ついに行われた脳死臓器移植について(2)
渋谷一三
213号(1999年5月)所収
3. 臓器は部品たりえない。拒絶反応の本源的必要性との矛盾
臓器は部品ではない。最も単純と思われる心臓を例にとってこのことを見てみよう。心臓は体中から老廃物を含んだ血液を集め、肺に循環させることで二酸化炭素を排出し、酸素を取り入れる。ここから体循環をさせる。体循環の一環の中で腎臓に経由した血液が濾過されミネラル分を中心にする老廃物を血液中から放出する。さらに門脈を経由する中でアミノ酸やブドウ糖、ミネラル・ビタミンなどを吸収する。
単純なポンプ機能のようだが、運動時には速く動いて代謝を速くして必要性に応えている。このことに象徴的に見て取れるように、老廃物が多く存在しているかどうかをチェックし、血液中の栄養素が不足していないかどうかをチェックしている。さらにその状態によって微妙に拍動の速さをコントロールしている。もちろん精神的ストレスにも対応してその速さを変えている。
これらの機能は体内のあちこちにちりばめられているセンサーとの連動によってはじめて可能であり、これらの情報を統合し判断し指令しているのが脳ということになる。
このため、脳が人格や体の中心をなしているのであり、体内の各臓器は部品に過ぎないかのような思想が生まれる。
現在の人工心臓は、体内のセンサーから送られてくる情報をキャッチできず、脳からの指令もキャッチできない。これが可能ならば、その指令に応じて拍動を変えることは比較的簡単だろう。臓器移植に頼らなければならないとしているのは、要するに、この体内の各部から送られてくる情報や指令のキャッチが出来ない=この仕組みがよく分かっていないという点にある。
この仕組みが分かったとすれば、臓器移植は必要ではなく人工心臓による代替が可能かも知れないし、もっと言えば、自分の心臓で十分ということになる。
さて、臓器を移植したとすると、ここで不都合が生じる。拍動を速めろという指令に対し、すばやく反応することが出来たとすると、体の大きかった人の心臓が速い拍動で大量の血液を送り出すことになる。はたして各部の毛細血管はこの圧力に耐えうるのだろうか。大動脈ですら過剰な圧力に耐えうるのか。肺は大量の血液の酸素・二酸化炭素の交換を為しうるのか。十分に為し得ずに再び体循環に回った血液の二酸化炭素濃度はどんどん上がって行くことになる。これが、指令センターと目されている脳に与える影響は? 脳の血管の圧力上昇は脳への悪影響をもたらしはしないのか?などなど。
逆に、体の小さかった人の(あるいは今回のように女性の心臓を男性に移植した場合)心臓を移植した場合、拍動を速めろという指令は消費される酸素を十分に補うには遅いことになる。
比較的単純な機能と思われた心臓を例にとってみても、ある人の心臓はその人の肺・血管・腎臓などと協調し合って成長してきたのであり、協調しあって微妙なバランスの上にその「単純」な機能が成立していた。決して部品ではなかった。
肝臓は心臓の比ではない。まだまだ分からない謎の臓器だが、分かっている機能の一つとしての解毒作用を例にとって見てみよう。
この作用も、分かっているとはおこがましくてとても言えないが、現在分かっている範囲で言うことにする。
肝臓は体内に進入した自己以外の蛋白質を識別する。細菌感染ばかりではなく、口から入る食物としての蛋白質も例外ではない。自分の蛋白の形を凸とすると、凹の形を持っていて、これにぴったりとははまらない蛋白を全て無害化して排除あるいは取り込む。
肝臓を移植した場合、肝臓はAさんのものだから、移植されたBさんの体全体が「敵」と認識される。このため大量の解毒酵素を製造し続けることになる。これは肝臓に大変な負担をかける。そして、製造された解毒酵素はBさんの体全体を攻撃し続けることになる。
このため、移植を受けた患者は12時間に一度、必ず、免疫抑制剤を服用しなければならない。それも生涯。
では、免疫抑制剤を服用し続ける面倒さえ厭わなければよいのか。問題はそう単純ではない。免疫抑制剤を服用し続けるということは、体外から進入する細菌や自分にとって有害な蛋白質にさらされ続けるということを意味する。ずっと無菌室に隔離され続けない限り、原理上は種々の病気に対して無抵抗に近い状態なのです。このジレンマを取り除くことはできない。
肝臓に至っては、部品思想は完全に敗北している。
4. 実験の場を得ても認識を得られるか
近代思想のもう一つに実験の思想がある。
条件を単純にして実験してみれば、その他の要因の影響がなくなるから、ある一つの要素の振る舞いを観察することが出来、したがって、ある要素の立ち居振る舞いに付いての認識が得られるという思想です。
粒子の運動を研究するニュートン力学の間は、実験の思想はさして問題にならなかった。しかし、量子力学の問題は、最初に観察不能の問題を提示した。観察しようとすれば観察の行為自体が対象に影響を与え、実験思想の根本的前提であった単純化が成立しない。見ようとしたら光などを当てることになる。それが見たい対象に影響を与えてしまうという問題でした。
量子論の確率の考えにとりわけ思想の根幹を否定され、自己の存在そのものへの不安すら覚えたアインシュタインでも、実はこの問題には逢着している。彼は、相対論を進める中で、思考実験と言う手法を編み出し、幾度も多用している。宇宙という実験のしようの難しい領域を対象にしたのだから、こうする以外にはなかったでしょう。
思考実験という手法は、現在までに知り得ている「法則」を当てはめてみて推測した結果と実際に知り得ている事実との間に矛盾が生じないかどうかをみるという手法です。これは既に実験という手法の限界を指し示している過渡形態です。
量子論は確率という手法で、当初便宜的に事態を描写しました。例えば、私が今ここに存在する確率は何%といった具合です。もちろん、私といった巨大な物体の場合、こうした確率は限りなく100%ですが、量子という微小レベルでは、33%とかいった確率的表現がぴったりのことがたくさん出てくる。このクオークがある位置に存在する確率は33%で、速度は66%の確率で秒速3万キロとかです。
アインシュタインは、便宜的描写を過程では認めるにしても、本質そのものが確率的だということは断固として受け入れられなかった。実験思想が成り立たなくなるからです。このことに気づいて、頑迷と言われても反対を貫いたアインシュタインの理性は立派という以外にはない。一方で実験思想を持ったまま、存在そのものが確率的だと主張する人々の自己矛盾には我慢ならなかったのでしょう。
<どうなるか分からないのならば、実験は成立しない>
今日の量子論の教えるところでは、対象そのものがあいまいで不確かで、どうなるのかは分からない。だが、どうなるかわからないにもかかわらず、そのどうなるか分からない度は確率的に表現可能なのだという何とも「変な」事態なのです。
確率的に表現できるのであれば、どうなるのか分からないとは言えないではないか。人類がただその過程を知らないというだけではないか、というのがアインシュタインの立場です。だが、実際は、やはり対象そのものがどうなるか分からない。どうなるか分からないにも拘わらず、マクロとしてはその立ち居振る舞いの確率を表現できる。このことを矛盾なく受け入れる妨げとなっているのが実験の思想です。
実験の思想の根本に、ある対象は法則性あるいは本質というものを持っていて、複雑に絡み合っているからこそ偶然に見え予見不可能にみえるが、事態を単純化すれば対象の本質が分かるはずだという考えがあります。だからこそ、どうなるか分からないのは、対象への作用がたくさんありすぎ、その作用の「偶然性」に左右されるから分からないのだ。厳密に言えば、偶然それ自体も必然の連続として原理的には描写可能なのだ、という結論がでてくる。
事態は実験の思想の限界を示しており、実験思想の終焉を意味しているのだが、実験思想の終焉を両者ともに自覚していない。
医学に於いては、この自覚は皆無といってよいほどです。もちろん、近代西洋医学の限界に気づき、その近代思想の終焉をはっきりと認識し、嫌気すら覚えている人々はたくさんいる。こうした人々は臓器移植反対を早くから唱えています。
このことを理解するために、もう一度アインシュタインに話を戻したい。
彼は全てを相対化し絶対的なものは何もないという結論を打ち立てた。このことはコペルニクスにも匹敵するキリスト教への(宗教一般へのではない)挑戦だった。キリスト教はコペルニクスの時とは違って、宇宙論については語っていない。だから、キリスト教の具体的教義と矛盾することはなかった。他方、絶対を否定しつつも、それは物質の運動という領域にのみ限定されている。尤も、相対論から論理的必然として導かれた宇宙観=空間と物質は同じであり、物質は空間の凝縮体にすぎないから、質量の大きな物質の周辺では空間それ自体が歪んでいるはずだ=という提起が、太陽の後方からやってくる光の屈折度によって正確に予測値通りの結果が観察される事態にいたっては、物質の運動のみに限定された世界観だというのは当てはまらないと思うのだが。
このことがアインシュタイン内部で矛盾として映らなかったのは、彼は、法則性という絶対を信じていたからです。絶対は絶対なのだから、そうたくさんあってはかえっておかしいというものだ。絶対という概念と相対という概念の矛盾はかくして回避され、彼個人も敬虔なキリスト教徒として生涯を終えたらしい。らしいというのは、ユダヤ人たる彼が、何らかの政治的圧力・社会的圧力と無縁でキリスト教徒になったのか、私個人としては疑問が残るからです。
位置を確定しようとすれば速度や質量がわからなくなり、速度や質量を確定しようとすれば位置が分からなくなるという不確定性原理、その観察版としてのシュレジンガーの猫(ある光は上の穴を通ったとも言えるし、下の穴を通ったとも言える)問題、相対と絶対という概念の「相対性」など、これらの事態の理解には、弁証法が不可欠となる。弁証法一般の講義ではなく、認識の問題を哲学の領域で検討する作業が、この後、ヨーロッパでは真剣に継続的に行われている。このことは後述する。
医学の領域において、実験の思想が真剣に検討されたことは皆無で、嫌気をさした人々は、実践的に実験の思想を否定した上で、新しい医学を目指して歩みを始めている。これはこれで大変に素晴らしいことなのだが、「医学界」は、おかげさまで実験の思想に乗っかって旧態依然としていられるし、そればかりか、遺伝子をいじくり回し、臓器移植を愉しんでいることができる。
(以下つづく)