東欧「改革」のつきつけたもの(13)
流 広志
222号(2000年2月)所収
東欧経済社会の現状の一端
毎日新聞に1999年11月16日から11月21日まで5回にわたって連載された「冷戦終結10年第3部 疾走する市場 東欧経済の行方」と題する短い特集記事は,いくつかの簡単なエピソードによって,冷戦後の東欧諸国での西欧・アメリカ・日本などのブルジョアジーによる経済支配の進行の一端を伝えている。
それによると,ハンガリーの国営のバス・メーカーで,1980年代のピーク時には,年間1万2000台のバスを生産し旧ソ連・東欧諸国に供給したイカルスは,コメコン解散後,急速に販売台数が減少し,1998年のロシア経済危機でロシアからの代金支払いが滞り,倒産の危機に陥った。そして1999年6月にはルノー・伊イベコ連合との合弁会社「イカルス・バス」の設立に追い込まれた。「イカルス・バス」の株の過半数はルノー連合が握った。ルノーはさらに1999年7月にルーマニア最大の自動車メーカーのダチアの51%の株を取得した。その狙いは,ルーマニアの平均月収が1万円前後という格安の労働市場の魅力にある。さらに利益税の5年間免除の措置も魅力であろう。
ポーランドでは旧国営銀行がつぎつぎと欧米有力銀行の系列に取り込まれている。ポーランド政府による民営化政策の結果,ポーランドの銀行株式の60%が外資によって占められた。外資の狙いは,東欧で最大の4000万人の市場と5%をこえる高成長率にある。ドイツ2位のヒポ・ヘラインス銀行は,ポーランド南部の「産業商業銀行」の80%の株式を握った。また,すでに,EU市場向けの松下電器の一大電池工場,韓国の大宇の自動車工場が操業している。
スウェーデンの銀行は,エストニアの第1位と第2位の銀行を買収した。またフィンランドの世界最大の携帯電話会社のノキアやエリクソンの組み立て会社のエルコテックのエストニアのタリン工場の拡張など,直接投資が拡大されている。エストニアでは,安い労働力と個人・企業を問わず一律26%の所得税という簡素な税制が魅力となっている。
さらに,EU規格の高いハードルは,東欧諸国企業を苦しめている。ルーマニアの四輪駆動メーカーのアーロは,高性能で安価な中古車の輸入増加によって売れ行き不振に陥った。アーロは,EU加盟を目指す政府の公害規制強化によって低公害エンジンを輸入せざるを得なくなり,1980年代には年産2万台近くまで伸びた販売台数は1998年には国内向けのEU非適合車1500台,輸出向けの適合車が1000台の合計2500台に落ち込んだ。それでは採算が取れないため外資との合弁か倒産かという経営危機に陥った。
農村人口が30%強をしめるポーランドでは,農民は,農産物価格自由化以来,輸出奨励金によって安価に保たれているEUの農産物が流入してダメージを受けている。外国人にたいする土地売り買いの自由化に反対する農民デモが活発化し,EU加盟支持率は50%を下回った。1992年の土地私有化以来,ブルガリアでは,国営化された土地の元の所有者への返還が行われたが,土地細分化によって農業生産効率が低下した。EU向け輸出は,安全基準が高く,それをクリアするためには多額の設備投資が必要だが,政府からも民間からもその資金を得られない。生産量も1989年以前の約3割減少した。代わって,マケドニアやトルコ産の農産物が市場に出回っている。
この記事は,客観主義的に東欧経済の現状を羅列しているだけだし,労働者や農民の立場で書かれたものではない。取材の対象も,ブルガリアの協同組合農場や農民,ルーマニアのアーロの販売部門の従業員の他は,大企業幹部や政府幹部,研究者,知識人であり,あきらかに大ブルジョアジーや上層に偏っている。しかし,記事に示された客観的な事実や数字は,ソ連・東欧解体以後,市場経済化,民営化,EU統合参加推進,など,旧東欧諸国が競い合って進めてきた路線や政策による,労働者や農民や下層大衆の零落,生活の不安定さの増大,大国の大資本への系列化や従属化,の一端を伝えている。
EU構成国は,EU東方拡大の共同戦線をはると同時に東欧市場の分捕り競争を激しく展開しており,とりわけ安い労働力を使ってEU市場向けのまたアジア,北米市場向けの生産基地としようとしている大資本の利益に有利なようにEU加盟交渉を導こうとしている。そのために,EUは,輸出補助金をつけた安価な農産物を東欧諸国に輸出して,農業を破滅させて農村に過剰労働力をつくりだし,この過剰人口の圧力で労働賃金を低く押さえつけているのである。東欧諸国での外国産の安価な農産物輸入の増大による農民の零落への危機感は,農民の間に民族主義の感染をひろめる一因となっている。
NATOの東方拡大と東欧諸国をめぐる国際関係の現状の一端
1999年春,ついにポーランド,ハンガリー,チェコのNATO参加が実現した。しかしそれは,冷戦終結を受けて,NATOが従来の性格と機能を変化させ,NATO領域外での行動に重点を移し,人権抑圧などの新たな対処事項を加えてきている情況の下での参加であった。NATOにとっての安全保障上の脅威は,域外の人権問題にまで拡大することになった。ポーランド,チェコ,ハンガリーの周辺域外とは,東方と南方に拡がる地域である。そこには,ロシア,バルカン半島,がある。NATOの人道目的の域外活動の最初のケースは,ユーゴスラヴィアであった。
コソボ問題でのNATOの軍事作戦に対して,さっそくハンガリーが様々な協力を行った。周辺のNATO加盟諸国のうち,トルコは積極的に軍事行動に協力し,ギリシャは基地使用を拒んだ。ギリシャではNATOによる軍事行動を非難する大規模な抗議運動が連日繰り広げられた。イタリア政府はNATOの最大の出撃基地となったが,国内ではNATOの軍事攻撃を糾弾する反戦運動が拡大した。ドイツでも緑の党左派,民主社会党(旧社会主義統一党)などのNATO空爆反対の声があがった。オーストリアでも左派によるそうした声が上がった。ロシアでは極右民族主義者のスラブ同胞への連帯を求める運動がおこった。だが,エリツィン政権はNATOを批判するにはしたが,親西欧の立場を捨てきらず,日和見主義的態度をとった。それでも,停戦合意ができるとNATOを出し抜いて真っ先にロシア軍をコソボに送り込んだ。
かくして,セルビア共和国とモンテネグロ共和国の新ユーゴ連邦は,コソボをめぐっては,アメリカなどのNATO諸国やロシアの大国の思惑が交錯しほんろうされる場所となった。コソボにおけるアルバニア人の立場が格段に強まったことは疑いないが,同時に大国の思惑によって左右される不安定な立場に置かれたことも間違いないのである。
EU諸国とアメリカなどの大国の競争と利害対立を反映した政治的思惑と陰謀は,細分化された旧ユーゴスラヴィア諸国の自治を困難にする。もちろんそれは政治的自決が不可能だということを意味しない。
東欧「改革」のゆくえ
(1)
1980年代末から1990年代初期の大激動によって生まれた新体制の旧東欧諸国がヨーロッパ統合過程に組み入れられつつあることはあきらかである。民主化の過程は,政治的民主化すなわち複数政党制による自由選挙という形をとった。旧東欧諸国での国権主義期の基本的任務はほぼ終了しており,それら諸国での階級闘争は新たな段階を迎えている。それは,国際的,世界的なプロレタリア革命の一翼へと自己を組織し,その任務にしたがって各国の体制を変革する政治,社会,文化革命を実現することである。その物質的準備は,すでに各民族政府とブルジョアジーが用意している。その生産力や経済的政治的社会的条件を利用して国際的な任務をはたす能力を自由に発展させることはただちに開始することは可能である。それはすでに始まっているのである。
それは,旧東欧諸国においては「改革」運動の内容を清算するのではなく,さらに首尾一貫して前進,発展させることと結合されなければならない。すなわち,労働者民主主義を徹底して発展させることである。それに対して西欧大ブルジョアジーは,ブルジョアジーに対して開かれた市場を狙って進出し,それら諸国経済を自己の利害の下に支配し従属化させるための利害に合わない民主主義を押しつぶすだろうし政府を使っても介入してくることにたいしては警戒が必要である。それを暴露し,国際的にもそれを公開して,国際プロレタリアートとの緊密な協力と支援関係を構築することで対抗することが必要である。
それら諸国のプロレタリアートは,自国のブルジョア的民族政府が,私利を図るブルジョアジーとその協力者の政府であることを忘れずに他国のブルジョアジーとその政府と手と手を握り合う可能性が高いことに注意しながら,労働者民主主義の前進を妨害したり退歩させようとするあらゆる企てと闘争しなければならない。なんらかの形で事態が労働者勢力に有利に進み権力を握った場合には,労働者民主主義を前進させる諸政策を実施するとともに,国際プロレタリアートの成長を自らの任務とすることが必要である。
(2)
東欧「改革」はそれら諸国における階級闘争の発展過程であった。それは三権分立などのブルジョア民主主義としての体裁を備えたことによって終わったわけではもちろんない。それはブルジョア的外皮であり,ブルジョア議会はブルジョアジーの政治的仮面であり,自身の卑小さと正反対の理想的姿を描き出す画面にほかならない。実際の政治的決定は議会の外で下されているのである。だからブルジョア民主主義議会は,空転しようが機能停止しようがそれが開かれていなかろうが,その国の実際の統治機能が失われるといったようなことはないのである。しかしこの外皮が外皮としての機能が失調すると,それが覆い隠している真の姿であるブルジョア独裁が公然と露呈し暴露されてくる。それを恐れるがゆえに,ブルジョアジーは民主的な議会という仮面を要求するのである。
東欧「改革」の過程での複数政党制による自由選挙による議会の要求は,ソ連でのスターリン体制導入によるプロレタリア民主主義の機構として構想されたパリ・コミューン型のソヴィエト機構の官僚的統治機構への転化の完成の表現であるスターリン憲法体制のレプリカが旧東欧諸国に機械的に導入されたことにたいする反発としてあった。だからその要求は,スターリン死後のフルシチョフによるスターリン批判を契機にポーランドなどに拡がった非スターリン化の動きの中ではやくも掲げられたのである。ソ連政府をはじめ人民民主主義諸国政府は,それをブルジョア的な動きであるとして非難し弾圧した。しかし本来,ソヴィエトはプロレタリア民主主義的なプロレタリアートの自治権力でありプロレタリアートの統治機関であらねばならなかったが,実際にはそうした機能・権能が奪われていたのである。だからそのプロレタリア的性格と機能を実現するためには,プロレタリアートの政治的闘争の自由な発展は必要不可欠だったし,またそうした階級闘争の自由な発展には公然たる政治・路線論争はかかせなかったのである。
(3)
ポスト・民主化過程にあるソ連・旧東欧社会における階級闘争の内容は,国際的なプロレタリア革命の一翼となることを含んでいることはあきらかである。その中で,被圧迫民族の解放の任務は,プロレタリア民主主義を首尾一貫して適用すること,すなわち国境内のあらゆる民族の平等を実現するという属地的原則を断固として推進することである。そして隣接する諸国との間でもそれを相互に適用することを追求することである。それが必要なのは,それによって民族不和や憎悪を解消しプロレタリアートとしての共通利害による平等な結合関係を発展させるためである。それが一国的にもまた国際的にも発展させられていくことによって,帝国主義や大国や先進国のブルジョアジーが民族不和や対立や憎悪を煽ることで狙っている利害の実現を不可能にし,その没落を早め,没落の運命を自覚させることができる。しかし当然ながらその運命を認めないブルジョアジーは,死にものぐるいになり,あらゆる手段を使って自己の利害を実現しようとするだろうし陰謀や戦争に訴えたりするだろう。 その企てを挫折せしめるためのブルジョア政府にたいする戦争反対の労働者大衆の要求が,その戦争が労働者大衆の革命運動を生み出しかねないことを認識させるならば,大きな効果をもたらすだろう。だがそうした労働者の平和要求を踏みにじって,第一次世界大戦は起こってしまった。しかしバーゼル宣言が警告していたとおり,この戦争の結果,ロシア革命や,敗北したとはいえ,ドイツ革命,ハンガリー革命,イタリアの工場評議会運動,イギリスの工場世話役運動などの労働者革命運動を生み出したし,また,帝国主義諸国に従属させられていた植民地,従属国,半従属国の植民地解放民族革命運動,被圧迫民族の解放運動に火をつけた。第二次世界大戦の後には,植民地の独立が相次ぎ,ユーゴスラヴィアでの人民解放戦線による権力樹立,自主管理社会主義体制の構築,日本での戦後革命と呼ばれた時代の生産管理闘争や中国での共産党政権誕生,アメリカでの労働者のストライキ運動の高揚,等と世界規模の大激動がしばらく続いたのである。「戦争は労働者革命運動を呼び起こす」というバーゼル宣言のテーゼは帝国主義ブルジョアジーののどもとに突きつけられた短剣だったのである。 それと反対にユーゴスラヴィア連邦の解体過程での諸戦争は,民族政府を生み出したが,その性格は反動的なものでしかなかった。したがってそれら諸国は欧米帝国主義への従属化の方向に向かっているのである。 ポスト・民主化の過程にある旧ソ連・旧東欧諸国に求められている「改革」の内容は,その歴史がただ形態として示したプロレタリア的革命的形態を内容においてもプロレタリア革命的な性格として実現する前進的な階級闘争としての運動を自由に発展させることである。ブルジョア社会はただ止揚の形態を示す。そして過渡期社会の意味は,その社会がプロレタリア解放の形態を生み出すことにある。その内容は,晩年のレーニンが「願わくば孫の代に社会主義を実現できるように」と期待したように,階級闘争の完全な発展の一時代を経なければ実現することはできない。すなわち,内容上の発展と深化は過渡期階級闘争の発展に依存する。しかしその期間は先進資本主義諸国では大幅に短縮される。先進資本主義諸国では,プロレタリアート解放の諸形態が資本制生産様式の内部ですでに生み出されているからである。その権力の機構と形態は1871年のパリ・コミューンによって示されている。形態という点ではソヴィエトや労働者評議会もある。等々。
(4)
ブルジョアジーによる生産手段の私有がその生産の規定的動機としての剰余価値の取得のてことなっているかぎり,資本制生産様式では富の絶対的性格を実現できず,相対的な性格を持つにすぎないために,過剰生産と過剰労働力という遊休資本や遊休労働力を大量に生み出す過程をともなう。過剰生産にともなう人為的な相対的過剰人口は,就業人口の賃金水準を規定する。富の絶対的な産出は全人口の富の絶対的な増大を意味するが,それは資本制生産様式では実現されず,相対的な富の産出にとどまる。というのは,資本制生産様式では,絶対的な生産能力の発展の傾向と既存資本価値の維持とその最高度の価値増殖という目的とが矛盾し,労働の社会的生産諸力発展を無条件に発展させる諸方法と資本の価値増殖という目的とが矛盾を引き起こしているからである。すなわち,社会的生産諸関係と資本の自己増殖という目的が衝突するからである。
私有制から共有制への移行形態は,国有・公有や協同組合有などの連合所有,そして資本制生産様式の限界の内部での私有制の止揚である株式所有,その他の連合所有や社会有の諸形態の性格転換の前進性をもって測られる。それらは資本主義的限界の内では形態に止まり,その内容は後退的保守的作用にさらされ,社会的な生産諸関係が要請する任務と衝突するということがさけられない。
ブルス氏が提起する国権主義モデルの普遍性を承認するなら,したがってもっとも先進的な資本主義国アメリカ合衆国においてもこのモデルが当てはまるとするならば,そしてそれがブルス氏の慎重な分析の主張するところなのだが,世界史は全世界規模において過渡期に入ったことが結論されるのである。資本主義世界においても,極端な国権主義の時代を経過したソ連・東欧人民民主主義国家と同じ過渡期の諸課題に直面しているのである。ブルス氏によるそのメルクマールは,国家の経済介入の恒常化,生産手段の公的所有の発展や国家権力による生産手段の実効処分や社会経済の国家権力による組織化(計画経済),等々である。過渡的な諸所有形態のうちアメリカでもっとも発達したのは株式制度であり連合所有の形態である。そして国有(公有)形態はそれほど発展しなかった。それにもかかわらず,国有(公有)を社会主義的所有形態とするスターリン派と違って,それを過渡期の所有形態の特徴すなわち私有形態から共有形態への過渡性として捉えるブルス氏のような観点からは国有(公有)の過渡性と連合所有の持つ過渡性とを厳密に区別すべきではない。両者は,現代過渡期社会が持つ所有制度の過渡性において共通性を持っているのである。
(5)
東欧「改革」の過程は世界的な階級闘争の一部としてあったし,そのような歴史的な相互関連性の下で事態をとらえなければならない。それは例えば,第一次世界大戦後にドイツ,オーストリア,イタリア,ロシア等々の帝国主義的市場分割戦にもとづく侵略からの民族解放革命としての性格を持った民族政府が,民族主義的反動性を深めていき,ナチス・ドイツなどの超反動的排外主義に屈服,同化して,ついには独立を失っていく過程などを解明するのに欠かせない観点である。なるほど,確かにそれはファシズム国家による直接的な軍事侵略などによる占領による独立喪失が多かったのだが,クロアチアのように親ファシスト極右民族主義者による自発的な傀儡政権もあったのである。ドイツ,イタリアの占領に対する解放闘争は,ポーランドとユーゴスラヴィアを除いて大戦末期まではそれほど活発とはいえないものであった。19世紀に民族意識の大高揚があり諸帝国からの激しい民族独立闘争を闘ったにしては人々の抵抗の熱意は低かった。クロアチア農民党はイギリスなどの連合国の支援を当てにして待機主義的態度をとったほどである。しかし,その態度の消極性を生み出したのは民族解放革命の歴史的任務をすでに実現してしまったことが大きいといえよう。とりわけハンガリー,チェコスロヴァキアの場合がそうである。
第二に,ロマノフ朝の軍事的封建的帝国主義ロシアにおいて1917年の二つの革命が成功し,社会主義の実現を目指すボリシェビキ政権が誕生したことである。このことは,それら諸国において,労働者,農民,土地なし農民,被圧迫民族などの運動を鼓舞するものとなったが,同時に民族ブルジョアジーを急速に西欧ブルジョアジーとの連携を促進するものでもあった。ロシアへの列強諸国の干渉戦争には,ポーランド,チェコスロバキア,ルーマニア,が加わっていた。ハンガリーでは1919年には,ルーマニア,チェコスロヴァキアとフランスの後押しを受けたユーゴスラヴィアが社会民主党と共産党連立のハンガリー・ソヴィエト政府を軍事的に壊滅させた。しかし,その後それらの反動的民族政府はファシスト国家によって占領されてしまうのである。その状態の中で,ナチス・ドイツに軍事侵攻されたソ連がドイツ軍を打ち破って反転して東欧に進行した。戦後にはその影響の下でソ連モデルの国権主義体制を構築するのである。
第二次世界大戦後,帝国主義諸国の間では,帝間矛盾をあるていど抑制しつつ,共同で対ソ連・東欧体制に対峙する冷戦体制が生み出された。それは,経済的には国家独占資本的な国家による経済介入を促進させ,とりわけアメリカ帝国主義が敗戦帝国主義ドイツ,日本,イタリアなどを従えて世界分割戦の秩序を築きドゴール主義のフランス帝国主義などとの帝間対立・矛盾を抑制的に展開する体制が築かれたのである。それに対してソ連は東欧を自らの利害のための国際分業体制の下に従属させたが,東欧市場の建設に失敗し1970年代に石油ショックなどの影響で経済危機に陥った東欧経済を救うことができず,東欧諸国は西側の国際金融機関(世界銀行・IMFなど)や銀行や政府などからの借款に頼らざるを得なくなり,金融的に西側に従属するようになっていく。そうした方向に東欧諸国政府を押しやったのは,東欧諸国の人々の生活水準の上昇圧力が高まっていることが,ボズナニ暴動,ハンガリー事件,プラハの春,などの東欧「改革」運動などによって明白となっていたことが一因である。
東欧諸国の体制と西欧諸国の体制との共通する生産関係の特徴は,国家による経済への介入の常態化という点にあった。東欧の場合はその極端であり,西欧の場合は制度学派のガルブレイス教授などが「混合経済体制」と呼ぶ中間である。それは所有の社会化への過渡を意味し現代世界の過渡期社会性をあらわしているのである。
ソ連・東欧体制崩壊と市場経済化は,一見するとそれと反対の方向を示しているように見えるが実際はそうではない。その社会の現実を人々の主観から読みとるという誤ったやり方に惑わされてはならない。モスクワの街頭でロシア人にインタビューして,今の自由がよい,昔の不自由には戻りたくないなどという言葉を引き出して市場経済化は不動の傾向だなどと結論するような愚をおかしてはならないのである。
それら諸国における生産力と生産関係の矛盾が重要である。ソ連・東欧諸国では国権主義体制における生産手段の国有(公有)制が党−治安警察−官僚の特権層による排他的所有となったために,生産関係と生産力の間の矛盾が所有関係の矛盾に集中していたのである。権力と排他的所有関係が固く結びついていたためにこの矛盾が生み出した労働者大衆の闘争のターゲットは権力と同時に所有制に向けられたのである。この結びつきが生産力発展と生産関係の矛盾を耐え難いまでに深めていたからである。その解決は生産手段の共有制への前進や個人所有の発展へと向けられなければならなかったのだが,現実には私有制の導入へと向かった。それによって,それら諸国は西欧ブルジョアジーの到富欲求のかっこうの餌食となってしまったばかりか,旧特権層が私有制を利用して生産手段を横領して新支配階級へと転身を遂げるのを防げなかったのである。そのために大きな犠牲を強いられたのは労働者などの普通の人々であった。西欧諸国は,この普通の人々の零落や困難や苦難を市場経済に移行するため,自由を得るためのやむを得ない犠牲として傍観していた。ロシアでのベレゾフスキーのような政商や急進改革派の国有(公有)財産の横領や詐欺や銀行とマフィアとの癒着やマスコミを買収しての世論操作や不正選挙,権力中枢部での不正蓄財やスイスやベルギー,ルクセンブルクなどの外国銀行の隠し口座,などに対してもまったくあまいのである。
また上記の毎日新聞の特集記事を見れば明らかなように,東欧諸国において私有制と自由市場経済化の利益は西欧ブルジョアジーがむさぼろうとしているのであり,門戸開放の後に自由を得たのは資本であって人間の方ではないのである。そのことを表しているのは1989年以後のロマ人の扱いの変化である。毎日新聞の同じ特集記事「第4部心の壁は消えたか? 民族・言語・宗教1」(1999年12月27日)は,チェコ北部の工業都市ウスティナドラベム市で起こったチェコ人によるロマ人差別問題を取り上げたものであるが,それによるとロマ人は世界で約1200万人,ルーマニア180万人,ブルガリア60万人,ハンガリーとスロヴァキア計50万人,チェコ30万人,など旧東欧圏に多く住むが,「彼らの失業率は80%に上り,社会保障に頼って暮らす大家族が多い。伝統的に住居を転々としていたが,共産政権下では人種融和を掲げ工業地域などへの定住を奨励した。欧州ロマ権利センターのペイプ氏は『89年の革命以降,この方針が消滅し,ロマ人の行き場がなくなっている』と指摘」と述べている。こうした事態に対してEUや国連などはロマ人への差別を非難している。これからわかるのは,ロマ人にとっての東欧の自由化が失業,差別,零落,貧困,生活苦,の自由を意味するものにすぎなかったということである。自由とはこれらのものなどからの解放を意味するはずである。
連載を終えるにあたって
(1)
連載を開始したときには,コソボをめぐって情勢が緊迫しはじめていた頃であった。連載の途中で,1999年3月末のNATOによる新ユーゴへの空爆があり,4月にポーランド,ハンガリー,チェコがNATOに加盟し,そして連載の後期の12月にクロアチア共和国で民族主義者のトゥジマン大統領(報道ではツジマンとするところが多い)が死去し総選挙で与党民主同盟が大敗するという政変劇があった。
この間にEUの東方拡大が本格化しようとしていたのだが,先日ついにオーストリアでの極右民族主義者ハイダー率いる自由党と保守の国民党との連立政権が発足した。オーストリアで極右民族主義自由党が勢力を拡大したのは,東欧体制崩壊以後の東欧からの移民の増加,失業問題やスロヴェニアとの国境問題などが背景にありそうである。ナチスの労働政策を賛美するなどのハイダー党首の発言は,EU,アメリカ,イスラエルなどの猛反発を買っている。それらは「自由・民主主義,人権」というブルジョア的価値観に基づく批判である。それは本稿で見てきたように世界史的過渡期を前進に導く国際プロレタリアートの力を対置することとは正反対である。湾岸戦争後のイラクの現状が示しているように,「自由・民主主義・人権」というブルジョア的価値は,もしそれが進歩的であるならその戦争も進歩的であるはずであり,湾岸戦争はイラク社会を前進的に発展させたはずである。そうなっていないのは,たんにフセインの狡猾さとか恐怖支配によるものだけということはあり得ない。世界史は独裁的恐怖政治を覆してきた民衆革命の例を数多く残しているからである。要するに湾岸戦争は進歩的ではなかったのである。同じようにNATOによる新ユーゴ空爆もまた進歩的ではなかったのである。
では東欧社会にとってどのような道が進歩的なのか。そのことについて,この連載はこたえようと試みた。現時点でのいくつかの結論しうることは,抽象的な民主化はもはや進歩性がないということ,抽象的な民主化を規準にして進歩と反動を測ることはできないこと,生産関係の性格の変化がひとつの規準とならなければないこと,である。
(2)
最後に,約10年前にわれわれが当時のソ連・東欧の激動,中国での天安門事件と民主化運動の高揚に際して提出した主張,すなわち民主化運動を支持するがその中のブルジョア民主主義を批判し高度な民主主義の発展を促進するという主張をその後の経過の総括を踏まえてより深めるという冒頭で提示した課題について答えなければならない。その答えはすでに連載の中である程度答えている。われわれはもはや旧ソ連・東欧においては抽象的な民主主義を規準にできないということがひとつである。なぜなら,それら諸国において三権分立,自由選挙による代議制議会などの形式民主主義は出来上がったからである。民主主義はその実質や内容をめぐる階級闘争の舞台となった。それは国際的な階級闘争との結合を条件に前進するのである。
第二に,国家による経済への介入の常態化をメルクマールとして過渡期社会入りした現代世界において,階級闘争の最先端の成果としてアソシエーションの種々の形態を生み出したことにあるということである。その意義は,それらの過渡期階級闘争がプロレタリアート独裁の内容を豊富化しつつあることである。それはソ連型のスターリニズム(国権主義モデル)の誤りと失敗を克服するプロレタリアートの協同社会である共産制社会の具体的ビジョンを人々の前に示している。それらの多くが資本制社会の下では形態を示すに止まるのはやむを得ない。だがそうだとしても,プロレタリアートによる生産手段の共有と実行処分の実現や協同社会はいまやたんなるユートピアではないといわなければならない。
第三に,民族問題は国境を超えた国際問題となっていることが多く,国際的に解決されなければならない民主主義的課題となっているということである。ロシア,東欧においてそれがどれだけ複雑で深刻な国際的課題となっているかは,チェチェン戦争,コソボ紛争,ロマ人差別,ドイツ人入植地問題,ユダヤ人問題,等々の現実を見ればわかる。それにたいして形式民主主義が根本的に答えられないことは明白である。自由選挙でたんなる抽象的な一票を持たされるだけでは,当然この民主主義の中では少数派としての重さしか持てないのである。
また,政治的に独立した諸民族国家にしても,大国への金融的,経済的,軍事的従属から逃れられるものではない。国際プロレタリアートとの広く大きく深い連帯,抑圧民族プロレタリアートと被抑圧民族プロレタリアートの連帯によって,抑圧民族ブルジョアジーとその後ろ盾となっている大国ブルジョアジー,国際ブルジョアジーの連合に対抗し,プロレタリアート民衆の自治を発展させ,ブルジョアジーや反動勢力による民族・宗教対立をあおりたててプロレタリアート民衆を自己の利害に基づく支配の野望を打ち砕くことが必要である。大国ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの任務は,その介入の利害を暴露し介入に反対し抑圧民族の被抑圧民族への抑圧に反対し,労働者民主主義的な自治の発展を支持することである。
これで連載は終わりである。最後はできるだけまとめようと格闘してみたのだが,それはどれだけ成功しているだろうか。次の課題として世界的な階級闘争と東欧「改革」との相互連関の分析と1989年以降の個別の諸国の実態の解明が残されたと思う。その他の部分でも不十分さを残しているに違いないが,東欧激動から10年を迎えた現時点において,そこから教訓を引き出し今日の階級闘争の理論と実践を少しでも豊富化するという本稿の目的はあるていど実現できたと思う。なお深めるべき点は多々あるだろう。唯物論・弁証法によって認識の絶えざる発展が不可避なことはあきらかだから。また,それら諸国において現実が飛躍的なスピードと規模で急展開する可能性もあるわけであり,そうなれば現実に合わせて認識を発展させなければならないという事態が近々に訪れないとも限らない。それがプロレタリア解放運動の飛躍であれば喜ばしいことであろうし,そういう期待を持ちつつ,旧ソ連・東欧地域の現実に注意していきたい。