それはまったく事実を反映したものではない。かれらは質的な深化をまったく見ていないのである。
1990年代はそれ以前の時代に積み残されていた諸課題を解き明かした時代であった。その成果の上に21世紀のプロレタリアート・人民の闘いは築かれることになる。そうした質は1970年代を象徴する闘いへの弾圧である日本赤軍・赤軍への現在の弾圧によって直接深く傷つくものではない。しかし権力ー公安は,これを利用して,関係のないところまで無差別にガサ入れなどの不当な弾圧をやってる。それには,一つには日本赤軍・赤軍をまわりから孤立させる狙いがあろうし,また人々の自発的な動きを芽の段階で押しつぶそうという狙いもあるに違いない。したがって,それが直接には1970年代の闘争を象徴する日本赤軍・赤軍関係に向けられた弾圧であることは確かであるが,同時にそれは現在と未来を代表し担うであろうような人々の自発的積極的な動きへの事前弾圧,恫喝的弾圧でもある。このような未来への芽がつぶされる危険をはらんでいる公安の弾圧を許すわけにはいかない。
最後に,かかる現在の権力−公安の不当弾圧に反対し,あらためて政治・社会活動の自由,思想・信条の自由,言論・表現の自由のための積極的な闘争に立ち上がることを訴えて,緊急に現在の権力−公安の不当弾圧との闘いについての小論を終えたい。共にたたかわん!