東欧「改革」のつきつけたもの(9)
流 広志
218号(1999年10月)所収
東欧「改革」の教訓と現代資本主義
前回まで,東欧史,ブルス氏の東欧「改革」のモデル分析を見てきた。東欧という単位によってひとくくりにできるのは,ただそれが1940年代末にソ連型の体制を導入したという共通の体制的特徴を持つ限りにおいて,である。1950年代には,まずユーゴスラヴィアがソ連型の国権主義モデルからの脱却を目指す改革の道を歩み始め,続いてポーランド,ハンガリーがそれに続き,1960年代末にはチェコスロヴァキアが「改革」の炎を燃やした。1970年にはふたたびポーランドで労働者が立ち上がる。そして第一次石油危機が東欧諸国の経済に打撃を与えた。1980年にはまたしてもポーランドで労働者の闘いが起こったが,この自主管理労組「連帯」の闘いは,官製労組にたいして自分たちの労働組合を要求し,政策決定への参加と実現を図ろうとするものであった。
しかし東欧史を見ても,あるいはブルス氏の記述によっても明らかなように,ソ連型の国権主義モデルの「改革」は,1950年代には東欧諸国の幾つかには広まっており,労働者大衆の運動目標となり,またそれは体制側の公式イデオロギーに採用されさえしたのである。それはユーゴスラヴィアの場合,自主管理モデルの構築という形で進められたが,その試みは,1974年憲法体制にも反映された。
この検討から様々な展開を行うことが可能であるが,それでは焦点がぼやけてしまうので,幾つかの方向に絞って現代への教訓を引き出しておきたい。
(1)人間集団ー社会的諸組織の高度と現代資本主義
まず,ブルス氏の,所有を実効処分権にみるという定義を踏まえて,人間活動の進歩性を測る規準として,人間集団としての組織の高度というのものを考えてみたい。
ア 現代資本主義企業組織などの場合
資本制生産様式が生み出した組織形態として,企業・会社組織,工場組織,等々がある。企業・会社組織は,形式上は株主総会を最高意志決定機関としているが,実際には日常業務のほとんどは,重要な決定を含めて,取締役会が実効的な最高意志決定機関となっている。したがって実際には企業・会社組織では取締役会が権力機関であり,実効支配機関である。しかしそれは,金融資本による実効支配が及んでいない場合のことである。また,国有企業やそれに準ずる諸企業の場合は,政府は公的機関や政策や政治家によるコントロール下にあることがある。その場合には実効支配権はそれらの諸機関・個人にある。
現代資本主義の現実を分析する際には,その形式上・法律上の姿と実際の現実の姿に違いがあることを踏まえ,形式的な支配者と実効処分権をもった真の支配者を区別しなければならない。そうしないと,形だけの企業・会社支配者の見せかけの姿にだまされることになる。アメリカ企業のように,株主が所有者としての実効処分権を実際に行使して,企業財産(労働力を含む)を売却したり処分したりするならば,形式上の支配者と現実の支配者とは一致している。
ところが,日本の企業・会社組織のように,株主総会でも株主の発言権が制限されるばかりか,株主の権限で企業・会社組織の財産を自由に処分できないとなれば,実効処分権は取締役会の側,経営側にあることは明白である。しかしそれも企業グループが相互に株を持ちあっているためにその経営判断にはグループ全体の利害というものも反映し,また,行政指導による行政の介入が経営判断に影響する。そのように日本の企業・会社組織においては,実効処分権のありかは曖昧である。しかし資本家とは資本の人格化に他ならないのだから,実際に処分がなされる際に,その意志実現を図った部分は実効処分権を行使したといえる。それはブルジョア階級の一般的意志を前提にした特殊意志形成への複数主体の関与という事態といえよう。
現代資本主義下,新たな生産・流通組織形態として,生産協同組合や消費協同組合や諸種の共同企業や諸種の自発的結社組織(NGOであっても大量の物・人・情報の流通や生産や消費に関与するならば,当然それは経済活動に含まれることになる。アメリカ合衆国では,それはGDPの統計に入れられている。)や新企業形態,等々が生み出されている。
しかしこれらの試みは,レギュラシオン派経済学が明らかにしたように,その根底に資本の有機的構成の高度化が収益性・生産性・利潤率危機をもたらしたというフォード主義の行き詰まりがある。フォード主義的調整方式(社会的妥協)の担い手として存在意義を獲得してきた労働組合が社会的影響力を失ってきたのは,そのためもある。
しかしそれよりも既存諸組織の限界が,階級闘争の最新の特徴によって,うきぼりになってきたことが重要である。今日の階級闘争の特徴の一つは,労働者の側が,ブルス氏のいう労働者大衆の教育・文化水準の高まりにも関わらず,それに対応する生産・流通・消費・交通諸形態諸組織,生産諸組織,社会形態,社会諸組織,国家形態,国家諸組織等々を根本的には資本の側が生み出せていないという矛盾にある。
資本の有機的構成の高度化が収益性危機をもたらしたために,生産過程・企業組織形態・内容,等々の変革が,枢要な課題として,ブルジョアジーの主要関心事となっている。しかしながら,それに対しては,経費削減と公共投資・減税による景気拡大策を組み合わせる解決策しか提出されていない。確かに,フレキシブルな制度への転換ということが言われてはいる。トヨタの奥田の「人間の顔をした資本主義」というスローガンが叫ばれたりもしている。それにも関わらず,生産性向上とは人員削減による一人当たり生産性の上昇(労働強化)であり,労働コストの削減であり,資産・経費の圧縮であり,海外生産への移行等々や合併や合弁によるコスト圧縮による市場独占という規模拡大効果による延命策であり,と古典的な手法しか行われていないのである。それに対してアメリカでは,「従業員持ち株制度」という所有の面からの改善策が実効された。それは,家計をも金融源泉として動員するためのものではあるが,従業員の,企業の共同所有者としての感情を生み出す効果が多少はあっただろうことは推測される。
戦後資本主義諸国では,生産力の増大がフォード主義(ケインズ主義)によって,消費(購買力)水準の引き上げと結びつけられた。テーラー主義的な工場・企業での退屈で単純な作業の苦痛を,工場・企業の外で,消費者として回復する妥協の道を労働組合は選んだ。生産力を人間の結合した「社会的な力」と捉えるマルクスの観点からすれば,この場合の生産力の性格は,たんに生産能力の量的な性格ではなく,この「社会的な力」の内容を問題にすることで明らかになる。そう考えるならば,この生産力の質を根底から変革することが,真の解決策であることがわかる。
そのための組織変革は,基本的には行われていない。相変わらず,企業組織の意志決定権は,一握りの取締役会が握り,場合によっては取引銀行が握っているし,行政が握っている場合もある(天下り役員,護送船団方式)。系列企業の経営には,上部企業の意向が影響する。「飛ばし」などの損失隠しを子会社を通じて行ったりしている。会社・企業組織の中身は変わっていない。確かに,一部では,部下による上司の人事評価を給与水準に結びつけ,責任を分散するという試みを導入する企業や自治体がある。それにともなって,日常業務に関する意志決定権の一部が中間管理職に与えられるというケースがある。しかしそれは経営幹部にまで適用されなければ,真の改善にはつながらない。
企業内意志決定の民主化を効率性と結びつけるためには,その意志決定に関わる情報の真の共有が必要である。ところが,経営幹部は一方ではお互い共同の実効処分者として仲間ではあるが,他方ではお互いが無政府的競争に曝されているライバルでもあるので,自己の競争上の利害にとって有利なように情報を利用するために,情報の完全な共同利用を阻害し,場合によっては情報を隠しさえする。例えば,長期信用銀行の破綻処理問題で,経営トップが,実態を知らないとくり返し述べたことは記憶に新しい。この結果,企業組織の効率性は上がらないままである。
企業組織内におけるフレキシブルな人間関係や情報の共有は,これまで経営者やその立場に立つ学者などから非効率と言われてきたが,実際には適切な条件を作れば,効率を引き上げる。その場合に,効率性を,一時間当たりの作業能力とかいう短期的な尺度で測ったり,あるいは一人当たりの作業能力という個人単位で測ることは,たいした意味はない。それは結合した人間の「社会的な力」であり,本来,長い時間尺度かつ集団単位で測らなければならないものである。非効率の源の一つは,制度化された企業内関係が変革されていないことにあるのであり,その点でフレキシブルな制度への転換,風通しのよい情報流通制度の導入をはかった企業では,限界はあるが,多少の成果を上げているのである。労働者間の横の関係の分断は,企業ヒエラルヒー的組織原則の効率性を意味するものとみなされてきたが,実際には,それは労働者間の結合関係の高度化が生み出す効率性を認められないブルジョアジーによる生産過程支配の必要から生み出された組織構造・原理なのである。この点で,ブルス氏の,官僚制の効率性と多中心的な人間的価値の結合の可能性という議論は,今日ではより発展させなければならない。生産過程の具体的な構造・組織・諸関係を規定するのは,階級闘争であり,その結果,個々の具体的な形態は多様性を持っているのである。
例えば1980年代後期にアメリカでは工場内諸関係の変革が日本の工場制度を研究しながら行われた。それによって作業ラインを緊急停止させる権限が労働者に与えられたが,それだけで,不良品を減少させることができ,無駄が省かれたのである。そのように,テーラー主義的な生産過程の管理方式は,時代遅れになってしまったのであるが,それは,生産過程の非効率を改善する必要と労働者の労働過程の改善(先の例で言えば,作業ラインの停止権限の労働者への移譲)とを結びつけることによって,はっきりしたのである。テーラー主義の放棄は,限界はあるが,労働者の権限の拡大,自発性発揮の認容,柔軟性の増大,労働者間の横断的結合の深化,等々による効率性の向上を阻害する諸要因を取り除くことで実現されたわけである。もちろんその他の要因が無視されてはならないが。
こうした点で,ブルス氏が取り上げたオソウスキーの社会秩序の四つのタイプ(類型)は,1960年代始めの段階のポーランドでこうした先進的な議論が登場していたことは驚くべきことではあるが,今日,こうした領域では,オソウスキーの第4のタイプ,「中央集権制の効率性を多中心主義(人間的価値の)と結びつける」をさらに越えて,社会秩序の非固定性を自由と結びつけることによる「プラスのフィードバック」を実現するものとしてアソシエーション論が注目されるにいたるようなところに来ていることを踏まえた議論が必要となっている。分権化を情報の意志決定の民主化と結びつけ,情報の完全な利用を実現できない資本主義的機構・組織と違って,アソシエーションの理念は,分権化を社会秩序の非固定的性格と結びつけることによって,個々人の思考と自発性と発意と責任の必要条件としてそれを徹底して利用する可能性を増大させることを含んでいる。
イ.旧ソ連・東欧「改革」の場合
それに対して,ソ連・東欧の国権主義モデルにおいては,生産手段の実効処分権が党・国家に,そして究極的には党指導部の一握りの部分に握られていた。東欧「改革」の労働者大衆の側(党内改革派を含む)の主要なターゲットの一つは,そこに向けられた。そこには,国権主義モデルを放棄し,真に労働者大衆の利益に沿った「改革」として過渡期の弁証法的発展を前進させるのか,それとも国権主義モデルの根本的特徴を保持したまま多少の手直し(市場化・分権化)によって特権層の利害を保守するだけに終わるのか,という選択肢が存在したのである。
1980年代のソ連・東欧では,後者の解決に固執する党・国家官僚の敗北する過程としてあったが,しかし,この最終局面で,この特権層は,すばやく「改革」派に転身をはかり,国有・公有財産を横領し,西欧企業の代理人となって私的財産の蓄積をはかり,そして混乱の犠牲を労働者大衆に押しつけた。「改革」派のチェコスロヴァキアで,外国企業から賄賂を受け取っていた首相が辞任したことは記憶に新しい。ロシアでは,エリツィンを担いだ急進改革派の不正蓄財などの経済犯罪が露呈した。
しかしそれは,「改革」過程一般のもたらす混乱や犠牲とみなされ,「改革」派が,旧特権層の転身者,自分たちの労働組合を要求し生産管理を求める自主労働組合,民主主義的社会主義を求める人達,自分の自由に処分できる生産物と土地を求める農民,自由な営業を求める企業家,商人,等など多様な傾向を含んでいたことが無視されている。ロシアの反エリツィン大統領集会を組織したある炭坑労働組合のメンバーがインタビューで語ったように,エリツィンと急進改革派は,労働者に企業の労働者自主管理権を与えることを約束したが,それはまったくの嘘であり,だましであった。ポーランドにおける自主管理―地域労組「連帯」によるグダニスク造船所における企業の労働者自主管理の試みは,造船所の閉鎖危機をへて,挫折した。
こうした現実を見てみれば,ソ連・東欧体制崩壊の後に,これら諸国において,真に社会発展を前進させる社会的組織が生み出されていないことがわかる。資本主義的企業形態は確かに増大したし,そうした方向での転換は猛スピードで進んだ。しかしそれは,国権主義モデルの限界に直面していた旧組織形態に対して相対的に進んでいるのにすぎない。それは根本的に社会発展の展望を切り開く能力を持っていない。またそれら諸企業の活動を社会の前進的発展と有機的に結合するような社会環境は十分に形成されていない。ロシア企業の多くは相変わらず非効率であり,とりわけ金融部門は詐欺をもっぱらとし,不透明であり,マフィアの巣となっている。そして現物経済(物物交換,給与の現物支給)が拡がっている。ハンガリーでは,市場経済化の結果,多くの労働者大衆が失業や零落を余儀なくされたために,民族主義が影響を増しており,反ユダヤ主義,ロマ人への差別・排外主義が強まっている。ポーランドでも,ドイツなどへの出稼ぎ労働者が増えている。
これらの過程から明らかなことは,かつて旧体制を打倒するために結束した「改革」派が分解を始め,それぞれの階級・階層的集団的利害に基づく分化が本格化してきたということである。それによって,それらの諸階級・諸階層,諸集団の利害を反映する組織形態が存在するかどうか,またそれがどういう内容と性格を持っているのか,を具体的に検証することが意味を増してきている。
その点で,本来ならば,労働者大衆のプラス体験として評価されるべき,労働者企業や労働者自主管理,労働者評議会,協同組合等々の協同の諸形態が,党―官僚によってその利害に従属させられてしまったために,それら諸国の労働者大衆にマイナスの感情を残したが,労働者自主管理と協同組合自主管理の理念と実践は,資本主義諸国などでの新展開がそれと共時的にひびきあう反射を旧ソ連・東欧諸国に与え,それらが新しい形で再生し労働者大衆のプラス評価の対象に復帰する可能性はある。その場合に取り除かれなければならないものについては,ソ連・東欧体制の崩壊が現実に明らかにしたが,その教訓は当然ふまえられるだろう。
自主管理の理念は,東欧「改革」の推進に大きな役割を果たしたことは疑いない。しかしながらそれは現在では,人間観,社会観,組織観についてのより発展した立場からの再規定を必要としている。その際に,人間労働が,賃金労働から自由な諸個人の結合した協同労働へと転換されなければならない。その条件を作り上げることが,政治・社会・文化革命の課題となっている。その際に,民主主義と効率性を結合することは,柔軟性,自発的協働領域の拡大,情報の完全な利用,意志決定への労働者の真の参加の実現,労働時間の短縮を社会的決定への実効ある参加と結びつける方策の実施,生産手段の共有(社会化へと前進させるような条件をつくること),生産手段の実効処分権の共有,責任の共有,社会による点検,検証,社会に対する情報公開・・・・と関連づけられる必要がある。
そのような方策は,東欧「改革」の理念(潜在的にも)に含まれていたが,現実の経験としては限られたものでしかなかった。体制側が労働者評議会や労働者自主管理を言葉の上では擁護しながら,実際には党・国家機構に従属させたために,「改革」派は,これらを当局に対置することができなくなり,西欧の極端な自由主義に拠り所を求めるようになった。体制崩壊後,その路線に沿った上からの「改革」が導入されたが,その結末はハンガリーの現状が示しているように惨憺たるものである。しかしこの経験と生み出された理念は,現代資本主義の根本的特徴を変革する諸運動を鼓舞しつづけるだろう。この簡単な検討から言えることは,個別企業組織の改革すら,政治・社会・文化革命という広範な領域における変革なしでは,十分な成果を得られないということである。だからここから教訓を引き出す作業はそうした広範な領域を含まなければならないのである。
(つづく)