ついに行われた脳死臓器移植について(3)
渋谷一三
214号(1999年6月)所収
5.技術の発展方向の問題
阪大の飯塚さんが大変に良いレポートを上げてくれている。
彼は、『重症患者のその後』に問題意識を持った。その中で、脳死「寸前」とされた女性患者の例と出合う。
92年、当時高校3年生だった女性が交通事故で頭を打ち、阪大病院に運ばれた。女性は脳死寸前と診断される。もし、ここで以後行われる低体温療法が医師の念頭になければ、比較的速やかに、第1回脳死判定(積極的治療の放棄)、第2回脳死判定という手順へと進んだでしょう。
実際は、体全体を低体温に保ち、特に脳は低温に保つ低体温療法が医師の念頭にあったため、低体温療法の『実験』に踏み切った。こうした実験に踏み切る決断が出来たということは、『脳死』状態と診断してもよい状態だったと推測しうる。脳死なのか脳死寸前なのかは、一重に、診断する医師の主観内にあった。家族がこの療法に同意する状況というのを考えてみれば容易に推察がつくでしょう。
その後40日間入院した女性は寝たきりで言葉もはなせなかったが、退院し、その後8つの病院を転々とし、リハビリや手術を繰り返した。現在は、左半身に一部障害が残るが、一人で歩ける程に回復している。
「治らない患者にベッドを占有させられない」と嫌がらせを受け、転院を余儀なくされたエピソードや、逆に理学療法士に励まされて辛いリハビリを続けられた話などを聞くなかで、飯塚さんは、「医者がかかわっているのは、患者さんのほんの一時期の一断面でしかないことが分かった。」と語っている。
センセーショナルに移植によって助かる患者がいるとキャンペーンするマスコミの姿に対する痛烈な批判が客観的に示されている。
移植によって助かるという前提そのものを疑ってみもしないマスコミ。移植によって助かるというのは、前提ではなく、単なるある医師の見立てに過ぎない。移植後の患者の余命調査すらしない。移植ではない治療方法の確立という視点から、どういった技術が試みられているのか、どういった技術に多額の資金援助をすることで、その発展が早められるのか、こうした姿勢などマスコミにはないし、また、そういった丁寧な取材をマスコミに求めることが幻想に過ぎないのかもしれない。商業主義を排する努力とのかけ声も、具体的事物との緊張関係抜きには不断に空文句になるのは、物事の理というものです。実際に丁寧な取材をしたのは飯塚さんという個人で、この人に会って取材してすら自らの取材姿勢を省みることの出来ないマスコミの姿が浮かび上がっている。
こうしたマスコミが実際に張っているキャンペーンはおよそ以下の通りです。「脳死患者は助からない」「臓器を移植されることで助かる命がある」「心臓死後の臓器移植よりも、脳死段階での臓器移植の方が定着率がよい」「臓器を無駄にするな」「移植に反対するのは、移植によって助かる患者への反人道主義的な立場である=移植によって助かった患者=美談=臓器提供者の高いヒューマニズム」
「脳死患者は助からない」という前提そのものへの批判はすでに簡単に述べた。技術の発展方向の問題の項で、再度詳しく述べたい。「心停止後の移植よりも脳死段階での移植の方が良い」という前提も、前稿で批判した通り。99年5月13日に二例目の脳死臓器移植
が行われたが、移植された心臓と腎臓は脳死である必要などない。
「臓器を無駄にするな」に至っては言語道断。臓器を完全に部品として見ている。全ての死者の臓器は、移植に使えるものは使わない限り、確かに「無駄」です。一人の人格として、その死を悼み、死者を弔うという思想は、確かに部品思想から見る限り、使える臓器を無駄に焼却してしまうもったいない行為です。さて、どちらがヒューマニズムなのだろうか。
実際に進行している事態を挙げよう。今や世界的に行われている後進国から臓器を買い付ける臓器売買の現実。米国で行われている臓器目的のための妊娠契約と堕胎児の売買。幼児の誘拐と売買。買われた幼児の臓器摘出。
一体この事例のどこが美しいヒューマニズムというのだろうか。これらの事例は決して特異な事例ではなく、1000をゆうに超える。フィリピンでは、服役囚が臓器を売れば、現地では10年分にあたる収入を得た上、残りの刑期がなくなる。こうした「手厚い」社会的制度まで出来ている現実をどうして報道せず、どうしてこうした現象が生まれるのか、その根拠に遡って検討しないのか。マスコミは臓器移植の思想そのものが臓器売買の現実を生み出すと捉えることすらできない。
「美しい臓器移植」、訳の分からない臓器売買の現実。これがマスコミの姿でしょう。
さて、飯塚さんのレポートはそれ以上のことを提起している。
マスコミは移植されて助かる人の命という恣意的な構図を作り上げ、ドナーカードへの登録を献血にも似た美しい行為であるかのように宣伝している。移植に反対する人々と移植を求めさせられている患者との利害を対立構造として描き出している。『「鼓動」つないだ90分 望み託し感謝重ねて』。
だが、飯塚さんのレポートは脳死患者が助かるという構造を提起している。脳死患者が助からないとされているのも医療技術の現水準がそう規定している(その当否は別として)。であれば、移植によってしか助からないとされているのも医療思想・医療技術の現水準がこうした状況をもたらしているに過ぎないのだ、という提起です。
移植を礼賛する人は、「脳死」患者の命を奪うことを主張しているのだという提起です。ここにいたっては、マスコミの「移植によって助かる命」という美談キャンペーンは完全に破産している。脳死臓器移植に反対する人はヒューマニストではないかのような意図的に対立させられた図式に陥れるキャンペーンは、脳死臓器移植を要求することは脳死患者をたくさん要求する脳死患者の命を奪うことを主張するキャンペーンだと突きつけられている。
マスコミの皮相なヒューマニズムの化けの皮が剥がされてしまった。
事態はヒューマニズムというタームで考えることの無効性を示している。
さて、もう一つの技術の発展方向の問題として、これまた、「恐ろしい」方向だが、胚の生成誘導という方向が現実の問題として考えられる。
胚の生成を誘導することによって、例えば皮膚の一細胞を取って、目的の臓器に生成していくということは原理上可能です。こうして生成した臓器を使って臓器移植をすれば、この臓器は元々自分の細胞であった以上、自己移植ということになり、拒絶反応の問題をクリアできます。
ところが、いったんこの道を歩み始めれば、クローン人間を "つくる" ことは簡単なことです。すると、臓器を "作って" 患者を "助ける" か、全く同じ遺伝情報を持つ生体全体を生成させるのかという奇妙な選択 "権" を手に入れることになる。「やり直しのきく人生!」?!。
臓器移植という思想自体が必然的・根源的にこうした皮肉に満ちた戯画を次々に生み出し、突きつけていくのです。
そもそも生物は、個体保存よりも環境の変化を内部に取り込むことを優先することで生命体保存をすることを選択させられた。環境が全く変化しなければ、無性生殖による分裂で自己増殖と自己保存とを貫くことができる。ところが地球(星・宇宙)自体が不断に変化し続ける以外には存在しようがない。存在するということ自体が、変化し続けるということを内包している。また、生物の存在自体が環境を変化させてしまう。
そこで、生物は環境の変化に対応することを「余儀なく」されたのです。生物は環境の変化を内部に取り込む最初のステップとして性と寿命を同時に "獲得" し、次に、環境の変化を遺伝情報として生殖細胞に取り込む方法を獲得したようです。
臓器移植の思想は、こうした生命の全歴史を否定しようとし、『存在するということは変化するということだ』ということ自体をも否定しなければならない思想体系なのです。では、『存在することは変化することだ』ということを否定できるのか? 言葉上でしかあり得ない。また、臓器移植の思想が生命史を否定しうる体系を体系として持てるわけでもない。
臓器移植の思想を一刻も早く否定し、今「移植で助かる」あるいは「移植でしか助からない」とされている患者を助ける技術を発展させることが肝要です。そうすれば、「助かる患者がいるじゃないか」という一見ヒューマニズムにたったかのような反論自体が成立する基盤がなくなるのです。
技術の発展方向の問題が大切なのは、こうした理由からです。
(以下つづく)