石原都政に反映するブルジョア政治の反人民性
流 広志
229号(2000年9月)所収
石原都知事は,さきに,自衛隊を観閲した際に,「三国人」という差別発言をした上に,大規模災害時には不法入国の在日外国人が混乱に乗じて騒動を起こしかねないが,その際には警察だけでは対応できないので自衛隊の治安出動が必要だとして,自衛隊の治安出動を煽動するという騒動を起こした。
その石原都知事の強い要望によって,9月3日「レスキュー2000」東京都総合防災訓練が,参加者25000人,うち7500人あまりの自衛隊員が参加した上で,都内各所で行われた。訓練は,マグニチュード7・2,震度6強の大地震を想定したものであり,自衛隊,消防,警察,自治体の連携に焦点を置いたものと言われている。
しかし銀座では,自衛隊の軍事ヘリコプターが上空を飛び,装甲車両が道路を走るという情況の下で,防災訓練が行われた。また陸上自衛隊練馬駐屯地から,訓練に向かう自衛隊員が,光が丘駅から地下鉄大江戸線に乗り込み,都心に移動するなど,訓練はかつてなく自衛隊を前面にたてたものとなった。
三宅島では,9月1日にようやく決定された全島避難の第二陣の避難の最中だった。
石原都知事は,三宅島噴火災害に問題ある対応を行い,「レスキュー2000」東京都総合防災訓練に自衛隊の治安出動的要素を紛れ込ませるなど,反人民的な行為をくり返している。それは個人的な性癖ではなく,かれの都知事としての政治性格,政治的人格に反映しているブルジョアジーの階級性格を現している。その点を浮彫にして批判を加え,かれの政治的人格に反映しているブルジョア独裁政治の中身を暴露したい。
石原都政の三宅島噴火災害に対する対応の諸問題
6月26日に始まった群発地震の発生から翌27日の火山噴火予知連絡会の臨時火災情報の発表から噴火の可能性があるとする臨時火災情報の発表という切迫した事態の発生以来,噴火災害に悩まされ,噴火の危険にさらされてきた三宅島島民の全島避難をめぐる石原都知事の対応が問題である。石原都知事は,かかる緊急事態にたいして,前例のない長期休暇を平然と取り続けたばかりか,9月1日までは三宅村の再三にわたる全島避難の要請にたいして,火山噴火予知連の公式の見解がそれを必要とするレベルに達するまでは必要はないと村側の要請をつっぱねつづけたのである。
8月28日の火砕流をともなう噴火を受けて,火山噴火予知連会長が,個人的見解として全島避難の必要を暗に提起した際には,石原都知事は,マレーシアで,個人的見解ではなく火山噴火予知連絡会の公式見解でなければ全島避難の決定はできないとして,これを拒否したのである。翌日に火山噴火予知連絡会がより大規模な噴火と火砕流発生の危険があるとする公式見解を出したことを受けて,東京都はようやく島民避難の決定を下した。
三宅島での噴火活動については,火山噴火予知連絡会の見解がはずれるということがあって,噴火予知の限界が明らかとなった。当初,火山噴火予知連絡会は,三宅島の噴火活動のパターンについての過去の豊富なデータがあるとして,予測しやすいと述べていた。火山性地震が頻発した段階で,マグマが小山山腹で噴出するという従来の噴火パターンを予測したのである。ところが,火山性地震が頻発するもののマグマの噴出がなく,やがて震源域が海に遠ざかるようになると,マグマの先端が島から遠ざかったとして,噴火活動は終息に向かいつつあるという見解が発表された。それを受けて6月29日には安全宣言が出されたのである。
ところが,7月8日に雄山山頂で陥没と噴煙が発生し,7月14日と15日には噴石をともなう爆発が起きた。8月10日にはふたたび山頂から3000メートルに達する噴煙が上がった。この時,火山噴火予知連会長は,これは一連の活動が終息に向かう過程での噴火にすぎないと述べた。これは前例のないはじめての事態であった。以後,火山学者の間で現状認識の違いが現れた。
8月18日に雄山山頂で大規模な噴煙を上げ噴石をともなう噴火が起こった。これ以降,火山噴火予知連絡会の見解は明快さを欠くものになった。普通に考えれば,少なくともこの時点で,三宅島の噴火活動に対する火山噴火予知連の予測能力に疑問を持つのが当然であろう。ところが東京都と石原都知事は,火山噴火予知連の専門的科学的判断を待つという態度をとり続けるのである。
石原都知事が日頃強調している危機管理ということからいえば,こうした場合には,最悪の事態を想定し事態を悪い方に考えて対処を考えるというのが基本である。つまり,8月18日の雄山頂上からの噴火によって噴石が飛んだ時点では,都の想定を超えた悪い方向に向かったのであり,想定した危機の水準を超えた事態になったのである。幸いにも人的被害がなかったために,今のところそれほど問題にされていないが,人的被害の可能性があったことは専門家も指摘するところである。この時の噴火で飛んだ噴石による建物被害が起こっていたし,噴石の飛ぶ範囲も全島に及ぶ可能性があったのであり,しかも21日に火山噴火予知連が全島で噴石に注意が必要だと述べたのである。
8月28日の噴火での火砕流の発生を見て,ようやく都は自主避難から全島避難の方向に判断を変え,それから4日後の9月1日になって,遅すぎる全島民の避難指示を出した。それまでに,都の指示決定を待ちきれない島民の自主避難が続いていたのである。
こうした全島避難決定への都の消極的な態度は,過去に実施された伊豆大島の噴火の際の全島避難措置の失敗が尾を引いていたことが原因であると指摘されている。杓子定規に前例に固執する官僚体質が全島避難にたいする消極的態度を生みだし,その判断を遅らせたわけである。
こうして石原都政は,一方ではたいそうにぎやかに自衛隊を加えた防災訓練を3億円もかけて実施しながら,他方では都民である三宅島住民を危険な状態に置き続け,その認識の甘さと官僚的で形式主義的な頑なな当初判断の固持による対応の遅れによって,その危険を増大させていったのである。
訓練ではあらかじめ決められた想定どおりにすべてがうまく進むのは当然である。しかし,火山噴火予知連絡会がマニュアル通りに判断を下し続けたために,現実を的確に捉えられなくなって判断ミスをくり返したように,現実は,マニュアルなどを超えた事態への的確な対応を必要とすることが多くある。
石原都知事は,全島民避難を決定した際に,それはあらかじめ考えた対応の一つにすぎないと述べた。この場合の問題は事前に複数の想定がなされていたかどうかにあるのではない。問題は複数の対応のどれをどのような条件の下で実行するかの判断基準にまちがいがあったということである。この判断基準に火山噴火予知連絡会の公式見解を絶対的なものとして組み入れていたことがまちがいだったのである。いざという場合には,火山噴火予知連絡会の公式見解なしでも島民の避難を決断することが必要であり,その決断に都が責任を持つということが抜け落ちていたのである。逆に東京都は島民避難決定の責任を火山噴火予知連にかぶせようとしたとしか思えない対応を示した。しかし,火山噴火予知連は,島民に直接責任を負う立場にない助言者にすぎないのである。
おまけに石原都知事と対応する都幹部は,全島避難した場合のメリットとデメリットを秤量するというじつに計算高い政策判断を行った。ある幹部は,全島避難をするにも税金を使うのだから,バランスを考えなければならないとぬかしたのである。ところがそうかと思うと今度は全島民避難が決定されるやいなや,石原都知事はまるで左翼みたいに「人命大事」などと言い出すしまつなのだ。それから三宅島に乗り込んで,火砕流に襲われた被害現場を見て「島民の心中を察するにあまりある」などと心にもないうわべだけの言葉をはいてみせ,わずか1時間の視察をアリバイ的に行った。石原都知事は,それからいくらもたたないうちに,自衛隊を前に満面の笑みを見せたのである。TV報道がこのようなギャップを写したので人々はそれを直観で理解できたはずである。
反人民的な「レスキュー2000」東京都総合防災訓練の諸問題
人間不信で猜疑心の強い幽霊信者の石原都知事は,避難を余儀なくされた傷心の三宅島島民の神経を逆撫でするように,軍艦マーチをバックに登壇し,自衛隊を陸海空三軍と呼び,自衛隊を前に満足の笑みを浮かべ,大規模災害時には自衛隊の災害出動が必要なことが証明されたと述べた。しかし,実際の訓練の様子を見れば,一体なぜ災害救助に軍事ヘリコプターが編隊飛行し,阪神大震災でも起こらなかった河川橋の倒壊を想定した架橋渡河訓練などが行われたのかという疑問が当然おこるだろう。すでにそのわけは,幽霊信者石原都知事自身の口から語られている。それは,これが純粋な災害出動訓練などではなく,治安出動訓練を含むものだったということである。この訓練は,石原都知事が大規模災害時にそれに乗じて騒動を起こしかねないと不信の目を向けている不法入国の在日外国人を仮想敵とする治安出動訓練をも含めているのである。
しかしこの大衆人気で少数票当選したにすぎない石原都知事としては,一方ではトップダウン方式の政策遂行を本音としながらも,他方では大衆人気で少数票当選したにすぎず人気に左右されざるを得ないために人気取りの妥協を余儀なくされるという矛盾に絶えずさらされている。この矛盾は,くり返し報道された発言に見事に現れた。訓練終了の際の演説で石原都知事は,防災訓練に反対するわずか200名ほど(報道による)のデモに対して,「ばかな左翼が反対を叫んでいるが,沿道の人々はこれを無視ないし冷笑し,デモは孤立していた」とあたかも自分の目でそれを確かめたかのように批判せざるをえなかったのである。しかし3億円もかけて実行した政策にたいする責任の重荷は,石原都知事自身とその支持者が全面的に背負ってもらわなければならない。
以前にも,かれは不法入国の在日外国人がいかに危険な存在かということを強調して,深夜の池袋の街を歩いてみればそれがわかるなどとあたかも実際に深夜にそこで直接その実態を見聞したと思わせる発言をしている。さすがは幽霊信者だけのことはある。おそらく肉体がそこになくとも魂が肉体を抜け出してそこに行ってすべてを見たということなのだろう。それはともかく,石原都知事が,沿道の人々から孤立し,冷笑され,無視されていると氏が見なしているような,影響力のないはずの反対派の小規模デモをわざわざ取り上げ,それにかみつき,悪口を言い,批判したというのは,言葉とは裏腹に実際にはこの反対の声を無視できない気になる声であると認めていることを意味している。
たとえ少数であっても,内容が正しく真実であるものは,ほんとうの狙いをごまかして人々をだます虚偽の声には勝つし,それだけの力を持っている。自衛隊は自衛隊であり,自衛隊の本質は軍事であり,それは体制を維持する治安を主任務にするものである。災害出動はかかる任務に付属するものにすぎない。その理由のために,自衛隊は,自衛隊に災害救助部隊を創設することに反対しているのである。災害には災害の種類や規模などに適した形の組織や装備や技術や人員が必要であり,特殊な訓練が必要である。現在の自衛隊の災害出動は,防衛出動を想定した組織,装備,技術,訓練,人員,等を応用しているにすぎない。
自衛隊の災害出動については,阪神大震災の際に,時の村山首相の出動要請が遅れたことにたいする批判が根強くあった。しかし自衛隊は災害救助活動も任務としてはいるが,それが本質的任務ではない。以前から災害時に自衛隊をもっと活用すべきだという意見は根強くあった。その意見にこたえるかのように自衛隊の任務はどんどん増えていき,それらの諸任務に対応するために,それらに応じた機能,組織,人員,技術,装備,等を備えなければならなくなってきている。自衛隊は「国民の生命・財産を守る」ために,災害救助のための様々な新たな負担を迫られているのである。その延長上にあるのは,自衛隊がやたらと多く活躍するような軍事国家化である。すでに自衛隊は世界第2位の予算規模を持ち,近代的兵器と装備を有している。したがって,この過程は同時に軍事大国化の道とならざるをえない。
ブルジョア階級のための石原政治の諸問題
そのような軍事大国化を狙う石原色を現したのは,今年の8月15日に東京都知事として靖国神社に公式参拝したことである。石原都知事はそれは英霊にこたえるためだと述べ,公式参拝かどうかを問う質問に不快感をあらわにして「そんなことを識別することは意味がない」と怒鳴った。問題のひとつは靖国が神社であることである。戦前には国家神道は,宗教ではなく宗教を超越したものとされ,他の宗教にたいしても上から強制され,戦争の用具とされた。靖国神社は軍部の管理する神社として,侵略戦争に人々を動員する用具としての機能を持たされた。アジアから欧米帝国主義を追い出すアジア諸民族の民族解放のためだと戦争目的を偽って戦場にかり出された帝国主義戦争での無念の死を遂げた戦死者などの霊をまつるとしているが,現在では靖国神社は一神社にすぎない。霊を信じるか信じないかも個人の信条に任されており,また身内をどこにどうしてまつるかということはそれぞれが決定することであって,一神社が勝手にできる問題などではない。
この問題は公人たる石原東京都知事が個人的な考えに基づいて判断するというようなレベルのものではないのである。それにも関わらず,かれは,傲慢にも公私を識別することには意味がないなどということを言って,公私混同あたり前といわんばかりの態度をとったのである。そこまで批判をはねつけてつっぱったのは,戦死者を英霊として祭り上げ,国家のために死ぬということが英雄行為として讃えられるような情況を望む強い信念があるからである。そして石原都知事は,現実での上下や差別を霊の世界にも当てはめて,霊の上下や差別として反映させているのである。現実の階級差別や社会的差別を認めないという立場からは,その観念的反映である霊の階級差別や社会的差別もまた認められない。
ときに弱気な面をのぞかせながらも,虚勢をはって見せ,それをプライドと勘違いしている人間不信で一部側近しか信じない幽霊信者の石原都知事の迷走は,もはや社会進歩の騎手たりえないブルジョアジーのあせりを反映して,ますます混迷と腐敗を強めていくだろう。その兆候が,三宅島噴火対策や都立広尾病院医療ミス事件への悪質な責任逃れのマニュアル配布で見せた都行政の悪辣な官僚主義化と腐敗の浸透の事態などである。石原都知事の政治的人格に反映しつつあるブルジョア独裁の官僚性や腐敗やモラル崩壊や権力私物化やごまかしや虚偽や山師的性格や傲慢さや無慈悲さや自己保身や幽霊崇拝や人間不信や猜疑心や強権性などの体質が都政全体に浸透していけば,都政から自発性や自由な論議の気風や積極的に責任を取る態度,民主性,公平性,正確な情勢判断,的確な政策判断,都民との結びつき,都民にたいする責任の遂行,等々の積極的な要素はますます押しつぶされていくだろう。すでに,都が選んだ委員による,新設される都営地下鉄の名称の提案が,石原都知事の介入によってひっくり返った例がある(都営地下鉄「大江戸線」)。
税収を確保するとして大銀行への外形標準課税を決定し,都職員給与を低め,三宅島噴火対策の出費を渋り,福祉予算を削減するなどしたほどの都財政のひっ迫が強調される中で,これまで最高の3億円の経費を使用した東京都総合防災訓練の異常な突出には,都民の生命と財産を守るためという名目の下で,自衛隊の治安出動訓練をなんとしても実現したい石原都知事とブルジョアジーの狙いがあった。
いざという場合に都民全部の生命と財産を守ることなど最初から不可能なのはわかりきっている。そこで大多数の都民には自己責任だからと自衛手段を取るように求めながら,ブルジョアジーの生命と財産を守るために自衛隊の災害・治安出動の訓練をやりたかったのである。銀座での自衛隊などの災害訓練は,その近辺にある企業や官庁を守るためというかれらの狙いを見事に示している。それは,実際に大地震の際に大きな被害が出ることが予想されているのは木造家屋が密集する下町などの地域であるが,そうしたところでどう人命や財産を救うかという想定の訓練がなかったことでよりあきらかである。
三宅島噴火対策の実際で,石原都政には,住民の生命と財産を本気で守る気がないという事実が明らかとなった。それにもかかわらず,一部マスコミは,これで大災害時に自衛隊が災害救助で活躍できれば,人々の生命や財産を守ることができるかのように肯定的評価を与えている。しかしごく普通に考えてみれば,自衛隊の応用技術にすぎない災害救助活動がどの程度役立つのかという疑問が生じるだろうし,自衛隊が災害救助よりも主任務優先で活動するに違いないということはわかるだろう。
石原都知事は,一方では幽霊信者であるが,他方では三宅村噴火火災では全島避難の必要を否定して言った火山噴火予知連絡会の専門的な科学的見解を見るという俗流唯物論者である。かれは,ブルジョアジーがそうであるように,国家主義者としては観念論者で幽霊信者であるが市民社会の立場,ブルジョア市民(シトワイヤン)としては,俗流唯物論者なのである。このような石原都知事の国家主義者として観念論者であり幽霊信者であるが市民社会(ブルジョア市民)としては俗流唯物論者であるという矛盾を解決できるのは唯物論の立場であり,無国家無階級社会の社会的人間であるプロレタリアートの立場だけである。この立場からは,三宅島の島民も大規模災害時の被災者も,相互に関連しあう社会的人間として,切実な関心の対象として具体的に関係できる。その立場からは,官僚主義的な対応も自衛隊が過大に活躍するような無益な防災訓練なども必要ないことは明らかである。
また,国家権力中枢,企業中枢が集中する首都東京において,古典経済学を信奉し,資本の自由とブルジョア独裁権力を形態的にも体現しようとしている石原都政の下では,ブルジョアジーのますます野放図な搾取が強まり,プロレタリアートの一部上層を加えたブルジョアジーと上層がますます富み,その対極にますます零落するプロレタリアートの大群が生み出されるだろう。すでに,上層労働者と下層労働者の所得格差が拡大しているという調査結果が現れている。石原都政の下では,この格差はますます拡大し,上層のブルジョアジーへの接近とブルジョア化が進むだろう。
石原ブルジョア都政にプロレタリア的未来を対置しよう
それに対してプロレタリアートは,三宅島噴火災害に悩む三宅島民に同情と連帯の意を現し,行政が島民の生活を誠実に保障することを求めるだろう。またプロレタリアートは,予想されている大規模災害に対しては,災害専門集団を創設し,阪神大震災時に現れたような人々の社会性の水準の高い協同を組織し,実現することで対応するだろう。共産主義者はそれを意識的に体現し,そのような社会性の水準を高めていくためのあらゆる活動を実践していく必要がある。
防災という点では,プロレタリアートは全住民の民兵を組織し,防災・災害救助専門集団が防災のための知識と技術を誰にでも提供し,全住民が防災知識・技術を習得できるようにする必要がある。それから災害対策の重点をすでに耐震構造を備えた立派なビルを持っているような企業オフィスや官庁の集中する高層ビル街ではなく,小規模店舗や小規模工場や木造住宅や耐震耐火設備があまり整っていない住宅地域におくべきである。それは阪神大震災で犠牲が集中した地域を見れば明らかである。その他,具体的に対置されなければならないことはいろいろある。本稿は,ここまで最近の二つのケースについて主に取り上げて大まかに検討してきたにすぎないが,それでも石原都政の本質的な問題点についてはかなり明らかにすることができたものと考える。
こうした階級差別,社会的差別を強め,階級抑圧を強め,反人民的なブルジョア政治を代表し代弁している石原都政にたいして,プロレタリア人民は,自らの社会性を高め,団結して,労働の解放と力を対置し,自由,平等,絶対的富,社会的人間,協同社会,等々の共産制社会という未来を代表し,対決しなければならない。