共産主義者同盟(火花)

東欧「改革」のつきつけたもの(11)

流 広志
220号(1999年12月)所収


東欧社会の諸特徴

 東欧社会についての歴史的・実証的な知識は,日本ではあまり蓄積されていないようである。1989年から1991年のソ連・東欧の歴史的大激動についても,もっぱらベルリンの壁崩壊を冷戦終結のシンボル化して,それをくり返すことで,物神崇拝するというものであった。またソ連邦崩壊については,ゴルバチョフを監禁したクーデターからエリツィンを大統領に押し上げた軍と市民の闘い,そして議会に立てこもったソ連共産党保守派とエリツィン政権との軍事衝突などの諸事件,を旧体制を保守しようとする守旧派にたいする親西欧の急進改革派の勝利とみなすというおかしな解釈によってお茶を濁す程度のものであった。もちろん,自由主義者の,共産主義にたいする資本主義の勝利という「定説」の現実性などはなからなく,したがって今では物笑いの種になっている。というのは,これらの諸事件は,1917年ロシア革命によって過渡期へと移行したソ連社会の長い階級闘争発展のひとつの階梯を意味するのに他ならないからである。ソ連社会は共産主義社会に到達などしていないのであり,したがって,共産主義が現実として存在していないのだから,勝つも負けるもないのである。現実には,共産主義をイデオロギーとして掲げる政党が権力を握る国家で,別のイデオロギーを掲げる政党への政権交代があったということにすぎないのである。
それにしても,東欧社会の歴史的現実は,階級闘争の歴史であり,社会的諸矛盾がいかに形態上の安定や静かさや穏やかさの下で,その社会の歴史的発展を規定し,深いところで人々をつき動かすか,いかに弁証法的か,ということをあらためてわれわれに教えてくれている。後の激動期が穏やかで平安な時期に準備され,上昇の時代が下降の時代を準備する,その実例を生き生きと伝えているのである。大きな事件のない時期を見て,そこに明日の大激動の前触れを感ずることのできない非弁証法的な人々と違って,弁証法的唯物論者は,その平安さが階級闘争によって生み出された一時的な状態にすぎないことをしっかりと見抜くのである。
 東欧社会の諸特徴については,東欧史とブルス氏のモデル分析を見る中で,ある程度あきらかにできたと思う。それぞれの東欧諸国の具体的な特徴となると,それぞれの特質があり,それをやっていこうとすれば,それなりの詳しい個別の知識が必要になるし,それは現在の私の力量では不可能である。それに本稿は東欧の共通性というところにテーマを絞っているので,個別のケースについて特徴を詳しく明らかにすることはテーマの範囲を超える。しかしそうはいっても,ある程度は,そうした個別的な特徴を歴史的具体的に明らかにすることは,他のケースを見ていく場合にも参考になることもたしかである。そこで,東欧「改革」に理念的にも現実的にも大きな影響を与えたユーゴスラヴィアを主に取り上げることにしたい。なお,事実関係については柴宜弘氏の『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)をおおく参照している。

ユーゴスラヴィア前史

 ユーゴスラヴィアとは「南スラブ」という意味である。第二次世界大戦後のユーゴスラヴィアは,クロアチア,スロヴェニア,マケドニア,モンテネグロ,ボスニア・ヘルツェゴヴィナの6共和国で構成された。歴史的な経緯によって,それぞれの領域には,互いの民族が入り組んで居住しており,またドイツ人やイタリア人,ハンガリー人やルーマニア人やアルバニア人などが少数民族として存在している。
 中世には,カトリックのクロアチア王国があり,東方正教会の流れをくむセルビア正教会のセルビア王国があった。1102年,王位継承問題をめぐる内紛を契機に,ハンガリー王国の下での自治領に移り,16世紀には,ハプスブルク帝国下の自治領に移る。中世セルビア王国は,1389年のコソボの戦いでオスマン帝国に破れ,以後,帝国領となる。現ユーゴスラヴィアの範囲は,西部はハプスブルク帝国,東部はオスマン帝国の下に置かれることになる。モンテネグロだけは,山岳地帯に後退して,独立を守った。
 オスマン帝国では,スルタンから与えられた軍事封土の領主スパーヒが徴税権を持っていたが,それ以上の干渉はしなかった。ハプスブルク帝国にしても,諸王国や諸領邦の集合体にすぎず,それぞれの自治は基本的には侵されなかった。
 ところが,19世紀に入るや,フランス革命を輸出するナポレオンによるヨーロッパ征服戦争(ナポレオン戦争)が開始され,ヨーロッパ大陸を次々と支配下に置いていくと,それと時を同じくして,1804年には,豚商人カタジョルジュを指導者とする,オスマン帝国の統制を離れた傭兵集団イェニチェリ(常備軍団)の圧制に対する蜂起が発生する。この蜂起は1806年の露土戦争が始まると,ロシアの支持を期待して,独立蜂起に転化する。ところが,この蜂起は,1812年にナポレオン軍がロシア遠征でツァーリの軍隊に敗北して,以後,ナポレオンが没落してしまうと,1813年には,オスマン帝国によって押しつぶされてしまった。1815年,豚商人のミロシュ・オブレノヴィチが指導する第二次蜂起が起こるが,蜂起側は,オスマン帝国との交渉による自治権獲得を目指し,1830年に公国として自治を得る。
 1848年革命がハプスブルク帝国などで起こる。コシュートの率いるハンガリー独立運動が起こる。この時,ハプスブルク帝国領内のクロアチア人とセルビア人は,ハプスブルク帝国皇帝の側に立ち,自分たちの直接の支配者であるハンガリーからの自治を要求した。しかし,翌年にはハンガリーの独立運動は敗北し,もとのハプスブルク帝国支配にもどった。

 ナポレオン戦争以後,ヨーロッパ各地で,封建制度を打ち破り,民族独立と近代国家建設を要求するナショナリズム運動が拡がっていった。クロアチア,セルビア,では,言語の統一,民族文化の構築,歴史の民族史化など民族主義が台頭する。1868年には,前年にオーストリア=ハンガリー二重帝国が生まれたのを受けて,クロアチアはハンガリーとの間で同様の二重制をかちとった。それによって,財政,外交,軍事以外の自治を獲得する。
 1877年露土戦争がロシアの勝利に終わると1878年にベルリン条約が結ばれた。この条約で,セルビアとモンテネグロの独立とボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権がハプスブルク帝国に移された。以後,没落しつつあるオスマン帝国の影響力が後退し,代わりにハプスブルク帝国の影響力の増大が目立つようになってくる。1903年には,セルビアでは親ハプスブルク帝国勢力の権力から親ロシア勢力に権力が移行した。クロアチアでも親ハンガリー政権が倒れ,南スラブ統一主義勢力が伸張した。クロアチアでは,1905年12月に,5つの議会政党による「クロアチア人・セルビア人連合」(クロアチア権利党,クロアチア進歩党,セルビア民族独立党,セルビア急進党,社会民主党)が連立した。
 1903年には,VMRO(内部マケドニア革命組織)の主導するマケドニア独立蜂起(イリンデン蜂起)が起こった。セルビア王国(1882年)は,ハプスブルク帝国による経済支配に反発を強め,1906年には,関税戦争を開始した。この戦争は,ハプスブルク側が,セルビアの軍需品の発注をすべて自国に独占させるよう迫ったのをセルビア側が拒否したため,報復としてセルビアの主要な輸出品であった豚の輸入を禁止し,セルビア側がその対抗措置としてハプスブルク帝国からの輸入をいっさい禁止して他のヨーロッパ諸国から輸入することを決定したことから,起こった。1908年には,ハプスブルク帝国がボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したことから,アドリア海への進出を狙っていたセルビア王国側が反発し,モンテネグロ,ロシアがこれを非難した。1912年には,ロシアの仲介で,セルビア,ブルガリア,ギリシャ,モンテネグロの間に二国間条約が結ばれて,バルカン連盟が結成される。オスマン帝国はイタリアと戦争があり,またオスマン帝国支配下のアルバニア,マケドニアの民族運動が活発化していた。そこを捉えて,バルカン連盟諸国は次々とオスマン帝国に宣戦布告し,第一次バルカン戦争が勃発した。戦争はバルカン連盟が勝利し,オスマン帝国はバルカン半島の領土をすべて失った。
 つづいて,1913年6月,真空地帯となっていたマケドニアをめぐるバルカン連盟内の戦争(セルビア,ギリシャ,モンテネグロ対ブルガリア)が始まった。この戦争は,セルビア,ギリシャ,モンテネグロ側が勝利した。その結果,コソボとマケドニアはセルビア王国に併合され,ボスニアとコソボの間の山岳地帯のサンジャク地方はセルビア王国とモンテネグロ王国で分割し併合された。

バーゼル宣言(1912年11月)

 第一次バルカン戦争が勃発した1912年11月24日−25日にスイスのバーゼルで臨時社会主義者大会が開かれた。この大会で,いわゆるバーゼル宣言が採択された。バーゼル宣言は,「バルカンの危機は,もし拡大すれば,文明とプロレタリアートにとって最もおそるべき危険となるであろう」と警告を与えていた。宣言は,オスマン帝国がつぎつぎと引き起こした戦争の原因をヨーロッパ列強による系統的な改革の妨害による政治的・経済的困難をもたらしたことにあると述べ,それに対してバルカン半島の社会民主主義諸党が民主主義的バルカン連邦を要求したことを讃えた。バルカン半島の社会主義者にたいしては,第一次バルカン戦争の一方の陣営であるセルビア人,ブルガリア人,ルーマニア人,ギリシャ人の間の歴史的敵対関係の復活に反対し,同時にもう一方の陣営であるトルコ人,アルバニア人への迫害にも反対することを勧告している。
 オーストリア=ハンガリー,クロアチア,スロヴェニア,ボスニア・ヘルツェゴヴィナの社会民主主義諸党には,オーストリア=ハンガリー王国によるセルビアにたいする王朝の植民地化を目的とする戦争に反対し,オーストリア=ハンガリー王国の社会民主主義諸政党は同王国内での南スラブ諸民族の民主主義的自治権獲得のためにたたかうべきだと提言している。イタリアとオーストリア=ハンガリー王国の社会民主主義諸党に対しては,とくにアルバニア人の民族自決権を認め,民主主義的バルカン連邦内での自治を認め,イタリア,オーストリア=ハンガリー王国のいづれの国によるアルバニア人を自国の勢力範囲に取り込もうとする一切の企てとたたかい,両国の平和的関係の確立を要求することを要請している。そしてバルカン諸国民の解放者を装って勢力範囲の拡大を狙っているヨーロッパの反動拠点となっているツァーリ・ロシアからの諸民族の解放は最も気高い任務であると述べている。ドイツ,イタリア,フランスの労働者階級に対しては,自国政府にたいして,オーストリア=ハンガリー王国,ツァーリ・ロシアにたいする援助をせず,バルカン紛争へのいっさいの干渉をさしひかえ,絶対的中立を要求する任務をあたえた。イギリス,フランス,ドイツの対立を克服できれば,この対立を利用しているツァーリズム・ロシアを動揺させ,オーストリア帝国のセルビア侵略を不可能にするからである。
 宣言は,独仏戦争(普仏戦争)が1871年のパリ・コミューンの革命的爆発をともなったこと,日露戦争が,1905年ロシア革命,ロシア内の諸民族の解放運動を呼び起こしたこと,軍備拡張熱がイギリスと大陸諸国で階級衝突を激化させ大規模なストライキを呼び起こしたことをあげて,諸国政府に平和を要求している。宣言は,資本主義的帝国主義にたいするプロレタリアートの国際的連帯の力を対置した。宣言はいう。「万国のプロレタリアおよび社会主義者よ,かくて大会は諸君につぎのように呼びかける。決定的な時点で諸君の声をあげよ! あらゆる形式で,あらゆる場所で諸君の意志を告知し,議会で力いっぱい諸君の抗議を申したて,大挙して大示威運動に結集し,プロレタリアートの油断のない情熱的な平和意欲をつねに注視するようにさせよ! こうして搾取と大量殺害の資本家的世界に,平和と諸民族の友好のプロレタリア世界を対置せよ!」(『帝国主義論』国民文庫 174頁)。
 レーニンは,バーゼル宣言を『帝国主義論』に付録としてつけている。レーニンは,フランス語版およびドイツ語版への序文で,そうした理由を,それが,1912年に,1914年にはじまる第一次世界戦争の評価を与えたものであり,第二インターナショナルの高名な指導者たちが,自らが採択し署名したこの宣言に反して,自国政府の戦争政策を支持するという裏切りを行ったことを暴露し読者の注意を促すために記念碑としたものだとのべている。

 バルカン戦争の性格を的確にとらえたバーゼル宣言は,オスマン帝国,オーストリア=ハンガリー帝国,ツァーリズム・ロシア帝国の封建的反動的帝国主義とイギリス,フランスなどの資本主義的帝国主義を区別し,封建的反動的帝国からの諸民族の解放,ブルジョア革命運動の革命戦争(1789年フランス革命ーナポレオン戦争,1848年ドイツ,オーストリア帝国内の諸革命運動,等々)の進歩性を認めている。レーニンは,「世界史の新しい1章」(1912年10月21日),「セルビア=ブルガリアの勝利の社会的意義」(同年11月7日),「バルカン戦争とブルジョア排外主義」(1913年3月29日),の『プラウダ』に掲載された諸文章で,バルカン戦争についての分析と評価をあたえている。そこで,レーニンは,トルコの壊滅とバルカン同盟(セルビア,ブルガリア,モンテネグロ,ギリシャ)の勝利を讃えている。バルカンはバルカン民族のものとなった。オーストリア,バルカン諸国,ロシアでは,社会発展とプロレタリアートの成長を妨害しているのは,中世の遺物である絶対主義(無制限の専制主義的権力),封建主義(農奴主=地主の土地領有と特権),諸民族の圧迫である。バルカンの諸民族を首尾一貫した民主主義的解決は,バルカン連邦共和国であった。プロレタリアートの数が少なく,農民が分散しているバルカン諸国家においては,それが君主国による同盟という形をとった原因である。
 レーニンは断固としてバルカン戦争とバルカン同盟の進歩性を肯定した。「バルカンにおいては,共和国同盟ではなしに君主国同盟が成立したにもかかわらず,――革命のおかげでなしに戦争のおかげでこの同盟が実現されたにもかかわらず,――それにもかかわらず東ヨーロッパ全体における中世の遺物の破壊のための偉大な前進がなされた」(『民族問題にかんする批判的覚書』国民文庫 108頁)。ロシアには中世の遺物がもっとも多い。「西ヨーロッパでは,プロレタリアートは,ますます力づよくつぎのスローガンを宣言している。いっさいの干渉をやめよ! バルカンはバルカン民族へ!」。
 第二の文章はオーストリアのマルクス主義者オットー・バウアーの「ブルガリアおよびセルビアによるマケドニアの征服は,マケドニアにとっては,ブルジョア革命,すなわち一種の一七八九年もしくは一八四八年を意味する」(同 109頁)ということばの引用ではじまっている。レーニンはこのことばを「いまバルカンにおこりつつある諸事件のおもな本質を一言であばきだしている」(同)と評価している。マケドニアでは,イスラム教徒のスパーヒ(地主=封建領主)が,キリスト教徒の農民をオブローク(貨幣,生産物の貢租)やイスポルシチナ(収穫の三分の一をわたす分益制)などで,封建主義の下に縛りつけていた。レーニンは,農民の経済的解放,多少とも自由な農民=土地所有階級を創造することが,民族解放と民族自決の自由をもたらすとのべた。バルカン連邦共和国という労働者民主主義的解決だけが,農民を徹底して経済的政治的に解放するし,それによって,バルカン諸民族の真の解放をもたらす。レーニンは,バルカン連盟(同盟)という君主国(王国)同盟の戦争によるオスマン帝国支配からのバルカン民族の解放となってしまったのは,プロレタリアートの数の少なさと農民の分散と未発達が原因だとのべている。
 バルカン連盟側がアドリアノープルを占領したことを受けて,バルカン戦争が終結するという見通しがついたと判断したレーニンは,「問題の重心は,軍事行動の舞台からいわゆる大国のいがみあいと陰謀の舞台へ最終的にうつった」(同 112頁)とのべた。バルカン戦争の意義を評価してレーニンは「バルカン戦争は,アジアと東ヨーロッパにおける中世の崩壊をしるしづける世界的諸事件の連鎖の一環である。バルカンにおける統一的諸民族国家の樹立,地方封建領主の圧制の打倒,地主のくびきからあらゆる民族のバルカン農民を最後的に解放すること,――このようなのが,バルカン諸民族が直面した歴史的任務であった」(同)とつづけている。バルカンのこれらの諸問題が,ブルジョア的,王朝的な利害による戦争によって解決されたのは,バルカンのプロレタリアートの弱さにあるともに,強大なブルジョアジーの反動的な影響と圧迫にある。ヨーロッパのブルジョアジーは,真の自由をおそれ,略奪政策を容易にし,バルカンの被圧迫諸民族の自由な発展を妨害するために,排外主義と民族的不和をあおりたてた。したがって,いわゆる大国のプロレタリアートの排外主義との闘争は,ブルジョアジーの略奪政策を困難にし,自由を発展させ,被圧迫民族の解放を支援し促進する。これがレーニンの第一次バルカン戦争のその真っ最中の分析・評価である。
 1913年6月第二次バルカン戦争が始まり,バルカン連盟は,マケドニアの領有をめぐるセルビア,モンテネグロ,ギリシャ対ブルガリアの戦争だったが,ブルガリアが敗北し,マケドニアは前者の間で分けられた。
 バルカン連邦共和国構想は,セルビア人社会主義者のマルコヴィチの1872年の『東方におけるセルビア』で主張されているという。レーニンは,バルカン連邦共和国構想を,中世的遺物からの農民の政治的経済的解放を実現する国家形態として認め,それが労働者の徹底した民主主義を発展させるならば,民族圧迫,民族間の対立や憎悪を取り除くだろうと主張した。

 バルカンのオスマン帝国の絶対主義的封建制からの民族の解放の事業が,革命によってではなく,諸王国同盟の戦争によって前進を遂げた。ひきつづき,中世的遺物を一掃し,多くの農民を小土地所有階級にし,工業と商業を自由に発展させ,近代的プロレタリアートを大量に生み出すことが必要な段階に入った。そうした新たな段階への成長は,封建的ハプスブルク王朝のオーストリアにとってばかりではなく,すでに資本主義的帝国主義となったイギリスなどの帝国主義的諸国が自国の利害に有利なように誘導しようとする目論見にさらされていた。その野望は,1908年のオスマン帝国でのケマル・パシャを指導者とする青年トルコ党によるトルコ革命に乗じたイタリア=トルコ戦争とトルコへのイギリスの介入によってあきらかであった。
 バルカンにおける1789年フランス革命であり1848年革命であるバルカン戦争は,終了した。
 フランス=プロイセン戦争は,フランス革命におけるフランスのブルジョアジーが1789年の歴史における進歩的役割をとっくにうしなったことをはっきりと示した。普仏戦争は,ブルジョア革命的諸運動(ナポレオン戦争がドイツで統一運動やナショナリズム運動,その表現であるドイツ・ロマン主義の文化運動を生み出したように)を生み出さず,労働者のパリ・コミューンを先頭とするコミューン運動などの労働者革命運動を生み出した。ヴェルサイユに避難したブルジョアジーと王党派は労働者革命に敵対して同盟し,侵略者プロイセンと手を結び,コミューンを壊滅させた。かつて,労働者とともに中世の遺物,絶対主義,封建制を打ち倒したブルジョアジーの民族政府は,労働者革命にたいしては他国のブルジョア的民族政府と共同で敵対するようになった。1871年は,もはやブルジョア的民族政府間の戦争が進歩的民族解放的性格を持たなくなったこと,その戦争は,労働者革命運動を生み出す場合があること,ブルジョア的民族政府はそのような運動に対しては,他国政府と手を握って共同で敵対すること,が明らかとなったのである。

第一世界大戦

 1910年にベオグラードで,ブルガリア,セルビア,ルーマニア,ギリシャの社会民主党が参加するバルカン社会民主党連合が結成され,バルカン連邦を掲げた。1908年にボスニア・ヘルツェゴビナを併合したオーストリアにたいして,セルビア人の反発が強まっていた。1914年6月28日のセルビア人青年によるサラエヴォにおけるオーストリア皇太子夫妻暗殺事件をひきがねとして,第一次世界大戦が勃発した。
 セルビア政府は,セルビア人,スロヴェニア人,クロアチア人の統一を掲げ,ハプスブルク帝国解体と南スラブ統一を掲げる政治勢力と手を結んだ。1915年4月にイギリスなどの協商国とロンドン秘密条約を結んだイタリアが参戦した。秘密条約では,イタリアにダルマチア海岸地方,イストリア半島,アドリア海の島嶼部,をあたえることが約束されていた。
 スラブ主義を掲げてバルカン地域への進出を狙っていたロシアは,戦争がはじまるとただちにオーストリアに戦争を開始した。オーストリア側に立ったドイツとの戦端が開かれ,泥沼の戦争に突入していった。レーニン派のボリシェヴィキは,ただちにツァーリ政府にたいする反戦闘争を開始し,帝国主義戦争を内戦に転化する任務の実行に着手した。諸大国の帝国主義戦争がただちに戦時あるいは戦後に強力な革命運動を呼び起こすかどうかはあらかじめわからないがそういう方向をめざす系統的な活動が必要である,と1914年9月に起草され11月1日のボリシェヴィキ中央機関誌『ソツィアル・デモクラート』第33号に発表された『社会主義と戦争』(戦争にたいするロシア社会民主労働党の態度)はのべている。この文章は1915年夏のツィンメルバルド会議に提出される。
 1917年の二つのロシア革命は,第一次世界大戦の結果に大きな影響をあたえた。第一次世界大戦は,帝国主義のイギリス側すなわち協商国側の勝利に終わった。1918年11月1日,セルビア王のアレクサンドル公を王とする「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」が誕生した。1921年にはヴィドヴダン憲法を制定し,立憲君主制,中央集権制,民主的議会,市民的自由,単一の「セルビア・クロアチア・スロヴェニア語」を公用語とするなどを規定した。これで近代的ブルジョア国家体制が確立されたのである。
 ところが,セルビア中心の体制にクロアチア人などの反発が強まると,国王アレクサンダルは,1929年1月に国王独裁を宣言し,ヴィドヴダン憲法の停止と議会解散を命じた。10月には,国名がユーゴスラヴィア王国に変更された。1929年に始まった世界恐慌は,農業恐慌として農業地帯であったバルカン地域の農民をおそった。
 クロアチア独立を掲げ,イタリアのファシストのムッソリーニと結んだクロアチア人右翼民族主義組織ウスタシャが,1932年に結成された。ユーゴスラヴィア王国は,フランスとの関係を強めていたが,1934年10月フランス訪問中のマルセイユで,ウスタシャとマケドニアのVMROに属する青年によって暗殺された。
 帝国主義のイギリス・フランス陣営とドイツ・イタリア陣営の世界再分割の争いは熾烈になっていった。第一次世界大戦後,劣勢に立たされたドイツ,イタリアなどでは,もっとも排外主義的で戦闘的で反動的なファシストが支配階級の代表部を占めた。1939年3月には,ナチス・ドイツは,チェコスロヴァキアを解体し,傀儡の独立スロヴァキア国家をつくった。1940年にはアルバニアを支配下においたイタリアがギリシャ侵略を開始する。11月には,ルーマニア,ハンガリーが三国同盟(イタリア,ドイツ,日本)に参加し,1941年3月にはブルガリアが加わり,ユーゴスラヴィアも加盟する。
 ユーゴスラヴィアでは,共産党員を含む広範な住民が三国同盟加盟反対,ソ連との同盟,三国同盟にたいする戦争をもとめる10万人をこえる大デモンストレーションが起こった。3月27日には,軍部のクーデターが起こり,シモヴィチ将軍を首班とする新政府が樹立された。新政府は三国同盟に加盟したまま,ソ連と友好不可侵条約をむすんだ。それに対して,ナチス・ドイツは4月6日に,空軍による爆撃と機構部隊による軍事侵攻を開始した。イタリア,ハンガリー,ブルガリアがこれにつづいた。4月16日にはユーゴ王国軍は降伏し,シモヴィチ政府と国王ペータル二世は亡命した。ユーゴはファシスト集団ウスタシャのパヴェリッチを指導者とする傀儡の「クロアチア独立国」を除いて,ユーゴは,ドイツ,イタリア,ハンガリー,ブルガリアによって,分割,併合された。


(以下,続く)




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