共産主義者同盟(火花)

日本の階級階層の現状について  

流 広志
224号(2000年4月)所収


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 1. 神奈川県警の不祥事から新潟県警と警察庁幹部の不祥事その他おおくの警察不祥事が相次いで発覚している。昨年には,自民党・公明党・自由党の巨大連立政権によって数の力で成立させられた通信傍受法や団体規制法(オウム新法)を手中にした警察は内部腐敗し崩壊を深めている。この過程が警察崩壊だというのは,いわゆるキャリアとよばれるエリート層が腐敗しているだけではなく,ノンキャリアの現場警察官の犯罪が多発し警察組織全体での犯罪隠しなどの組織自体の腐敗が生じるなど個人レヴェル・組織レヴェルでの腐敗が蔓延しているからである。また自民党政治家秘書と新潟県警交通機動隊幹部らによる交通違反もみ消し事件は,一部政党による法律違反の犯罪がなされていたわけであり,それは与党の徒党化というべき事態を意味する。
 この与党の徒党化というべき事態は自由党・自民党・公明党の連立政権の発足によってより明確となった。自由党は産業ブルジョアジーのもっとも保守的な部分を代表する。自由党の支持層は国家の強化に利害を強くもっている防衛産業や電力産業や鉄鋼業などの国家の助けによって成り立っている産業部門である。そして都市中間層の一部にウイングを拡げようとした。公明党は小ブルジョアジーを代表している。小ブルジョアジーは大ブルジョアジーとプロレタリアートの間を動揺しているので,複数の政党に分かれているか無党派となっている。
 公明党を支持する創価学会は,宗教イデオロギーと座談会などの方法で人為的に組織された宗教的共同体を基盤にし,そこで私利益追求に高い肯定的価値を置いた価値観が与えられている。かつては高度経済成長に取り残された下層大衆や地方出身の労働者などを急速に組織して急拡大していったが,1980年代以降は,その基盤はより上層にシフトしている。創価学会の基本理念は,世界平和や人類愛などの小ブル民主主義思想である。

 2. 自民党小渕政権はアジアとロシアの経済危機に端を発した景気後退の過程で経営危機に直面した大ブルジョアジーの危機感に押されて,産業ブルジョアジーの超保守的部分の代表である自由党と連立を組んで,赤字国債大量発行の積極財政政策をとり,大銀行への公的資金注入による救済を行うなど,なりふりかまわぬ大企業救済策を実行した。しかしながら今度は,中小企業や中小商店や農民などの不満が高まってきたので,小ブルジョアジーにサービスする必要が生じてきた。小ブルジョアジーの保守的な部分の離反が起こりつつあったからである。
 それにたいして基幹労働者の労働組合の「連合」は,景気後退の局面でその犠牲を押しつけられそうになったので,政府政策に対して発言し,それを阻止するために活動を活発化させた。それで,労働者派遣法,診療報酬引き上げ,年金改革法に反対した。その「連合」を最大の支持基盤にする民主党は,民主的小ブルジョアジーと労働組合幹部の同盟であり民主的小ブルジョアジーの政治党派である。民主党は社会民主主義政治潮流の一部である。社会民主主義潮流の中には,社会民主党と日本共産党不破−志位路線が含まれる。
 日本共産党については,1960年代後期から,スターリン主義か社会民主主義かという二つの見方があった。共産党宮本路線=民族民主革命路線をスターリニズムと見なすのは問題ないが,かつて不破−上田路線がヨーロッパ型の構造改革路線に傾いたことがあり,また,宮本の引退と不破−志位体制が敷かれた1990年代において,ユーロコミュニズム的路線が全面化してきた。確かに公式に宮本=民族民主革命路線が清算されたわけではないが,今の日共の政治路線は民主的小ブルジョアジー流の代議制議会政治を中心とした民主的社会変革路線を基軸としているのはあきらかである。現在の日本共産党不破−志位路線は社民化しつつあるとみられる。

 3. ではプロレタリアートはどうか。日本の労働者階級のうち,その上中層は労働貴族の指揮の下で労資協調運動に参加せしめられ,基幹労働者としての既得権の防衛に追われている。この対立緩和の条件の下での労資攻防戦で連合系労働組合は,雇用の確保という最終ラインにまで追いつめられた。2000年春闘は,ベアゼロ決着がならぶという最低の賃上げに終わったし,横並びも崩れ企業間の賃金格差拡大を防げず,春闘不要論すら叫ばれる惨憺たる結果に終わった。しかしそれでも組合員の雇用がまがりなりにも確保できた基幹労働者と違って深刻なのは中小企業労働者であり下層労働者である。例えば日産のリストラは,基幹労働者の雇用は人員削減を自然減によって進めるものであるが,関連下請け企業の場合は,日産のリストラによって受注減−仕事減−人員削減−失業という事態が目に見えているわけである。この際に予想される下請け零細企業の倒産増加や失業増大による中小零細企業や下請け労働者の不満や怒りの激化や先鋭化を押さえ,階級闘争の対立を緩和するために国家=政府は,助成金や融資制度などの施策を実行している。しかしその対策に要する資金は税収減のため限界があったが,この金欠状態を一時的に解決したのが赤字国債の大量発行である。しかしそのツケはいずれ必ず人々の肩に重くかかってくるのである。そのツケを回されるのは,現在の若者だけというのは嘘である。すでに日本は世界有数の長寿国になっているのであり,国債償還期限には現在の壮年部分にもツケは必ずまわってくるのである。そしてこの国債こそ金融ブルジョアジーのかっこうの致富源泉となるのである。

 4. 他方,中下層労働者は組織されておらず労働者の団結がつくり出されていない。そのために中小企業労働者やパートや臨時労働者や派遣労働者や失業者や半失業者からなる中下層労働者は孤立分散状態にあり,その要求をつきつけたり自分たちの力を示すことが困難になっている。「連合」は未組織労働者を労働組合に組織することを方針に掲げているがそれはほとんど実現されていない。それに対して地域合同労組やユニオンは個人加盟方式をとって未組織労働者の組織化を前進させている。そして雇用流動化といわれる情況の中ではかつての終身雇用制とは違って職場をつぎつぎと変わりあるいは修業形態が変化するのでそれに対応した組織化と団結の形態が求められている。インターネット労組という形態はそうした試みのひとつである。このように本工基幹労働者と中下層労働者の境遇には大きな違いがある。ついに3月の完全失業率は史上最悪の4・9%になった。男子労働者は5%を超えている。中下層プロレタリアートの組織化と失業者との連携を打ち立てることが急がれる。
 この現在あまり組織されていない未組織の中小零細企業や下層労働者や失業者や半失業者を労働組合その他のプロレタリア組織に組織することは,現在のプロレタリアートの課題であり,そうした試みを共産主義者も支持することはもちろん必要なことである。しかしながら共産主義者の課題はそれにとどまりはしない。

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 5. 1998年7月に発足した小渕政権は,翌年1月には自由党を加え10月には公明党を加え,三党連立政権へと転化した。それが,産業ブルジョアジーの国家援助に依存している超保守的な部分と小ブルジョアジーの一部と金融独占ブルジョアジーなどの大ブルジョアジーと農民の保守的部分や中小商工業者の保守的な部分と上層官僚の一大政治ブロック形成の試みであった。その中で,当初,ヘゲモニーを強めていたのは自由党小沢である。しかしその政策は,大ブルジョアジーや官僚に対する露骨なサービスであり,小ブルジョアジーや労働者にはたいした恩恵のないものであった。大銀行への税金投入や大型公共事業への大出費は小ブルジョアジーや労働者の不満を深めた。そうした不満をそらし,この大ブルジョアジーにたいする小ブルジョアジーの不満と怒りを沈め,その怒りの矛先を鈍くさせるために,公明党提案の地域振興券が配られた。そこで公明党は見事に小ブルジョア民主主義者として振る舞い,資本と賃労働の対立や大資本と小資本の間の対立の激化や先鋭化を鈍らせ,対立を緩和させようとしたのである。ブルジョアジーは資本と賃労働の対立を鎮圧されるためにも緩和させるためにも国家を使うがそれを独裁的に使うのである。小ブルジョアジーはその地位から階級対立の激化や先鋭化の兆しを感じとるとそれを緩和させ平和的,民主的,議会的に解決することを欲するのである。
 連立を組むまでは自民党やその意向をくむ雑誌やマスコミなどが公明党に猛烈な脅しをかけることで小ブルジョアジーを挑発した。公明党はこの脅しに屈して連立に応え,大ブルジョアジーはこの対立緩和策を受け入れて和解し,都市小ブルジョアジーの一部を取り込んだ。こうして自民党は,大資本と小資本の対立という懸案をかたずけた。

 6. つぎに片づけなければならないのは「連合」と手を組んでいる民主的小ブルジョアジーである。「連合」は,企業レベルでの労資協調路線を取りながら,議会政治のレベルでブルジョアジーのための政策に反対し,議会工作を活発に展開している。それはとうてい現存の資本秩序を根幹から揺るがすようなものではないが,政権維持が至上命題となっている自民党からすれば,放置すれば民主的小ブルジョアジーと民主的ブルジョアジーと「連合」による社会民主主義勢力の政権奪取につながりかねないという危険を感じ取ったのである。そこで政調会長亀井は労資協調路線を批判して,「連合」と大ブルジョアジーをたがいにけしかけるためにチェックオフ制度の禁止を法制化しようと考えた。
 これは政治手法という点からだけ見ればボナパルティズム的手法といえる。しかしながら,ルイ・ボナパルトのボナパルティズムは,分散し零落した分割地農民の保守的な部分を基盤としていたのであり,現在の自民党の基盤は未組織分散の零落した保守的分割地農民ではない。自民党の農村の支持者は,農協に組織された農民であり,国家や自治体などの保護政策の恩恵を受けている農民であり,農村整備事業や農地整備や補助金などを受けている持てる農民であって,フランス第二帝政の基盤となった保守的な零落した分割地農民ではない。しかもさきの選挙制度改革によって相対的に農村票の重みは減少したのである。したがって自民党の狙いはチェックオフ制度の廃止を通じて都市部労働者を支持基盤として組織できるように労働組合の枠から離れさせることなのである。それを通じて都市に大きな基盤をもちたいという従来からの念願をかなえようというわけなのである。
 この間,本工基幹労働者や中間層(ホワイトカラーや中間官僚や中位技術者など)の保守化ということがいわれているが,そうした層は分散して存在していて保守系団体に組織されていない。それどころかこうした層は組織離れの傾向があり自民党的体質を毛嫌いする傾向がある。だから自民党が都市部のこうした層を保守派に組織するためには,その組織体質そのものを変革しなければならないのは明らかである。だがなにもなされていない。新保守派の自由党は党首権限を強くしたトップダウン方式の党運営方式を取り入れたがそれはこうした層ばかりではなくその他の部分からも支持されなかった。わずかに一部ブルジョアジーや上層官僚や知識人の一部に支持を見いだしただけだった。保守系マスコミの一大キャンペーンにもかかわらず,都市部での中間層の保守組織はできていない。そのために,ついに自由党は分裂し,小沢から分かれた保守党は自民党の伝統的支持基盤と組織に頼らざるを得なくなったのである。これで新保守主義による保守二大政党制の目論見の破綻が明らかとなった。小沢「普通の国家」路線は大打撃を受けたのである。公明党は,宗教指導者の絶対的権威を容認する創価学会の方式に似た一部幹部のトップダウン方式をとっているがそれにたいする一般の人々の拒否反応は強い。

 7. そして自民党は忘れている,国家権力をうわばみのように社会にからみつかせ,社会の活力を絞め殺すことに貢献してきたのはほかならぬ自民党自身であるということを。たとえば自民党−文部省は,国歌国旗法を制定し教育委員会を使って教育現場で日の丸・君が代を強制し,国家による教育介入を強めた。教育は社会の必要事であるが国家の必要事である国家官僚エリートの養成過程に従属させようとしている。学校教育が国家官僚エリートの養成過程とすれば,そこで国家国旗があるというのはとうぜんであるが公教育を国家官僚養成過程とするという明文規定はない。しかし現実にはそうなっていることは誰でも知っている。日本の教育制度が東大法学部を頂点としているといわれるのはそこが国家官僚エリートの最高の養成機関だからである。つまり日本の教育制度はこの頂点に向かう選別過程を軸にしているのである。そうした過程の中で成長してきた文部官僚エリートにとって公教育での国家国旗の存在は強制ではなく自然な環境のように認識されている。文部官僚エリートとの日常的なつきあいの中で頭の中が一体化している与党自民党も同じであり,かかる抽象的な頭には,学校行事での国旗国歌の強制という事態の具体性を捉えられなくなっているのである。頭を地上に降ろしてこの事態を捉えるならば,もともと教育は社会的な必要事であり,だからこそ社会自治という領域に置かれていることの歴史的社会的意味を見失うことはなかっただろう。そしてなによりも,かれらは国家主義とか民族主義とかによる国民としての統合の解体の進行に焦り,国歌国旗による仲間意識,共同体意識の注入による統合の再生にのりだしたのである。だがそれは社会現実と矛盾するものであり結局はむなしい道徳的説教に堕するものにすぎない。それは有形無形の抵抗によってぼろぼろになっていかざるをえない。それは大ブルジョアジーと国家との癒着の証拠であるが,今日の情況では社会発展の傾向との矛盾を深めざるをえない反動的施策の一つである。
議会政治という場を見る限りでは,かつて自由党小沢らが描いた保守対保守の二大保守制という絵は破綻つつありそれは自由党の連立離脱と分裂が明らかにした。新保守主義による新たな都市保守派の創出は失敗に終わりつつある。今現在は保守と社会民主主義という対立軸が見えてきているがそれは階級的には大ブルジョアジーと民主的小ブルジョアジーの対立を意味する。

 8. プロレタリアートにたいしてはどうか。まず「連合」はプロレタリアートの真の代表者ではないということを確認しておかなければならない。先に述べたように,プロレタリアートの中下層の多くが組織されていないのであり,この部分の政治的代表は議会にいない。個々の労働者の利害や考えを個々のケースで満たしてくれる議会政党はある。失業者が就職を自民党議員に世話してもらったとか零細企業に雇用調整助成金がでたために雇用が守られたとかいう個別労働者の利害を満たす政治家や政党はあるが,それはプロレタリアートの階級利害を代表することではない。ブルジョアジーの階級利害を代表するという場合も同じである。たとえば,東京都の石原知事による大銀行への外形標準課税導入にたいして全銀協代表は,この大銀行への外形標準課税には反対だが条例には従いながら東京都を相手にした裁判を起こすと言った。そこには現存秩序そのものは傷つけないという階級利害を守りながらこの秩序の枠内での対立と闘争を行うというブルジョア利害がはっきりと現れている。
 同じように,プロレタリアートが現存秩序そのものをすなわち賃労働と資本の対立を基礎から攻撃するという階級利害を貫徹することは,個別の労働者の個別利害の貫徹ということとは違うのである。共産主義運動は,個別利害の要求実現を追求するのはもちろんだがそれにとどまらず階級利害の貫徹を追求する。かかる階級利害を政治的に構成し代表することは共産主義者の任務である。現状ではプロレタリアートの独自の団結は形成されておらず,一部は広い意味の社民勢力の民主的小ブルジョアジーに従っていて議会でもブルジョアジーとプロレタリアートとの純粋な対立と闘争は現れていない。

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 9. 小渕首相の病による内閣総辞職と森内閣の発足は,緊急事態を受けての小渕路線の継続を掲げた政権の誕生で,基本的にはこれまでと変わりがない。小渕流の個別的な政治手法は失われようが,政治内容は同じである。それは4月7日の所信表明でもあきらかで,新鮮味に欠けるわけである。4月17日の最初の所信表明演説で森新首相は道徳心の欠如を教育問題の根本と認識するという現場の教育関係者の認識と完全にずれたことを平然と主張した。そこで道徳心の欠如といわれているのは,具体例としてあげられている事例である学級崩壊ということから言えば,それは現在の一時限単位の教師一対40名程度の対面方式の一方方向の知識授与の授業形態が資本制工場や職場の作業形態への習熟過程であるがその作業形態が変化していることと齟齬をきたして矛盾を深めていることの結果として起きているのであって,前者を代表する社会規範と後者を代表する社会規範との交代の過渡的現象としてあるのである。それは新たな社会規範と価値観の変化の傾向が伝統的規範と価値観と衝突している現れである。それなのに日本の伝統や旧価値観の枠組みと整合させるという矛盾を激化させ先鋭化させる方策をとろうとしているのである。
 また森内閣は九州沖縄サミットを成功させ,沖縄にたいしても前政権の方針を受け継ぐとしている。それが意味するのは,普天間基地を名護市辺野古沖に建設する海上ヘリポートへ移設することであり,それに15年の使用期限をつけることをアメリカ側に認めさせる交渉をするということである。ところがこの名護市議会での基地移設反対決議を無視したばかりか受け入れ条件として地元と沖縄県が出した15年の使用期限についてはまったく消極的態度に終始している。この態度もそのまま前政権から受け継ぐということは明らかで,保守県政がつけた最低限の条件すら実現されそうにない。沖縄県議会は,先日,沖縄県政を糾す有識者の会と国旗国歌推進沖縄県民会議が1999年9月21日に提出した「県の外郭団体など、あらゆる県の機関から『一坪反戦地主など』を役員から排除すべき」という陳情書を賛成多数で採択した。ついに沖縄の保守派は一坪反戦地主らの反戦反基地闘争を抑圧する意志を露骨にあらわした。基地地代や基地関連収入やヤマト資本の導入による開発利益や観光・土木・建設など地元ブルジョアジーの利害の障害として反戦反基地運動の弱化を狙ったのである。それは沖縄を豊かにする道ではないし,ましてやその唯一の道ではあり得ない。なぜならすでに沖縄県が日米安保体制の基地負担の大部分を背負わされていることによって政府の特別の支援を受ける当然の権利があるのであり,また政府には県民所得の低さや失業率の高さを国民の平等という点からしてもこの状態を改善する責任がある。かかる不平等をなくすことが必要であると同時に沖縄を侵略基地化する米軍基地機能強化の普天間基地の名護移設は容認できない。名護−沖縄の反戦反基地感情は根深く,種々の妨害をはねかえして運動を持続させているし,ヤマト側での労働者などの連帯活動が活発に展開されている。内容として国際主義的なヤマト−沖縄プロレタリアートの連帯と共同行動を発展させなければならない。

 10. 社会全体に蓄積されているこうした根深い矛盾と対立は,解決を求めて圧力を高めている。とりわけプロレタリアートの根本要求が代議制民主主義の下で政治代表部をもっていないためにそれらは潜在化している。それから同じように議会代表をもっていない下請け零細企業の下層小ブル部分があり,やはり同じ状態にある失業者の大群がある。しかしこうした部分について,議会に代表をもっていないが,法律家や文筆家や学者や戦闘的労働組合や左翼政党などの代表をもっている。
 それらは代表を自称しているだけで労働者や失業者や零細小ブルジョアの代表などではないと思われるかも知れない。ラクラウ・ムフは『ポスト・マルクス主義と政治』の中でそういうことを言っている。しかし,例えば労働組合のない地方の小企業の労働者が「連合」のことなど知らず自らの代表として認めていなかったとしても,「連合」の春闘によって決定される賃上げ率はこの労働者の賃金上昇率にも影響を与えるのである。確かに代表するものと代表されるものとの間にアプリオリな関係はない。しかし一般に代表するものは代表しようとするものであり,そのために代表されるものの状態を研究して代表されるものとしての内容を形成していくものである。それが正確に現実に照応しているかどうかは歴史が証明するのでありそれが政治闘争の一般的な過程なのである。
 ラクラウ・ムフは,代表されるものと代表するものとの間にアプリオリな必然的関係がないという主張をもとに,党は肯定的な役割を果たすか否定的な役割を果たすかどうかは,状況によるとしている。この役割評価の規準は民主主義とされる。社会主義は民主主義の一契機としているのである。ラクラウ・ムフは,徹底した民主主義が社会主義革命に転化するというレーニンのテーゼも,中間層や小ブルジョアジーは統一した階級となることができずに,ブルジョアジーかプロレタリアートかのどちらかにつくか中立化するかその他であるかであるということをも無視している。これは民主主義革命が完成してから遠い将来に社会主義になるという日本共産党やユーロコミニュズムの二段階革命路線に似ている。それから失業者の存在を労働者階級の統合の解体・分散化の証拠と述べているが,失業問題は遠い昔からあったのになぜ今頃になってそれが労働者の統合解体,分散を意味することになったのだろうか。疑問はつきないが,このような党を民主的統一戦線の一部とするかのような発想は党についての学者的な想像力の限界をあらわしているのであり,歴史現実の中で実在する政治党派の役割や機能や定在の具体的分析からする性格探求というものではないために一般的な参考対象になってもこのままでは実践上はあまり役にたちそうもない。それはスターリニズムの「マルクス・レーニン主義」教条主義者や新保守主義の教条的な右派などの脱構築には効果があるかも知れないが,そうした立場にない者にはどうということもなさそうである。もちろん理論をむりやり現実にあてはめてありもしない性質を現実に押しつけようというのなら話は別だが,まず二人が強調するようどんどん労働者階級が分散していくというようなことは少なくとも日本の現実には観察されないという一事をもってしてもそういえる。ラクラウ・ムフの主張はまだまだあるが,それらをつくりかえることで武器となる可能性があるのはいうまでもない。ここでは階級還元論批判のために階級階層分析を捨てると社会発展の原動力がわからなくなるし社会の現実を見失うということを強調しておきたい。

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 ここまで最近の日本の階級階層の状態のスケッチを試みたわけだが,それから導き出されることは,日本の支配階級の統治危機が深まりつつあるということである。
 警察機構の内部崩壊はその現れである。階級闘争の激化に対処するために進められてきた警察権力の警備公安警察化の果てに,ついには警察機構は公安委員会の無力化と警察への従属化を進行させ内部規律の溶解に陥った。冷戦体制崩壊によって大きな明確な敵を失った公安機関が相変わらず公安警備的発想のままで刑事事件を軽視しつづけ市民の安全を守るという表看板すら見失って,自己利益(エゴ)を優先させる体質を全面化させ,利権や出世や自己保身や天下り先確保などに奔走するまでに規律解体と組織腐敗と内部崩壊に陥っているのである。公安警察が政権与党政治家の私益に奉仕するケースはあるし,政権内でのライバル蹴落としのために警察や治安機関が動くことはニクソン大統領によるウォーターゲート事件をはじめ世界中にその例は多い。
 政治家秘書が警察幹部を動かして交通違反もみ消しを行ったことが暴露されたがこれは政治家が警察を私的な利益のために違法行為を行わせたものであり,警察が法にのっとって行動しないで,法に違反して個人の利益のために違法に動いたというケースである。ブルジョア独裁国家権力が法を超越した強制行動によって秩序を維持していることを知っている者にはなんの不思議もない事件である。そのことを知っている与党議員にとっては,この程度のことで罪となるならほとんどの議員が有罪となってしまうという本音がもれている。こういう警察が合法的盗聴という手段を握ったらどういうことが起こるか。昨年,自自公によって採決された通信傍受法(盗聴法)がこういう腐敗した警察によって運用されることは危険きわまりない。プライバシーを私益のために利用しようとする警察官が現れる確率は高まっているのである。
 こうした現存秩序の動揺の中で,プロレタリアートの組織化をすすめプロレタリアートに小ブルジョア民主主義を感染させて牙を抜いている社会民主主義潮流や「連合」幹部の影響の下からプロレタリアートを引き離して共産主義の側に移行せしめ,小ブルジョアジーや中間層を引き付けるか中立化させ,賃労働と資本の対立を根本的に止揚する階級闘争を発展させることが求められている。それは,支配階級の国家権力との闘争としてあると同時に差別解消をふくむ社会諸関係を変革する社会革命の発展としてある。そしてなによりもそれは,プロレタリアートの国際主義の実現としてプロレタリアートの国際連帯運動の発展としてあらねばならないのであり,排外主義との闘争やブルジョアジーと国家の海外まで手をのばした階級抑圧の階級闘争鎮圧活動との闘争をも発展させることと結合させなければならないのである。
 国際的な治安活動としてはレバノン・ヨルダン・ロシアの協力を得た日本赤軍メンバーの日本への逮捕連行があった。その背景には日帝の中東諸国へのこれまでの経済援助の実績やゴラン高原の国連活動への自衛隊の派遣や湾岸戦争での資金支出やパレスチナへの経済援助などの中東での日本のプレゼンスの増大や将来の援助をちらつかせての中東介入の本格化がある。だが岡本公三だけは政治亡命を認めざるを得なかった。それは岡本をアラブの英雄と認めるレバノン人民の力のためだ。それが経済的政治的国際的な思惑にゆらいだレバノン政府に政治亡命を決断させたのである。こうしたレバノン人民の団結した意志の力の壁が日本当局の前に立ちふさがったのである。レバノンのプロレタリア人民に連帯し治安当局が階級闘争鎮圧のためにこの事態を利用するのを許してはならない。




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