[学習ノート]経済学ウオッチング(4)
斉藤隆雄
232号(2000年12月)所収
いよいよ、我々の観察は80年代以降に吹き荒れた供給サイド経済学やマネタリスト、あるいは新古典派と呼び慣わされている 一群の経済学を焦点に入れなければならない時期に来ているようだ。しかし、彼らの源流はリカードやマーシャルなどの古典派経済学 のいわば主流派であり、ブルジョアジーの原点的なイデオロギーであることも念頭に置いておく必要がある。つまり、彼らにすれば ケインズなどは亜流であり、
第三章 ケインズ経済学の復活はあるか
(1)租税と金利
伊藤氏は昨年、『経済政策はこれでよいのか』と題する論文集をまとめたが、これにきわめて率直に「ケインズ経済学復活の条件」を問うているので、これを手がかりに話を進めていこう。彼は、復活の条件を四つ上げている。その内、二つは経済政策の具体的条件であり、残りの二つはケインズ経済学の理論的条件である。
初めの経済政策に関する二つの条件の内のひとつは、税体系の問題である。租税政策と言い替えることができるかもしれない。彼によれば、不況脱出の為のケインズ政策は、完全雇用が達成されたら、財政を黒字にするように租税体系を転換させなければならない、というのである。
「経済が完全雇用水準に到達した時点では、財政が黒字になっているような租税水準と 租税体系が存在することである。それなしに、ケインズ政策を発動すれば、不況の度 に国債を増発し、償還する機会がないまま、それが国債残高の累積になっていく。」 (『経済政策はこれでよいのか』p251)
これは、小野氏が好況期には公共事業を縮小し、国債を積極的に償還すべきだ、と言ったことと同じことである。そして、更に伊藤氏はこの条件がきわめて難しい条件であるということを吐露している。「議会制民主主義というものは、人々の利害で動くもの」というアメリカの財政学者ブキャナン氏の言葉を引きながら、好況期になって国家の財政が増えた時に、それを国債償還に当てることができるのか、予算要求の様々な圧力から財政を守るという課題を政治問題として投げ出している。
そして、次の第二の条件は低金利政策である。これは国債償還の金利負担が軽くてすむということもあるが、ケインズ理論が継承している新古典派経済学が利子率と投資の関係図を右下がりのグラフとして前提しており、利子率が下がれば投資は増えるということは教科書的前提なのである。更にケインズはこの利子率を人為的に下げるための政府の役割をも強調している。新古典派が均衡経済を前提にし、利子率が貯蓄と投資の関係の中で必然的に決定されるというのに対し、彼は「流動性選好利子説」と呼ばれる不均衡経済を前提とした理論を展開し、自然均衡を否定している。これを伊藤氏の文献から見てみよう。
「…政府が積極的に市場にある債券を購入していく。そのことによって債券価格が上が る。利回りが下がる。いわば政府が強気の人たちに支援を与えるというかたちにおい て利回りを下げ、利子率を下げ、投資しやすいような条件をつくり出すべきだと考え た。これがケインズ政策の一環である低金利政策なるものである。」 (『ケインズ』p260)
すなわち、これは投資家保護政策ということになるが、昨今では投資家への環境整備として制度改革と規制緩和がその論議の俎上にのぼることが多く、むしろ資産家への金利高め誘導が逆に論議されている。これらはケインズが想定していなかった大衆社会でのストック経済という構造が今日常態となっているからであり、その意味で彼が批判した均衡経済理論への批判はその有効性が疑問視されてきている所以であろう。
しかしながら、これら二つの政策はどちらにしても政府や中央銀行の役割を抜きにしては考えられない。その意味に於いては国家が国民経済を意識的にコントロールするということであり、19世紀型の資本主義国家と決定的に異なることは確かである。ケインズなどの新古典派の継承者たちは、マルクス主義なり、ロシア革命なりにかなり影響されたと、評伝等で書かれているが、19世紀末からの資本主義経済の変容が経済活動への国家の介入を自然発生的に生み出したと捉える必要があるだろう。
19世紀末からの技術革新による機械制大工業の変容と大規模設備資本の必要性は、利子生み資本の巨大化や銀行独占の台頭を生み出し、供給と需要の不均衡を生産の社会化によって脱皮していった歴史的変遷として資本主義を捉えるなら、供給サイドのコントロールが計画経済として、需要サイドのコントロールが有効需要政策として現れたと見ることが出来る。従来から、需要サイドのはけ口が植民地主義を生み出したという側面が強調されてきたが、これらは国民経済の変容を充分に捉え切れていなかったと言える。
この20世紀初頭の資本主義を帝国主義として描いたレーニン等の第三インター派は、供給サイドのコントロールにおいて帝国主義諸国に自然発生的に現れたフォード的な生産方法の改革を取り入れることで、資本主義の大量生産構造に組み込まれたということと、生産・供給管理による自己完結的な経済構造の構築が、帝国主義の植民地争奪戦争(市場拡大への指向性)に対して防衛的なものをしか提起できず、新たな社会生産システムを提起できなかったという限界を持っていたと言えよう。
ケインズの税制による所得再配分と利子管理による投資政策という政府の二つの政策は供給管理に比べれば、数段市場経済に依存してはいるが、問題は大量生産構造に突入した資本主義生産様式が抱える需要面での矛盾を、労働市場と関連させながら、公共事業、国債、税制という従来の政府の政策の拡大をもって、労働者階級の国民化(市民化)を成し遂げ、同時に利子生み資本の源である貨幣資本を、株式債券市場の銀行(中央銀行ー市中銀行システム)によるコントロールとして実現させたところにある。これらは肥大化した生産資本と一体化し一つの巨大な生産集合体として見えるところから、「国家独占資本」と呼び慣わされたものである。
しかし、これらのケインズ政策が行き詰まりを見せてきたということは、すなわち国家独占資本主義自体がその歴史的使命を終えつつあるということでもある。需要サイドのコントロールは実は意識的拡張政策であり、計画経済が生産の管理を放棄したように、利子生み資本の管理を放棄せざるを得なくなって来たのである。なぜなら、ケインズ自身も理解していたように政策が国家の枠を越え始めた時にはもはやその有効性が失われるのである。
(2)国民国家経済と国際資本移動
残された二つの条件は理論的な限界であると言う。その内の一つは、経済構造それ自体を「等質構造」と置くことから来ていると伊藤氏は指摘する。ケインズは古典派の均衡理論からは脱却し、労働市場の不均衡を前提にして自らの政策を立案したが、にもかかわらず現実の経済分析に際して、有効性を失いつつあると言う。
「ケインズの理論と政策は等質的な経済構造を前提としている。つまり、どこの地域 でも、どの産業でも、資本移動による調整メカニズムが働き、完全利用なり完全雇用 なりが同時に達成するという前提の上に立っている。しかし、現実の経済はこのよう な等質的経済ではなく、異質的な経済である。」(『経済政策はこれでよいのか』p154)
経済理論は、現実の多様な経済事象すべてを説明することなどできないし、完全競争市場や完全雇用などは理論上の概念であるのは社会科学の前提であるが、彼が言いたいのはそのことではなく、20世紀以降のとりわけ独占企業と大量生産による供給サイドの肥大化のことなのである。つまり、古典派の前提としていた需要と供給のクロス曲線が成立しなくなったという嘆きなのである。供給が需要を決定するという独占価格問題は、計画経済社会が持っていた構造に近似すると言えるだろう。
産業間の格差が拡大し、それに付随する労働市場の不均衡が発生し、一国経済の失業率を一国経済政策で解決できないということとなる。これはケインズの想定していた経済とは違うというのである。
そして、最後に理論が想定してた条件と異なる現実として、交際貿易と資本移動がある。これは、ケインズ政策の欠陥として従来から指摘されていたことであるが、伊藤氏はつぎのようにそれを分析する。
「新古典派的な理論は、その祖であるワルラスが証券市場をモデルにして、等質的で 完全流動的な市場を考えた。今日の金融の世界は、国際的に、わずかな金利差で駆 け巡り、直ちに資金が動くという流動的世界である言っていい。そういう国際金融 の中で、世界的に投資が行われるような時代になったときに、ケインズ政策は果た して有効性がどれだけあるのかという問題がでてくる。」(p158)
もともと、ケインズは国際的な短期資金の移動を極力抑えようとして、戦後の国際金融市場に世界銀行的な機構を置こうとしたのであったから、今日のような国際金融市場での膨大な短期資本移動はケインズ政策そのものを否定し、無効にすることは衆目の一致するところである。 もともとケインズの考えた国際清算同盟という組織は、為替の変動を管理することにあった。それは、金という自然物でもなく、一国的ブロック政策でもない世界銀行的管理を目指すものであった。しかし、今日の変動相場制下の国際金融市場で展開されている資本移動はリスクヘッジという投資収益のゲームでしかない。そのような条件の下ではケインズ政策が従属的役割しか果たさないのは当然と言うべきであろう。 もともと「等質で完全流動的な市場」というものが理論上ではなく、現実に存在するものかを疑うところから始められたのがケインズ政策であったはずであるから(それは伊藤氏の言う第一の理論的限界についての解答にもなるのだが)、90年代以降の数度の国際的な金融危機は、ケインズ的な意味で国際金融市場の不均衡を証明していると言える。にもかかわらず、伊藤氏が嘆くようにケインズ政策の有効性を疑問視するのは、先にも述べたように、ケインズ理論自体が政府の意識性を前提にしている以上、資本主義が生み出す不安定性に対し、常に新たな意識性を求められるというジレンマが付きまとうからである。 これまで、ケインズ理論は歴史上、二度挑戦を受けてきたことは良く知られている。一度は既に述べた独占企業による需給均衡の破壊であった。これは、供給管理という幻想を与えたが、計画経済よりも数倍早く市場によって淘汰された。二度目の挑戦はインフレという価値崩壊であった。これに対して、伊藤氏はケインズ理論の亜流である新古典派統合と呼ばれるサムエルソンらの政策が間違っていたと言い切るのである。アメリカにおける最後のケインズ政策の実行者はカーター政権であったとし、彼の政策ブレーンたちの見誤りが収拾すべきインフレを拡大させたとする。それは、失業統計への過信であったとしている。 しかし、そのことの当否はどうであれ、その後現れたレーガン政権下の反ケインズ派による経済政策は、供給の経済学であれ、マネタリストであれ、合理的期待形成論であれ、すべて失敗したと断言する。少し長いが引用してみよう。
「新しい古典派マクロ経済学の考え方に立てば、物価が供給と需要を一致させるよう 伸縮的に動く世界では、貨幣供給の変動には物価水準の伸縮的な調整が伴われて、 生産量の変動に及ぶことがない。かくて貨幣供給量の増加は中立的となるはずであ る。…この政策変更は新しい古典派マクロ経済学にとっての恰好の実験場を提供す るものであった。期待されたものとしての貨幣の増加率の低下を政策が断行しさえ すれば、景気後退を招くことなしにインフレーション率を引き下げることができる …ところが80年代初期に判明したその実験結果はいかなるもんであったか…」 (『ケインズ』p320)
として、80年から82年にかけて「失業率、資本設備稼働率は共に戦後最悪を記録し…戦後最長の景気後退が見られた」としている。
このように、伊藤氏はこの二度の挑戦に対して、あくまで正統派ケインズ学派としては退けてきたと主張するのであるが、今論じている国際金融市場からの挑戦に対しては、ケインズ自身の理論的枠組みを指摘することで、自らその敗北を認めていることになるのである。だが、問題は彼が新古典派マクロ経済学への批判として取り上げている「貨幣経済そのもの」の分析が実は政策的限界としてぶちあたっていることに気づいていない。
(3)貯蓄と投資
伊藤氏は、ケインズ亡き後、ポスト・ケインジアンとして登場した新古典派統合派(アメリカ民主党の経済政策を主導した学派)を正統とは見ず、「ファンダメンタリスト」と呼ばれる異端派を評価している。
「70年代に至る歴史的経験のなかでケインズ的正統派の地位を取って代わったマネ タリストや均衡アプローチに対し復位さるべきものとしてのケインズ的アプローチ をどのように再提示し、かつまた代替的な政策を打ち出せるかと言うことである。」 (p322)
このような課題を提示し、オーカン、カルドアをインフレ論に、ディラード、デヴィッドソン、ミンスキーを貨幣理論に、それぞれ功績があったとしている。そして、先に述べた貯蓄−投資の関係を再度取り上げ、これを「貯蓄過程の二面性」や「二つの価格理論」等といった論点で70年代以降の経済構造を分析しようとしている。
伊藤氏は、クリーゲルからの引用の形で、支出が所得によって決定されるというこれまでの古典派以来の前提を、「家庭の消費支出と企業の投資との間では、それぞれの決定要因が異なっている」とし、「前者は経常所得によって十分説明できるが、後者の投資はそれができない。それは投資が、将来の時点に向けて財を生産しようとして今日の時点でなされる決定であり、そうした投資行為は産み出されることが期待される所得に関係するものだからである」としている。つまり、これは貯蓄という行為と投資という行為をそれぞれ決定する経済的主体が異なるという資本主義社会の限界を述べていることになる。
「貨幣経済のもとで貯蓄行為が意味するものは、資源に対し今日請求しうる権利の行 使を遅らせるが、それを将来の時点での行動の自由を保持しうるかたちで、従って貨 幣および金融資産によって資産を保有して収益を享受するということである。…現時 点および将来時点において何が需要されるかについてのシグナルを産み出すものでは ないから、…投資の予想収益の改善に何ら資するところがないのである。その時貯蓄 それ自体は有効需要を引き下げるだけの働きしかしないものとしてとらえられる」 (p331-332)
長々とした引用をしたが、要するにここでケインズが展開しているとされることは、古典派が均衡しているとする支出-所得関係を、貯蓄と投資の主体の違いから、貯蓄を貨幣商品でもってなされることで、完全雇用が実現しないといっているのである。つまり貯蓄がすべて投資に回らないと言う現実を言っているにすぎない。このことを伊藤氏はつぎのように表現する。近代経済学の論述方法を学ぶつもりで読んでほしい。
「こうして諸資本資産間の限界効率の均等化プロセスが、完全雇用が到達される前に停止されてしまうというとき、貨幣の特性による流動性プレミアムの存在が決定的な 役割を果たすことになっている。いいかえれば、それは資本蓄積過程を牛耳っており、ほんらいの貨幣貸付への価格でしかない純粋利子率が不当に強調されることになる」(p334)
ポストケインジアンの言う「二つの価格論」というのは、「実物資本財と金融債権」という形で、あるいは「ストックとフロー」という次元で、需給均衡が帰着するものではない、ということにつきる訳である。この後、投資決定理論が展開される訳であるが、ここでは我々の追跡する範囲ではないので、また改めての機会にしたい。
ケインズが解明したとするこの貨幣経済下での不均衡理論は、ある意味で正当である。資本主義を前提とする限り、あるいは階級社会を前提とする限り、自然的に不均衡が生じるという当たり前の事実を、近代経済学が認めたと言うことは多くの保留を置きつつも興味ある事実である。そして、だからこそケインズ政策が常に意識性と政治性を問題とし、大ブルジョアジーからは批判される所以でもあるだろう。
最後に、伊藤氏がケインズが収穫逓減法則を扱っているとする「一般理論」第四章と六章の説明を紹介して、私がこの一連の連載の動機となった問題を提起したい。というのは、ケインズ理論だけでなく、近代経済学への批判はこれまで政策を含めて、あまりにもおろそかにされてきた現実があるからである。今日のように高度に組織化された経済制度下での資本主義社会において、我々が例え古い権力奪取理論に則るとしても、明日からすべての商取引、金融取引を変革することなどできはしないのであるから、今日の資本主義経済を如何なる経済組織に取って代えるかという展望について、より謙虚になるべきだろうと、考えるからである。
伊藤氏は「古典派経済学の労働価値説」という項目で、次のような市民社会の成立を展開する。
「いま思想史的にいうならば、人間は平等であるという考え方が古典派経済学の労働価 値説を生んだ。それは、自然法の思想に基づく人間平等観ゆえであったことは言うま でもない。それは自ら生産手段をもち、みずから働く独立自営農民や独立小商品生産 者の存在を基礎とした思想であった。だが、市民社会は、資本主義を生む。人を雇い 利潤を手にする人と、雇われる人の分裂である。市民社会の平等の思想は、この労働 者間に対し、平等観を投影することによって、人間労働の等質性を主張し、それによ る利潤の資本への帰属を正当化した。」(p177)
これはどういうことかというと、収穫逓減の法則の下では、同じ土地に労働量を投下しても投下量に応じて生産量が上昇しない、という土地の豊饒度の問題を、資本主義生産に適応し、同じ賃金を払っているので同じ労働であるはずだから、収穫が逓減するのは、利潤が存在するからであるという証明なのである。これは、近代経済学の基本的な論理であるとする。これは、労働の異質性と社会的等質性を価値形態論で学んだ者にとっては、我々が転換しなければならない価値理論の幅が如何に大きいかを実感させるものである。
参考文献
伊藤光晴 『経済政策はこれでよいのか』岩波書店 1999
同 『ケインズ』講談社学術文庫 1993