東欧「改革」のつきつけたもの(10)
流 広志
219号(1999年11月)所収
粛清にみるスターリニズム諸党派の態度と若干の教訓
ソ連の場合
まず,旧ソ連における粛清の性格を検討したい。
レーニン存命中の粛清は,基本的には党員の再登録を意味しており,そうした粛清については党の質を高めるための妥当な手段として認められていたことを確認しておく必要がある。問題は,ボリシェビキが国家権力を握ることによって,粛清は,党内闘争と警察的手法が結びつけられ,また党外大衆にまでその適用範囲が拡大していき,やがては,無差別ともいえる大量弾圧にまで発展していったことにある。
複数制的政治情況の下では,党員の再登録によって,党から出た元党員達は,別の政党に参加することもできるし,自らが党を作ることもできるし,その他の政治活動を行うこともできるし,選挙での投票などを通じて元の党でも別の党でも支持することができる。 このような複数制的要素が窒息させられていくのは,ブルス氏も指摘するように党の大衆政党化の進行による部分が大きいといえる。渓内謙氏によれば,「党員数は一九一七年四月に約四万であったが,革命後急増の一途を辿り,一九二三年はじめには約四八万五○○○人,一九二六年はじめには一○○万人を突破する(『大ソヴィエト百科事典』第一版,第11巻,一九三〇年,所収,ブブノフ「ソ連邦共産党」)(『現代社会主義を考える』岩波新書 121頁)。渓内氏は,つづけて,「現在(一九八六年の党大会時)の党員数一九○○万に比べれば小規模であるが,一〇〇万の党員の党は,もはやエリートの党とはいえない」(同上)と述べている。
もともと複数政党制か単一政党制かという問題は厳密な意味で定義されたこともなく,また1921年の分派禁止決定にしても一般原則とされたわけではなかった。分派禁止が党規約に明記されるのは,ようやく1934年の17回党大会である。
1920年代末の強制的穀物調達・強制的な農業集団化と急進的工業化の「上からの」強蓄積化を押し進めるために,党・国家とりわけ警察・治安機関との一体化が進められた。 渓内謙氏は,1930年1月末の「階級としてのクラーク絶滅」についての党政治局決定は,党の国家化と一枚岩化の制度的確認であったとしている。「いまも全文が公表されていないこの秘密決定は,集団化目的達成の決定的手段となった『クラーク絶滅』(反抗的な農民に対する弾圧の強化により,農民大衆の抵抗を無力化する措置)実施のための権力中枢を党機関の系列において確立すること,すなわち,各級党委員会ビューローという寡頭制的機関(当時の党活動の指導の中枢であった)のもとに,党機関,ソヴィエト,政治警察(ゲ・ペ・ウ)の代表から成る三人委員会(トロイカ)を設立し,それに『クラーク絶滅』の全責任を負わせることを定めた」(同 154頁)。
かくしてソ連共産党の政策遂行は,党,統治機構,政治警察との三位一体体制を通じて実行されることになったのである。この三位一体体制がスターリニズム体制として確立し,その後の粛清の性格を規定することになる。1920年代のトロツキー派の粛清は,せいぜい党・国家の要職からの除名や解任といった程度で,命を直接奪う後の処分に比べればまだまだ穏やかなものであった。いったん追放されたトロツキー派からは,スターリンの左傾化を見て,党に復帰するものが結構出たのである。党・国家・政治警察の三位一体体制は,その政策遂行の妨げとなるか成りそうな部分に対して過酷に弾圧の手を下したのであり,その主な犠牲者は農民であった。その狙いは,生産手段の国家の下への掌握であり,経済管理の一切の権能を国家に帰属させることにあった。
かくして,1930年代には,生産手段を国家に集中させ,全能となった国家とそれに指導的役割を果たすとされた党,政治警察の三位一体のスターリン体制が完成した。このような体制の下で,単一政権党の大衆政党化によって,政党内の地位の高低が社会的地位の高低を決定し,それが特権の享受水準と結びついたため,それが人々の生活水準の高低を左右するようになった。
このような体制(ブルス氏の用語では国権主義モデル)の完成は,1936年のスターリン憲法体制として確立された。トロツキー・ジノヴィエフの合同反対派,ブハーリン派,の粛清は,党からの追放として行われ,成功した。その勝利を祝う大会として開催されたのが1934年の第17回大会であった。それは大粛清の前触れにすぎなかった。同年にはキーロフ暗殺を引き金とし,以後大規模に実施された大量弾圧と大テロルが準備されはじめた。スターリンによって,社会主義に近づけば近づくほど階級闘争が激化するという理屈が生み出されていた。1937年には,反ソ的トロツキスト・センターと地方におけるその支持者による陰謀が広範に存在するとして,内務人民委員部にトロツキストの摘発に全力をあげるように,スターリンからの激が飛ぶ。フルシチョフの「秘密報告」によれば,1937年から1938年にかけて,第17回大会で選ばれた党中央委員会の委員と候補139人のうち98人,すなわち70%が銃殺となり,この大会の代議員1956人のうち1108人が反革命の罪で逮捕された。
このような党内闘争への政治警察の介入は,あきらかに「予防的」性格をもっている。なぜならすでに体制の根幹を脅かす現実的可能性をもった反対派はすでに壊滅しているので,その時点でのそうした心配にはなんの根拠もなかったからである。だから,スターリンにとっては,現在ではなく将来に自己の地位を脅かす可能性のある一連の人脈を根こそぎにすることが目的だったわけである。
スターリン独裁期の大量弾圧とテロルの特徴は,公開裁判に現れたような見せしめ的な性格であり,告発された人々が保安機関がねつ造した調書の筋書きに沿ったドラマの登場人物に仕立て上げられたことである。それによって,スターリンの描いた反ソ的トロツキスト・センターとその地方の支持者による陰謀の数々が公然とその当事者とされた人々の口から語られるということになった。しかしそれは肉体的拷問や精神的圧迫や誘導によってあらかじめ作られた調書をむりやり暗記させられたものであった。このような見せしめの効果は短期的なものでしかなかいことが,やがてスターリン自身も認めざるを得なくなり,公開裁判は取りやめになった。
1934年に始まり,1938年にピークとなる大粛清は,ネップ(新経済政策)からスターリンの一国社会主義論を論拠にした第一次五カ年計画による急進的な工業化と強制的な食糧調達と農業集団化を達成する手段として形成された党・国家・治安機構の一体化と警察的手段による政策遂行の体制が確立し,この体制が自己の将来にわたる存在確保のために,事件のねつ造を必要とし,自らの仕事を自ら作りだし,自己増殖し,それが特権というインセンティブと結びついて,大量弾圧とテロルを必然としたということである。治安機関はその存在のために治安事件を大量に必要としたのである。スターリン個人がその体制の頂点に立っていたことは確かだが,その地位はそれほど確かなものではなかっただろう。党が大衆政党化したことによって,単一の政権党は,究極的には大衆を代表する唯一の存在とみなされていたため,党からの追放は,社会での地位上昇の可能性を狭めるし,公的な発言や決定の権利は事実上失われることを意味している。スターリンにとっては,側近や治安機関,軍などがいつ自分を裏切るかと心配だったに違いない。事実,後のフルシチョフ失脚の例がある。
ブルス氏は,国権主義モデルという非スターリン化,ポスト・スターリン期までその根本的特徴を保持しつづけた体制の成立という観点を取り,それはスターリンの全体主義的独裁で極限に達したとしている。しかしそれは国権主義モデルのひとつの特殊なケースであるというのである。したがって,氏の分析は,ポスト・スターリン期における変化と国権主義的特徴の保持との相互関係をこの期の特徴として明らかにできた。それにたいして,フシチョフの「秘密報告」の日本語訳を刊行した志水速雄氏の解説での立場は,階級独裁(マルクス)−一党独裁(レーニン)−一人独裁(スターリン)というシェーマを描き,それが必然的な展開であったとして,ポスト・スターリン期のブレジネフ体制をスターリン期への回帰と評価してしまっている。が,それはポスト・スターリン期の諸特徴を具体的に明らかにすることを回避した一面的・図式的評価といわざるをえない。
1937年から1941年までに多くの軍幹部が粛清された。ヒトラーのドイツ軍が国境を踏み越えてソ連領内に進行してきた時,これに呼応する動きが幾つか見られた。ひとつはバルト三国で,親ファシスト的な動きがあった。また,北カフカースとダゲステンでは,ロシア革命後にタリーカと呼ばれるムスリム集団やムスリム・コミュニストなどの叛乱がくり返されていたが,1940年にはそうした動きが活発となり,チェチェン=イングーシ自治共和国では,1942年初頭にドイツ軍が間近に迫ると,それに呼応した元共産党員らの叛乱が起きた。それに対してスターリン政府は,1944年2月に,チェチェン=イングシュ自治共和国を廃止,赤軍を投入して叛乱の鎮圧にあたり,多くの住民を追放した。それは対敵協力のためとされていたが,1956年の第20回党大会でその容疑を解かれ,1957年には元の共和国を回復した。しかし,当局は警戒を緩めず,弾圧を続けた。しかし現在に到るまでタリーカは,これらの地域で住民の根強い支持を受けつづけてきた。現在,ロシア政府はチェチェン共和国に戦争を仕掛けているが,その背景にはこのような長い間のソ連−ロシア政府の弾圧とそれに対する抵抗の歴史が存在するのである(詳しくは,山内昌之『神軍 緑軍 赤軍』筑摩書房.\ カフカースのスーフィー. 参照)。
ほぼ同じ理由で民族全体が弾圧されその居住地から追放されたのは,フルシチョフの秘密報告であげられているだけでも,他に,1943年末のカラチャイ人,同年12月末のカルムイク自治共和国住民,1944年4月のバルカル人,がある。
成立した三位一体体制を脅かす兆候とみなされたあらゆる種類の動きは,事件をねつ造してでもあらかじめとりのぞくというのが,この体制の特徴的なやり方である。それが,ゲルマン民族を頂点とする世界支配体制を目的として,ユダヤ人そのものを一人残らず殺害し抹殺する計画を実行したヒトラーのファシズム(ナチズム)と基本的な体制的特徴を同じくするものといえるだろうか。少なくとも,ナチズムのイデオロギー的特徴からすれば,違いは明白であろう。ヒトラーの差別排外主義的民族観は,当時のキリスト教徒の,ユダヤ人に対する差別や排外主義や敵意に関係が深いと考えられる。もちろんヒトラーがそれを利用したということは確かだが。また,ファシズムの性格を「金融資本のもっとも反動的,もっとも排外主義的,もっとも帝国主義的な分子の公然たるテロ独裁」(ディミトロフ『反ファシズム統一戦線』国民文庫 14頁)としたコミンテルン第7回大会の規定があるが,それを認めるならば,スターリン体制とファシズムはまったくの別物である。 スターリン体制の民族政策の基本は,同化と排外主義,治安管理政策と見るべきで,近代国家に共通の性質をもっていたと思われる。やはりスターリン体制の場合は,その特徴は国権主義的で自己保身的な保守的性格が基本とみるべきだろう。その保守的な性格ゆえに,大粛清は予防的なものとなり,自らにとって危険とみなされる一連の人脈をあらかじめ取り除こうとしたのであり,なにかが起こる前に,事件をねつ造してまで,危険の可能性を減じようとしたのであり,それが,国家・とりわけ治安機関の存在意義の保持・拡大と結びついていたのである。
人事選考が,ネガティブな規準に従っていたことは明らかであり,それは最も極端な全体主義的独裁の時期には,究極的にはスターリンという個人に握られていた。それは,自身の地位にとって危険とみなされる諸個人を名指しで直接に治安機関によって取り除き,抹殺することを指示し,実行された。スターリンは,党のいかなる機関の検討も必要としないで,自分が出す指令を実行した。悲劇なのは,スターリンの粛清の犠牲となったトロツキー派・ジノヴィエフ派・ブハーリン派の人々が,ロシア革命の意義を認めていたし,党の正統性を信じており,党の指導による社会主義建設を認め,その仕事のために自己犠牲をいとわない献身的な人物が多かったことである。トロツキーは最期まで,反対派の立場を捨てなかった。ブハーリンは,逮捕直前まで,スターリンの空約束を信じていたようだが,それは,彼が党からの追放を何よりも恐れていたからだという。党物神崇拝は,粛清の犠牲者である反対派の側にも根強かったのである。国家官僚が国家の神学者であることはマルクスの『ユダヤ人問題について』『ヘーゲル法哲学批判』において明らかにされているが,ソビエト国家官僚は,国家物神崇拝主義者であり,それは党−国家一体化の下では,同時に党物神崇拝となることは自然だったのである。
党国家の政策は,ロシア革命後,内戦期の戦時共産主義から新経済政策(ネップ)を経て,ブハーリン派の穏健路線から1929年の食糧強制調達の「非常措置」,超工業化,農業集団化,・・・・という強蓄積策(トロツキーはそれを左派の政綱からスターリンが盗んだものだと言った)へと変化するが,とりわけこの最後の政策遂行の体制が,大粛清を可能にしたのである。
東欧の場合
1936年のスターリン憲法(実際にはブハーリンが書いたといわれている)体制が,第二次世界大戦後の東欧諸国に上から導入された。しかし,それは東欧諸国では1946−1948年までに実行された国有化からスターリン死去の1953年3月5日までのわずかの期間でしかなかった。それまでに,ハンガリーのライク外相やチェコスロヴァキアの党書記長スラーンスキーなどが公開裁判で自らがスパイだったと告白させられ処刑されたり,ポーランドの党書記長ゴムウカやチェコスロヴァキアのフサークなどが,スパイや民族主義者やチトー主義者などの容疑で投獄された。この東欧での粛清の犠牲者は対独抵抗運動の組織者が多かったという。
1953年6月16日,東ドイツではノルマと物価引き下げを要求する労働者のデモが起こったが,それは自由選挙や政治犯の釈放や奴隷状態からの解放を求める暴動に発展した。それはチェコスロヴァキアのブルセン・プラハでの暴動,ハンガリーでのナジ政権による強制収容所の廃止決定などにまで拡がっていったが,1955年のマレンコフ解任後の重工業重視政策への復帰によって,挫折させられた。1956年のフルシチョフによるスターリン批判以降の非スターリン化は,東欧諸国に拡がっていったが,1956年6月28日のボズナン暴動をきっかけに「改革」運動が拡大したポーランドでは,7月の党中央委員会で,労働者の企業経営参加などを認めた改革策を決定,ゴムウカを第一書記の座につけるが,ゴムウカは公式に「社会主義への多様な道」を確認し,宣言した。同じ1956年には,ハンガリーで,革命委員会と労働者評議会が結成され,ソ連軍の撤退や複数政党制などを要求したが,ソ連軍の軍事介入によって,叛乱は鎮圧されてしまった。
スターリン型のマス・テロルの粛清は,10年ほどで,東欧諸国では基本的には放棄された。東欧諸国では,以後,党内改革派や党外の改革運動が完全に途絶えることはなかった。「改革」運動は,幾度もの大叛乱をくり返しながら,ついには,1980年代末には,複数政党による自由選挙を実現させ,政権交代を可能にした。東欧「改革」運動は,政治の民主化をかち取ったのである。党の国家にたいする指導的役割は否定され,国権主義モデルの根幹をなしていた党の役割は,変化せざるを得なくなった。その変化は,党の前衛性復活という先進的エリート的諸個人の少数党としてのレーニン時代のボリシェビキ的原則への復帰を要求しているのか,それともスターリン以後の党の大衆政党としての性格を保持した上での変化を要求しているのか,それとも他のあり方が必要なのか,等々,この領域での新たな解明すべき課題を突きつけている。1990年代の旧ソ連・旧東欧諸国の現状を見て明らかなことは,旧スターリン主義党派の多くが社会民主主義化しているか,民族主義化しているのであるが,大衆政党という性格をもったまま議会制民主主義に適応しようとしていることである。
以上,スターリン派諸党による粛清の問題を簡単に見てきた。スターリン体制(国権主義モデルの極端な独裁形態)の大粛清は,急進的工業化を目指したスターリン型「計画経済」の強蓄積策の実行体制として組織された党・国家・治安組織の一体化が,この体制自体の維持・保守のために「予防的」な事件ねつ造をともなうマス・テロルを生み出したものである。そのマイナス作用は第二次世界大戦という戦争のために一時的にごまかされてはいたが,結局はフルシチョフによって公然と明かされざるを得なくなった。その後もその基本形態は保持されつづけたが,1980年代末から1990年代初頭の大激動によって,解体される。
その教訓の一つは,結局のところ,過渡期から共産主義への前進にとっては,経済的な意味でも政治的民主主義と政治的自由が必要であるということであり,文明とか文化とかいう領域の重要性を突き出しているということなのである。一般的に言えば,それは党の水準を規定する一因であるといえるだろう。その他。
(つづく)