資本主義世界分析−マルクスは復活したか−(5)
斉藤隆雄
226号(2000年6月)所収
・「第三世界」とは何か
本誌5月号の流氏の文章と重複することになるが、「第三世界」規定については今日再検討が必要になってきている。それは、統治形態や政治状況に関しても、また国家経済や経済生活についても、あるいは社会変革の方向性についても、様々に検討されなければならないだろう。社会革命のこれまでの枠組みや運動それ自体が変革期にある以上、世界全体の認識もこれまでのような定型的な切り口では解明できない事態が、次々と生まれてきている。これらに立ち向かおうする時、我々は可能な限り事態を精査しなければならない。
今回、旭氏の論文を検討するというよりも、「第三世界」と呼ばれる諸国の現在の概観を捉え、帝国主義諸国との経済的収奪構造・関係を描ければと考えている。
表1の統計からは見ての通り、世界人口の16%の人々が、世界の80%近い富を所有していることが分かる。とりわけ、インドとサハラ以南のアフリカ諸国は、合わせて27%もの人々が生活しているが、彼らの富は世界全体の2%を僅かに越えるだけである。
当然、これらの数字は貨幣で換算された富であり、統計である以上、実態を垣間みる道具であるにすぎない。にもかかわらず、ここに示された格差は我々がこれまで使い慣わしてきた「第三世界」という地域の現実を表す格差であるように見える。しかし、この広大な地域を一括りに見るには、経済格差という観点からだけでは限界が生まれてきている。政治闘争における路線問題から区切る観点はここではひとまず埒外としておくとしても(ここでは、ソ連邦崩壊以降、言葉の意味で「第三」ということ自体に意味をなさなくなってきていることは確かであるが、そのことも含めて検討はしない)、人々の生活世界を規定する経済的現実は、ここへきて変容してきていることは確かである。
80年代中期以降、IMF・世銀の融資プログラムへの批判が国連諸機関内部においても生まれ始め、国連開発計画がGDPでは見えない実態を平均寿命や教育という観点から見ようとしている。また、復元不可能な乱開発を防ぐために、あの世銀でさえ名目的な環境ガイドラインを設定せざるを得なくなっている。
表2の統計は低所得国と中所得国との違いがいくつか見える。特に注目すべきは、農業に関わる数字である。これは第三世界が資本主義的な発展過程の一律な軌道上にはないことを示している。
旭氏もこのことを第二章で言及しておられる。
「…多国籍企業を軸に展開しているグローバル経済は、帝国主義国においては規制緩和、第三世界のアジアにおいてはNICS-ASEANとつづくプロダクトサイクルまたは雁行的発展と呼ばれている。中南米においては明確に新自由主義と呼ばれている。
それはポピュリズムと輸入代替路線からの、開発独裁・軍事政権を経ての、転換を意味している。」p83
つまり、明らかにアジア・中南米諸国の一部では、その資本主義的な発展が、その他の「第三世界」とは異なった段階に達していることを示唆されたと思われる。このことを旭氏は多国籍企業との関係から述べられているが、むしろ逆に「第三世界」と呼ぶ場合の経済的な現実は、資源収奪構造をその基本に置いていたことを考えれば、輸入代替路線から今日の「新自由主義段階」への「発展」は、それとは相対的に異なる様相を示している諸国との対比として述べられる必要があろう。
表3と4は「第三世界」を含めた資金循環を示したものである。注目していただきたい数値は、対外借り入れ項目の銀行からの資金調達である。アジアにおける銀行の融資が他の地域と大きな違いを示している。また、それに対比して、アフリカにおける資金循環はきわめて乏しい状況が一目で気づかれるだろう。年々、直接投資が拡大していく中でも、アジアにおける活発な投資活動に比して、アフリカにおけるそれは限定されたものとなっている。
これらの傾向は、先の旭氏の指摘を証明している。彼と同様に「第三世界」規定の下に世界の貧困化をIMF・世銀との関連で述べられた文献から引用してみよう。
「1970年末ごろから東南アジアと北東アジア、中国、ブラジル、メキシコ、東欧のような主要な経済成長地域で新しい自由貿易地域が形成されるようになった。そして、このような産業生産の世界化は、製造業分野に幅広い影響を与え、第三世界の産業は、自動車、造船、航空機組立、武器生産のような、ほとんどの分野を網羅するようになった。」(チェスドフスキー『貧困の世界化』p74)
チェスドフスキー氏は今やプロダクトサイクルさえも無効になりつつあり、先進国に残されたサービス産業さえ第三世界へ移転しつつあると指摘している。それは、連結決算やインターネットの発達で、情報を瞬時に移動できるからだと言う。
これらのことから何を見るかという結論は、もう少し置くとしても、忘れてはならないもう一つの現実を見ておかねばならない。
それは、世銀が規定している「発展途上国の分類」である。彼らは「一人当たりのGNP」を基準に世界を四つの国家群に分ける。低所得(785ドル以下)低位中所得(786〜3115ドル)上位中所得(3116〜9635ドル)高所得(9636ドル以上)である。開発銀行によると、この低所得国は更に、LLDC(後発発展途上国)とLICs(低所得国)に分かれる。LLDCには、48カ国がリストアップされているが、その内アフリカ諸国が33カ国に上っている。そして、これらの国々は明らかに先進国からの援助・債務に苦しんでいる。
一例を挙げれば、債務負担率の輸出比が1000%を越えている国はアフリカを除いては存在しない。ギニア・ビサオ4073%、ブルンディ2012.3%、スーダン1766.1%、エティオピア1224.3%、ルワンダ1132.8%、モザンビーク1079.8%等など。対GNP比が 600%を越える国さえ存在する。これらの国々は多国籍企業さえ投資しない国々である。IMF融資と公的融援助以外には、植民地時代の歪曲された政治経済構造を改革する術を知らないと言ったら、言い過ぎであろうか。
旭氏の改革プログラムは、アセアンや中南米諸国の運動を取り上げつつも、「工業化のプランを第三世界の側から自足的なものとして提出できない。」と判断し、これまでは、「ソ連との関係で対案が提出されていた」とし、今日では「サパティスタのごとく限定的な運動または権力への対置に止まらざるを得ない。あるいはそれらへの歯止め、チェック機能や、内発的発展論のような自然・環境問題と結びついた、現実的に可能な枠組みの対置に限定されている。」とする。そして、「トータルな第三世界の社会革命、政治革命はそれらの中から生み出されるか、あるいは帝国主義、旧社会主義の革命運動と同時に生み出されるか、であろう。」としている。
これらの呑気な世界認識では、世界資本主義の強大な発展過程の中で分断される世界に意味のある提起はできないであろう。むしろ、チェスドフスキー氏の貧困化論の方が世界資本主義の行き着く先を指し示しているだろう、と思われる。ただ、我々はこの「貧困」概念そのものを、貨幣で表された富の意味そのものを問う闘いとして、あくまで資本主義世界の現実を描き切る作業が、今問われていると考える。
利子生み資本の運動の巨大な流れが世界に暗雲をたれ込めている中で、各地で生まれている変革の動きは、ただ単に古い社会主義や工業化などとは断絶したものと捉えるべきである。またNGOやイスラム文化圏での機能資本主義とも言うべき資本循環社会の構想は新たな政治構造の創造と共に、萌芽的な改革の課題を提起していると思われる。
長きにわたって旭氏の論文を素材に論じてきた本稿もこれで終わりたい。今日の資本主義世界をこれで分析できたなどとは思っていないが、これから明らかにすべきいくつかの課題ははっきりしてきただろうと思われる。第一には、国際金融市場の歴史的発生過程が事態の解明に役立つだろうということ、第二に利子生み資本の運動の貨幣としての使命に如何に終止符を打つのか、という課題も浮き上がってきている。
次の機会にはそれらに少しでも応えていく作業ができればと考える。
参考文献
ミシェル・チェスドフスキー『貧困の世界化−IMFと世界銀行による構造調整の衝撃』
1999年 つげ書房新社
アジア経済研究所『経済協力ハンドブック』 1998年版
『世界国勢図会』 97/98 国勢社