東欧「改革」のつきつけたもの(12)
流 広志
221号(2000年1月)所収
パルチザン戦争
ユーゴの亡命政権がロンドンにつくられた。しかしこの亡命政権は,クロアチア人とセルビア人が対立したため,有効に機能しなかった。クロアチアで農民の間に大きな影響力のあったクロアチア農民党は,ドイツの傀儡政権にたいして積極的な闘争を組織せず,待機主義的方針をとった。イタリアの後押しで「クロアチア独立国」の政権を握ったウスタシャは,この領内に住んでいた約190万人ものセルビア人に対して,差別的人種主義に基づく民族虐殺を実行した。
セルビア人の大セルビア主義者の軍人組織チェトニクが抵抗運動を開始した。ところが,チェトニクは,連合軍の救援をあてにして待機主義をとって組織温存をはかったため,やがて下部組織からドイツ軍との協力にはしるようになって,内部崩壊をとげる。
ユーゴスラヴィア共産党は,独ソ不可侵条約が結ばれていたため,当初は,積極的な抵抗運動を組織できずにいたが,1941年6月21日にドイツ軍がソ連領内へ侵攻し,独ソ戦が開始されたことから,いっせいに占領軍への戦闘を開始した。同日のユーゴ共産党中央委員会政治局会議では,占領軍への武装蜂起が決議され,全土へ武装蜂起が呼びかけられた。6月には,チトーを最高司令官とするユーゴスラヴィア人民解放パルチザン部隊の最高司令部が設置され,その下に各地のパルチザン部隊が7月から8月にかけて一斉蜂起を戦った。パルチザン部隊は,最高司令部の下に自主的な指令をだせる総司令部を各地においた分権的な軍事組織であった。パルチザンによって解放された地域では,自治権力が生み出されていった。1941年7月21日には,モンテネグロ一斉蜂起のなかで,ベラン・セロ郡でユーゴ王国の行政機関を否定して,人民解放委員会が創設された。以後,村,オプシュテイナ,郡(県,地方),州,などの各レヴェルで同様な権力機関が創設されていった。解放区の人民解放委員会は,点在していて互いに孤立していたために,それぞれが自主的に行動しなければならなかった。
ロンドン亡命政府を支持していたイギリスは,当初,チェトニクを支持し,パルチザンとの協力を拒否していた。やがて,イタリア,ドイツがチェトニクを支援し,チェトニクも三国同盟側に立って,パルチザンと戦うようになった。1941年10月には,ドイツ軍の第一次大攻勢が開始され,1944年5月まで7度にわたる大攻勢がつづくなかで,パルチザン側はセルビアとボスニアにまたがる山岳地帯に後退をよぎなくされた。ソ連は同じ連合国であるイギリス,アメリカに配慮して,チェトニクを支持し,パルチザンへの援助を行わなかった。
1942年11月,チトーは,解放されたビハチで各地の人民解放委員会を結集して,ユーゴ人民解放反ファシスト会議を開催した。ソ連が国王とロンドン亡命政府を刺激しないように求めたために,この会議では最高権力機関の創設についてはふれられなかった。しかしその宣言は,イギリス側のチェトニク支持を再考させるものとなり,1943年5月にはパルチザンのもとに軍事使節団を派遣したうえで,パルチザン支持を決定した。9月にはイタリアが降伏する。連合軍の米英ソ首脳(ローズヴェルト,チャーチル,スターリン)によるテヘラン会談で,パルチザン支持が決定された。1943年11月第2回ユーゴ人民解放反ファシスト会議で,この会議が最高立法・執行機関であること,ユーゴ解放全国委員会を行政府とすること,ロンドンの亡命政府の権利停止,国王ペータル2世の帰国禁止,連邦制,民族平等の原則,などの諸決議が採択された。
しかし,連合国がロンドン亡命政府との連合政権を求めるチャーチル構想を支持したため,チトーを議長とするユーゴ解放全国委員会は,亡命政府の首相シュバシッチとのあいだで協定を結ばざるをえなくなった。
1944年10月からソ連との合同作戦によって,10月20日にベオグラードが解放され,それからつぎつぎと全土が解放されていった。1945年3月,亡命政府代表3人を含む民主連邦ユーゴスラヴィア臨時政府がつくられた。11月に,単一候補者名簿方式の憲法制定議会選挙が実施され,共産党を中心とした人民戦線が圧勝した。ユーゴスラヴィア連邦人民共和国の建国が宣告され,1946年1月に,スターリン憲法を取り入れたユーゴスラヴィア連邦人民共和国憲法が発布された。
ユーゴスラヴィア連邦の建国
ユーゴ連邦人民共和国憲法によって,セルビア,クロアチア,スロヴェニア,モンテネグロ,マケドニア,ボスニア・ヘルツェゴビナの6つの共和国とセルビア共和国に属するヴォイヴォディナ自治州,コソボ・メトヒア自治区が設けられた。これらの自治州,自治区の設置はセルビアの力を抑える目的で設置されたものである。このユーゴ連邦は連邦中央の権限が強かった。
境界決定は,ジラスを委員長とする境界設定委員会によって行われた。しかし,民族の混住や分散の実態を反映して,民族自決の原則を規準に設定するのは,難しかった。けっきょく,境界は,政治的に決められた。
複雑な民族構成を反映して「友愛と統一」のスローガンが掲げられた。
ユーゴスラヴィアでは,1945年8月の「没収に関する法律」で,イタリア人,ドイツ人,対敵協力者の全資産が没収された。もともと国営であった交通機関や一部銀行に加えて,主要銀行,商業,貿易関連企業などの80%が国営化された。1946年11月の「私的企業の国有化に関する法律」が施行され,すべての中小企業が国有化された。1948年4月の国有化法によって,零細企業も国営化された。こうしてソ連型の国権主義モデルが成立したのである。
ところが,基本的には農業国であるユーゴスラヴィアでは,土地改革では,ソ連のような集団化はなされなかった。1945年8月「土地改革と入植に関する法律」では,私有地の上限を45ヘクタール,耕地の上限を25〜45ヘクタール,教会領の上限を10ヘクタールとして,上限以上の土地の没収を定め,政府の農業評議会が1945年秋から1948年にかけて,土地改革を実施した。没収された土地は,18万人の貧農,7千人の土地なし農民,ヴォイヴォディナ,スラヴォニアなどへの入植者6万6千人に分配された。1948年の農業協同組合は全体の4・5%にすぎず,個人農が圧倒的だった。1953年には,私有地の上限が10ヘクタールに引き下げられた。
戦後のバルカン半島の体制については,ユーゴスラヴィアは,ソ連,ポーランド,チェコスロヴァキア,ブルガリア,ハンガリー,ルーマニアなどソ連,東欧諸国との友好協力相互援助条約などの二国間条約を締結していくと同時にブルガリアとの南スラブ連邦構想を推進していた。それが拙速だと判断したチトーは,ブルガリアのディミトロフとの間で,ソ連のスターリンに知らせないまま,ドナウ諸国関税同盟構想を推進していた。それを知ったスターリンは,ディミトロフとカルデリをモスクワに呼んで,ただちに南スラブ連邦を結成するよう指示した。これをユーゴ側が拒否したことから,ソ連共産党によるユーゴ共産党批判が起こり,それにもユーゴ共産党は反論した。1948年6月,コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)第二回会議で,ユーゴ共産党の追放決議が採択された。
ユーゴでは親ソ派,反チトー派の追放と逮捕の嵐がふきあれた。他の東欧諸国では,逆にチトー主義者とレッテルが貼られた人々にたいする粛清の嵐がふきあれた。
1949年11月,経済担当相キドリッチは,労働組合同盟と協議し,国営大企業に生産から分配までのすべての権限をもつ労働者評議会を設立する通達をだし,労働者評議会がつぎつぎとつくられていった。1950年6月人民議会は「自主管理法」を採択した。1953年1月には新憲法が採択され,非国家化,民主化,官僚主義の克服,労働者自主管理,コミューン(オプシュティナ)制度を地方自治の基礎とすること,などが規定された。そしてチトーが大統領に選ばれた。
1952年11月のユーゴ共産党第6回大会で,党名がユーゴ共産主義者同盟に改称された。また党の役割は指令ではなく,説得とイニシアティブにあるとされた。1958年4月のユーゴ共産主義者同盟第8回大会で,綱領が採択され,党の積極的役割の否定と国家の死滅が唱えられた。
チトーのブレーンだったカルデリは,国際連合を舞台にして東西両陣営に属さない非同盟外交を展開し,「積極的平和共存」を唱えた。1961年9月に,ユーゴがイニシアティブをとり,ベオグラードで25カ国の首脳が参加して第一回非同盟諸国会議を開催した。 1963年4月に新憲法を採択し,国名がユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国に変更された。自主管理社会主義と非同盟政策が確認され,市場社会主義に向かうことがはっきりと打ち出された。1965年には市場メカニズムを全面的に導入する経済改革が実施された。
連邦中央の強い権限を治安面で支えてきたランコヴィチが軍の支持を背景にしたチトーによって,中央から退けられると,ランコヴィチと保安機関によってきびしく押さえつけられてきた各地の民族主義がわきあがってきた。1968年には,コソボ自治州のアルバニア人がコソボ共和国を要求しはじめた。ボスニア・ヘルツェゴビナのムスリムが民族としての承認を求めて行動を開始した。1970年から1971年にかけて,「クロアチアの春」とよばれるクロアチア共産主義者同盟「改革派」,民族主義知識人,学生などが,大規模な政治行動がおこった。それは連邦から経済主権を共和国に移すことを求めるストライキなどに発展した。それに危機感を抱いたチトーは,クロアチア共産主義者同盟指導部から「改革派」を一掃し,新指導部を選出するとともに,民主集中制,労働者の役割の強化などを掲げ,イデオロギー的引き締めを強化した。
1974年憲法体制と民族主義の浸透
1974年1月に新憲法が制定された。5月にはチトーが統合の象徴として終身大統領に選ばれ,ユーゴ共産主義者同盟第10回大会で,民主集中制による統一した党の積極的役割が掲げられた。チトー大統領を統合の象徴とし,党と連邦人民軍の統合の役割を強化したのである。同時に,6共和国,2自治州が,憲法,裁判権,警察権,経済主権を持ち,連邦幹部会で一票を持つ,ゆるやかな連邦制に移行した。この憲法によって,1971年6月に発足した最高政策決定機関の連邦幹部会が6共和国各3名,2自治州各2名,国家元首チトーの計23名で構成されていたのが,6共和国と2自治州から各1名,チトー共産主義者同盟議長の計9名となった。これで,自治州の立場が格段に上がった。
1979年2月に1974年憲法体制の理論的支柱であったカルデリが死去し,翌年5月にチトーが死去した。ポスト・チトーの動きは,コソボ自治州で始まった。1981年,コソボ自治州で圧倒的多数をしめるアルバニア人の学生が州都プリシュティナで,コソボの共和国昇格,アルバニア人の民族としての承認,社会主義,を要求するデモをおこなった。事態は警官隊との衝突に発展したが,治安当局によって鎮圧された。
1974年憲法体制によって,分権化にともなう協議経済が導入された。各共和国は独立の度合いを強め,1973年第一次オイルショック,1979年第二次オイルショックの二度のダメージを受けながら,1970年代には各共和国毎に西側諸国や国際機関からの融資を受け,返済額が膨れ上がっていった。貿易収支の赤字の増大,対外債務の累積,恒常的なインフレに悩まされ,経済危機が深刻化した。
1980年代に入ると,各民族主義の動きが活発化してきた。コソボでは,1981年の事件以来,アルバニア人による少数派のセルビア人,モンテネグロ人などへの差別や圧迫が強まり,コソボ自治州を脱出するセルビア人,モンテネグロ人などが増加した。コソボ自治州に残ったセルビア人,モンテネグロ人などは自衛組織をつくって,抗議集会などを組織したが,1974年憲法によって,連邦側とセルビア共和国側は自治州には介入できなくなっていた。1988年に,コソボ自治州のセルビア人とモンテネグロ人はセルビア各地で抗議集会を開き,共和国憲法の修正を訴えた。セルビア共和国幹部会議長ミロシェヴィチは,民族主義者と手を握って,セルビアの民族的統合を図った。1988年11月,連邦の1974年憲法修正案が可決された。
つづいて,セルビアで憲法修正の動きが強まると,コソボの自治権が縮小されることに反発したアルバニア人のデモや労働者の運動が拡大した。1989年にはコソボはゼネスト状態になった。コソボ自治州は連邦人民軍の管理下におかれ,スト参加者にたいする「強制労働令」がだされた。同年3月には,コソボ自治州とセルビア共和国議会で,セルビア共和国が国防,安全保障,治安,国際協力,社会計画の分野でふたつの自治州を統括する権限を与える憲法修正案を可決した。コソボ自治州の権限は縮小された。それに反対するアルバニア人の行動が活発化した。1990年7月には,コソボ共和国独立がアルバニア人議員によって宣言され,9月には憲法が制定された。
ユーゴ連邦の解体と内戦
ユーゴ連邦内でもっとも工業化し経済発展してきたスロヴェニアは,1974年憲法修正の動きがセルビアを中心に活発化すると,それによって連邦中央の権限が拡大し,スロヴェニア共和国の権限が縮小されることに反発を強めていった。スロヴェニアでは急速に民族主義が台頭しはじめ,セルビアに対立するコソボのアルバニア人との連帯を強めていった。スロヴェニアでは,1989年2月に,スロヴェニア共産主義者同盟の大衆組織スロヴェニア社会主義同盟の枠外に,社会民主同盟の創設が認められ,複数制が生み出された。1989年11月にはセルビア共和国でも複数制導入が決定された。1989年12月には,クロアチア共産主義者同盟大会で,社会主義者同盟内の諸グループの要求を受け入れ,複数政党制の導入を決定した。
1990年1月のユーゴ共産主義者同盟第14回臨時大会では,スロヴェニア代表団が退場し,党は分裂した。対立は,セルビアの掲げる連邦制か,スロヴェニアの主張する国家連合か,分離・独立か,が争点であった。この年の複数政党制による自由選挙の結果,旧共産主義者同盟系政党が勝利したのは,セルビアとモンテネグロだけとなった。
スロヴェニアとクロアチアは,共和国幹部会の連名で,「国家連合のモデル」を発表した。連邦幹部会は「ユーゴスラヴィアの連邦的編成構想」を公表した。
国家連合案の内容は,ECを手本とし,共通目的のための主権国家の自由意志に基づく連合体であり,その目的は統一市場の保障であり,ヨーロッパ統合に加わる,そして加盟国の共同防衛,人権擁護,国家連合裁判所の設置,などというものである。
一方,連邦案の内容は,市民の自由,権利,法の支配,社会正義に基づく民主国家,各共和国の国民投票による分離権の容認,社会有,国有,私有,協同組合有の所有形態の平等,統一市場,ユーゴ国立銀行創設,共通の財政,税制,大統領(ないし集団大統領制),連邦政府,二院制の連邦議会,憲法裁判所,最高裁判所,連邦検察庁,などである。
両案を軸に,6共和国代表による協議が続けられ,ボスニア・ヘルツェゴヴィナとマケドニアによる「主権国家による共同体」という折衷案がだされた。この案の内容は,各共和国の完全な主権と国連加盟権の保有,共通の軍隊と共和国軍の並存,共通議会,共通の銀行,であった。
これらの案が検討される中,ついに1991年6月25日,スロヴェニア議会とクロアチア議会は,それぞれ独立宣言を採択し,連邦の分裂は決定的となってしまった。クロアチアとスロヴェニアは,それぞれ民族自決権に基づく民族国家の主権の不可分一体を憲法に掲げた。
クロアチア内戦
1990年の自由選挙で圧勝したクロアチアのトゥジマン民主同盟政権は,共和国軍をつくるため,密かにハンガリーから武器を購入し,連邦との対立に対処するためアメリカのブッシュ大統領に介入を要請した。クロアチア共和国には約60万人のセルビア人が居住していたが,その起源は17世紀にさかのぼる。
1990年9月,セルビア人が多数をしめるクライナ地方で「クライナ・セルビア人自治区」創設が宣言された。1991年には,西スラヴォニア,クライナ地方,東スラヴォニアでセルビア人住民とクロアチア警察軍との衝突がつづいた。同年5月の「クライナ・セルビア人自治区」での住民投票で90%がセルビアへの編入に賛成した。9月には連邦軍が介入し,クロアチア内戦は激しさを増した。セルビア,クロアチア双方が,激しい民族憎悪を煽る宣伝を繰り広げた。1991年11月,国連の仲介で,ユーゴ和平会議がジュネーブで開かれ,停戦合意が成立する。
もはやユーゴの解体以外の道はなくなった。同じころ,マケドニアが独立を宣言する。12月には,クロアチア共和国内で,「クライナ・セルビア人自治区」と「スラヴォニア・バラーニャ・西スレム自治組織」が連合して民族自決を掲げる「クライナ・セルビア人共和国」創設を宣言した。その領域は,クロアチアの三分の一におよぶものだった。1992年1月,ドイツが民族自決を支持するとしてクロアチア,スロヴェニアの独立をECに働きかけて承認させた。
1992年2月には,国連安全保障理事会は1万4千人の国連防護軍の派遣を決定した。1994年3月,ロシアの仲介で両者の休戦協定が成立した。1994年10月,アメリカ,ロシア,国連,EUによるセルビア人に一定の自治を認める和平案が提示されたが,スラヴォニアの支配権をめぐる溝は埋まらなかった。
アメリカの支持を受けつつ,クロアチアのトゥジマン大統領は,5月には「クライナ・セルビア人共和国」の一部である西スラヴォニアに軍事攻撃を仕掛け,制圧した。8月にはクライナを軍事制圧する。残る東スラヴォニアは,アメリカで開かれていた旧ユーゴ和平協議の中で,セルビア人側が支配権を放棄することに合意したため,クロアチアの手に移った。
ボスニア内戦
1992年1月,ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国で,セルビア人勢力が,民族自決に基づく「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・セルビア人共和国」を創設した。2月29日と3月1日に独立を問う国民投票が実施され,セルビア人棄権したが,有権者総数の62%,投票総数の99%が独立に賛成した。独立に反対するセルビア人とムスリム人・クロアチア人が衝突し,3月に連邦人民軍が介入し,泥沼の内戦が開始された。ドイツはギリシャの反対に押されて,マケドニアの独立を承認しなかったのに,まっさきにボスニア・ヘルツェゴビナの独立をEUが支持するように主張し,それを認めさせた。
内戦の過程で,ファシストのチェトニクやウスタシャの流れを汲む,シェリのセルビア急進党やパラガのクロアチア権利党などの極右民族主義武装集団が海外からの支援を受けて内戦に加わり,民族間の憎悪を拡大した。
当初,積極的関与を控えていたアメリカは,ソ連邦解体などの混乱で調停機能を果たせなくなっていたロシアや幾度かの調停に失敗をくり返したEC(EU)や国連に代わって,介入を強める。1994年3月クリントン政権は,クロアチア人とボスニア人(ムスリム人)による「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」構想とクロアチア共和国との国家連合構想を提示した。3月18日に,クリントン大統領の立ち会いの下で,「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」憲法案が調印された。1994年5月に,アメリカ,ロシア,イギリス,フランス,ドイツからなる連絡調整グループがつくられ,ムスリム人・クロアチア人51%,セルビア人49%の二分割案が提示された。その後,セルビア人勢力に新ユーゴとの国家連合をつくる権利や交渉による境界変更の容認などを加えた新たな妥協案が示された。1995年1月に停戦が成立したが,内戦はつづいた。停戦が失効した5月以降,セルビア人勢力にたいするNATO軍による空爆が次第に激しくなった。11月,アメリカのオハイオ州デイトン空軍基地で和平協議が行われ,つづいて12月14日にパリで和平協定が正式調印された。国連軍に代わり,アメリカ,イギリス,フランスなどのNATO軍を中心とする多国籍の平和実施部隊6万人が派遣された。
コソボ紛争
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦の成立によって,内戦の泥沼から脱出するかに見えたが,舞台は,アルバニア人が多数をしめるコソボ自治州に移った。セルビア共和国およびコソボ自治州議会での1974年憲法修正によって,自治州の権限が弱められ,自治が縮小されたことに反発し,セルビア人に対する憎悪を深めていたアルバニア人の一部が武装をはじめ,コソボ解放軍を結成して,武装闘争を開始した。
セルビアでは民族主義化したセルビア社会党(旧セルビア共産主義者同盟)のミロシェヴィチ大統領が,ボスニア内戦の過程で民族浄化策を推進し,それが国際的な非難を浴びた。しかしこれまで見てきたように,ユーゴスラヴィア解体の過程では,民族自決と国家主権を不可分とする各共和国の主張が,ドイツなどによって,一方的に承認されたため,それが,セルビア人にも認められると判断されたのはしぜんのなりゆきであった。
イギリスやフランスはドイツに反対して,民族対立を激化させるという理由でクロアチア,スロヴェニアの独立承認には慎重であった。ところが,ドイツは,オーストリア,イタリアなどを味方につけて,EC内で主導権を握って,性急に独立承認にもっていってしまったのである。クロアチア内のセルビア人の民族自決権は認められず,アメリカの後押しを受けた政府軍によって押しつぶされてしまった。セルビアからすれば,国際社会が誰の味方かは,明らかであった。民族自決の原理が領土を決定するという常識が確定してしまった以上,自民族の領土は民族の居住範囲になり自民族の数が多ければ多いほどよいことになる。民族浄化の思想は極端ではあるが,民族自決原理の論理に属しているのである。
アメリカのボスニア・ヘルツェゴヴィナの二分割案は,宗教によるムスリム人という属人的規準をとらずボスニア人という属地的規準をとった。それは,バチカンがカトリック教徒かどうかという宗教的規準でクロアチア,スロヴェニアの独立を後押ししたのに比べれば,一般民主主義的ではある。しかしそれは民族規準を越えるものではない。
コソボの場合は,もしコソボの独立を認めれば,圧倒的多数派のアルバニア人の民族国家となるのは明白であり,それはアルバニア国との統合への道を開くことを意味し,アルバニア国の領土拡大(大アルバニア)をもたらしかねないのである。したがって,ここでのアメリカの解決策は,両者の共生という折衷的なものにならざるをえなかった。ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは,民族区分による連邦を実現させたが,それはコソボでは適用できないのである。
コソボの高度な自治を認めさせようとする交渉が決裂すると,セルビアはコソボ解放軍の一掃を狙って,セルビア治安部隊によるコソボ自治州内での軍事作戦を本格的に展開し,アルバニア住民の虐殺,家屋の破壊,などを行った。多くのアルバニア人が難民となる事態にたちいたって,1999年3月23日深夜,ついに,アメリカ軍を主力とするNATO軍によるセルビアへの大規模な空爆が開始された。ところが空爆の最中にも,アルバニア人の追放は止まらず,大量の難民が周辺諸国に流出する事態がつづいた。
軍事施設ばかりではなく民間施設や道路,鉄道,石油コンビナート,橋,放送施設,マスコミ施設,政党事務所,住宅,等々あらゆる施設を攻撃目標としたNATO軍によるミサイル攻撃と空爆は,誤爆の数々と撃墜不可能といわれたステルス機一機の撃墜,中国大使館にたいする「誤爆?」による中国人犠牲者をだして,79日間で終結した。ロシアも加わった調停によって,セルビア政府は,コソボ自治州への多国籍軍の展開を認めた。アメリカとEUはセルビアに対する経済制裁を発動し,爆撃によって破壊されたライフラインなどの復旧などは,ミロシェヴィチの肩にかかることになった。アメリカなどの支援を背景にして,野党の反ミロシェヴィチの動きが活発となったが,いまのところ,決め手を欠いている。野党を支援するアメリカ,イギリスなどの狙いは,親米,親EU派の政権を求めているのは見え見えであり,野党の優勢な地域への石油提供を画策したのはその現れである。
コソボについては,コソボ復興のための国際的な資金拠出が日本も含めて決定された。アメリカは,コソボ解放軍系の政府の樹立にたいしては,セルビア人との共生を提示して,曖昧な態度をとっている。
セルビアへのNATOの空爆は,ワシントンでNATO創設50周年記念式典が4月23日に開かれる前であった。国連憲章は,安全保障理事会の決定に基づくものか,個別的もしくは集団的自衛権の行使による武力行使しか認めていないが,この空爆はいずれの要件も満たしていない。したがって,それは明白な国連憲章違反であった。NATOは,1990年代に,冷戦体制崩壊後の対応として領域外での行動について,新戦略概念を打ち出し,1999年の新戦略概念では,人権抑圧を安全保障上の脅威とみなすことが新たに盛り込まれた。しかしそれが正式に発表される前に,すでにセルビア空爆は,「人道的介入」は正義である,人権抑圧に対しては国家主権は制限される,内政不干渉原則は人権問題については適用されない,これは国連憲章の条文の規定に反するがその精神に合致する行動だ,などの理由で正当化された。
最後に
ユーゴスラヴィア解体過程で,各共和国の独立を支持するかどうするかについて,イギリス,フランスの慎重論とドイツ,オーストリア,イタリアの積極論が対立したことを想起しておきたい。ドイツはクロアチアのトゥジマン大統領の与党民主同盟の民族主義的政府と関係を強めている。後から介入を強めたアメリカは,ボスニア政府と関係を強め,さっそく通商官僚と財界人の合同使節団をボスニアに派遣したことは,その帰途の飛行機が墜落したことで明らかとなった。ドイツ,アメリカは,それぞれ,介入した国で自国の経済権益を確保に走ったわけである。コソボでも,すでにそうした大国どうしの利権分捕り合戦がはじまっている。そこで圧倒的に優位に立っているのはアメリカである。日本もおくれをとってはならないと,その競争に参加をねらっている。というのは,すでに松下電器などが東欧に進出するなど,日本企業の直接投資が近隣諸国で始まっているのである。
ユーゴスラヴィアの民主的連邦制度と土地改革による独立自営農民の創設,自主管理,分権化,市場社会主義による工業化とプロレタリアートの増加策はある程度達成されたといえよう。しかし労働者民主主義による民族対立と宗教対立を克服する社会革命は,実現されなかった。ユーゴスラヴィアでの分権化は,やはり小ブルジョアジーの成長,農民の小ブルジョア性の成長を克服できず,とっくに反動と化していたブルジョアジーが革命的であった時代の遺物である民族主義への感染を防げなかった。たとえば,それはクロアチアやスロヴェニアが,連邦中央がセルビア人によってしめられているとする虚偽の理由で,連邦中央にたいする民族自決を主張したことに現れている。実際には,連邦が解体していくなかで,セルビア人以外が抜けていって,残されたのがセルビア人だったために,連邦中央でのセルビア人の比重が増加していったのである。したがって,事態を客観的に見るならば,スロヴェニアがセルビアにたいして民族自決を主張する根拠は希薄であり,スロヴェニアは,ただ経済的なブルジョア的利害,進んだ産業の利益を独占したいという利害にもとづいて行動したにすぎないのである。
ユーゴスラヴィアの解体を外部から促進した西欧ブルジョアジーの狙いは,新たな市場拡大の野望であった。日本のブルジョアジーはそれに参画する機会をうかがっている。すでに松下電器をはじめ日本の資本家も,東欧諸国への直接間接の投資を行っているのである。
ユーゴスラヴィアの解体が現実となってしまった以上,つぎには,スロヴェニアのEU加盟など,各共和国毎のヨーロッパ統合過程への結合問題が浮上するだろう。また,アメリカの提示した,ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とクロアチア共和国の国家連合案,ボスニアのセルビア人共和国と新ユーゴの国家連合案,コソボ自治州での高度な自治案,が実現されないままになっている。しかし,コソボ戦争後,新ユーゴではモンテネグロ共和国が反ミロシェヴィチ姿勢を強め独立をちらつかせており,また,セルビアは空爆の打撃に加えて,経済制裁を受け,諸外国に支持された反大統領派の野党の攻勢にさらされて,まともに外交を展開できる状態にはない。
クロアチア共和国では,超民族主義的姿勢のために国際的に孤立していたトゥジマン大統領が死去し,総選挙が実施されたが,20%の失業率の大失業を克服できなかった与党民衆同盟に代わって,社会民主党(旧共産主義者同盟),社会自由党,農民党などの野党勢力が大躍進し,政権交代が確実となった。
一方で,コソボ問題へのNATOの軍事介入に反対し抗議する行動が,ハンガリーのブダペスト,イタリア,ギリシャ,ドイツ,ロシアをはじめ,世界各地で展開された。そのうち,ドイツの運動の中心は緑の党左派であり,その他も左派勢力によるものが多かったが,ロシアでのそれは極右民族主義のジリノフスキーの自民党などのスラブ主義に基づく反NATO運動であった。ロシアのスラブ主義によるものを除いたそれらの動きは,民族対立や宗教対立を故意にあおって労働者人民をだまして民族ブルジョアジーの利害を図るという反動的民族主義者の狙いを暴露し,労働者人民同士を殺し合わせて得をしているものは誰かを冷静に見抜かせ,この対立を利用して自己の利害を図ろうとしている大国の介入の意図を明らかにし,労働者階級人民の打倒すべき共通の敵がどこにいるかを正確に認識させる役割を多少なりともはたしただろう。
民族対立や宗教対立を克服するためには,労働者民主主義が必要である。それは国境を越え,民族を越え,宗教を越えたプロレタリアートの具体的な連帯と結びつきを土台にして発展し,プロレタリアートの国際文化によって育まれる。連邦,国家連合,国家共同体などの国家形態は,そのようなプロレタリアートの国際的利害に基づく価値を実現する形態となるならば,進歩的である。それが,支配民族が被支配民族を抑圧する形態であるならば,反動的である。したがって,すでにスロヴェニアで圧倒的多数の支配民族となっていた豊かなスロヴェニア人の民族自決は反動的である。それは自民族のみの利益しか考慮しない偏狭な計算高いブルジョア反動的あるいは小ブルジョア的な民族主義にすぎない。ただ後者の場合には,説得によるプロレタリアートの側への引きつけと中立化によって,その動揺を麻痺させ,その地位の不安定さからおこる民族主義などの諸空想への熱中を無化しなければならない。
コソボではNATO軍に守られて,大量のアルバニア人が帰還したが,今度はアルバニア人による報復によってセルビア人やロマ人などのコソボ脱出がつづいている。コソボでは,経済的後進性からの解放と農民の経済的政治的解放が前進させられない限り,アルバニア人の民族主義の根は断てない。そうした任務を基本的に終えた後のスロヴェニアの民族主義は反動的である。それは,反動的民族主義を掲げる支配階級を打倒する労働者革命によって一掃されなければならない。ユーゴスラヴィア解体でうまれた各民族政府は,労働者人民を民族ブルジョアジーの利害の下に従属させている反動的な政府である。上記の任務を前進させている限りで多少の進歩的役割を果たすにすぎない。労働者革命はその任務を徹底的に前進させる。コソボにおいてコソボ解放軍はそうした役割をはたせそうもない。コソボのアルバニア人は民族的憎悪にかられたセルビア人への報復をおこなっている。もしコソボ解放軍による政府ができれば,それは,民族間の憎悪をあおり,対立させるアルバニア人の民族政府になる可能性が高い。現時点では,アメリカなどによる圧力で,セルビア人の入った暫定政府がつくられたが,自由選挙を行えば,けっきょくはアルバニア人が圧倒的多数をしめる政権が誕生することはあきらかである。
このように連邦解体と内戦の結果,諸民族の運命と西欧の諸大国の利害や思惑が錯綜する現実が生み出された。各民族政府は,一見すると自立しているように見えるが,実際にはボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦の憲法がアメリカで調印されたことに明らかなように,大国の後ろ盾によって独立の見かけを保っているにすぎないのである。大国の利害がこの地域で持つ重みは増大した。
旧ユーゴスラヴィアのプロレタリアートには,労働者の民主主義と国際主義,平等と友愛,ブルジョアジーへの経済的政治的隷属からの解放,という国際プロレタリアートの共通の旗の下に,労働者はもちろん農民,農業プロレタリアート,零細な小ブルジョアジー,被圧迫民族を結集し,細分化を利害とする帝国主義諸国の従属化の策謀に対抗することが求められている。そしてプロレタリアートの国際的な解放運動の一環としての自覚した行動としてそれを示すことである。それこそが,戦争を防ぎ,大国の介入をはねかえす自治を実現する道である。
国際プロレタリアートには,ユーゴスラヴィアの労働者人民のそうした道を支持し,その傾向の自由な発展を妨害する大国の利害を暴露し,自国政府の軍事的などの介入に反対する大衆的なプロレタリアートの行動を発展させることで,連帯と共感を示すことが求められている。その利益は,双方のプロレタリアートで分け合う日が必ず訪れることで実感されるのである。ただし帝国主義時代には,抑圧民族にたいする被抑圧民族の民族戦争は進歩的であるということを忘れてはならない。抽象的なブルジョア平和主義とブルジョア民主主義的な民族解放を装った経済的,金融的,軍事的従属化の野望を暴露し,その欺瞞と奸計を見抜き,それに対抗し不可能化する労働者国際主義を発展させることである。
ユーゴの経験と理念の歴史は,労働者評議会や労働者自主管理や協同組合自主管理,民主的連邦制度,などの失敗にもかかわらず,あるいはそれゆえに,様々な教訓を引き出し過渡期の諸方策として誤りを含めて摂取に値する実例を提供した意義が大きいことを忘れてはならない。