共産主義者同盟(火花)

 -ノート-「天皇制=部落差別の元凶」という主張について

氷上 潤
230号(2000年10月)所収


※ このノートは,1980年前後の,反天皇制闘争の高揚期に書いた文章の一部です。今日的に見るとやや荒削りであることは否めませんが,掲載するにあたり,細かな文章上の表現をのぞくと,修正点は一カ所にとどめました。その修正点については,(注)として,文章の末尾に付記しています。

「天皇制=部落差別の元凶」という主張は,どちらかと言えば,アジテーションの部類に属するものであり,理論的検討には適さないものであるかもしれない。あえて,ここではこの主張に対して理論的検討を加えることをとうして,たとえば,「貴族あれば賤族あり」といった形で語られてきた天皇制と部落差別の関係をめぐる問題について考えていく上での基本的な観点について,提起していきたい。

天皇制が部落差別の元凶であるということは,天皇制が,部落差別を生み出し再生産する根本的要因であるということであり,したがって,部落解放運動の根本目標が天皇制の打倒であり,天皇制が無くなれば,部落差別も無くなるということを,理論上は意味する。このように理論的に考えてみれば,「天皇制=部落差別の元凶」という主張が極めて一面的なものであるということは明白となろう。ここでは,もう一歩突っ込んで見ていく。
天皇制が,部落差別を生み出す社会構造の中で,無視しえぬ役割を果たしており,差別イデオロギーを不断に再生産する制度としてあることは確かである。天皇制が一つの身分制度としてある以上,天皇制が存続し,天皇が「国の象徴」としてまつりあげられているということは,身分差別が存続し,この身分差別が「国の象徴」として美化されているということを意味するに他ならない。こうした中で,部落差別が政治的制度としては形式上は廃止されたとはいえ,実質上は社会的差別として存続しているのはある意味では必然であろう。
 しかし,だからといって,天皇制に対する告発を「天皇制=部落差別の元凶」という具合にまとめあげるとすれば,それは,理論上は一面性をまぬがれえない。そうではなく,一つの身分制度たる天皇制とそのイデオロギーを維持し再生産する社会的構造−物質的諸関係の存在,まさにこの社会的現実が,同時にもう一方において,部落差別という形の身分差別を不断に生み出し続けている,というようにとらえられなければならない。

では,一方に天皇制を,もう一方に部落差別を再生産する社会的現実とは何であるかが,続いて分析されねばならない。この問題を考えていくにあたっては,まず次の点がかたづけておかれねばならない。
すなわち,資本主義社会にとって,自由・平等といった観念がどのような意味を持つものとしてあるか,についてである。結論から先に言えば,それは,かつての封建社会における支配様式とは異なる,新たな支配の在り方の観念的表現にすぎない,ということである。つまり,自由で平等な商品交換者という形式をとりながら,一方に労働者が,もう一方に資本家が不断に生み出され,前者の後者への経済的隷属が再生産されるという資本制支配の様式を,観念的に表現するものとして,自由・平等といった理念があるのである。したがって,自由・平等という一般的抽象的にのみありえている理念が表現している実際の内実は,隷属と不平等に他ならない。プロレタリアートは,幻惑させられることなく,はっきりとこのことを見据えておかなければならない。資本主義社会において,平等は抽象的形式的な理念でしかありえず,むしろ不平等がこの社会の属性となっているのである。 実際,資本主義は,人類を二大階級へと分裂させるとともに,労働者階級を大・中・小企業労働者,半失業者,失業者等々へと階層分化させており,それとともに経済的不平等もまた不断に再生産しているのである。この経済的不平等は,資本主義という経済的基礎上では,決して解決されえないものとしてある。
以上についてふまえた上で,この経済的不平等と,身分制度に基づく不平等−差別との相互関係について,見ていきたい。
封建社会にとっては,身分制度−差別は,その支配様式における不可避の構成物であり骨格であったわけだが,資本制社会にとっては,理論的には,身分制度は,それが無ければ社会が存立しえないという性質のものではない。実際に資本主義は,資本の運動の貫徹にとって桎梏となって立ち現れる封建支配の様式−身分制度の在りようを打倒し,転覆させることをとうして,発展してきたのである。
 もちろんこのことは,資本主義が,一切の身分制度を廃絶するものであるということを意味するわけではない。実際,天皇制や部落差別といった身分制度・身分差別については,資本の運動にとって,ブルジョアジーとその国家の支配にとって,有効になるような形で再編成されながら,封建社会から引き継がれてきたのである。
 すなわち,天皇制については,ブルジョアジーの支配の歴史的正統性と永遠性を−したがってその支配の内実たる階級支配・暴力支配,民族排外主義,種々の社会的差別を−宣伝しこれに権威付けを与える制度として再編され,維持−強化されているのである。
 また,部落差別については,政治的制度としては形式上廃止することをとうして,被差別部落の人々を資本の運動−利潤の拡大再生産に貢献させるべく,労働者下層−底辺層・産業予備軍へと組み入れることによって,社会的差別として再生産され構造化されてきたのである。この中で,労働者大衆にも根深く差別意識が浸透しているのは,労働者個々人は,即自的には,労働力商品の売り手としての相互の競争を強いられる社会的存在としてあるからである。(注)
人類が,諸階級・諸階層に分裂し,経済的不平等が不断に再生産され,競争と対立・敵対関係から抜け出しえていない社会的現実,この現実が,身分制度・身分差別を,完全に廃絶してしまうことなく天皇制や部落差別といった形で残存せしめているのである。

以上,天皇制そして部落差別を再生産する根本に,資本主義・帝国主義の社会的諸関係があることを見てきた。ただしこのことは,必ずしも,資本主義の経済的基礎上での,天皇制廃止や部落解放の「実現不能性」の主張に直結しない。さきにふれたように,資本制社会にとっては,理論的に考えてみれば,身分制度は,それが無ければ社会が存立しえないというものではないのである。にもかかわらず,実際上において,資本主義・帝国主義が,身分制度−身分差別を再生産してきているという事実が存在している。このことが意味するのは,反天皇や部落解放の闘いとその展望が,資本主義という経済的基礎を前提とする限り,不断に動揺的であいまいなものになってしまわざるをえないということであり,資本主義・帝国主義を廃絶していく運動,すなわち共産主義と結合していくことによって,確固として断乎たる,首尾一貫した闘いとなる,ということである。(補)
プロレタリアートは,運動の終局目標を鮮明に掲げ,闘いを前進させていくことをとうして,この課題に応えていかなければならない。

(注)元の文章では,この部分に「日帝ブルジョア政府は,こうした物質的諸関係を基礎に,差別を政策として貫徹し,分断支配を行っているのである。」という一文が続いていたが,今回の掲載にあたって削除しました。今日的には,〃部落差別を分断・支配のテコとして利用するブルジョア政府〃という構図を描いて,ブルジョア政府を弾劾する宣伝・煽動のスタイルから,〃ブルジョア政府には部落差別を解決する能力がない〃ということ,そして,商品−資本の運動に取って代わる人々の新しい結合関係を創り出していくという事業と結びつけて部落解放を展望していくこと,こうしたことに暴露の重点がおかれ,宣伝・煽動が方向づけられていく必要があると判断しているからです。

(補)この点,資本主義−ブルジョア支配の枠内での部落差別の解消という理論上の可能性(それはいわば〃現実的偶然性〃といえるものでしょう)に依拠する日本共産党は,良き反面教師となっています。




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