東欧「改革」のつきつけたもの(6)
流 広志
215号(1999年7月)所収
ポスト・スターリン期
この時期(1950年代半ば〜1960年代の終わりまで。ポーランドでは,ゴムルカ時代,すなわち1956年10月〜1970年12月の事件まで)の諸変化が,ソ連および人民民主主義諸国における生産諸関係にたいする評価に変更を迫るものかどうかが検討される。その際に,ポーランドの経験が主となることが注意されている(なお,この 第三章 ポスト・スターリン期の諸変化 の部分は,具体的な事象や数字が多く出てくるので,相当程度,氏の記述
に従う書き方にならざるを得なかったことをあらかじめお断りしておきたい)。
(1)出発点
ブルス氏はまず分析の出発点を,1953年(スターリン死去の年)前後に置いている。1953年前後の時期の「注目すべき第一の現象は生産能力の急速な増大である」(前掲書 144頁)という。すべての社会主義諸国で1953年の総生産量は戦後水準を大きく上回った。平均成長率は国際的水準をはるかにしのいだ(1951年−55年のコメコン諸国の国民所得の年平均成長率は11%前後であった)。生産資本のストックの大幅な成長,工業の優位の達成,投資の増大・・・が起こった。「基本的生産手段の国有化と,蓄積の水準および蓄積された資源の用途にかんする決定を国家の手に集中することが加速的経済成長のための有効な手段であることは,ソ連だけでなく人民民主主義諸国においても立証されたのである」(145頁)。
急速な工業化は,工業部門間での不均衡を生み出したが,それは生産手段生産が消費財生産に比べて急速に発展していることを「近似的に」反映していたという。しかし,工業間の不均衡よりも大きいのは工業と農業との間の不均衡であった。氏によれば,スターリン死亡時の農業生産は1913年よりもかなり低かった。
第二の現象は生産能力の利用効率がきわめて低かったということである。これは全体的な数量的成果ではなく,投入物とその成果の比率(投入・産出比率)の問題である。労働生産性の増大が不充分だったため,計画達成のために,雇用増大がたえず必要となった。製品の劣悪な品質,消費欲求と供給される消費財のミッスマッチ,技術革新への恐怖と保守主義の浸透,・・・・。「生産のための生産」という自己再生的有機体としての特徴があり,「最終生産物とくに狭義の消費むけの生産物はあまりにも少なかった」(146〜147頁)。
この時期,集権化は最高の緊張度に達した。経済計算制的要素は消え去り,「義務的な生産高水準,コスト制限,販売と供給の物量的規制,等々が計画化と管理の事実上唯一の用具となった」(147頁)。
第三の現象は「スターリン時代末期の人民大衆の生活水準は極めて低かった」(同)ということである。
ところが,人民大衆の生活水準を平均実質賃金指数を大規模に集計するという測定方法では,この時期のソ連および人民民主主義諸国のそれを測るにはまったく不充分であるという。その指標をつくるのに使われる価格体系と現実の市場状況との結びつきが弱いし,場合によってはまったくないからというのがその理由である。たえず品不足という状況では,定価どおりで商品を買える機会は少ないかまったくない。そのために,存在しない商品の物価引き下げというフィクションがつくられたりした。
また,氏は,「収容所群島の住人」の問題は,人道あるいは政治的抑圧という視点からのみ問題化されることが多いが,そればかりではなく人民大衆の生活水準の一部として捉えることが必要なことを指摘している。すなわち,「もちろんいわゆる「収容所群島の住人」――監獄や収容所の同居人――達の生活条件を含む,物価指数などはどこにも存在しない。だが,東欧全体とはいえないまでも,少なくともこの時期の囚人の数が八百万から一千万であったはずのソ連にとっては,囚人の生活という問題は,人民大衆の生活水準を説明するさいにはけっして見落とすことの許されない問題視覚」(148頁)なのである。また,「収容所群島の住人」の強制労働による経済活動の規模が大きくなれば,それは経済統計のうえで無視できないファクターなる。
しかし他方では,革命前の状況(ソ連は1913年,人民民主主義諸国は1937―38年)からの変化を見逃してはならないと氏はいう。「公然および隠然の失業と家内工業ないし家内サーヴィスに従事する貧困層の絶滅,工業化の結果としての非農業雇用者の増加と農村から都市への大量移動,社会的職業的地位上昇とそれにともなう上位所得層への移動,社会的消費フォンドからの給付幅の拡大等々―これらすべてが国民一人あたりの一般消費指数を高める作用をする,あるいは失業その他の根絶を社会的消費フォンドからの給付を含めた雇用者一人あたり実質所得指数(この種の指数がソ連の統計年鑑に公表されるいまなお唯一のものである)は,生活水準という点からみて決定的に不利な時期においてさえ,規準レヴェルより高いものになる」(148〜149頁)。
ところが,多くの労働者の給与所得は社会的最低生活費をつぐなえないほど物質的状態は劣悪だった。また,スターリン時代末期には社会的所得分配で,手労働者とホワイトカラー労働者との平均所得は平等化したにもかかわらず,給与格差が生まれ,階層分化の傾向が生まれた。この階層分化は,政治的地位を規準にした分化であり,党−国家のヒエラルヒーにおいて占める位置によって,これらの諸機関の職員達が特権を享受できるようになったことによるものである。
「もともと過度の所得格差の悪影響を相殺するために必要な手段とされてきた社会的消費フォンドが,現実には不平等を助長する要因になったということである。このフォンドから支払われる物的便宜(高レヴェルの教育,保健サーヴィス,当時にあっては何にもかえがたい特権的住居等々)を受ける機会が比較にならないほど豊かなために,党ー国家機関の職員達は彼らの人数上の比率よりもはるかに大きな部分を,このフォンドの中の分け前として享受していた」(150〜151頁)。スターリン存命期の最後の年には,社会的消費フォンドの総額は給与と消費に比較して,それ以後の時期よりも少なかった。また,「アンチ平等主義」的傾向を現しているのは,ソ連では憲法の無償教育の原則に反して中等普通教育の最後の三年間と高等教育では授業料が課せられていたことである。
ソ連の政治体制は,この時期には極端な全体主義の特徴をもち,権力ピラミッドの頂点には独裁者一人が立っていた。ソ連共産党中央委員会総会は,1947年から一度も開催されなかった。最側近の政治局でさえ,意志決定に影響を及ぼすことができなくなった。「権力中枢を現実の社会的プロセスからますます隔離させる一般的諸条件,および特殊的には戦後数年間に新しいマス・テロルの波が堰を切って出たという条件によって,保安警察が事実上の独裁的な地位を,情報の供給と統制に,したがってまた政治的決定への影響力に,占める結果となった。「労農権力」の警察国家への変質は前代未聞の高みに達したのである」(152頁)。
国家権力によるマステロルの手は,ヒトラーの捕虜収容所と強制労働からの生還者の大量逮捕,西欧世界との接触による汚染されているという理由での陸軍将校団の「洗脳」,デカブリストの亡霊たち,高級官僚層とそれと結びついたインテリ層を打倒した「レニングラード事件」,ナチスへの協力のかどで告発された一民族全体のシベリア送り,バルト諸国などの少数民族の強制移住,密告拒否者,破壊分子やサボタージュ分子ときめつけられた人々にたいする弾圧,ユダヤ人医師陰謀団事件・・・・に伸びた。人民民主主義諸国の場合は,時間的に「圧縮」された形でテロルの波が襲ったというが,氏によれば,テロルの犠牲者は三つに分類される。すなわち,
「第一に,ブルジョア的または社会民主主義的政治運動との関係が濃密な人,または単に過去においてそうであった人やグループの全部,第二に,革命前に国家機構および経済機関で働いたことのある人達,第三に,――ほとんど同時に――一部の活動的共産主義者,これには一九三〇年代のモスクワ裁判と同型の「見せしめ裁判」で有罪宣告された著名な党指導者がたくさん含まれている」(153頁)。
「極端な『個人崇拝』とマス・テロルにともなって,完全な現実無視と既成事実のイデオロギー的弁明が現れた。それは内外の脅威にさらされているのだという雰囲気をかきたてるためであった(階級闘争は社会主義の進歩とともに激化するという理論)」(同)。知識人とりわけ科学者への締め付けが強められた。ジダーノフはとりわけ社会科学者を厳しく締め付けたが,それは自然科学者や工学者でも同じだった。「それは,最低の必要を充足できないという重荷に喘いでいる国が,科学,技術および組織の真の成功が与えてくれる可能性を放棄し,ルイセンコのような山師のいう「秘密兵器」や「スターリンの自然改造計画」立案者達の熱病的夢想に荷担することであった。これらは「帝王の愚行」の終幕期をきわめて象徴的に語るものである」(153〜154頁)。そして,この時期,政治,経済,科学,技術,文化,日常生活のあらゆる面で,外国からの隔離がなされた。
スターリン時代の最終局面で国権主義モデルが特殊に勢いが増したのは何故か。スターリン流の答えは,歴史の客観的法則の直接の産物であり,消費財生産の停滞は,生産手段生産の伸びが消費財生産の伸びを上回らなければならないという不可避的な法則の直接的な帰結であるというものである。「一九五三年一月ポーランドにおけるデフレ的物価騰貴は価値法則の作用の結果であり,強制力の行使は階級闘争激化の法則によって規定される必然性であった」(154頁)。それは,『ソ連邦における社会主義の経済的諸問題』で主張したテーゼによるものである。そこで,スターリンは,「経済法則の客観的性格を前面に押し出し,生産手段生産の優先的発展の法則を強調し」(155頁),「社会主義のもとでの必要労働と剰余労働という古くさい区別の使用を酷評し,国家とコルホーズの間の商品交換にかえて,――われわれの用語法にしたがえば――農業協同組合の国家化(エターテイゼイション)にむけての最後のステップとしての,いわゆる生産物交換というテーゼを唱えた」(同)。
しかしこうしたスターリニズムの最終局面のすべての行為を神秘的なやり方で正当化する手口はやがて消えていった。それに代わって,当時としては合理的であったとする正当化が現れる。そのひとつは,「計画化と管理における過度の集権主義は,外延的な発展局面,経済構造の急激な変化と限られたセクターへの集中の必要性,下位レヴェルの職員の質の低さ等々の必然的帰結であるというのがそれである」(同)。しかし当時の条件下で,集権化をどの程度に抑えるのが有効かという問題は存在したし,発展の外延的要素と内包的要素の関係が国によってことなるにもかかわらず同一の方策がとられたことを必然とする証拠もないし,義務的生産目標が必要だったとしても,粗生産高指標よりもすぐれた指標をさがしてならないという証拠もないのである。なお氏は「周知のように粗生産高指標こそ,原材料の浪費を惹起し,企業の経営活動にたいする評価と消費者たる社会の利益との乖離をもたらしたものであった」(156頁)ことを付け加えている。
ふたつめは,「蓄積を可能最大限までひき上げなければならないという必然性,そしてまた重工業の優先性とが,侵略的,帝国主義的攻撃という外的脅威から無条件に生まれた」(同)というものである。それは以下のようなものだったという。
「もし経済発展の未熟さ,または生産設備の非効率ゆえに,通常の方法では国防が保障されないならば,農業への負担,現在の消費の切りつめ等々の非常手段に訴えなければならない。帝国主義の脅威と実効ある国防の必要性とは,国内における強制という極端な手段をも正当化するものと考えられ,またとくに経済的にやむをえない措置が不満分子を生み,帝国主義者の侵入に手をかすことになりかねない場合には,無実の大衆を迫害するという危険性をも正当化するものと考えられた。この観点からすると,経済的諸決定の集権化はプラスのイメージを与えられることになるし,あらゆる手段によって,(指導者の全能性と無謬性とのたいする本質的には宗教的な崇拝を含めて)心理的に闘争へとかりたてるイデオロギーでさえも,肯定的なものとみなされる」(156〜157頁)
しかし,ソ連はもはや10億近い人口と巨大な生産能力を有する社会主義的環境の中にいるし,ソ連の軍事的脅威は大きくなっているし,国際世論を動かす機会や政治的サポートを受ける機会も増えている。「だからこれらすべての事情は,一九三〇年代末と比較してむしろネジを緩める根拠となりえたはずだが,実際には逆にネジを締めることになったのであった」。
スターリン死去によって,一大変化が生まれた。
第一に,実質賃金が上昇した。1928年を 100とする実質賃金指数は1952年には 66 ないし 88 であったが,1954年には 82 ないし 113であり,25%にのぼる増大を示した。ポーランドでは公式データによるその指数は,1949年を 100として,1953年には 105.8%が,1954年には 119.7% へと上昇した。一年間に 13%あまりも上昇したのである。ポーランドとハンガリーでは,消費の重視へと向かう可能性が生まれ,商品の一般的供給条件の改善や住宅供給の増大,賃金格差の是正,蓄積と消費への国民所得の分割比率の変化・・・・が生まれた。
第二に,農業政策の転換がおこった。ソ連では,マレンコフ演説,1953年9月の中央委員会総会,によって,コルホーズ,個人副業経営,労働者の家計補助的経営への拘束が緩和された。「ポーランドでは,1954年末(第二回大会)義務供出の安定化をねらって,重大な決定が行われた。義務供出は,ネップ初期に行われた剰余の徴発制から食糧税への移行に似た役割を果たしたもので,生産増大のためのインセンティヴは高まったのである。ハンガリーでは最初のイムレ・ナジ政府がさらに一歩進めよう(基本的には集団化のプログラム全体を否認しよう)としたが,抑え込まれてしまった」(159頁)。
第三に,「医師団陰謀」事件後,監獄と強制収容所の門が広く開かれるようになったことである。「帝国主義の手先やスパイ,怠け者と烙印をおされていた何百万という人々がどっと自由の身になった」(同)。
第四に,冷戦からの解放の可能性が見えた。朝鮮戦争は短時間に終わり,オーストラリアとの平和条約が結ばれ,ソ連は西ドイツとの外交関係を確立し,ソ連と人民民主主義諸国とのめざわりな形の不平等が姿を消しはじめた等々。
1954年のソ連邦共産党中央委員会とソ連邦閣僚会議との共同決定において,経済管理の「過度の集権化」がはやくも批判されている。
これらの検討を通じての氏の結論は,スターリン的変形という現象を生み出した根元は,客観的必然性ではなく,特定の型の政策であったというものである。その変形や堕落は,社会主義の抽象的理念像からもいえるし,また国権主義モデルの一般的基礎づけから見てもいえるという。
「極端な全体主義的(スターリンの場合には,個人的)独裁形態それ自体をたえず強化するためには,意志決定のますます強い集権化とテロルの永続的強化を計らねばならない。テロルの機能は社会の統制にあるだけでなく,社会のモラル的崩壊にあるのであり,これこそおそらくは最も有効な屈服手段であろう。内からも外からもいやましに高まる脅威は異常心理をかきたて,それがかえってイデオロギー的保護膜となる。それ以外の部分は,個人所得を副次的大きさとして扱う方法と重なって,すでに述べたスターリン主義の最終局面を合理化しようとする試みとピッタリ符号する」(161頁)。
このスターリン時代の最終局面は,生産力と生産関係の対立の激化の例証であるとともに,社会主義下の生産関係がいかに強く支配的政治体制によって規定されるかの例であると氏はいう。
現実の要請にこたえることは困難になった。情報は独裁者の気に入るような姿を描き出すために歪曲された。最低位の政治警察の規準によって職員の選考が行われたために,管理の質は破局的に低下した。官僚主義化がすすみ,イニシァティブは麻痺し,安定感の欠如と責任をとらされることへの恐怖が生み出された。マス・テロルによって,人民の物理的抹殺が行われ,何百万人もが強制労働にかりだされ,途方もない直接間接の損失を蒙った。より高度の発展した技術や組織論的知識経験を利用することができなくなった。ソビエト的パターンが機械的に人民民主主義諸国に押しつけられたために,浪費がうまれ,消費水準の低さが労働生産性に否定的な影響を与えるようになった。等々。
これらのことから,氏は,「スターリンの死の直後にはじまった転換は経済的に必然だったということ,生産力と生産関係との弁証法というかたちで容易に定式化しうるものだった」(162頁)と結論している。したがって,生産関係と生産力の矛盾によって,警察的手段による統制を強化したとしても,長期的には崩壊を阻止することはできなかったと氏は述べる。それに加えて氏は対外的諸条件の違いに注意を促している。戦前には最大の経済危機にあえいでいた資本主義諸国は,「国家による介入を武器に,経済を急速でかつ安定した成長路線へと押し上げることに成功し,それによって労働者階級は社会的および経済的に大きな収穫をえた」(163頁)。それは社会主義の一時的な高成長率の魅力を減少させた。
この体制の変革の実行という点にかんしていえば,社会の大多数にとってスターリン主義の放棄は望ましいことであったし,党と国家権力装置のトップ層においてもそれは認識されていたという。その証拠はスターリン存命中にいくつかの改革断行の試みがあったらしいこと(氏は注において噂として流布されていた1947年の当時の農業担当の政治局員アンドレーエフが出したというコルホーズ農地で働くコルホーズ作業班に回帰するというアイデアと1949年にゴスプラン議長ヴォズネンスキーによる農業政策転換の提言とをあげている),またより確かな証拠として,スターリンの死の直後にベリヤ,フルシチョフ,マレンコフが,類似の改革案を携えて登場したこと,をあげている。後者については,「彼らの間での闘争は改革の内容をめぐってではなく,誰がそれを導入するチャンスをつかみ,その改革案を自己の勢力のための切り札として使いうるかということであった」と氏は述べている。
「エスダブリッシュメント」の一定部分の利害と社会の利害が一致したのはなぜか?それには三つの種類の理由があるという。
第一に,祖国とブロック全体の運命と権力装置の地位が連動していたため。
第二に,無制限の個人的独裁とマス・テロルという体制のもとでは,すべての役職員(高官を含めて,というよりむしろ彼らこそ)が恒常的な恐怖にさらされていたので,この状態をなんとか除去したいという努力があったことは理解に難くない。まさにこの点で第二十回党大会におけるフルシチョフによるスターリンの悪業暴露は,権力機構の客観的利害に合致するものだった――たとえそのために払った政治的代価がどんなに高価についたとしても。
第三に,権力闘争の激化。スターリンの死によって,党の一枚岩の団結と独裁者の意志への完全な服従を特徴とする一時代は終わりをつげた。指導者とその候補者たちはスターリンの庇護を失ったために,ある程度は下からの支持を必要とするようになった。それは直接には国家権力装置の種々のカードル層からの支持であったが,労働者階級を中心とする社会一般からの間接的バックアップが重要さを増したのである。こうした新たな条件のもとで「特異かつ脆弱な複数主義的な形態」が生み出された。(165〜166頁)。
スターリン死後の権力構造の変化は,先鋭な社会的,政治的対立を生み出した。1953年6月のベルリン事件,1956年6月のボズナニ事件と「ポーランドの十月」とよばれる事件,ハンガリー事件。これらは主に労働者によって担われたが,騒乱のイデオロギー的起動力は相当数の党内インテリゲンツィアによって担われた。
「問題は,基本的枠組み(とりわけ政治体制の)はそのままにして,スターリン主義の修正を拒否するかどうかという問題だけなのか,それとも,発展のなかにはわれわれの用語法でいう,国権主義モデルの枠組みを越えて進むことが含まれているのかということである」(167頁)。まず党および国家官僚層が前者の立場に立っていることはいうまでもない。それは,体制の絶対的化石化を,適応可能な相対的動的な化石化に代えるだけで,本質的基盤の破壊にはならない。ポスト・スターリン期のソ連および人民民主主義諸国の党ヒエラルヒー頂上での対立と抗争は,化石化と適応というパワー・エリートの利益にかなう二つの要請を同時に果たすという観点から起こる問題だった。が,同時にこの内部抗争は,国権主義モデルの枠組みの超克の可能性をめぐる深部の抗争の上にあった。
「この両者は相まって複雑な背後事情をなしていたので,この点の理解を欠くと,スターリン死後の一五年間における事態の推移,とりわけ政策変更および制度改革における特徴的な『ストップ・ゴー』的動き,遅鈍さ,ジグザグそして明白な一貫性の欠落等を正確に把握することはできない」(168〜169頁)とブルス氏はいう。
(2)社会・経済政策の変化
つぎに,ブルス氏は,ポスト・スターリン期の社会・経済政策の諸変化の分析に進む。それは人民の物質的欲求の充足度における発展を測ることであり,その際に,所得分配パターンの変化に注目し,この検討が主にこの側面に限定されることが注意されている。
スターリン時代の批判から生まれた要請のひとつは,人民の欲求充足=消費を資源配分順位の最後にすることをやめよということである。計画策定段階で,消費は,「選好規準で上位にある他の諸目的が配分されたあと,結果的に決まる大きさとして扱われていた」(168頁)し,「それはまた計画の実施段階でもみられた」(同)のである。消費が自動的緩衝装置としての役割を果たすことはやめなければならなかった。ソ連では,スターリン期には穀物収穫の不振があろうとも穀物輸入はされなかったし,政治的な理由から純輸出が維持されていた。これと逆に,1963−1964農業年には,消費水準維持のために輸入にたよったのである。
ところがポスト・スターリン期の消費の優先の要請は,部分的にしか達成されなかったばかりか,後期には弱まったのである。「ポスト・スターリン期の初めにみられた関係は後になってまた現れる。それを端的に示す事例は,一九五六−八年のすべての人民民主主義諸国における消費の異例の高度成長,一九六五年(フルシチョフ失脚後)ソ連における急速な改善,そして最後は,一九七〇年バルト海沿岸の流血事件とそれにつづくストライキ後のポーランドにおけるように,そうした圧力は出現しないという確信が存在することは,民衆の要求充足にとって否定的な効果をもつ。最後に注意すべきことは,ポスト・スターリン期においては,実質賃金(雇用者一人あたり)の上昇による生活水準の増大は,住民一人あたりで計算した所得増大より後れたのだが,このことはポーランドのような余剰労働力の大きな国ばかりでなく,一九六〇年代のチェコスロヴァキアやハンガリーにおいても起こったのである。この事実は達成された進歩についての社会感情に悪影響を与えたのである」(169〜170頁)。
こうしたスターリン主義への逆戻りにたいする抵抗と困難が生まれたのはなぜか。それにたいするブルス氏の一般的答えは以下のとおりである。すなわち「限られた資源の配分をめぐる交渉の場で,消費が占める位置を強化することは,中央計画機関の工作活動の自由をせばめ,中央計画における戦略的選択を合理的なものにし,下位レヴェルでの経済活動の効率性を高めよという要求を強めることになる。これらの要求に応ずることは制度的改革を必然化するし,それが国権主義モデルの政治体制の基礎を脅かすことになれば,体制骨化のメカニズムが作動を開始する」(170頁)という矛盾があったからだというのである。
スターリン死後,ソ連共産党第二十回大会からはじまった非スターリン化の動きは,ポーランドでのボズナニ暴動,ハンガリー事件によって,加速された。また,この時期の政策転換によって,相当量の予備資源が解放された。それは農業にとくに当てはまった。「大多数の社会主義諸国がおかれている発展水準と当時の消費構造のもとでは,農業が生活水準の高さを決定する主要因であった」(171頁)のである。農業における変化は,農業の収益性を上げ,相対価格の改善,諸義務(何よりもまず義務供出制)の合理化による農業生産からの所得の引き上げ,農業投資の増加,等々であった。ソ連では処女地の開墾,とうもろこしなどへの巨大事業に投資支出が拡大されたが,それを氏は「外延的拡大」の性質を持つものとしている。他の諸国ではそれにたいして「内包的深化」に投資拡大が向けられた。「どの国でも国営農場とコルホーズの経営自主権の範囲拡大が決定された(ソ連で行われた重要な改革は機械トラクター・ステーションの廃止とコルホーズに機械購入を許したことである)」(171頁)。それが大きな成果を生み出したのは,それまでの農業切り捨て政策があまりに強すぎたので,農業にかけられていた重荷を軽減しただけでも相当な効果があったからである。
ポーランドにおいては,個人農優勢という条件の下でこうした農業政策の変化が起こったために,その変化は特別な意義をもったという。生産者協同組合(全耕地の 10 ないし11パーセント)の 90パーセント の廃止とその間接的結果としての零細農の安定と拡大再生産の条件の保証をせざるをえなくなった,という二つの事実によって,変化は強められた。そのためにポーランドの農村の経済状態は急激に改善した。しかし1956年以後の一時期には,ポーランド労働者統一党は農業の社会主義化の理念に立ち戻った(国有セクターの特権的地位,私経営農業にたいする機械化の面での規制,未開墾地の接収,等々)(172頁)。
ポスト・スターリン期には,前期の投資支出によって創出された生産能力を稼働させることによって予備資源が生まれた。ポーランドなどの諸国では,国民所得のなかで蓄積をきりつめ,消費部分を増加させ,消費財市場への供給力改善に貢献した。政治的緊張度が高かったハンガリー,ポーランド,東ドイツは,ソ連から重要な政治的譲歩をかちとった(ポーランドは,ソ連に輸出した過去の石炭価格が安すぎたことへの保障という名目で対ソ債務を帳消しにした)。アメリカの借款(5年間で総計5億ドル以上)と世界市場における石炭の好況によって,ポーランドの国際収支は改善しまた雇用機会圧力が低下した。
これらの要因が重層的に作用した結果,人民民主主義諸国では,1956年−60年代に,主に実質賃金の伸びを通じて,人民所得は急速に伸びた。
「一九六〇年には,一九五五年を100とした実質賃金指数は以下の通りであった(最も近い整数で示す)。ブルガリア一三五,チェコスロヴァキア一二五,東ドイツ一四三,ハンガリー一四七,ポーランド一二九,ルーマニア一四八」(171頁)。
ブルガリアと東ドイツを除いて,この指数は以前の五年間と比較してきわめて高く,すべての人民民主主義諸国について(ソ連だけが逆の傾向を示した)これ以後の5年間よりもはるかに高かった。しかしこのあと,実質賃金の伸びは著しく後退する。
この後退はなぜ起こったのだろうか。氏によれば,それは,人民の所得増大の政治的圧力の弱化,相変わらずの権力みずからの選好の押しつけ,楽観的な予測による予備の消尽,によるものであった。1961−65年の計画に含まれていた一大工業投資は,拡大テンポの増大と賃金引き上げとセットになっていたが,実施の段階になって,経済効率の低さによって,これら二つの目標を同時に達成することが不可能なことがわかった。労働生産性の伸びのおくれは計画以上の雇用増加で埋め合わせるしかなかった。賃金と社会的投資が抑制され,この期の国民所得の成長率は鈍化した。ルーマニアだけが例外だった。
1960年代後半になると人民民主主義諸国に格差が現れた。ソ連・ブルガリア・東ドイツは良好な国民所得の成長指数をみせている,チェコスロヴァキア,ポーランド,ハンガリー(1968年末までの)は以前の傾向をもちつづけた。ポーランドの場合は,1966年−70年の五カ年計画期の悪結果の責任は,誤った穀物自給政策にあったという。それは食肉の生産制限と,一面的で過度に緊張した投資計画に導いたというが,その危機に対処するのに,食料品価格引き上げと二年間の賃金凍結を打ち出した。急速な雇用増加によって人民大衆の総所得は増大したが,実質賃金の伸びの遅さを補償できないことが証明されたのである。
氏は,消費増大の要請と,それを計画の主要目標の地位に格上げすることをどうやって実現するかという視角からみてのポスト・スターリン期の有利な変化を4つあげている。
一,1950年代後半の消費者所得の重視への転換が,積み重ねられたことによって,そうして引き上げられた水準が次の出発点とされたこと。
二,「消費の問題,人民大衆の欲求を充足する問題は,スターリン時代におけるほど低い位置に抑えられることはそれ以後一度もなかった。スターリン時代にはこの問題が政 治的に重要な意義をもつと認識されたことはほとんどなく,そのことを示す唯一の事例として,実態を証明しうるデータは文字通りすべて隠匿されたことがあげられるだけである」(175〜176頁)。
三,所得の伸びは不充分ではあったが存在し,それが社会の一定の階層に貯蓄を可能にし,消費財をたくわえることを可能にした。この現象は,「多面的影響力をもった現象である」(176頁)として,氏は,一般的な検討をおこなっている。「家計所得が『蓄積のための限界収入』が可能となる水準に達すると,その家庭の生活水準のその後の伸びは所得の伸びだけに依存することをやめ,耐久消費財を徐々にふやしていくという形で続くことになる。このことは所得の伸びがない場合でもありうる(その所得が現行の必要水準維持のためのコストをわずかでも越える余剰が許されさえすれば,それは可能なわけだ)。消費財ストックの増加は様々な物質的形態をとりうる。シャツの枚数が多いことからはじまって,クルマや私有家屋のような「ステータス財」(これらは部分的には資本機能ももちうる)に至るまで,いろいろであるが,どの形態も原理的にいって生活水準(ないしは,ある経済学者が富の構成要素にカウントされうる物量とよんでいる生活スタイル)の向上に寄与することができる。心理的な効果は二つの面で捉えることができる。所得が不変でも「私の持物」の水準は時間がたてば向上する。それは豊かさが増大していることの測定可能な,感覚的に捉えうる証左である。これは安定化要因の相対的重要性を高める。他方では,消費財ストックの私的蓄積は,とりわけ(時にはもっぱら)他人との比較によって欲求をさらにかきたてる。ポスト・スターリン期にはこの型の現象とそれに関連した問題が,政治的なものも含めて強まっている」(176〜177頁)。
四,農民の地位のラディカルな改善がみられた。ポーランドでは農産物需要の急速な伸びのために農業収益が増大した(とりわけ工業用作物と市場向け園芸と果実栽培)。土地を含む農業用生産資本の価値が引き上げられた。都市へ移住した不在地主の地位と農 業労働者の地位を向上させた。しかしそれによっても,農村の情況は牧歌的とはいえなかった。
つぎに氏は,国際統計年鑑(ポーランド中央統計局刊)の平均実質賃金の比較データをあげているので,それをそのまま引用しておく。これは 1960年を 100とした 1967年の指数(農業を除く)である。すなわち,オーストリア 143,イタリア 137,ベルギー 143,ブルガリア 126,デンマーク 134,チェコスロヴァキア 112,フランス 126,ポーランド 114,西ドイツ 144,ルーマニア 132,アメリカ合衆国 114,ハンガリー 116,イギリス 121,ソ連 135,である。1955年を 100とした1967年の実質賃金指数では,ベルギー 168,フランス 142,イギリス 159,ブルガリア 173,チェコスロヴァキア 140,ポーランド 146,である。
「このことから言えることは,相対的に有利な年においても,社会主義諸国と西欧の発展した諸国との間の実質賃金の格差は縮小しなかった,あるいはせいぜいほんのわずかだけしか縮小しなかったということである」(179頁)。また氏は,実質所得の水準でも同じことが言えるとしている。
つぎに氏は,所得分配パターンの変化の分析に移る。そこで,氏は,西欧の新左翼が,ポスト・スターリン期には所得格差が拡大し,階層分化が強められたという見解を,退けている。そこで,国連ヨーロッパ経済委員会の調査の結論が引用されている。すなわち,「入手可能な統計情報によれば,賃金(および俸給)所得の分散(四分位偏差または四分比率で測定して)は考察機関を通じて縮小しているという一般的傾向が見られる。とくに一九五〇年代中期にはじまった賃金改訂の後にはこの傾向が顕著になる」(180頁)。氏によれば,ポーランドに関するすべての資料から引き出される結論は,「手労働者とホワイトカラー労働者との労働所得の相対比,およびそれぞれの内部の比率の双方とも,われわれが問題にしている時期の一部または全部において比較的安定しているのである」(180〜181頁)というものである。
恒常的な格差は,ポーランドでは1970年には,手労働者の場合,全体の 1.3%の最低額所得層と最高額所得層を含めると,全労働所得に対して1対14。両極集団を除くと,1対5,ホワイトカラーの場合は,上位集団がやや多く,下位集団はやや少ないが,全体の比率は近似しているという。労働所得の格差は,家計の生活水準(一人あたり所得で測って)の格差に影響を与える一つの要因にすぎない。家計の生活水準は,社会的消費フォンドからの給付の割合にも依存しているし,また,同一家計内で何人が働き何人が扶養されているかの数に依存しているのである。同時に最低所得層と最低所得層の格差がこの時期には相対的に固定していた。それが意味するのは,「一方の極では大家族が働き手は一人で稼ぎは低額,他方の極には小家族が高額所得の複数の働き手を擁するといった極端な場合には,生活内容に画然たる相違がある」(181〜182頁)ということである。このような場合,「社会的消費フォンドが平等化促進作用を果たすべきことが特別に強調されるべきである」(182頁)。ポーランドの1964年の調査によれば,所得階層の最高と最低との格差は,一人あたりの労働所得では1対6.97,社会的消費フォンドからの支出を考慮に入れると1対5.22に低下しているという。
しかしながら,所得分配パターンが社会的階層分化の進展と永続性に与えた影響は極めて深刻である。私見と断っているが,氏は,3つの理由をあげている。第一に,所得格差の長期化(生活内容の格差に結果した)は階層分化を促進する。それはスタートラインにおける条件の差を新世代が相続することになる。第二に,所得水準の全般的上昇によって格差が持続されたことは,上層における耐久消費財ストックを蓄積させ,それが累積的効果を生む。第三に,社会的・職業的地位上昇の可能にした諸条件がなくなり,出世梯子の飛び越えはみられなくなる。
所得の構造と階層分化の関係は,給与額の格差増大だけに還元することはできない。したがって,社会的分化に対抗するのに,給与の均等化政策だけで解決することはできない。その解決には,総合的長期的観点からする種々様々な,場合によっては相互に対立する諸側面を調和させる政策が必要である。曖昧さを一点も残さず社会の利益にかかわる問題を解く明快な解答というものは存在しないのである。
ポスト・スターリン期の政策変化によって,ポーランドでは農業外の私経営の一定部分は極めて高額の収入が得られた。それは,私的資本の一部が,商業園芸や家畜肥育などの非常に有利な企業活動に投資されていたからである。この部分は,国有部門,行政部門の上位所得層よりはるかに多大の収入を得た。それは国有企業や協同組合企業の弾力性の欠如によって,私経営資本が有利な高収益部門に投資できたからである。金融資産,土地,固定設備等々の所有は,私的蓄積と社会的所得上昇への有利な出発点となった。
経済的犯罪が,所得分配パターンに与える影響は,経済と公的生活の官僚主義化によって,増大し,深刻化する。「ポーランドで行われたこのテーマに関するユニークな研究によれば,汚職による所得の再配分は時の経過につれて垂直的な階層分化の過程を強めるという。なざなら,犯罪行為は組織集団に集中する顕著な傾向をみせ,組織集団はしばしば国家機関の種々の役職と結びついているからである。汚職の直接的物質的効果は別にしても,それがもつ道義的破壊作用が途方もなく大きいことも明らかである」(185頁)。
氏の要約は,ソ連と人民民主主義諸国の国民の物的生活条件のプラス方向への変化はポスト・スターリン期にもづづいた,所得格差は拡大しなかった,しかしそれは,社会的緊張を緩和し,調和ある発展のための前提条件をつくるものではなかった。広範な大衆の消費志向は,しばしば反発を生み出すほど強烈であり,所得分配パターンにたいしても,社会正義と経済合理性の双方の観点から問題になる,というものである。
最初に断ったように,この部分では,氏のあげる具体的事象と事実については,要約をもっぱらとせざるを得なかった。それら諸事件や事実や統計数字の信用性などについては,氏自身も懸念している部分がある。とりわけスターリン時代には,データ自体が隠匿されていたし,また氏が指摘しているように,データは独裁者の都合のいいように脚色されていたのであり,その時期のデータの信憑性が低いということは明らかなのである。
氏はつぎに統治方法における変化を検討している。ひきつづき氏の見解を見ていきたい。
(つづく)