共産主義者同盟(火花)

教科書問題での右派の破綻と教育問題小論

流 広志
230号(2000年10月)所収


@ 地方議会にたいする「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」)の地方支部や「国民会議」などからの働きかけとそれと連動して動いている自民党,保守系会派や議員による陳情請願採択運動が続いている。
 しかし教育に関する一般の関心は高いが,その中では教科書の記述にたいする関心は低い。特別の政治的意図や専門的な関心を持つもの以外には問題自体が広まりにくいのである。「つくる会」は,漫画や週刊誌などを使って主張の浸透を図ろうとはしているが,漫画や週刊誌などは主に娯楽を目的として読まれているので,教科書問題などは固い話しとして敬遠されているようである。
 現在,「つくる会」と連動して,産経新聞−扶桑社,が歴史教科書を出版し,「つくる会」や「国民会議」などが,この一民間出版社のつくった教科書を採択させるために,議会への請願運動が起こされ,圧力がかけられているのである。こんなことが認められれば,教育の中立性の看板が公然と破棄されてしまうことになるのはいうまでもない。もちろん実際は教育の中立性などは建て前にすぎず,結局は学校教育はブルジョアジーの利害に従属させられているのである(教育改革国民会議のメンバーを見よ!)。その事実がブルジョアジー自らの手で満天下に曝して誰の目にも明らかになるという意味ではけっこうなことであるといえないこともないが。
 もしこの教科書が採択されれば,産経新聞−扶桑社が得られる利益は莫大なものになることは確かである。「つくる会」は産経新聞−扶桑社のために営業してくれて営業費も節約できるわけであり,たいへん都合がよいだろう。

A しかし大事なことは,この教科書に込められている政治的な狙いであり,その歴史教育観である。この産経新聞−扶桑社版歴史教科書は,歴史を学ぶことは,過去の人々がどう考えたかということを学ぶことにあるとする観念的な歴史教育観を掲げている。それがなぜ問題かはすぐわかる。例えば,問題になっている南京大虐殺について,当時の日本人がどう考えていたかを学ぶだけだとしたら,大方の人々に事実を知らされなかったのだから,知らないので,大した問題ではないということになってしまう。戦後に明らかになった実証研究による事実解明の結果は教えなくていいことなりかねないからだ。しかし歴史事実の認識を抜いてはまともな歴史観など獲得できないし,また歴史研究の発展や変化による事実認識の深化を取り入れられなくてはまともな歴史観を形成できなくなる。それは歴史を主観の集まりとするような歴史観であって,ある特定の人々の主観的判断や印象や好悪の情に教科書の記述が左右されてしまうことになる。
 それが証拠に,「つくる会」自身が,自虐史観批判を通じて,今の歴史教科書を読んでも元気が出ない,こうした歴史教科書を読めば,日本が嫌いになるという理由をあげて,そうならないような,つまり自国に誇りを持ち,日本が好きになり元気になるような歴史教科書を対置している。それで,「つくる会」の知識人メンバーが執筆した産経新聞−扶桑社版の歴史教科書を検定にかけるところまでこぎつけたのである。それにたいしてはやくも採択を要求する運動が活発になっている。この運動メンバーは,産経新聞−扶桑社版歴史教科書が採択されて,この歴史教科書を読めば,元気が出るし,自国に誇りを持ち,日本が好きになるという結果が出ると考えている。しかし自虐史観とやらで書かれたというこれまでの歴史教科書で学んだ圧倒的な数の人々は,自虐的であったり,元気がなかったり,誇りを失っているようには見えない。「つくる会」の主張と現実の間には直観的にわかるような明らかなギャップがある。「つくる会」は現実離れした主張をしているのだ。したがって,「つくる会」などはその責任を取らざるを得なくなる立場にあり,迷走のあげくに崖っぷちに立っているのである。
 「つくる会」,産経新聞−扶桑社,等々の歴史教科書はこのようにその基本において破綻しており,この連中のやっていることはたんに特殊なイデオロギーの強制をもくろむ政治宣伝にほかならない。これらの右派勢力は,自らの勝手な妄想に過ぎない自虐史観なるものをでっちあげ,それを左翼におっかぶせて批判キャンペーンを繰り広げ,その実は,自分たちの特殊な考えとイデオロギーを教育の場で押しつけようとしているのである。産経新聞−扶桑社はそれによって営利企業として利益を得ることはいうまでもないが,しかしそもそも歴史事実を教えることが歴史教育の目的ではなく,過去の主観について教えることが目的だとする歴史教育観において,嘘や騙しを正当化する意図を露骨に表明しているという点で,人々を愚弄しているのである。

B このように,保守反動派の歴史認識の特徴は,現在を過去からの堕落と認識していることにある。「つくる会」が歴史教科書に持ち込もうとしているのはこうした歴史認識なのである。それによって多くの人々は元気になれはしない。とりわけ戦前の天皇制帝国主義国家によって戦争の恐怖や治安警察による言論弾圧や家父長制によって家内奴隷化された女性や天皇教による宗教弾圧にあった諸宗教などの人々には,戦後は過去に対して進歩したと感じたはずだからなおさらである。現代の人々にとっては,さらなる進歩とはより徹底した民主主義を意味するのであって,過去は良かったとするノスタルジーの方向に進歩性はないのであるからやはりそれでは元気になれない。
 この問題を通じて,右派保守派とブルジョアジーが,プロレタリア大衆の元気さや積極性や活発さや未来への希望などを失わせて,ブルジョアジーの国家とブルジョアジーへの従順な従属化をなおいっそう強化しようとしていることがわかる。過去を直視すれば自虐史観などにならないで,他民族のプロレタリアートとの力強い連帯と協同という成果を手中にして元気になるからである。それが気に入らないというのだ。われわれはそれを許さず,逆にこうした問題を通してもプロレタリア大衆の解放運動を活発にし,強め,深化を図るために,その危険にたいして警告を発し,反撃を準備し実行することを呼びかけ,そのために必要な知識や技術などあらゆる手段を可能な限り豊富に提供して対抗するだろう。
 その方策の一つとしては,産経新聞−扶桑社版歴史教科書自体の分析と批判はあるていど有効だろう。すでにわかっている部分だけでも,あまりにもデタラメなのでそれを指摘し,暴露することは容易である。産経新聞−扶桑社版歴史教科書は歴史学そのものを否定するという無茶苦茶を主張しているが,歴史を主観の問題としているので,例えば,天皇制を擁護して教えようとしても,ある天皇の性格が嫌いだとか似顔絵の顔が嫌いだとかいう印象や個人の主観によって教育効果が強く左右されてしまうだろう。もちろん,「つくる会」は天皇制の擁護を押しつけようと狙っているのである。

C 歴史教科書問題の具体的な記述をめぐる問題として従軍慰安婦問題の記述は大きな焦点となってきたが,今年の教科書検定に付された歴史教科書から,従軍慰安婦に関する記述が大幅に減ったという報道がなされた。それにたいして中国政府は抗議の声を上げた。歴史研究家や教科書に歴史真実の記載を求める運動体と諸個人,歴史修正主義に反対している人々,自民党などが地方議会で起こしている請願運動などによる教育問題にたいする政治介入に反対している人々,などなどからも抗議の声が上がっている。
 教科書検定にかけられている各社の歴史教科書から従軍慰安婦という記述自体が消される一方で,今夏のジュネーブの国連人権委員会の人権促進保護小委員会では,従軍慰安婦問題が人道違反問題として改めて取り上げられた。この問題は国際的に大きくなってきているのである。また,形式上は民間だが実質的に政府が関与している「アジア女性基金」が従軍慰安婦への補償事業を実施している。従軍慰安婦問題は,歴史事実であり,それに対して責任がある日本国家がその責任を果たさなければ,過去を清算し,アジア諸国をはじめとする戦争被害者との前進的な未来を築くことは困難になる。過去に対するわだかまりを残したまま「良き隣人」としての関係を結ぶことはできないからである。その困難を克服することは,アジア諸国のプロレタリアートとの真の信頼関係を築いて共に資本主義からの解放を実現するための共同行動を利益とする日本のプロレタリア大衆にとって必要であり,利益になることである。
 それとは反対に右派保守派は,従軍慰安婦問題を南京大虐殺問題と並ぶ象徴的な攻撃対象としている。南京大虐殺問題は,1970年代以来,右派保守派と左派進歩派との激しい論争の的となってきたが,最近ではドイツでのユダヤ人大虐殺(ホロコースト)はなかったとする歴史修正主義と歩調をあわせるかのように,南京大虐殺はなかったとする説まで登場している。しかし右派保守派の大方の主張は,南京での虐殺はあったが,それは大がつくほどの規模ではなく,通常の戦闘行為の範囲であるとして,それをことさらに強調するのは左翼人権派勢力による政治的意図であるという陰謀論の類である。なお,保守派内には人権擁護については認める立場のものがあって,右派保守派は一枚岩ではない。
 従軍慰安婦問題については,とりわけ1980年代以降,戦争責任追及や戦後責任を求める声がつぎつぎとあがり,戦時中の強制労働の賠償を求める訴訟や元従軍慰安婦による訴訟が起こされ,それが国連人権委員会で取り上げられるなどし,各社の歴史教科書に次々と記載されるようになったことに,右派保守派から反発の声が上がったことで,教科書問題の焦点になったのである。
 従軍慰安婦問題での右派保守派の主張は,そもそも従軍という言葉に表されるような実態はなかったとするものが主流のようである。すなわち軍が直接関与した慰安婦制度はなかったというのである。それは戦前においては合法の売春制度にすぎなかったのであり,慰安婦になったのもそれぞれの個別の事情によるものだというのである。そして,強制も詐欺もなかったと,いま声をあげている元従軍慰安婦の証言とまったく食い違うことを主張している。この場合,真実は何かということが問題となるはずである。元従軍慰安婦の証言を偽りとする根拠は何なのか,明確にすべきだ。
 どうして歴史事実を直視できないこういう情けない連中が生み出されてしまったのか。その点で忘れてはならないのは,戦争を引き起こした連中もまた歴史事実を自分の都合のいいようにねじ曲げて,人々を平気で偽り,騙し,自分から責任も取ろうとしない情けない連中だったということである。例えば,東条英機を中心とする天皇制帝国主義国家は,太平洋戦争において,決定的な軍事的敗北をきっしたミッドウェイ会戦後,大本営発表で戦況をいつわりながら,その後の後退戦をずるずると続けて,無駄な玉砕戦を強い,沖縄戦において沖縄住民の大犠牲者を出し,二つの原爆による広島・長崎の悲劇を招来しながら,無責任を通したのである。東京裁判は,右派保守派の批判の的となっているが,なぜ東条英機は,裁判にかかるまでのうのうと生き延びていたのだろうか。東条らの命令で一体どれだけ多くの人命が失われたことか。われわれがそれに対置すべきは,多くの人々が,このような歴史事実を直視しながら,現在を反省し,未来への選択を的確に判断できるようになる歴史教育のあり方である。

D 今現在の教育は中立ではなく,ブルジョアジーの階級利害に従属させられており,その基礎の上に,その利害の変化に応じた教育改革が必要になっているという事情から,様々な教育介入運動が起こされており,「つくる会」系の運動もそうした動きの一部なのである。それに対して,日本共産党系の運動体や個人は,教育の中立性を守るとしているが,それではまるで現在の教育が超階級的なものであると認めることになる。それはあり得ない。また,教育における自治とは学校自治として単独で達成されるのではなく,地域自治の一環としてある場合に本物になるのだという認識がない。そのために,部落問題において,八鹿高校事件の際に現れたように,部落解放同盟の差別糾弾闘争に対して,解放同盟による教育への介入を許すななどという誤ったスローガンを平然と掲げて,部落差別を解消するための運動に敵対するということが起こっているのである。
 日本共産党系の教育観からすると教育委員会や学校幹部を通じて部落解放同盟が不当な教育現場への共産党排除の政治介入をやっているようにしか見えないわけである。しかし実際には,部落解放運動は,地域レベル・全国レベルでの差別からの解放を求める地域住民の闘いであり,教育現場は地域生活の一部であって,そうした地域における生活のあり方をめぐる闘争の一環なのである。そのことを踏まえるならば,教育のあり方について地域から声をあげるというのは当然であり,差別をなくすためのそれは地域民主主義の前進を意味する。教育への介入には,正しい良い介入と間違った悪い介入があることを区別しなければならないのである。介入一般に反対し,中立を口実として学校が学校だけで地域から孤立することは自らの特権を要求することである。それは民主主義を認めるなら間違いである。反動的な介入,例えば,生徒や親や教師や地域住民を無視して,日の丸・君が代を強制しようとする暴力的威嚇的な介入は不当で間違った悪い介入である。
 差別糾弾闘争において個々の具体的ケースにおいて間違いが発生することはあり得るが,それは労働組合の団体交渉をはじめどんな場合にも起こりうることで,差別糾弾闘争それ自体に必然的に生じる問題ではない。それは基本的な問題と直接には関係のないことである。この場合の基本的な規準は,差別解消を前進させる徹底した民主主義が発展し,強まり,深まるかどうかである。教育の中立性などというフィクションや抽象的に暴力一般を規準にすることではない。

E フジ・サンケイ・グループと連動している右派保守派は教科書問題ばかりではなく,学校行事での日の丸掲揚,君が代斉唱を強要する圧力強化や改憲運動の活発化などの国家主義・民族主義・排外主義の顕揚の動きをエスカレートさせている。
 こうした動きと合わせるように,臨時国会での予算委員会での答弁で大島文部大臣は,今春の小中高校の卒業式での日の丸掲揚率と君が代斉唱率の数字を読み上げ,それが高率に達したと成果を誇示しつつ,地域的にばらつきがあり,特に北海道が数字が低いと述べた。これは国歌国旗法の効果を強調したもので,いかにも官僚らしいものの見方を表したものである。形式として法が実行されていることで満足しているわけである。それは,予算措置によって下水道普及率が上がったと満足している官僚の姿と同じなのである。
 ところが現場の実態を暴露している運動体や個人や国立市で起こった右翼による授業妨害事件の報道などを見ると,とうてい数字の高低などでは評価できない具体的な矛盾の噴出と深まりという現実が見えてくる。産経新聞は,国立2小事件で校長にたいする脅迫事件が起きたと主張している。その主張が正しいなら,校長が被害を警察に届け出れば刑事事件になるかもしれない。だがそうなっていない。それでも産経新聞が脅迫行為があったという記事を取り消さないとなると,産経新聞が虚偽を記載したということになる。嘘つき新聞と自ら認めることになるのである。産経新聞はジャーナリズムではなくイデオロギー宣伝媒体であるということを自ら認めることになるのだ。
 いうまでもなく右派保守派による教育への介入は今にはじまったことではない。
 1979年には大平政権の下で,「家庭基盤の充実」や青少年問題審議会の「青少年と社会参加」が論じられ,家族の価値と青少年の奉仕活動への参加促進が自民党政府方針として打ち出された。1980年には衆参同時選挙での自民党圧勝を受けて誕生した鈴木政権下,自民党は戦後教育の見直しに本格的に着手した。自民党は党文教部会と文教制度調査会の合同会議で,教育基本法,教育委員会制度,学校制度,等の根本的な見直しを行うことを決定した。この時の文教部会長は森現首相であった。文教部会の下には,高等教育問題小委員会(渡辺秀央小委員長),教育問題小委員会(中村靖小委員長),教科書問題小委員会(三塚博小委員長),文教制度調査委員会(海部俊樹会長)の下に,教育基本問題小委員会(唐沢俊二郎小委員長),学制問題小委員会(近藤鉄雄小委員長),の合計5つの小委員会を設けた。同年7月,奥野法相は現在の教科書には国を愛するという言葉がないと発言,10月には三塚博が衆議院文教部会で中学校新教科書「公民」に愛国心の記述がないと批判した。
 1982年にできた中曽根政権は,日の丸・君が代を国旗国歌として学校に強制する文部省通達を実行し,家族主義・愛国心・郷土愛などをことあるごとに強調し,臨調行革路線による教育予算削減への耐えざる圧力をかけ続け,日教組を敵視し続けた。中曽根政権の下,経営代表を多く含む臨時教育審議会がつくられ,資本家からの教育への要求が公然と取り入れられる道が開かれた。中曽根政権の時代に,教育臨調報告が出されているが,その内容は,現在の教育改革国民会議の提言に反映されている。
 教育改革国民会議の17の提言に盛り込まれているものは,すでに1980年代に自民党の文教部会・文教制度調査会の下に置かれた小委員会がまとめたり,中教審や臨教審などがまとめたものがベースにあることは明らかである。このうち,大きな議論を呼び起こしている18歳での奉仕活動義務化や学校での奉仕活動の義務化に近いことは,1979年に青少年問題審議会が打ち出した青少年の奉仕活動への参加促進の提言に沿う形で翌年に山梨・静岡両県での富士クリーン作戦という奉仕活動が実施されるなど地方レベルで具体化されている。この点に関しては,早くも,奉仕活動と義務とは矛盾するというボランティア団体やNGO・NPOから批判・反発の声が上がっている。それは強制によって自発性は育たないという至極もっともな意見である。
 阪神大震災やその他の領域で近年とりわけ活躍している自主的な社会団体としてのNGOなどの活動は,国家などの権力による義務や強制によらず,自分たちの自発性に基づいて,社会進歩の一翼を担い,社会を徹底した民主主義の方向に発展させ,国家死滅に向けた社会モデルを描きつつあるといえよう。奉仕活動義務化は,こうした社会性の水準の上昇を押し止め,社会進歩に逆行するものだ。反動ブルジョアジーと右派保守派が,そうした社会発展と進歩に敵対するのは不思議ではない。右派保守派が家族を支柱とし郷土を媒介とする国家への愛国心を奉仕義務化を通じて押しつけようとするのは,この国家がブルジョア階級の国家であり,ブルジョア階級の支配の下に利害が敵対する被支配階級としてプロレタリアートが存在しているという現実を覆い隠し,民族が,対立する2つの人間種類に分裂しているという事実の認識を忘れさせたいのである。

F 右派保守派は,以前に「日本史」教科書をつくったが採択されなかったことがある。教科書の採択権を教育委員会にも認め,しかも広域統一採択制と呼ばれる市や郡などのできるだけ広い範囲で統一した教科書を採択するように文部省が指示しているが,それと教科書会社の認可制があいまって,大手教科書会社の独占状態が生じており,それもかれらには高い壁となっていたのである。自民党の教科書批判の場合には利権が絡んでいた。1980年は自民党が教科書偏向批判キャンペーンを強めた年だが,翌年には教科書会社から自民党への献金が急増したことが暴露されたのである。
 それから教科書検定制度自体の問題がある。一時,教科書採択自由化の声が大きくなった際に,検定制度自体の廃止が云々されたことがあったが,いつの間にか消えていった。文部省改革論議も消えてしまった。それどころか,学習指導要領に基づく教育委員会・学校・教師への指導・統制・強制を強めている。1999年の国歌国旗法成立後の入学式卒業式での日の丸掲揚・君が代斉唱が,文部大臣らの強制はしないという言明に反して,国家による学校教育現場への介入として強制された。この介入が実際には事実上の権力の発動,強制であったことは,学校が式後にアンケートや面接調査によって間接的圧力をかけた例がいくつも報告されていることであきらかである。今年の入学式卒業式ではその実施率は全国平均で100%に近づいている。その背後では文部省・教育委員会による陰での活発な強制の動きがあったのである。時の文部大臣は,それを知ってか知らずか,結果として人々を騙したわけである。こんな連中が声高に教育を云々し,担当しているのだ。
文部省は教育基本法を骨抜きにし,学習指導要領を根拠にした指導を行い,裁量行政を続けてきた。学習指導要領は,教育基本法にない愛国心を育てることや日の丸を国旗,君が代を国歌として教えることなどを以前から定めている。森首相は,教育基本法に愛国心や郷土愛や家族や伝統の尊重を盛り込む改定を行いたいと述べている。教育基本法はすでに学習指導要領が公教育の事実上の挌率として通用させらているために,死文化させられている。実態がそうなのだから,いまさらべつに教育基本法をいじらなくても文部省行政には実際的な問題はないという状態である。しかし裁量行政に対する批判が高まる中で,学習指導要領による教育行政のあり方に根本的な批判が強まるだろうし,そうしなければならない。すなわち学習指導要領に法的拘束力があるかどうかについては,学力テスト反対闘争裁判の最高裁判決,伝習館裁判一審判決,などが司法の立場から判断を下しているが,その内容は明確ではなく矛盾したものとなったままなのである。

G ついに「つくる会」−産経新聞扶桑社版教科書が,教科書検定にかけられるという段階になったので,右派保守派の教科書攻撃と教育をめぐるいくつかの問題について,批判・暴露を試みた。教科書問題を含む教育という領域はきわめて広い。できるだけその全体を解明し,その内的な関連において捉えたいが,大変である。それはこの領域では,教科書,検定制度,学習指導要領,文部省の教育行政,自民党文教族,教科書会社,産業界の要望,教育労働者,日教組,教育委員会制度,教科書採択制度,教科書教育関係裁判での司法判断,憲法の教育権の規定をめぐる解釈,同和教育,民族学級教育問題,日の丸・君が代問題,地方自治と教育,歴史認識問題,偏差値問題,内申書問題,学級崩壊問題,政治と教育,社会と教育・・・・と展開せざるをえないからである。
 青少年の犯罪や非行事件を契機として教育問題が政治化するのは,1980年と同じである。右派保守派が,その原因として道徳教育の不在を指摘し,道徳教育を強化すべきだという声があがったのもその時と同じである。それから,教育改革国民会議のような新たな教育論議と提言をする機関が設けられるというのも同じである。ただし,1980年には,それは自民党内での5つの小委員会の設置と中教審の開始であり,後に臨時教育審議会がつくられたのであるが。
 文教族出身の森首相は,来年の通常国会を教育国会にしたいと述べ,教育改革を前面に立てた国会を狙っている。しかし首相の持論である教育基本法改定は,連立を組む公明党の慎重論や教育改革国民会議が改定に消極的な態度を取ったためにはやくも挫折しかかっている。連立政権のために,個別の法制度の制定や改定に自民党の意見が全面的に通るとは限らず,しかも教育改革国民会議の17の提言にしても奉仕義務化問題をとっても十分な論議をつくしたとは思えない。それに教育改革国民会議には教育論議にふさわしからぬメンバーが名誉職みたいに恥ずかしげもなく加わっているのである。
 教育問題の解決のためには,教育労働者の解放が必要であるが,それは教育労働者単独で孤立してではなく,生徒を含む地域社会の解放と結合し,全労働者階級の解放と結合してこそ達成,実現されるものである。この方向に向かって前進する限りにおいて,自己解放がかち取られる。それが部落解放運動の中での解放教育や民族学級教育や養護学校義務化に反対する障碍者の学校での統合教育,などが明らかにした前進的な意義である。教育におけるかかる前進こそ,プロレタリアートと共産主義者が支持・発展させなければならないことである。そこで培われた経験と知識とを教育問題の解決のために押し拡げることが必要なのである。拙稿がこの領域における共産主義者・プロレタリアートの綱領・政策・戦術を豊富化する作業を前進させるために少しでも役立てば幸いである。




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