革命のイメージ−断章
流 広志
225号(2000年5月)所収
まず,革命と言えば,大デモンストレーション,ストライキ,暴動,蜂起,内乱,内戦,市街戦,ゲリラ戦,等々というイメージで語られることが多い。それはこれまでの歴史上の革命の現象からつくられたイメージとしては正確な描像といってよい。最近でも,ルーマニアでチャウチェスクが打ち倒された革命は,炭鉱労働者のデモとストライキ,チャウチェスク支持のために集められた集会の反チャウチェスク暴動への転化,政府軍や治安機関の分裂による反チャウチェスク派へ寝返った軍と治安部隊とチャウチェスク派の軍隊と治安部隊との内戦,反チャウチェスク派の大衆的権力機関の創造,チャウチェスクの逮捕と処刑,等々,という伝統的な革命の形態をとった。
それに対して,ポーランドの場合には,自主管理労組「連帯」の合法化と権力参加による平和的政権交代という経過をたどり,伝統的な革命の形態とは異なる革命過程をたどった。ポーランドでは,反体制運動のセンターとしては地域自主管理労組「連帯」が唯一といってよい存在であった。地域労働運動がポーランドにおける反政府闘争のヘゲモニーをひきうけなけければならない状況にあったのである。政労合意という形での妥協と政権参加への道は,結局は選挙による「連帯」系候補の圧勝,政権交代につながる。
両者の特徴の違いは,前者が人民戦線型という統一戦線的な運動のヘゲモニーがはっきりしない人民革命型であり,後者が労働運動のヘゲモニーが比較的はっきりしたものだということである。ルーマニアの場合は,少数民族の民族主義運動が果たした役割が大きかったことも特徴である。ポーランドの場合には,人口の多数を占める農民の影響がカトリック教会を通じて「連帯」運動に一定の影響をもったことも特徴的である。農民の間で根強い民族主義は国家の分裂を回避させる圧力となったと考えられる。
最近の革命的事件のインドネシアのスハルト体制の崩壊の場合はどうか。経過を含めてやや詳しく見よう。
与党ゴルカルの支配網と国軍による独裁体制を敷いてきたスハルト政権は,東チモール,イリアンジャヤ,アチェの独立運動を国軍とスハルト派民兵によって軍事的に制圧し,メガワティ派を謀略によって分裂させるなど反政府派を徹底的に抑圧してきた。スハルトは官製労働組合以外の労働運動をも徹底的に弾圧し,進出してくる外国資本に従順な労働力を提供することにつとめてきた。ODA(政府開発援助)などの援助や外国資本の投資に際して便宜供与の見返りに賄賂などを獲得するなどしてスハルト一族などの特権層の蓄財を進め,援助資金を無駄に浪費することを容認し,大規模開発に伴う地域・環境破壊などの住民の犠牲を放置してきたのであった。
スハルト体制への人々の不満と怒りは,アジア通貨危機によるインフレ,物価上昇によって一気に爆発した。学生が最初の火をつけた。メガワティ派の闘争民主党を支持する都市住民がそれに続いた。学生,住民と治安部隊の衝突が,スラム住民の行動を解放した。反スハルト・デモに続々と様々な人々が参加し始めると共に富裕な中国系商人の商店が襲われ略奪された。人々はインフレ・物価上昇によって失われた生活手段を取り戻そうとしたのである。スハルトは,自らの蓄財した富は減らさず,貧困であればあるほど生命線の度合いが高まる生活手段の価格を引き上げ,人々から奪うことによって,経済危機をのりきろうとしたのである。
スハルト退陣要求運動が最高潮に達する中,スハルト体制の支柱であった国軍の中に動揺が現れてきた。もう一つの体制の支柱であったイスラム団体の中で反スハルト派が大きくなってきた。この事態を見てスハルトを外から支える支柱のアメリカも日本も様子見を決め込んだ。スハルト退陣はもはや避けられなかった。
スハルトは退陣し,不当に拘束されていた民主活動家や戦闘的労働運動指導者や少数民族独立運動指導者などが続々と解放された。国軍のウィラント国軍司令官は反スハルトに移行し国民会議はイスラム穏健派のワヒドを大統領に選び,副大統領にメガワティ闘争民主党党首を選んだ。東チモールでは,国軍と独立反対派民兵による内戦が激化し,多数の難民が発生した。国連は,東チモールの独立を支援するために,オーストラリアを中心とする平和維持部隊を派遣した。オーストラリア軍を中心にしアセアン諸国の軍を加えた国際部隊は,独立反対派民兵などの武装解除と治安維持活動を進め,難民の帰還が行われている。しかし,独立までの道のりは険しく,混乱した状態が続いている。仕事もなく,教育もなく,政府機関もなく,軍隊もない,という状態であり,国際援助に頼らざるを得ない状態が続いている。
東チモールに続いて,アチェ特別州での独立派の動きも活発となり,国軍との緊張状態にある。そして,アンボン州ではキリスト教系住民とイスラム教系住民との武力衝突がくり返されている。
この場合,スハルト独裁体制は,少数民族独立運動と反独裁民主主義運動(メガワティ派闘争民主党と学生運動とイスラム教改革派),都市下層住民の暴動,によって打倒された。アジア通貨危機後のインフレ,物価上昇は体制危機を一挙に激化させた。この過程ではスハルト権力にたいする大衆的闘争機関や社会権力の創造はなく,ワヒド過渡政権(選挙管理政権)の成立と総選挙によるスハルト与党ゴルカルの敗退,闘争民主党や反スハルトのイスラム教穏健派や改革派の勝利,そしてワヒド大統領と闘争民主党メガワティの副大統領という反ゴルカル派の連立,議会制民主主義的解決という形でいったんの決着を見た。その後,東チモールなどでの独立運動の武力弾圧の責任をとらせたウィラント国軍司令官の解任,スハルト一族による不正蓄財の追及,アチェ特別州での独立派住民との直接対話,とワヒド大統領による大統領権限を使った統治権の大統領への集中が強められている。通貨危機からスハルト体制崩壊以来の経済危機と混乱は,徐々におさまりつつあるが,この一連の動乱過程で生じた債権の回収を求める日系企業の圧力が強まっている。
このように,インドネシアのスハルト体制の崩壊は,複合的な要素の絡み合いがあって,成功したといえる。この過程の大きな部分を見る限りでは,労働者階級や農民などの独自の要求ははっきりわからない。アンボン州での住民対立を見ても,その背景に植民地時代に役人などを独占したキリスト教徒へのイスラム教住民の歴史的な反発があると言われているが,衝突の原因が支配層対被支配層の対立なのかどうかはっきりしない。ジャカルタでの中国系の商店を襲撃し略奪した住民暴動にしても,意図的な煽動によるものか自然発生的な暴動であったか今のところはっきりしない。しかし一つ言えることは,アンボン州の場合は,住民の独自武装が進み自治の度合いを強めているが,ジャカルタの場合は,素手かそれに多少毛が生えた程度の武装に止まり,組織化の度合いも低いということである。ジャカルタにおけるプロレタリア民衆の解放闘争の組織化や自治化の進展はあまり進んでおらず,既存諸組織(イスラム系団体や闘争民主党系組織や国家,行政組織など)による秩序への対抗機関が生み出されていないようである。ワヒド体制成立後,こうした点でどのような変化があったのかはあまりよくわからない。
最近の革命的諸事件のうち,ルーマニアとポーランドとインドネシアの事例を簡単に見てみた。前二者の場合には,労働者階級の果たした役割が大きかったことがわかる。インドネシアの場合に,組織的な形での労働者階級の独自の行動というものは見られなかった。
インドネシアの場合に大きな役割を果たしたのは学生運動であり,労働者階級は大衆の中に紛れたままであった。インドネシアの労働者階級は増加しつつあるが,階級として独自に行動するにいたっていないのである。インドネシア改革を徹底的な前進に導くためには,労働者階級の行動が不可欠である。確かに学生・知識人の先駆的役割は大きい。しかし改革の首尾一貫した中長期にわたる前進を確実にする推進力は労働者階級の組織的行動によるほかはない。革命イメージとしては,人民戦線権力型のルーマニアと地域労働者闘争と政権参加による議会制民主主義的政権交代型のポーランドと先駆的な学生決起から都市貧民の暴動,民主派市民のヘゲモニーの拡大,少数民族の独立運動の発展,そして軍隊,イスラム教団体,与党ゴルカル派の分裂,スハルト退陣という経過をたどった複合型のインドネシアという差異を指摘することができよう。インドネシアの場合は,スハルト独裁打倒後の民主化の経過が不徹底の度合いが高い。それは恐らくワヒド政権が少数民族の独立運動や住民対立が激化による国家分裂の危機回避を最優先しているためと思われる。
以上のように簡単にいくつかの革命的諸事件を見ただけでも,こうした諸事象が豊富な具体性をもち,複雑で複合的な過程をたどっていることがわかる。かつてレーニンは,世界を三つの類型に分け,それぞれの革命の型を区別した。すなわち第一の型は先進資本主義的帝国主義諸国で,当時の場合は西欧諸国である。第二の型は封建諸国で,東欧諸国やバルカン諸国であり,封建制度が支配的である。第三の型は帝国主義列強の植民地であり,アジア,アフリカ,中東である。第一グループの諸国の任務はプロレタリア革命である。第二グループの課題はブルジョア革命である。第三グループの課題は,民族解放独立革命である。レーニンの主張の特徴は,すべての類型の革命において,その目的を達成する勢力のヘゲモニーをアプリオリに固定しなかったことである。ロシアは第二グループに属しているのでブルジョア革命が実現目的であり,ロシア社会民主労働党中央委員会の多数派はロシア革命のヘゲモニーはブルジョアジーにあることを認めていたが,一人レーニンだけが労働者階級のヘゲモニーによるブルジョア革命のプロレタリア革命への転化を主張したのである。そしてコミンテルン第二回大会の民族・植民地問題へのテーゼをめぐるインド代表ローイの主張に妥協し,第三グループの場合に「共産主義者としてのわれわれは,植民地国のブルジョア解放運動が,ほんとうに革命的であるばあい,われわれが農民と広汎な被搾取大衆を革命的精神で教育するのを,この運動の代表者が妨げない場合,そういう場合にかぎってこの運動を支持しなければならないし,また支持するであろう」という考えに達していた。
こうしたレーニンの世界の三類型への分類法は,第二次共産主義者同盟の「三つの世界論」にも受け継がれた。「三つの世界論」は,ロシア革命後の世界を労働者国家群・帝国主義諸国群・植民地半植民地国群の三つに分類した。この「三つの世界論」の分類法からすると,ポーランド,ルーマニア,インドネシアはどれに入るのだろうか。前二者は労働者国家群であり,インドネシアは植民地半植民地国群であろう。1990年代以降は,ポーランドとルーマニアは第一の群から第三の群へ移行しつつあると見てよいのだろうか。ようするに,過渡的中間的な形態というものをどのように見,分析,評価し,それからどのような革命の具体的形態が見いだされるのか,そしてそれはどのような革命の戦術を要求しているのか,についてはっきりした答えを探さなければならないのである。
革命のイメージについては,マルクスがブルジョア革命のイメージとして描いた疾風怒涛(シュトルム・ウント・ドランク)や連続的連鎖的な叛乱の爆発というイメージがある。それはイギリスの市民革命(清教徒革命)やフランス革命や1848年革命の過程から得られるイメージであって,それと19世紀型の革命(プロレタリア革命)のイメージをマルクスははっきりと区別している。この違いについては,マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』であきらかにしている(拙稿『宗教・法・国家・市民社会の一考察』参照)。
また,近年,複合型革命ということがいわれている。複合型革命とは,たとえばロシア革命が農民の土地要求運動と都市部の労働運動と南部などでの諸民族の民族解放運動が同時並行してツァーリズム体制を揺さぶり解体したという複合的な要因が重なった革命であったとするものである。レーニンはロシア革命の過程をすこぶるむつまじく革命を前進させる諸要因が重なり合ったと述べている。もしこれら三つの運動が相互に対立し合ったなら革命は違った経過をたどり,もしかすると失敗に帰したかもしれない。
マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中で,プロレタリア革命を敗北の中からくり返しよみがえる不死鳥のようなイメージで描いている。同時に,フランス三部作でマルクスはフランスの階級闘争の過程を諸階級階層と諸個人の絡み合いとして複合的に描き複合的因果を解きあかしている。
ここで確認しておきたいことは,革命の過程の複雑性ということと革命イメージの多様性ということである。それは,ブルジョア革命の純粋さとか単純さとかイメージの類型の単一性とは反対のものである。それが現代プロレタリア革命の特徴であることは,最近の歴史学におけるブルジョア革命の複雑性や多様性への着目という事実に現れている。それはブルジョア革命への反省がその単純性に及ばざるを得ない証拠である。例えば,フランス革命が封建制度をくつがえしたブルジョアジーによる進歩的革命であったとする単純な見方は,そこでプロレタリアートが果たした革命的役割を覆い隠すものであった。それにたいして,職人の歴史への注目はそうしたブルジョア中心史観を転覆しつつある。
マルクスが描いたプロレタリア革命のイメージの象徴=不死鳥は,何度も死にながらよみがえり,多様な歴史をくり返し生き抜く豊かな歴史体験の蓄積というプロレタリア革命の内容の根源性を見事に表している。このような資本によって奪われている多様で豊かな内容の獲得は,プロレタリア解放運動の生き生きとした躍動する生命力の発現する社会の実現によって発展させられるのである。このような内容をもつプロレタリアの団結を発展させる意識的要素である共産主義者とその党の闘いを通じて,プロレタリア解放運動の前進を促進させなければならない。
ここまで少々とりとめのない革命イメージをめぐる断章を描いてみた。それはあくまで,現代革命の類型論が必要ではないかという考えがあるからである。具体的に言えば,それは反帝反スタ論や毛沢東の「三つの世界論」などでは,世界現実を正確に反映する類型が得られないと判断するからである。ソ連・東欧体制崩壊から10年たったこの世界の現実を類型的にどのように捉え,分類し,そしてどのように革命を展望し,戦術を確定していけばよいのか,を思考してみたわけである。読者にも是非とも考えてもらいたい。