共産主義者同盟(火花)

東欧「改革」のつきつけたもの(5)

流 広志
214号(1999年6月)所収


自主管理モデル

(1)予備的考察

 自主管理モデルという場合,それは「生産手段社会化の問題の解決への試みとして,典型的にはユーゴスラヴィアの理論と経験にみられるような形態を意味する」(『社会化と政治体制』ブルス著 ―新評論 1982年 大津定美訳― 93頁)が,その「理論像」は,国権主義モデルの場合とは違って,歴史的実践から再構成する必要性は少なく,ユーゴスラヴィアの共産主義者同盟の公式の綱領文書からもっぱら再構成される。
ユーゴスラヴィアの共産主義者同盟には,この自主管理モデルに関する綱領文書が豊富にあるが,それは「ユーゴ的定式化」がソ連の経験に対する挑戦であり,その正当化が必要であったためであろうとブルス氏はいう。周囲をソ連とその同盟国(ワルシャワ条約機構)に包囲されている状況では,その影響の浸透を放置しておけば,間違いなくユーゴ的解決は押しつぶされてしまうに違いなかった。ここで氏は,「ユーゴの分裂」(94頁)や民族問題と自主管理モデルとの相互関係については禁欲せざるを得ないとしている。しかしこれらの点を明らかにしなければ現実を捉えることができないことはあきらかである。
 本稿の目的は,東欧「改革」の現実変革力の秘密を探り,その革命性の射程を測り直すことであり,それを先進資本主義諸国における根底的変革を推進することに結合することにあり,またそれは,われわれが約10年前に提案した諸テーゼを発展させるための基準を得ることにある。確かに,この自主管理モデルが,民族問題を解決するものでなかっただろうことは,諸共和国の独立やボスニア紛争やコソボ問題によってうかがえる。しかしそれについては,ブルス氏とともに「いまは禁欲」(同)せざるを得ない。

(A)

 こうした前提を置いた上で,ブルス氏は「自主管理モデルにおいては,社会化は生産手段を社会主義国家の所有へ移すことであるということにはならない」(95頁)という否定命題を主張する。このようなやり方は,「自主管理モデルにおいて社会化とは何かを正面からとりあげずに,否定的な結論を先に述べるというやり方は,普通の場合には都合の悪いことになろう」(同)。しかし「この場合には,生産手段の社会化を一回限りの行為としてではなく,むしろ過程として捉えるという概念構成全体の本質的特徴として正当化される。国権主義モデルと異なって,これは社会化の動態的定式化であるといえよう」と正当化している。
 社会化を過程としてとらえる氏の視点からは,この過程の始点は,ブルジョアジーの政治支配を覆し,プロレタリアート独裁を実現し,社会主義国家を創設することである。この社会主義国家は,基本的生産手段の没収,計画化原理によって経済組織を変革し,「所得分配,雇用政策,教育,文化等々の領域で革命的転換政策を断行し,社会的正義,生産力の発展,広範な大衆の生活水準と文化レヴェルの引上げ等のスローガンを実施しようとする」(95頁)。この「権力獲得後の最初期における革命的転換段階の社会・経済的特徴」(同)はソ連の場合と同じである。
 「社会主義国家によって国有化された生産手段は,社会的所有の枠内にあるものとみなしうる」(96頁)のであるが,しかしそれはソ連の教理とは違って,「これは間接的に社会的な所有であって,その意味で一段低いなお萌芽的な社会的所有形態なのである」(同)。それが間接的でしかないというのは,「生産手段だけでなく,生産された国民所得および「社会主義的剰余生産物」(蓄積および一般的必要を充たすための剰余)もこの所得の創造者,マルクス主義でいう生産者の直接的管理のもとになく,逆に生産者の名を語る国家の管理下にある」(同)からである。
 これはマルクス・エンゲルスの諸文献に直接あたったことのある者ならば誰でも当たり前のこととして了解できるであろう。「ユーゴの教理によれば,社会的所有は厳密な意味で直接的社会的所有である。それは,一人の個人または私的所有者の小グループによる所有の独占,そしてそれにともなう政治的経済的権力の独占とを廃止するだけでなく,社会主義国家による独占をも排除する」(同)。ブルス氏は,「社会主義は生産手段の社会化に基礎をおく社会体制であって,そこでは社会的生産は直接生産者の連合によって運営される」(97頁)というユーゴスラヴィア共産主義者同盟の社会主義の定義を引用する。ここから,国有形態が社会的所有の低位の形態であり,それは直接の社会的所有の方向へたえまなく発展しつづけているかぎりにおいてのみ社会的所有であるということを導き出している。そして,「生産手段の直接の社会的領有のための制度的形態は,生産者の自主管理である」(同)という。しかしブルス氏のこのテーゼについてはこの展開を検討してから判断することにしたい。
 氏は,ユーゴ共産主義者同盟を,「社会主義においても発展は内在的な社会的・経済的諸矛盾を克服することによって生じるのだということを彼らは強調した」(同)こと,また「ユーゴ共産主義者同盟は,闘争を通じての社会主義体制の発展という問題を鋭く提起した権力の座にある共産党として最初の党であったという事実は注目に値する」(同),として高く評価している。当然,このような路線は,「国権主義モデルの社会主義イデオロギーよりもはるかに強烈な関心を,生産力,生産関係,政治的上部構造のあいだの現実の諸矛盾にむけるべきことを要請している」(98頁)のである。

(B)

 「ユーゴの公式によれば,権力獲得のあと社会主義は国権主義期(「ステイティズム」)に入る」(同)。この国権主義期は,社会主義国家が次の局面に移行するための物質的条件を作り出すために必然で一般的なのであり,「未熟な状態」で社会主義に入った社会主義国家の場合は,それは工業化とそれにともなう社会・経済構造の変革を進める時期であり,この期間は「未熟」であればあるほど長い。
 この移行期の基本的矛盾は,国家が社会化の過程を進めるための不可欠の道具であり,「真に革命的な国家(現実的な意味でのプロレタリアートの独裁)の主要な課題はまさに,国権主義の局面から厳密な意味での社会化の局面にむけて動きだすことにある」(98〜99頁)が,国家は強制装置なしではやっていけないのでこの強制装置を利用して支配層が分離独立する傾向が強まり,この支配層がやがて経済的余剰や社会的活動の諸側面を自らの支配下に置こうとするようになる。「こうした矛盾は党をもまたまき込む」(99頁)。一方で人民大衆の前衛組織としての党が国家権力の行使に参加することは,国家が人民大衆から離れ,労働者の支配のための道具になることを防ぐ可能性をもつが,他方では,国家の中で党が大きな役割をはたすために,党自体の官僚化や党と国家機構が共生関係に入るという危険性が増大する可能性をもち,それはイデオロギー的なマイナス効果をもたらす。ではどうすればよいのか。

「この矛盾の解決は明らかに,たんに一方の極を排除することではありえない。なぜなら両方の極ともそれぞれ客観的根拠をもっているからである。むしろ問題は,所有の真の社会化の局面へむけて,前進的な運動をおこすための前提条件をどのように創っていくかにある。それこそ経済発展の必要性が示す方向にほかならない」(同)。

 ここはブルス氏が弁証法を見事に駆使している部分である。
 したがって,党は国家の労働の支配と官僚主義化の傾向と反対の極に立たねばならない。すなわち「党が大衆を鼓舞し社会化の過程の積極的な推進者となるためには,党は狭義の国家権力の行使からできるだけ離れ,国家機関との癒着を拒否し,自らの官僚主義化傾向を克服しなければならない」(100頁)のである。氏は,1950年代初頭のユーゴでの党改革はそうした企図をもったものであったという。その意図は対外的にはユーゴスラヴィア共産党からユーゴスラヴィア共産主義者同盟への党名変更に示されたという。
 国権主義期の矛盾の解決法は,国家の廃絶である。この国家の廃絶の意味は,「スターリンの『(国家を)一層強化することによって廃絶する』という似非弁証法的詭弁」(101頁)ではなく,「国家の役割を徐々に制限し自主管理機関を優位に立たせること」(同)である。
 つまりは,「生きた社会と広義の生産手段との媒介環としての国家を徐々になくしていくことであり,労働力と生産手段とを結合させるメカニズムにおける二つの側面への分離,雇う側と雇われる側,雇用者と被雇用者への分裂を徐々に廃止することである。このように理解するなら,国家の廃絶とは,生産手段にたいする関係において,諸個人がはたす種々の社会的役割の固定化を許さないということである」(同)。「だから自主管理モデルは,労働者自主管理にたいして,社会の多くの構成要素の一つとして参加させるのではなく,経済的,社会的,政治的な点で決定的な役割を与えるということである。生産手段の社会化の過程および自由な生産者の連合というマルクス的ヴィジョンへの発展は,とりもなおさず労働者自主管理の発展である」(101〜102頁)。

(C)

これで,自主管理モデルについて基本的な予備的考察は終わりである。しかし自主管理思想にたいする留保や反対を呼び起こしている二つの問題があるとしてそれらが検討されている。それは,「(一)社会的関心を引くかどうか,(二)組織論的合理性があるかどうか」(102頁)である。前者については,それはそれぞれの国で自主管理のためにつくられる諸条件に依存するのであり,それによって労働者自主管理の思想を拒否する充分な理由にならない。後者については,やや詳しく考察されている。
 専門経営者やエキスパートと労働者組織への合理的分業が可能かどうか,指揮系統の切断による混乱,集団的意志決定に要する時間の増加,等々,混乱は避けられないにしても,その程度は具体的な組織上の問題を解決する技量によるし,また,現代(この本の出版は1975年であるので,その当時)の経営理論は,種々のレベルでの労働者の参加,とくに管理者と実行者とへの鋭角的分業の緩和に重点を置いている。すなわち,「労働者の側に積極的,創造的な姿勢を生み出させ,その方向への刺激を与えるためには,労働者全体が自らの目標をよく理解している必要があるばかりでなく,労働者が組織体の目的と自己の目的とを一体化できる体制が必要である。その体制ができるためには,目標の決定自体に実質上の発言権が与えられなければならないし,労働者間のさまざまな形での意見交換と討論の場が保証されなければならない。これらは結果的には,管理体制の一環としての自主管理という考え方に収斂するのである」(103〜104頁)。
 「ガルブレイスは委員会的意志決定様式を,正当にも現代の経済組織の本質的特徴のひとつとしてあげている」(104頁)というが,この「委員会的意志決定様式」は,自主管理の機能形式の正確で詳細な規定(とりわけ日常経営に関わるものと具体的諸状況に適合する戦略的(企業の基本問題にふれる)政策にかかわるものとに二分すること)がなされることを条件とすれば,経営者中心のそれより有能な決定を行うことができるというのである。さらに労働者自主管理は,労働者の意識の中に生産手段の共同管理者としての心構えを育成し,「所得格差をめぐる労働者間の対立を克服し,労働者に自分達の企業の将来に関心をもたせる」という役割を果たすことが期待できる。それは,「第一に,労働に応じた分配原則を実施するさいに,一方では,生産性を刺激するに必要な賃金格差を許し,同時に他方では,社会的公平感を傷つけないような格差を一定限度内にとどめなければならないという問題」(105頁)に対して,自主管理は,上からの行政的方法では解決できないこの問題で,対立状況を和らげ,自分たちで選択したものとして受け入れられる妥協策を生み出すことに貢献するだろう。第二に,長期的時間視野を必要とする決定と公的役人としての経営者がもつ限定的な時間視野との対立の問題にたいして,自主管理的アプローチは,労働者全体に長期的命運への関心をより強く持たせることで,「個人の生活安定を優先する非所有経営者のせまい時間視野を,労働集団の永続性に基づくはるかに広い時間視野にかえる可能性を切り拓く」(同)。
 しかし,自主管理で自動的には解決できない問題がある。第一に,自主管理方式になっても,企業エリートの成立を排除できないので,この企業エリートが「所得分配への影響力を行使して労働集団全体の企業業績への生きた関心を弱めるか,あるいはだめにしかねない」(106頁)。第二に,「経済的インセンティブの組み方が悪いと,強烈な集団的選好が短期の利得にむけられることになりかねない」(同)ということである。ブルス氏は,こうした危険性にもかかわらず,長期的根本的に自主管理形態には豊かな可能性があるし,「企業レヴェルにおける真の自主管理は,社会的,一般的レヴェルにおいて,労働と所有にたいする社会主義的態度を育てる上で巨大な教育的意義をもっている」(同)と評価して予備的考察を終えている。

(2)労働者自主管理のユーゴ的定式

(A)

 ユーゴ共産主義者同盟は,自主管理のはらむ諸問題の解決には,自主管理の展開それ自体によって克服されるという確信をもっていたという。自主管理の発展にともなって,その権威の増大と労働者の姿勢との間に相促的フィードバックが生まれ,そして国権主義期の諸特徴を系統的に排除する圧力が生まれ,さらにその活動領域と権限を発展させるための経済的・政治的条件を創出しようとする動きが生み出されるというのである。それはユーゴでの以下の4つの領域において実践的経験として示されたという。すなわち,@企業内の自主管理機関の権限の拡大,A自主管理の適用範囲の拡大,B自主管理企業(そして自主管理制の領域拡大にともなって非生産団体)にすべてのレヴェルで,議会制度における特別権限を認めていること,C労働者自主管理の経済基盤の創造と拡大,である。
 @1950年に工場が労働者自主管理に形式的に移行されて以来,工場長(最高責任者)を含む経営職員の任命をはじめとする重要な意志決定に影響力を強め,1960年代末には企業長は労働者評議会が任命するようになった。ただし候補者名簿は,地域評議会(コミューン)と労働者評議会との同数の代表からなる選考委員会が志願者をふるい分けて作成するものだった。
 A自主管理の範囲は,物的生産セクターである工業,(国有)農業,建設から,商業,交通,通信,教育,科学,文化,医療,銀行,保険にまで拡大された。その意図は,自主管理を「物的生産部門に限定すると,自主管理モデルの普遍性が窮地に陥りかねないし,勤労者社会を自主管理部分と行政的部分とに二分し,両者を互いにおとしめ合うことになりかねないからである」(107頁)。
 B自主管理組織のメンバーには,通常の地域の議会議員選挙(コミューン,州,共和国,連邦)の選挙権のほかに,労働者自主管理を代表する(生産,教育・文化,医療・社会保障政策)の領域に設けられた議院の議員の選挙権を持っている。
 C社会的剰余の処分権を徐々に直接的生産者の手に移すことであり,一部の例外を除いて自主管理企業の経済的意志決定を最大限可能な範囲で分権化することである。
 つづけてブルス氏は,Cの領域が重要であるとして詳しく展開していく。それが重要なのは,「社会化とはつまるところ,生産手段と生産物にたいする処分権が直接生産者に対する外的強制に基礎を置いているような情況をなくすこと」(109頁)であり,「社会化過程の経済的本質は,国家の直接的経済活動を制限し,自主管理による決定の領域を拡大することにある」(同)からである。

(B)

しかしなお国家の役割として,剰余生産物の一部の再配分機能による平等の実現(地域格差の是正や社会福祉への支出)ということが残るという問題がある。ここではブルス氏はこの問題に立ち入らず,ユーゴ経済の機能システムの発展段階の区分に移る。すなわち,
 (1)集権化段階――1950年代初頭まで。
 (2)自主管理の導入と分権化の開始の段階,中央政府にはなお多くの基幹的経済決定    が残されており,とくに企業内所得分配規制および投資面での決定がその例――    1956年まで。
(3)自主管理の決定権限を企業内部での所得分配の問題まで拡大したが,投資決定に    おける支配的役割はなお国家が留保していた段階――1965年まで。
 (4)1965年の改革以後,拡大再生産に関する決定を企業のレヴェルへ移した段階。 企業が投資フォンドの大部分を支配し,国家(必ずしも連邦レヴェルではないが )の手に残されているのは,主に一般向けの,特定目的に指定された資源(後れ  た地方への補助などが含まれる)の配分問題である。
 発展傾向は,「経済諸決定のラディカルな分権化」というブルス氏のモデル論から見て,正しいものとされる。それは,「分権化モデル」あるいは「規制された市場メカニズムを用いる計画経済モデル」よりも,はるかに幅広い規模の市場メカニズムの作用を含んでいる。このモデルは,経済決定を「(一)基礎的,マクロ経済決定,主に社会的,経済的発展方向に関わるもの,(二)(生産部門と企業の)部分的決定,主に時々の経常的経済問題に関わるもの,(三)(家計の)個別的決定,職業,仕事場所,支出パターンの選択等々に関わるもの」(110〜111頁)という区分に基づいている。このうち,(三)は分権化されているし,(一)は計画経済のもとでは必ず集権化されている。したがって,「社会主義経済の機能モデルの分権化とは,第二グループの諸決定を分権化することであり,ヒエラルヒー的な指令的計画化の方法(国権主義モデルにおける経済機能システムの叙述をみよ)をやめて間接的操縦の方法にかえることであり,それによって自律的に計画を実行する下位機関(「サブ・システム」)は,「システム」全体のための中央計画によって指定される,総体的コースの上へ導かれる」(111頁)ということになる。
 こうした型の市場メカニズムをつくりだす条件は,氏によれば三つである。

(一)以下の諸事項に関する基本的,長期的意志決定を中央レヴェルに確保すること。経済発展のテンポと方向(投資比率,投資フォンドの基本部分の直接的配分)。消費にあてられる所得の分配比率の一般的レヴェル(とくに個人的消費と公的消費の比率)。社会的および政治的優先目的とそれを実現する手段。
(二)「サブ・システム」の中央レヴェルでの「ビヘイビア・ルール」を決めること,すなわち,サブ・システムの目的関数を設定してやること,そうすることによって,サブ・システムが(物質的インセンティブと結びついて)目的関数を極大化し,それが「システム」全体の目的関数の極大化に貢献することになる。
(三)「サブ・システム」の計算に入りこむ経済量(価格,利子率,税率,為替レート,等々)のパラメーター的性格を確保すること。そのためには,これら経済諸量の直接的 決定ないし有効な操作およびコントロールを可能にするような,経済的諸用具をひとま とめにして中央レヴェルに集合しておかなければならない。(111〜112頁)。

こうした条件を満たす「社会主義の自主管理モデルの諸前提に対応する経済の機能モデル(原則)は,集団によって経営される独立の企業のあいだの連関が商品的性格をもっていることにある」(113頁)ということになる。
 氏が引用しているユーゴスラヴィア共産主義者同盟第九回大会決定の部分を見てみよう。

「今日の条件のもとでは,社会主義的商品生産は生産力の合理的拡大のために可能な唯一の形態であり,自主管理と社会主義的直接民主主義の発展のための客観的前提条件であることを,共産主義者同盟は承認する。したがってわれわれは(一九六五年の――著者注)改革にもとづく諸政策を精力的に実施しなければならない。社会主義的商品生産のより発展したより自由な形態を,より完全に展開し,主観主義および経済法則の効果にたいする国権主義的否定と闘わなければならない」(114頁)

 これによって,問題は明確になった。それは,社会主義経済を商品経済とするテーゼのはらむ問題を検討しなければならないということである。この検討は現在の中国の路線を検証する上でも参考になることが期待される。

(C)

 このテーゼのはらむ問題点をブルス氏はいくつかあげている。この定義は,商品関係の限界,枠組,領域の問題,意識的社会的選択の可能性,を排除する。また「もし社会主義経済イコール商品経済という定義を受け入れるなら,ランゲのいう〔社会主義経済に固有の――訳者〕諸目的のヒエラルヒー構造は完全に消えてしまうであろうし,使用価値生産優先の原則も同じことになろう。なぜなら後者との関連でいえば,交換価値生産は有効な手段ではあっても目的にはなりえないのでだから」(114〜115頁)。というわけで,生産主体は,社会的必要を市場メカニズムの内部でのみ判断するようになってしまう。すなわち,「徹頭徹尾商品経済と把握されている経済が,外部経済および外部不経済を適切に勘定に入れることがはたしてできるのかどうか,またどのようにして可能なのかという問いに明快な答えを描いてみせることは至難の業」(115頁)なのである。
 商品経済では,市場メカニズムの論理によって経済単位の行動ルールが決まるのであり,@利益の多い方に資源を移転させる傾向があり,A「マクロ経済的均衡」(国民経済の全体としての状態)は個別経済単位の活動の結果にすぎない。そうなると需要と供給の関係によって決まる市場価格は,社会的機会費用(国民経済全体からみた機会費用)をどの程度反映しているかという問題は意味を失う。
 社会主義的商品経済では,自主管理モデルでの商品関係の主体である「生産者の連合,労働者集団」(116頁)が,「資本一単位あたりの利潤極大化ではなく,自主管理集団の成員一人あたり,つまり被用者一人あたりの所得極大化」(同)を目指して経済活動することによって,自然に形成される目的関数の具体的な形を形成し,それを基準として設定される企業の均衡点がある。「それは自由競争の条件下で操業する資本制企業の均衡点とは明らかに異なっている」(同)。
 市場メカニズムの作用範囲が拡がり自由化するにしたがって,分配過程への影響が増大する。人民の所得(消費)については,ユーゴの教理は断固として「労働に応じた分配の原則」に立っているという。ただし「この原則が歴史的時間尺度で(「必要に応じた分配」への)過渡的なものとみなされているかどうかは定かではない」(同)というが,それは共産主義論としては問題があろう。
 企業内分配は自主管理モデルでは賃金率とその格差を民主主義的に決定する。しかし企業間および経済部門間での所得分配では,企業(ないし企業連合)の営業成績と労働者の所得水準をどう結びつけるかという複雑な問題がある。自主管理制下の企業の所得はその販売で上がる収益に依存し,市場の情況に強く規定される。労働者は,生産手段の共有者として,自身の所得水準が企業の全体的収益に依存することを考慮して,全体的利害と個人的利害を結びつけるようになる。が,それは労働者の個人所得が市場競争の影響を受ける「最終的営業成績」(118頁)に依存することになり,「特定の企業や部門における労働者相互の賃金格差は,市場の不確実性にもとづく要因に左右されることになる」(同)ことを意味する。「自主管理制では,・・・・労働者所得の企業財政状況への依存度したがって市場状況への依存度は,きわめて大きい」(119頁)。
 総投資財源が企業の手に多く委ねられ,その処分についての決定権が企業に移るにしたがって,企業の投資が可能になり,自主管理企業の労働者に投資収益をという新たな所得をもたらす道を切り開くが,「この種の現象が所得分配,賃金格差,『当期の』労働による所得と『配当』所得との比率,等々の問題に与える影響はきわめて深刻である」(120頁)。
 剰余生産物の処分権を自主管理企業に移すのにともなって,公的消費をどうまかなうかという問題が残る。租税でまかなわれる行政機構と軍事関係の支出を除いた公的消費は,「サーヴィスの相当部分(すべてをまかなうことは考えられないから)を受益者負担でまかなう方法であり,他方は,サーヴィスの一定部分を特定企業集団による資金援助と結びつけることによって,一般的サーヴィス体系を補完する方法」(120〜121頁)から選ばなければならなくなる。
 市場メカニズムに全面的に依存することになれば,当然,独占(寡占)による独占価格の形成と独占企業による市場価格の操作などの独占的行動様式によるマイナス作用の危険も生じる。この危険を取り除く方法としてユーゴの文献では二つの方法があげられているという。すなわち,「(一)外国貿易の自由化。これは国内の独占を打破するための輸入拡大の可能性を大幅にもたらす。(二)経済の特定領域への自由参入原則の実施。それによって過大企業の分解あるいは集中の排除が可能となる」(121〜122頁)。しかし「おそらく〔独占の危険に対しては――訳者〕国家機関による適切な介入の他に手はないのである」(122頁)。

(D)

 ようするに,自主管理においては,国家の経済的役割はやはり存在するのである。問題は,「生産者連合に最大限の自主管理を保証ししかも国民経済全般の計画的操縦が必要であるという対立を解決する」(125頁)ことにある。したがって,生産手段の社会化が国有化・集団化を意味しない以上,「自主管理は経済的民主主義の一要素でなければならないと同時に,政治的民主主義の基本的要素でなければならない」(同)ことになる。つまり,自主管理と代議制度を結びつけ,自主管理が企業ばかりでなく「広範な規模(市町村,州,共和国,連邦)」(同)での共同の意志決定を行わなければならないということである。「それは,自主管理であるがゆえに民主的であり,逆に民主的であるがゆえに自主管理であるような特別な政治体制によって実現されるものである」(同)。したがって,自主管理モデルで生産手段の社会化の現実を評価する基準はやはり政治体制の民主主義である。
 自主管理モデルでの全国的統合をはたす機関は,自主管理から生じる自発的な連合形態の特殊な型の国家機関であり,中央で直接的な配分決定などで規制されるものは比較的小さいという条件を満たさなければならない。そこで中央の経済決定として残されるのは,(a)一般的な発展計画の予測をすること,(b)市場の「不完全性」の兆候および独占的振舞いの恐れに対抗すること,(c)市場プロセスを訂正すること,とくに,市場が全然機能しないか,明らかに長期の社会的目標(極端に後れた地域の発展,先鋭な社会問題,等々)に逆らうような機能の仕方をする場合,(126頁)である。
 「結局,自主管理モデルは中央経済レヴェルを排除することを要請しているのではなく,むしろ自主管理制をとる経済単位の自立的活動の調整役として中央の機能を根本的に制限することを要請する」(126〜127頁)。
 自主管理が,自治権をもつ企業を管理する制度的形態として経済民主主義の要因となるためには,労働者を企業の管理にひきこむことによって「脱疎外化」(128頁)を作用させることが必要である。そしてエリート主義的・テクノクラート的傾向を克服するには「適切な経済的,制度的,政治的そしてイデオロギー的な前提条件」(129頁)をつくり「労働者の文化的および意識的な水準が一般に上昇」(同)させ,労働者参加の傾向が助長され,それによって自主管理の実現度も向上する」ようにすることである(同)。また「経済決定の領域に複数制的要素をもちこむことによって,国家の経済的万能に制限を加えることである」(同)。
 しかしここでジレンマが生じる。すなわち,「自主管理企業がとりうる経済決定の枠をできるだけ拡げようという努力と,全般的経済規準を優先させねばならないという客観的要請としばしば衝突する」(131頁)のである。その例としてブルス氏は,自主管理企業が雇用者一人あたりの純所得を極大化するためにつくりあげる自然な目的関数が,企業の産出量と雇用量の最適水準を均衡点として決定し,固定資本一定としてこれらの現実的な組み合わせのなかに限界コストの逓増部門があれば,こうした企業は「利潤極大をめざす企業(他の事情は等しいとして)よりも低い水準の産出量と雇用量で満足してしまう傾向がある」(132頁)ことをあげている。こうした企業は,資本集約と労働節約に向かう傾向が強い。
 かくして「中央計画化の役割が増大していく客観的傾向と自主管理モデルとが衝突するであろうことを示す兆候はたくさんある」(133頁)が,それは「狭義の経済的側面――主に長期の投資決定とそれと関連した経済の一般的均衡との調整――においても,社会的側面――雇用,所得格差,社会的消費フォンドからの支出,等々――においても,ともに存在する」(同)。しかし,ユーゴでは,@公式筋もこの点に気づいていたが,A一般的には教理にたいして忠実であるにもかかわらず,経済メカニズムの通常の運行のなかで,中央レヴェルによる直接的管理手段にしばしば復帰した。それは価格,賃金,外国貿易などの市場への介入である。
 労働者自主管理を生産手段の社会化の本質的要素とするブルス氏は,「経済の脱政治化」ではなく「政治の民主主義化」を主張する。それこそが「国有化された生産手段を社会化の過程へ導く正しい方向」(137頁)だというのである。

(E)

 ブルス氏は「ここで議論を打ちきるべきかもしれない」と断りながら,ユーゴの体制をとりあげている。第一に,企業の自律性と労働者自主管理の導入は,国家の独占的地位を制限し,個人と集団にたいする国家の経済的圧力を限定し,そのためにある種の複数主義的要素が生まれ,多少の独立的立場を可能にしたが,それはソ連や人民民主主義諸国よりはましであった。第二に,しかしながら「ユーゴスラヴィアの政治体制は反対派を許容せず,社会主義的発展に別の可能性があることを説明する機会,またはそのような可能性を受け入れるように社会に勧告する機会を与えない」(138頁)。「体制の型としてはユーゴスラヴィアの政治体制はソビエトの体制と同一カテゴリーに属する。ということは論理必然的に,この国の政治体制はわれわれが採用した社会化の規準の要請に合致していない」(139頁)。

両モデルの検討からの結論

 ブルス氏が国権主義モデルと自主管理モデルの二つの類型の検討を通じて達した結論は,(1)両方のモデルとも,この検討した時期において生産手段の社会化は達成されなかった。しかし生産手段の社会化への客観的傾向によって,「事態が悪化するなかで,生産力発展の要請と社会化の規準に合致しない生産関係のあいだの矛盾が,ついには暴力的な爆発となる一点に到達するであろう」(140頁)。これが書かれたのは1975年である。そして1980年代から1990年代初頭にかけて,ソ連・東欧体制の劇的な崩壊を遂げる。(2)社会化は一回限りの行為でおこるのではなく過程としておこるのであり,社会化は社会主義国家の国有と同一視することはできない。(3)労働者自主管理の理念を実行することは社会化の過程の前進のために本質的な意義をもつ。それは,直接的に経済を民主化し,また複数主義的要素を社会・政治体制にもちこむことによって,ともに民主化に貢献する。その前提となる経済機能システムの分権化は,中央計画の経済的,社会的必要性,外部費用と便益との内部化の必要性,「システム」全体の「サブ・システム」に対する優先性の堅持の要請によって,限界をもっている。社会化は国有化を従属的な(必要ではあるが十分ではない)属性として含む。(4)「社会化の問題は,国家の,政治体制の,民主的発展の問題に転化する」(141頁)が,「これこそ,社会主義の最初の局面での社会と経済の革命的変革――「最初の衝撃」――の効果を保持し豊かにするものなのである」(同)。

ここまでのところでの若干の感想と意見

 以上,ブルス氏の『社会化と政治体制』の 第二章 東欧社会主義における社会化の理念と現実 を見てきた。少々詳しく要約したのは,ブルス氏の見解を歪曲することなく理解しておきたかったからである。ここまでの部分であきらかなように,氏のモデル構築は,近代経済学,マルクス経済学の理論的成果を踏まえてつくられている。見事なのは,マルクス主義の基本テーゼを揺るがすことなく,それを構築しきったことであり,それによってブルジョア的自由主義の立場からの社会主義批判をことごとく退けていることだ。
 ブルス氏は,国家の経済領域への介入の恒常化という事実をもとに,後期資本主義と初期社会主義の連続性に着目している。そのために,後期資本主義下にある社会主義者・共産主義者の枢要な実践的理論的課題として,労働者自主管理を押し出すことができたと考えられる。
 ただし,いわゆる第二次共産主義者同盟第9回大会を主導したいわゆる「12・18ブント」系の「いまや権力奪取後になにを実現するのかが具体的に明らかにされねばならない」という提起を綱領問題として受け止めた部分にとっては,1970年代以来このことは常に課題であり続けている(すくなくとも私はそのように考えている)。その課題は,1980年代に,共産主義者同盟のいくつかの諸組織での綱領確立という動きとしてあったし,われわれもまた綱領の採択と綱領の持ち込み,綱領論争の提起という形でこの課題に答えようとしてきた。それはわれわれの場合は,プロ独一般の必要を語ることではなく,プロレタリアート独裁の具体的な内容をめぐる論争の成果を綱領に定式化することとしてあった。その観点からすれば,「過渡期」ないし「移行期」を具体的に解明する作業が,きわめて実践的な意義をもっていることはあきらかである。
 ブルス氏は,労働者自主管理の発展こそがマルクスの「自由な生産者の連合社会」を実現するものだとし,そのためには政治体制の民主主義がポイントになると主張している。ユーゴスラヴィアの自主管理モデルの限界は,自主管理のポイントをもっぱら経済に置いたことにあった。商品経済と市場メカニズムの利用,分権化,・・・・は,経済管理の国家領域の後退とその自主管理領域の拡大という相対的な形に終始することになったので,それは国家の廃絶に向けた諸条件を準備するのではなく,無政府主義的で日和見主義的な傾向を持つものとなった。
 それに対してブルス氏は,労働者自主管理を政治体制の民主主義と結びつけることによってこそ,国家の性格と機能が根本的な変革をこうむると主張している。それは,第一に国家の経済機能を限定することによって,第二に労働者自主管理が,政治決定を含む広範な意志決定,実行,点検に参加して決定的な役割をはたすことによって,国家が経済領域で「調整機能」を果たすことによって,等々,である。なお,氏は経済領域に限定しているので,国家の軍事,治安,等々の領域については検討していない。結局,氏は,国家は「生産者連合の自主機関」となるべきだというのである。
 つぎに,自主管理の展開と商品経済・市場メカニズムの関係はどうなっているのだろうかという問題がある。これらの利用ということに関しては,ソ連における「新経済政策」(ネップ)の経験がある。その場合確認しておきたいのは,商品も市場も資本主義に固有のものではなく太古の昔から存在したという当たり前のことである。したがって商品や市場の存在をもって資本主義の復活ということにはならない。しかしそれらは,レーニンが強調していたように,その傾向を促進するし,その可能性をはらんでいることはたしかだ。したがって,商品の物象的性格にたいしては意識的でなければならないし,そうした意識をまったく目に見える形で社会的に表示することが必要である。そのことが政治レヴェルでのそうした意識の公然たる表明を担う部分の存在とそうした部分を生みだし続けるような政治・社会システムを必要とする理由であり,それは共産主義者の組織の任務とならなければならないのである。それがなければ,当然,商品経済と市場メカニズムの自然発生性に圧倒されて,搾取社会が到来してしまうだろう。そこで過渡期における共産主義組織は,もっぱらできるだけ国家から離れ,自主管理を擁護するイデオロギー活動に重点を置くというユーゴ共産主義者同盟の定式の問題点がわかる。ここでの共産主義組織の任務はイデオロギー活動はもちろんだが,国家・政治体制の変革に実践的に取り組み社会建設に重点を置くべきなのである。ユーゴの党は,連邦制国家の機能制限にとどまり,それを労働者自主管理社会を発展させる新たな国家の型にまで高め上げることを放棄することになる。つまり,国家の新たな機能の創設と旧来のそれの廃絶や改革,官僚機構の民主化,労働者大衆の参加と点検,・・・・やるべきことは山ほどあろう。それは国家の社会の一属性への転化の諸条件をつくる作業の一部なのである。結局,国家の完全な廃絶には地球上から階級闘争が一切なくなることが,つまりは共産主義社会が実現することが必要なことはいうまでもない。
 つぎに,労働者自主管理そのものについていえば,それがマルクスのいう「自由な生産者の連合」の「自由な生産者」にあたるのかどうかという問題がある。たしかに,レーニンは過渡期のプロレタリア民主主義としてはソビエト制度に重点を置いていた。レーニンは企業・工場労働者が自由に選挙で企業長・工場長を選ぶことには反対した。期待したのは労働者の自由に選ぶ代表者としての労働組合である。ボリシェビキは労働組合に基盤をもっていた。党の政策が労組を通じて各生産単位で実行されるものと考えたのは当然といえよう。
 それにたいして,ブルス氏は,労働組合の役割についてはまったく触れていない。それはソ連などで労働組合が国家化し,それが労働者の利害を代表するのではなく,国家利害を労働者に強制する機関となってしまったという事情のためであろう。
 ブルス氏は,マルクスの「自由な生産者」を労働者自主管理としているわけだが,マルクス・エンゲルスの場合はこの「自由な生産者」が協同組合を指していたことはかれらの残した諸著作によって確かめられる。では労働者自主管理と協同組合の関係はどうなっているのか。氏の場合,国権主義モデルの協同組合の国家化の現実をとうぜん否定的に捉えている。エンゲルスはラサールの国家援助による協同組合の発展の主張を「国家社会主義」として批判している。マルクス・エンゲルスの協同組合論は協同組合の国家化を否定するものである。生産協同組合は組合員一人当たりの所得を最大化する目的によって経済活動を行うのだが,それには出資者への配当も含まれる。自主管理企業が構成員一人当たりの所得を極大化する目的を持つという場合,分権化がなされていれば,その経済活動の社会性を確認するのは市場の評価であり価格である。協同組合の場合は協同組合員の範囲がその被用者にとどまらない分だけ社会性が大きいが,自主管理企業の場合には,社会性が比較的小さい。氏が指摘しているように,例えば被用者一人当たりの所得低下を防ごうとして価格騰貴にたいして雇用量・産出高を低く押さえようという傾向があり,失業率を高める傾向がある。
 こうした自主管理企業の社会性を大きくするためには,その代表者による議院や各地域自治単位や国家・連邦などでの意志決定の場への参加など,広範な社会的意識をもつような特別な工夫が必要になるわけである。一般論としてどのような制度や機構・システムであれ,社会性を高めるためにはそれなりの工夫や仕組みや働きかけや教育等々が必要である。それは協同組合であれ労働者自主管理であれ,かわらない。
 ここまでの氏の展開をみての若干の感想や意見などをまとまりなくあげてみた。引き続き氏の考察を見ていきたい。それからいろいろと考察・判断していきたい。    

(つづく)




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