共産主義者同盟(火花)

[研究ノート]教育論の新しい動きと公教育制度の未来

斉藤隆雄
212号(1999年4月)所収


1 はじめに

 昨年末、公立学校の新しい指導要領が公表された。2002年には公教育が完全週五日制となることに合わせた措置であるが、これと符合するようにマスコミの新しいキャンペーンが始まっている。いわゆる「学級崩壊」と呼ばれる、主に小学校を中心に広がっている現象に対する、何とも不可思議なキャンペーンである。一昔前の学校批判や管理教育批判は影を潜め、道徳教育や家庭の役割などが取り上げられ、保護者の学校への参加などが高く評価されているようである。これらの一連の動きは、90年代以降の子どもたちの変化に規定されて、これまで依拠していた子ども観の転換を強いられた一つの現れであると考えられる。その意味で、戦後の公教育制度がパラダイムの転換を迫られているということでもある。
 しかし、何が変わったのか?何が進行しているのかということは未だに明らかになっていないし、また今何が求められているかということも、明らかではない。なぜなら、この問いに応えるには従来の教育論と呼ばれている領域の全体を、ひとまず徹底的に粉砕しておかねばならないからである。これまでのどのような教育論も全く用をなさない事態が進行していると言うことを確認して初めて事態の端緒に取り付けるということなのである。

2 子どもの変容

 改めて繰り返すこともないが、子どもの変容については既に70年代中期から進行していた。中学校の荒れについては世代的には一巡している。時代的に遡ってみると、70年代末に、金属バットで両親を殺害した高校生がいたし、「少年非行」「家庭内暴力」がこの頃から話題にあがり始めた。また、80年代に入ると登校拒否、不登校、いじめといった現象が社会現象として報道されるようになった。これらは、偏差値教育が原因だの、学校の管理教育が問題だのといった批判が流布され、政府・臨時教育審議会が公教育体制の再編を探り始めた時期であった。既に70年代に高校進学率が90%を超えて、むしろ高校中退が問題化していた。この時期は、中学校の窓ガラスがほとんど割れて、サッシだけの寒々とした校舎が時代を象徴していた。
 では、90年代に進行している事態は、これらの過去の事象とどれだけ違うというのか。確かに、一つの象徴的な事件は、2年前の神戸における生首事件であったろう。またその後に続く教師殺害事件や子どもの傷害事件が従来の子ども観を揺るがしたと言われていることは確かである。しかし、これらの事件や事象はそれ自体が教育制度や公教育とどういう関係に立っているのだろうか。まずはそこから問いを始めなければならない。
 教育を巡る論調が変化してきたのは、このような子どもの変容によって、従来教師や学校の指導がまずいから、あるいは学校制度が不十分だから子どもが荒れるのだといった理屈が通りにくくなってきたことによる。校舎破壊は学校批判の現れだと言っていたのが、子ども同士の暴力事件や悪質ないじめが横行し始めると、学校・教師批判だけでは説明がつかなくなってきたのである。実は、子どもの変容は学校の問題ばかりではないという当たり前の事実が、子ども自身によって暴露されたということである。

3 教育論のパラダイムチェンジ

 80年代から、教育を巡る論調の中にいくつかの新しい潮流が生まれていた。その中でも注目すべきものの一つに、学校における労働の規定を従来の労働力商品の再生産や人間の生産といった論点に対してサービス労働説として対置した批判である。もう一つは、工業先進国における都市問題や第三世界の開発の問題から、学校や病院が現代社会の病理現象となっているという批判である。これらの先行する理論的な成果から、新しい学校論がいくつか生まれてきたが、その中でも現在の日本の学校状況と戦後の教育言説に対する批判として注目に値する動きが見られるようになった。
 一つは埼玉教育塾という教師集団である。後に「プロ教師の会」という名称に変更されたようであるが、いわゆる底辺校と呼ばれる学校での子どもたちの「荒れ」に対する「強い指導」を支える理念として展開され、一つの統一された言説として登場している。この会の中心的な人物の一人である諏訪哲二氏の書物は、これまでの教育界における生半可な子ども中心主義や政治的な潮流とは一線を画しつつ、現場の教師という強みを生かした、三文へなちょこ評論とも違う独特の論説を展開してきた。
 そして、もう一つは諏訪氏とお互いに近しい関係にありながら、論戦をする対象を戦後民主主義教育派に定めて辛辣な批判を展開している小浜逸郎氏がいる。この二人の人物はいずれも80年代に登場し、当時臨教審が展開していた教育制度改革論議と平行して注目を集め、90年代に入ってはっきりと子どもの変容が明らかになってきてからは、公教育制度の縮小・解体への方向性を示し始め、今回の新しい制度改革と共通項を有しながら現在に至っている。
 彼らの功績は、明らかに戦後民主主義教育派への批判であった。しかし、彼らの意義は同時に進行していた臨教審の論議や自由主義潮流の言説と平行していたこともあって、見えにくくなっていた。また、諏訪氏自身も自著の表題に命名しているように、表面的には「保守反動」と区別がつかないものであったことも事実である。今回彼らの言説を取り上げることで、現在進行している子どもたちの変容とそれを巡る様々な動きを分析する手だてとしつつ、これからの学校制度の未来をも垣間見ていきたい。
 まず初めに、彼らがどのように戦後民主主義派を批判しているかを見ていこう。

4.小浜氏の民主主義教育批判

 小浜氏は現在は哲学的な領域に手を伸ばして、教育論議には一定距離を置いているようであるが、彼の教育論が最初に姿を現したのは1985年の『学校の現象学のために』においてであった。彼がここで展開した批判的言説の業績は戦後民主主義教育の一翼が常に持っていた子供観を徹底的に叩きのめしたことであった。林竹二、斉藤次郎、灰谷健次郎、石井和彦、山本哲二などが常に子どもを絶対的な存在に祭り上げることへの怒りをぶつけたのである。

「『すべての子どもが教育の権利をもっている』などというのは、公教育制度を美辞麗句で飾った単なる理念的表現にすぎず、そんなものは、現にやる気をもたず、しかたなしにしか教室にすわっていない子どもの心的実態というものを少しも表現してはいないのである。もともと、『権利』というものは、商品交換や言語と同じように、個体の意志の実現として行使されることにおいて初めて成り立つのであって、初めからどこかに存在しているのではない。そういうものがあらゆる人間存在にアプリオリにそなわっていると考えられるのは、法治社会が生み出した一種の錯覚なのだ。」(p37-38)

 権利を商品交換や言語と同じレベルで論じる所に、彼の限界を感じるが、しかし彼の言おうとしていることはそこにはない。彼が執拗に「民主派教育論者」を批判するのは、80年代に繰り返された学校批判の中で、現実を直視しない倫理的な「理想主義」の教育論が横行していたことへの怒りであった。
 彼が批判する具体例をいくつか引いてみよう。林と灰谷との対談集から林竹二が、「予習をして来ない子−その中には、したくても予習などということがとてもできない境遇におかれている子もいる−を締め出したまま授業をすすめる権限を、誰が義務教育学校の教師に与えたのか。云々」という言説に対して噛みついている。

「いったい林翁は全国の小学校を巡りながら何を見ていたというのだろうか。公立小・中学校の授業が予習をして来た子中心に行われており、極く限られた少数の子どもたちだけに座る場所が用意されている?俗耳に入りやすいこうした道徳的断罪がいかにデタラメなものであるか−現在の公立小・中学で、私の授業は予習をして来なくてはダメだなどという教師はまずほとんどいないし、生徒が予習してくるであろうなどと期待する教師もいない。」(p54)

 林が見ている学校観は、かつて部落解放運動の中から生まれた解放教育運動や、もっと遡れば戦前の「つづり方運動」の時代の発想をそのまま現代に適応しようとしている所に無理があることを、彼は鋭く突いている。林に代表される民主派の子供観は、この「清く貧しく美しい」時代の思いこみから来ていることは明らかである。彼は、子どもが常に「学習することを欲している」とするルソー的な理想主義をも批判する。

「子どもは別に少しも『心から学びたい』などと思ってもいないのに、『すべての子どもは学びたがっている』などと、現実に対する自己欺瞞を決め込むことも平気で許される。」

 もう一つ、例を挙げておこう。彼の山本哲二への批判は、山本からの反批判があり、91年の『症状としての学校言説』においても、再論されている。彼は、山本が『教育の分水嶺』の中で、次のように教育批判を行っていることに噛みついた。

「・・・自分の子どもが100点取ってきたとすると、嘆かわしいことなんです。零点取ってきたら、大いに喜ばなきゃならない。つまり、生産性に組み込まれていないから零点を取ったわけで、生産性に組み込まれたから100点取った −それだけのことなんです。・・・
 自分の子どもが数の計算ができないと、すごく悩むはずです。漢字が書けないと、すごく悩むはずです。ところが、僕なんかの場合、悩まないでむしろ喜んじゃう。そこまでいったとき個人の教育宗教に対する信仰というものは崩れていると思うんです。」

 山本のような教育論は、特に全共闘時代の親に一定の影響力を持ったことは確かだろう。学校で教授される文化がいわゆる資本主義的な生産に供される知識の体系であり、零点を取ることこそ革命的であるとする漠とした姿勢があっただろうと思われる。しかし、山本の論理に現代の科学が持っている文化性や体系への批判が込められていたとしても、その文化への信仰は教育論ではなく、文明論という領域で論じられなければならないだろう。だから、小浜の批判がどういうものが想像がつくだろうが、とりあえず引用しておこう。

「私はこういうバカげたことを平気で口にする思想体質というものを絶対に信用しない。…いったいこの世の中に、子どもが0点とってきて喜ぶ親がどこにいるか!とどなってすませたいところだし、大衆の抱えた課題の切なさというものに対してただ極端な異をとなえるだけで、少しもそれと格闘していない傲慢な放言、と決めつけで終わりとしたいところだ…」(p96)

 対極にあるように見える「民主派」と「左派」とが教育論という領域では同じ根を持っていたということを彼は見事に暴露している。山本哲二の教育論はイリイッチなどの第三世界で活躍している社会学の理論的成果を日本に導入しようとしている、いわゆる先進国文明批判の一派であるが、彼が小浜に批判を受けざるを得なくなったのは、先進国の教育制度とその現実の分析に失敗していることでもある。二人の論争についてこれ以上深入りするのは、論旨から外れるが、山本が小浜のことを「市民的認識図式」でしかないと反批判したことを記しておこう。それに対し、小浜は社会分析を対置せざるを得なくなる。

「…社会関係においては、制度が役割を決め、そしてその役割にしたがって実際に人と人とが関わりをはじめるのだが、その制度のきめた擬制的役割関係を常に実質的に破る可能性をひめたものが、『自然的』な関係なのであり、いわば私たちは、…この擬制的関係と自然的な関係との二重の可能性の重なり合いをゆれ動きつつ生きているのである。」(『…学校言説』p63)

 彼の社会分析については、また後で述べるとして、ここまで来れば分かるように教育を論ずることが常に到達する一つの地平がここにあることを確認しておこう。つまり、教育理論が必ず社会理論へと導かれて、決着の場を移さざるを得ないと言うことなのである。

5.諏訪氏の民主派批判

 さて、もう一方の論客諏訪氏の批判を見てみよう。彼もまた、戦後民主主義教育の理念である平等主義や子ども主義に対する批判を様々展開しているが、その一例を取り出してみよう。93年に書かれた『学校の終わり』で、「平等はいじめの温床である」という一章を設けて次のように言う。

「強い者、弱い者の差が明確であり、真面目な者、不真面目な者の差が明確であるような、さまざまな個性がそれなりの位置を占めている生徒集団は、ここ二十年ほどで徐々に変質していった。もちろん、これは市民社会の変容と軌を一にしている。『みんな同じ』でなければならないという大量消費社会のもたらした平等感覚が生徒たちをも脅かしている。」「こうした平等への志向が個人の『権利』の絶対的な擁護に行きつくことによって、学校社会における生徒と生徒の関係性や、教師同士のつながりの質が変容し、腐敗しつつある。」(p91/107)

 彼の民主派批判は、小浜氏のような理念的な分析の方向ではなく、どちらかというと教育ジャーナリズムとでもいうマスメディア論調を意識したものが多いが、その分平明である。彼は、教師は権力者であると公言してはばからない。そして、学校では生徒は権利が制限されていると説く。「学校における生徒の無権利状態とは」と問うて、次のように言う。

「学校では、朝生徒がひとたび校門をくぐったら放課後まで校外に出さないのが普通であり、どんな内容の教育をするのか生徒の意見を聞かないのが普通であり、授業がいやになっても、勝手に退室できないのが普通であり、生徒が教師を選んだり辞めさせたりできないのが普通であり、小中学校では昼食時以外はものが食べられないのが普通であり、食べられるのは給食だけでアメやジュースなど論外であるのが普通であり、授業中にお腹が痛くなってもトイレにすぐ行かせてもらえないのが普通であり、とにかく生徒にとってはかなりの自由が妨げられているのが普通である、ということだ。」(同p28)

では、何故学校とはこんなところなのか、ということになる。

「もともと、『教える−学ぶ』関係は権威−従順という非対称的なものである。つまり、教師と生徒の日常性はこの『権威−従順』という非対称的な関係でまずできあがっている。これが仮に対称的なものであれば、生徒たちは『学ぶべきもの』を自ら『識別』しなければならない恐ろしい困難に直面することになり、教育という営みは成立しない。つまり、生徒が教師に対して従順でなければならないのは、教育を必要とする人類史の社会的コストのようなものである。」(『学校に金八先生はいらない』p48)

 つまり、教育そのものがそういう権利の制限を必要とするものなのだ、という規定に立っているのである。
 かくの如く彼の平等主義、戦後民主主義に対する批判は教育の何たるかを解き明かすことで一応の完結をみる。そして、学校で吹き荒れている子どもたちの反乱とそれを支えているように見える『人権教育』なるものをその現れている表層として解剖してみせるのである。しかし、彼は小浜のように社会理論へと問題を発展させず、常に学校現場へと問題を回帰させる。つまり、彼にとっては公教育制度の中の子どもたちこそを言説の中心に据えなければならないという構えを、現役教師らしく持続させている。とは言え、公学校体制が今や危機的状況であることを、そしてそれを取りまく教育理論や行政、ジャーナリズムと市民、親、更に教師自身が既に危機にあるということを執拗に訴え続けている。
 この危機の源泉は彼によれば、戦後民主主義そのものであるということ、戦後の日本社会が辿った道そのものであるとしている。

「戦後的な理念を体現した自立的な個人が登場する前に、いかなる共同性をも拒絶する消費主体としての個人が市民権を獲得してしまったのである。大量消費社会、大衆社会に適合した主体性が確立したといってもよいだろう」(『学校の終わり』p40)

 彼の戦後的な自立主体としての個人のイメージは、戦後民主主義の理想型として観念されていた個人であったが、時代が生みだしたものは「消費主体としての個人」であったというのである。彼が日々直面している子どもたちの行動から見て取れるものは、コンビニやハンバーガーショップでの消費者としての個人であって、彼らはまさに「王様」として振る舞う商品購買者であることを直感的につかみ取っているのである。
 であるからこそ、彼は戦後民主主義教育論が振りまくお子さま主義の仮面を被った学校理想像を打ち壊すことに必死なのである。

6.危機の本質

 二人の言説が戦後民主主義教育論を徹底的に批判していることを評価した上で、なおかつ検証が必要なのは、自由主義教育論やフリースクール等の実験派とどこかどう違うのかである。現在の教育を巡る複雑な諸潮流を概観することで、それに答えていきたい。
 政府文部省は、新たな指導要領に見られるように復古主義とポストモダンの折衷でこの事態を乗り切ろうとしている。「総合学習」という名目で情報や環境という従来の教養主義にのってこない課題に指針を示す一方、国旗国歌法制化の動きも急速である。他方で民主党系組合は、この動きに対して「人権教育の言葉がない」という批判しかできない状況である。自由主義派は教科書問題で戦後民主主義派を批判したが、進行する子どもの脱学校の動きに対してはお門違いの教師批判か、復古主義に回帰するしかないようである。このように見てくると、小浜・諏訪の位置はどこにあるのだろうか。
 小浜は『症状としての学校言説』(91年)に公教育に対する具体的な改革案を提起している。

 「1.公的な義務教育機能の縮小
   ア、現在の六三制を廃止し、七年制ないし八年制の『初期スクール』とする。
   イ、必修授業時間を午前中のみとする。
  2.民間教育機能の多様化と質的量的な充実
  3.教師の待遇改善と職場環境の充実…」(基本的な部分だけ抜粋)

 これを見ると、彼自身も指摘しているように、94年に出た経済同友会の学校改革案と多くの点で酷似している。つまり、小浜の分析からは学校民営化路線が出てこざるを得ないのである。国家が教育から撤退すべきだと提起しているのである。子どもたちの脱学校の動きを趨勢として受け止め、公学校機能を縮小して、文化の相対主義に依拠しようとしていると思われる。これは、企業の側からすると教育産業という市場の新たな拡大を意味していることになるし、今ある様々な専門学校や塾産業が一定の市民権を獲得し、企業の社員研修との連携を模索できるだろうし、大学等での専門的な技術開発研究への参入を容易にするだろうことは予想できる。これは、彼らにとって願ってもない改革案であるように見える。そして、少なくともこれまで民主主義派の教育論はこの教育の市場化に対しては強固に反対してきていたのであって、小浜もそれを意識しながら自らの案を提起しているはずである。
 既に読者も察しがついてきただろうが、この教育の市場化への反対という点で言えば、民主主義派も政府も同じ立場にいたのである。何故このような一見奇妙に見える図柄が現れるかはまた別途の論議が必要となろうが、小浜がこの改革案を提起する際に持ち出してきた人物を見れば、概ね構造が見えてくるだろうと思われる。彼が教育改革の基本にしたのは福沢諭吉である。つまり、彼の言説を私なりに整理して言えば、近代化路線の最先端にあった福沢の教育改革が挫折したのは、日本の帝国主義化路線であって、それが長く戦後の民主主義派にも引き継がれてきた。今こそ原点に回帰する時である、ということなのである。これは小浜が意識化しているか否かは別にして、鋭い指摘であるだろう。公学校体制というのは元々帝国主義時代にこそ成立したシステムなのであって、そういう意味での歴史的産物なのである。だからこそ、資本主義が成熟化し完成されればされる程、この公学校体制は社会と軋轢を生み出さざるをえないのである。小浜はそれを率直に認め、ブルジョアの為の私学体制と労働者のための最低限の公学校体制という本来の近代国家の教育システムに回帰すべきであると間接的に言い当てているのである。
 実にこのことが事態の本質的な姿なのであるが、これは四年前の日教組が出した教育改革プログラムの中途半端な歴史観と人権教育観と比べるなら、数段優れていると言わざるを得ない。何故なら日教組は脱イデオロギーの時代が到来したと喜び、人権と環境を柱とする公学校体制を政府・企業と合い携えて構築するという夢を見ているからである。事態はもっと絶望的なのだよ、ということである。
 諏訪は小浜のように具体的提起をしていないが、彼の場合も現状に対して近代を意識している。

「この国は市民革命を成し得なかったせいかどうか、ついに『個が全体のことを考える』という民主主義の真髄が定着しなかったからである。全体は『お上』であり個を支配するものだという確信が横溢しており、逆に、個の求めるものはいつも正しいという退嬰的な気分が蔓延している。」(『平等主義が学校を殺した』p131)

 彼の言う「民主主義の真髄」とは何かはさておくとしても、彼の現状認識も近代を巡って絶望的になっていることには違いない。未完の近代に対置するものは、生活世界での共同性でしかないというのが、彼の論の結論でもある。

「私たちが現実に生きている生活面は『共同社会』である。勿論、私たちは『共同社会』と『契約社会』の二重性で生きているが、現実に足をおろし、手で触れるレベルは『共同社会』なのである。」(同p132)

 二人の言説が全体の中でどのような位置にあるかが、少し明らかになってきただろうか。企業ブルジョアジーや自由主義派とのポジションの違いは、高度消費社会での孤立した個に対する共同性の復権なのだが、しかし彼らにはその方法が提起できていない。というより、教育を巡る言説にはもはやそれが不可能であるということなのである。
 振り返れば、危機は既に70年代から開始されていたし、彼らが言うまでもなく戦後民主主義派の教育実践はその時点で破綻していたのであるが、彼らのようにはっきりと宣言するまでに十数年を要したのである。そして、それを宣言するということは、教育を国家の呪縛から解き放つことでもあり、同時にそれは教育の市場化以外にはあり得ないということを明言することなのである。

7.公教育の未来

 小浜、諏訪両氏が指摘した子どもの変容を既に20数年前に予感していた人がいたことをつけ加えておこう。

「…高校進学率が80パーセントをこえ、この数字を嘲笑するかのように高校が内部から崩壊しつつある…。かつて高校全入運動を肯定し、これにコミットさえした者にとって、それは自己の諸前提の再点検を迫るものであろう。なにに起因するにせよ、高校教育は現に生徒たちによって、実質的に拒絶されている。」(さとみみのる『学校論の周辺』雑誌「教育労働研究」1976年8号p99)

 さとみ氏はこの時点では、イリイッチやフレーレに依拠しつつ、学校文化に対峙する生活者文化を提起しているが、今日の時点からそれを見ればそれはしょせん小浜氏の言う「ルサンチマン」でしかないだろう。確かに、いくつかの自由学校の実験がなされているとはいえ、労働者の学校というにはほど遠いものであるし、むしろ労働者上層部の贅沢品という観は否めない。
 では、公教育はこれからどうような未来があるのかという疑問に答えなくてはならない。最初に述べたように、最近の「学級崩壊」キャンペーンが政府の教育市場化政策の現れであるなら、我々は教育を市場問題としてはっきりと捉え返す視点を確立すべきである。「個の独立」だの「人権」だのと言う前に、労働者が如何に生活の糧を得ているのかを見れば、脱学校は市場から排除された労働者階級の子弟でしかないのである。
 教育の市場化は、このことをはっきりと目に見える形で人々に指し示してくれるだろう。そこから生活者としての労働、商品、消費といった生活文化の基底的な価値が、協同性の意味が民主主義以前の問題として明らかになってくるはずである。労働者が働き方を変えなければ、教育はどのような意識性も持ち得ないし、どのような変容も成し得ないだろう。公という言葉が、協同性という意味で用いられるとするなら、今日最も協同性が高いものは市場であり、貨幣である。この究極の物象化された資本主義社会の中にあって、子どもたちの反乱はそれ自体として評価するのではなく、一つの現れとして見るべきであり、公教育制度の解体に向けた予兆として感じるべきであろう。




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