共産主義者同盟(火花)

東欧「改革」のつきつけたもの(2)

流 広志
211号(1999年3月)所収


東欧という概念と東欧「改革」の歴史(前号からの続き)

東欧の成立

 前回に簡単に東欧の成立の前史をみてみた。東欧といっても,それを構成する国家の枠組みが成立しただけで,それら諸国の民族構成という点でみても多様で不安定さを抱えた地域であることがわかる。例えば,ルーマニアにはドラキュラの伝説で有名なトランシルヴァニア地方にハンガリー人が多く住んでいる(前出の『東欧の激動史』* の木戸氏によれば約160万人)などである。また,第二次世界大戦の終了の過程で,自らの手でナチス支配からの解放をかち取ったパルチザンを基礎として建国されたユーゴスラヴィアとソ連軍の侵攻によって親独政権が崩壊したハンガリーとソ連に支持された亡命政府系の新政権が成立したチェコ・スロヴァキアでは戦後体制に違いがあった。したがって戦争終結の時点ではひとつのまとまりとしての東欧は成立していなかった。以下,東欧の成立と「改革」の歴史と東欧の終焉と現在を簡単に見ていこう。

* 以下は,同書を相当参照している。

 ポーランドでは,亡命政府のミコワイチク首相と労働者党ゴムウカ書記長が新政権を樹立したが,1947年1月の総選挙で「民主主義ブロック」の統一候補者名簿方式で同ブロックが80%あまりの得票を得たが,10月にミコワイチクは亡命した。
 チェコ・スロヴァキアでは共産党が1946年の選挙で第一党となり,ゴットワルトを首班とする新政権ができた。
 ハンガリーでは1945年11月の総選挙で小地主党が第一党となり,同党のナジを首相とする政権ができた。ルーマニアでは耕民戦線,共産党,社会民主党などの統一ブロックの政権ができた。ブルガリアでは,コミンテルン書記長ディミトロフの指導する労働者党と農民同盟,ズヴェノ人民連盟(左翼知識人や軍人など)などの「祖国戦線」とパルチザンは,ソ連軍の侵攻に呼応して蜂起し,権力を握った。
 ユーゴスラヴィア,アルバニアはパルチザンが全土を解放し,前者はクロアチア出身のチトー,後者はホジャを首班とする共産系政権が誕生した**。

** バルカンの一部であるギリシャでも,大戦末までに共産系のパルチザンがほぼ全土を解放しつつあったが,これにイギリスが武力介入し,内戦に陥った。

 1946年から1947年にかけて東欧諸国では主要な産業の国有化が行われた(ルーマニアでは1948年)。1947年6月,アメリカのヨーロッパの戦後復興に向けた「マーシャル・プラン」が発表された。同年9月コミンフォルム(共産党情報局)が結成された。
 冷戦体制の構築が本格化するにつれて,東欧諸国でスターリニズム体制(あるいは前出のW・ブルスの用語では社会主義の「国権主義モデル」)が導入されるようになる。この時点をもって,東欧の成立とするのが正確である。大体,1947〜8年にこのメルクマールとなる集権化が東欧諸国では進められたからである。
 チェコ・スロヴァキアでは,1948年に,非共産党系を政権から排除し,ゴットワルトを大統領とし,共産党のザーポトツキーを首相とする共産党一党支配を完成する。同年中に,東欧諸国では,社会民主党左派などを吸収して,ポーランドでは統一労働者党,ハンガリーでは勤労者党,ルーマニアでは労働者党,アルバニアでは労働党が結成された。この年の6月に,ユーゴスラヴィア共産主義者同盟は,「右翼的,民族主義的偏向」を理由に第二回大会でコミンフォルムを追放された。
 一党独裁の政治体制が事実上完成すると,1949年から,東欧諸国では,重工業重視の成長を目指す「第一次5カ年計画」などの中央集権的計画経済が導入された。ソ連と東欧各国との主に二国間の経済関係を調整するコメコン(経済協力援助会議)が1月に結成された。この年,東ドイツが独立国家としてドイツ民主共和国の建国を宣言する。東欧諸国では,スパイやチトー主義の容疑での粛清が行われた(粛清の性格については後述する)。
 非スターリン化の試みは,1953年3月5日のスターリン死去を契機として始まった。マレンコフ首相は,重工業偏重政策の是正,生活水準の引き上げ,秘密警察長官ベリアの逮捕と処刑を発表した。それを契機に,東ドイツ・チェコ・スロヴァキアなどで,労働者民衆の暴動が発生したが,駐留ソ連軍の介入でこれを鎮圧した。一方,ハンガリーでは,イムレ・ナジが首相に任命され,労働者民衆への懐柔を試みた。
 しかし1953年から1954年にかけて,ソ連は東欧諸国との合弁企業をすべて解散したり,ポーランドからの石炭の輸入価格が不当に低く押さえられていたのを認めて,その差額分をポーランドに支払った。それによって,ポーランドの債務負担は多少楽になった。
 コメコンは,当初のソ連−東欧の二国間関係を調整するためという目的よりも,地域の多国間経済関係を調整するという新たな目的をもつものとなり,また1955年にはワルシャワ条約機構が共同防衛の目的で設立された。
 1955年にフルシチョフらのソ連の政府と党の首脳がユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを訪問し,共同宣言(ベオグラード宣言)を結んだ。それは,主権,領土不可侵,権利平等,などを確認するものであった。
 非スターリン化を決定的に押し進めるきっかけとなったのは,1956年2月のソ連共産党第20回大会におけるフルシチョフの秘密報告でのスターリン批判である。この報告のフルシチョフの真意がなんであったのかについては諸説あるが,しかしこの報告をめぐって世界の共産主義運動に激しい論争と対立が生じ新左翼が生み出されるきっかけになったのは確かである。とりわけ中ソ論争によって全面的に明らかとなるソ連共産党フルシチョフ派と中国共産党の対立では,スターリン批判とフルシチョフ路線を修正主義として非難した中国共産党にアルバニアが賛同して両者は接近し,中国によるアルバニアへの援助が行われるようになった。1956年4月,コミンフォルムは解散された。

東欧「改革」運動の第一波と東欧諸国

 1956年6月28日,ポーランド西部のポズナンの機関車・鉄道車両をつくるジスポ工場の労働者が待遇改善を要求するデモを開始した。デモは要求にまともに対応しなかった当局に対する暴動となり,市民を加えつつ,放送局,裁判所,警察署などを占拠するまでに拡大していった。これをオハプ政権は,公式発表でも53人の死者をだす厳しい弾圧で鎮圧した。しかし政府側は労働者の要求を正当なものと認め,7月の党中央委員会総会で,生活改善や政治局の人事更迭,労働者の企業経営参加などの「改革」を決定した。駐留ソ連軍の軍事圧力をかけながらのソ連の政治的圧力を国民の支持で跳ね返し,かつてチトー主義者として追放されたゴムウカを第一書記にし,スターリン主義を批判,社会主義への多様な道を公式に確認した。かくしてポーランドの「改革」の第一波は,成し遂げられた。
 ハンガリーの「改革」の第一波は,ラーコシ第一書記をはじめとするスターリニストの更迭を求める知識人や学生の運動から開始された。ブダベストの学生たちは,党指導部の更迭,イムレ・ナジの首相就任,駐留ソ連軍の撤退,複数政党制の総選挙などの要求を発表した。つづいて,ポーランド人と連帯するデモを開始,それに市民が加わって,10月23日には30万人の大集会を行った。ゲレー第一書記によるデモを「挑発者」と決めつけるラジオ放送での発言に激昂し,デモは,放送局前に集まった人々に発砲されたことをきっかけに,暴動へと転化した。人々は武器庫を襲撃し,武装して,治安部隊と銃撃戦を展開,労働者は24日からのゼネストを決定した。
 23日の党中央委員会で,イムレ・ナジを首相にすることを決定,同時にソ連の軍事介入の要請を決定した。24日,ゲレー第一書記を解任,かつてチトー主義者として投獄されたことのあるヤーノシュ・カーダールを第一書記とした。
 各地に革命委員会と労働者評議会が組織されていった。10月28日から30日にかけて,政府とソ連は,複製政党制の容認やソ連軍の撤退や社会主義諸国間の独立,平等,相互不干渉等の確認など,運動側の要求に譲歩していたが,31日になると一転して,ソ連軍が国境を越えてハンガリーへ侵入し,撤退しかけていた駐留ソ連軍もブダベストへ侵攻し,運動側の労働者・市民らと戦闘を開始する。11月1日ナジ首相は,ワルシャワ条約軍からの脱退と完全中立を宣言し国連に訴えたが,4日には党第一書記カーダールは社会主義労働者党の結成と「革命労農政府」の成立を宣言,ソ連の援助を要請した。ソ連軍は,多数の死者を出しながら,11月4日のブダベストの制圧から約1週間で全土を制圧した。ナジは亡命中にソ連によって連行され処刑された。こうしてハンガリーの「改革」の第一波はソ連軍の直接の武力介入によって圧殺された。
 東欧諸国での「改革」は,最初にスターリン主義化,集権化を進めたユーゴスラヴィアで最もはやく始まった。1950年には各企業に労働者評議会が設けられた。その後,自主管理という理念の構築が行われた。1965年には,企業収益の70%を企業に留保することを認め,自己決定権を各企業に保証し,輸出補助金の廃止などで自己責任を企業に求める等,「市場社会主義」に向けた「改革」が進められた。こうした「改革」は分権化とも言えるが,このことが,地域間格差や民族間格差などを拡大するようになったことが,クロアチア・スロヴェニアなどの独立や現在のコソボ問題などを生み出す要因の一つとなったといえよう。
 中ソ対立で,中国の側に立ったアルバニアは,1960年代には中国の援助の下で,反修正主義,スターリン主義擁護の独自路線を進めた。ルーマニアは1960年代には,野心的な重工業化路線を取り,外交的にはソ連と距離を置いて経済的には西側との経済関係を強めながら,同時に民族主義を進めるハンガリー人などの国内少数民族の同化政策として,ルーマニア語の強制などを行った。そして,1965年7月に党書記長となったチャウチェスクはこうした路線に大衆を動員するため,国家行政と党組織の一体化を押し進めた。ブルガリアは親ソ路線を忠実に守り続けた。

「改革」運動の第二波と東欧諸国

 「改革」の第二波はその第一波以降に,ソ連でも体制の根本的変更をともなわない形での経済「改革」などについての議論が活発となったことを背景として,要求がより具体的になっていったことが特徴的である。それは,ソ連でのフルシチョフの失脚とブレジネフへの交代という反動期の中で,進行していった。1962年のソ連での利潤概念の導入を提起したリーベルマン論文をめぐる論争やコスイギン改革,ハンガリーでの1966年のオタ・シク科学アカデミー経済研究所長の「政治改革なくして効果的な経済改革はありえない」という国会発言やユーゴスラヴィアでの前述の「改革」の進展などであった。 
それはチェコ・スロヴァキアで1967年に開始された。きっかけは,この年の6月の作家同盟大会でクンデラをはじめとする作家たちによる体制批判であった。ノヴォトニー第一書記はこれに対して,党員作家を党から除名し,作家同盟機関誌の編集局を解散,情報省の直轄とした。その後,待遇改善を求める学生デモに警官隊が襲いかかり大量の負傷者と逮捕者を出した。これらの措置に対して,ノヴォトニーへの批判が国会でも起こり,1968年1月5日にはノヴォトニーは辞任し,後任にスロヴァキア出身のアレクサンデル・ドゥプチェクが推薦された。ドゥプチェクは,「総路線の転換」「社会主義的民主主義を深化させること,国民をあらゆる形で政治に参加させること,それに対する各種の障害を除去すること」を演説した。3月には検閲が廃止され,4月の党中央委員会総会では,ドゥプチェク指導部は,「社会的創意,意見の率直な交換,社会制度および政治制度全般の民主化」が必要であると述べた。5月には「改革」を訴える「二千語宣言」が発表された。「人間の顔をした社会主義」の理念はこうして生み出された。そして「プラハの春」は全面開花していくのである。が,これに危機感を抱いたソ連は,ワルシャワ条約軍やソ連軍とポーランド軍の共同軍事演習をくり返し,ついに8月20日,ワルシャワ条約軍約5万人が国境を越えてチェコ・スロヴァキアに侵攻を開始する。侵攻軍は,党本部や放送局,官庁,新聞社,駅などを占拠,ドゥプチェクらの改革派を逮捕・連行した。
 ソ連軍の軍事介入に対して,西側諸国をはじめ,イタリアやスペインやフランスなどの共産党,労働組合や知識人,文化団体,などが一斉に非難の声をあげた。東欧諸国では,ルーマニア・ユーゴスラヴィア・アルバニアがソ連の軍事介入を非難し,中国も声を合わせた。
 ソ連の圧力の下で,「改革」運動は地下化を余儀なくされるが,1969年8月20日に介入一周年を示威するプラハ近郊で行われたソ連軍とチェコ・スロヴァキア軍の合同演習に反対する2万人のデモや「介入」に抗議する21日の国民哀悼の日の抵抗運動が組織された。
 ポーランドは,第一波の「改革」運動をソ連の軍事介入や政治圧力に屈することなく成功させた唯一の国であった。しかし国民の強い支持を受けて復活を果たしたゴウムカを中心とした政権は経済危機を克服できなかった。1970年12月12日,政府は,農業補助金を廃止し農産物価格を引き上げるため,牛肉19・1%,パン24%,チーズ25%など46種目におよぶ生活必需品の値上げを発表したが,14日にはグダニスク造船所のストライキ,街頭デモが発生,以後,バルト海沿岸地方の都市にも暴動が拡がった。政府は軍隊を出動させてこれを鎮圧,この責任をとってゴウムカは退陣しギエレクが党第一書記に就任した。
 ギエレク政権は,欧米からの機械,技術,資金の導入によって,ポーランドの工業製品の輸出拡大を図ろうとした。しかし,1973年の第一次石油危機によってその目論見は破綻した。先進国のインフレとソ連の原油価格の引き上げによって,国際収支の赤字と対外債務の増大,賃上げや農産物買い上げ価格の引き上げなどの措置による財政赤字は巨額にのぼった。
 この危機にたいしてギエレク政権は,成長目標の引き下げと同時にイデオロギーを強化することで乗り切りを図ろうとした。イデオロギー政策の点では,ギエレクは党の指導的役割の明記や国名の変更(「人民共和国」を「社会主義共和国」へ)などを内容とする憲法改正案を提案したが,知識人などの反対にあって大幅に後退した形で1976年2月にようやく採択された。政府は,同年6月24日に,肉製品平均69%,家禽30%,バター50%,砂糖100%という大幅な食料品価格の値上げを発表した。これに対して,労働者などは直ちにストライキや暴動を起こした。政府はこれを弾圧したが,それに対して,経済学者リピンスキーや歴史学者ミフニクや作家やキシエレフスキや文学史家リプスらが「十三人の訴え」を発表して政府の措置を非難した。9月27日には映画監督のアンジェイエフスキや元ワルシャワ大学教授のクーロンが加わって,「労働者防衛委員会」(KOR)が設立され,労働者の釈放と職場復帰を訴えた。イタリア共産党などはこれに呼応する動きを見せるなど,事態が国際的な拡がりを見せようとしたことを危惧したポーランド政府は,労働者たちを釈放した。
 1970年代は,ソ連でもブレジネフの保守的反動が東欧諸国にも及んだ時期であった。強権的な抑圧が,それまでの「改革」の動きを封じ込めるために強化された。「プラハの春」が戦車によって踏みつぶされたチェコ・スロヴァキアでは,フサーク政権によって,1969年には指導部から「改革」派を一掃され,1971年5月の党大会で,フサークは粛清を決定し,翌年にかけて「改革」派などを弾圧した。それに対して,イタリア,フランス,イギリス,オーストリア,オランダ,ノルウェーなどの共産党が,フサーク政権の政治弾圧を批判した。このような西欧からの支援を受けて,沈黙を強いられてきた「改革」派は,積極的な発言を開始する*。

* 「七五年四月八日に,劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルは,グスターフ・フサーク共産党書記長に書簡を送り,『市民は一見満足して働いているように見えるかもしれませんが,実際は秘密警察の影に脅え,失職や報復を恐れてそのように振る舞っているにすぎません。・・・・いまでは外見とは逆に,公的な宣伝を信じたり,政府を支持したりする人は,かつてなく少なくなってしまいました』と述べるとともに,つぎのように予告した。『なにかが起こりかけています。それは,政府が予定しているものとはまったく別のものであり,われわれを現在の無関心から救い出し,歴史の声を聞かせてくれることになるでしょう』」

 1975年7月の全欧安保協力首脳会議(ヘルシンキ)で人権問題が協議され,チェコ・スロヴァキア政府が署名した二つの国際人権規約条約が1996年に発効した。これを受けて,哲学者パトチカ,劇作家ハヴェル,元外相ハーイェクをスポークスマンとし多くの「改革」派が署名したチェコ・スロヴァキア政府の人権侵害を告発した「憲章七七」が発表された。政府は,この文章を「反共シオニスト・センターの注文でつくられた」と決めつけ,徹底的な締め付けを行った。それに対して,西ドイツ社民党ブラント政権,オーストリア社会党クライスキー党首,ノルウェー政府,西ドイツの作家ベルやフランスの歌手イブ・モンタンなどの国際知識人委員会,アメリカの指揮者バーンスタイン,イギリス,スペイン,ベルギー,スウェーデン,デンマーク,ギリシャ,などの共産党,ソ連,東ドイツ,ポーランド,ハンガリー,ユーゴスラヴィア,ルーマニアの作家パウル・ゴマらなど,西欧・東欧・ソ連でも具体的な反響を呼び起こした。広範な国際連帯の輪が拡がっていったのである。
 「社会主義陣営の優等生」と呼ばれた東ドイツは,1961年に冷戦を象徴したベルリンの壁を築くと同時に,ウルブレヒト第一書記の下で,サイバネティクスと情報理論を駆使した経済システムを作り上げ,工業化を進めた。1971年5月にウルブレヒトに代わってホーネッカーが第一書記に就くと,西ドイツと関係正常化を進めらながら,同時に,言語は共通だが西ドイツと東ドイツは別の民族であると主張し,青少年に重点を置いたイデオロギー・軍事教育を徹底するようになった。西側との貿易と西側からの融資は急拡大して経済成長をもたらしたが,1973年の第一次石油危機以降は西側への累積債務が膨らんだ(1978年76億ドル,1980年96億ドル)。
 1970年代はハンガリーにとっても後退と挫折の時期であった。1971年4月には部分的に複数候補を取り入れた新選挙が行われた。「市場化」の弊害が現れはじめ,インフレや所得格差の拡大などが目につくようになった。ハンガリーの対外貿易の三分の一を占め,石油,鉄鉱石,木材の90%など原料の多くを供給してきたソ連との関係が悪化した。1974年3月の中央委員会総会は,社会主義意識の向上などの「改革」の後退を決定し,多くの「改革」派の党人や知識人・学者らを要職から追放した。それによってソ連指導部はハンガリーとの関係改善を決定した。第一次石油危機をきっかけに,不況とインフレに見舞われ,対外貿易依存度の高いハンガリーでは西側への累積債務が大幅に増大した。1975年5月にはソ連は原油価格をいっきに2倍に引き上げた。ハンガリーの輸出する機械や食品の価格は15%〜18%であったのに対して輸入する原料やエネルギー資源の価格は52%も上昇した。
チャウチェスクが党書記長について以来,ルーマニアでは,無謀な重工業化の急成長路線が取られたが,それと同時に党と行政機構の「織り合わせ」と呼ばれる一体化を進め,古参幹部の追放,粛清を行った。1974年3月には大統領職が設けられ,チャウチェスクが初代大統領に就いた。同時に古参幹部からなる党幹部会が廃止された。そして,企業・党・行政から中間幹部を減らして上層部の指示が中間を飛ばして直接下部に伝達されるようにしたが,それは下部の人々にとっては中間幹部という手の届く可能性の現実にある上昇の機会を減少させることになるために多くの人々の意欲を失わせるものであり,実際に混乱と停滞を招いた。1976年以降,愛国主義とイデオロギー教育が強化された。チャウチェスクの一族や親戚が国家・党の要職を占めるようになり,チャウチェスク個人崇拝が強化されると共に,一族による権力独占が進められた。貿易関係の重点を西側に移していたために,第一次石油危機や先進国のインフレは同国を直撃し,1980年には成長率は2.5%にまで低下,国際貿易収支は8.5億ドルの赤字,対外債務は70億ドルを越えた。こうした経済危機に対して,ジウ渓谷では炭鉱労働者のストライキなどが発生し,チャウチェスク独裁体制もほころびはじめてきた。また,チャウチェスクが進めてきたルーマニア化(企業・行政の要職からのハンガリー人の追放とルーマニア人への置き換えやハンガリー語学校の廃止や集会でのハンガリー語の使用禁止など)はトランシルヴァニア地方に住むハンガリー系住民の反発を招いた。
 アルバニアでは,ソ連との関係断絶以降,中国との関係を強めていたが,1976年9月に毛沢東が死去し,「四人組」の逮捕など「文化大革命」の清算が中国で始まると,中国との関係も冷却化したが,ホジャ政権は国際的孤立を守る道を選んだ。国内経済は停滞し,イデオロギー政策を強化した。

「改革」の第三波と東欧諸国

 東欧諸国における「改革」運動の第三波は,ポーランドで開始された。既述したように,1970年代に入ると,第一次石油危機をきっかけに東欧諸国では軒並み深刻な経済危機に陥った。成長率の低下,インフレ,所得格差の拡大,対外債務の増大,生産の停滞,消費物資の不足,等々は,東欧諸国に程度の差はあれ共通して現れた。
 そうした状況はポーランドでも同じであった。1980年7月1日ギエレク政府は食肉と肉製品の値上げを発表した。それに対する抗議のストライキが起こったが,8月にはグダニスクのレーニン造船所の労働者がストライキに入った。近隣の工場のスト参加者を加えた「工場間ストライキ委員会」が組織され,電気工のワレサが代表に選ばれた。「工場間ストライキ委員会」は,バルト海沿岸のシュチェチエンやウッチ,ヴロツワフなど各地に拡大した。
 政府は,ヤギエルスキ副首相を派遣し,8月31日,グダニスクでワレサとヤギエルスキとの間で政労合意協定が結ばれた。政府は,独立自主管理労組の設立を認め,スト権と経済政策への発言権の容認,宗教団体のマスメディアの利用の容認,スト参加者で追放された者の職場復帰と学生の復学,賃上げ,食肉の確保,週休2日制,党・国家機関員の特権の廃止や党歴による差別の廃止,などが合意された。9月には独立自主管理労組「連帯」が結成され,その「調整委員会」の議長にワレサが選ばれた。続いて,土曜休日問題と農民「連帯」認可問題が対立の焦点になった。農民は「連帯」結成を要求して運動を起こしたが,1981年5月6日,農民「連帯」を認める法案が国会を通過した。農民は農産物を闇市場でしか売ろうとせず,店頭から食肉などの食糧品が消えた。労働者たちは,これに抗議してストライキなどに突入した。「連帯」は9月26日から10月7日に第二回の大会を開き,「連帯」を社会運動と規定し,ポーランドを「自主管理共和国」にするなどの内容を含んだ綱領的文書を採択した。
 10月18日にはカニアが辞任し,ヤルゼルスキが後任となった。12月13日,警察と軍の部隊は,「連帯」の事務所と拠点を襲撃し活動家や幹部を大量に逮捕し書類などを押収した。ヤルゼルスキ首相は,「救国軍事評議会」を設置して自身がその議長に就くことを明らかにした。戒厳令がしかれ,反抗は血の弾圧で沈黙させられた。12月18日,アメリカのレーガン大統領は,ポーランド政府を非難し,ポーランドへの経済制裁を発表した。
 戒厳令下,「連帯」は地下活動に移らざるをえなくなったが抵抗は続いた。1982年10月9日には,地域単位の「連帯」労組ではなく,独立した産別の全国労組結成を認める新労組法が成立した。これによって「連帯」は非合法化された。1983年7月20日,国会は戒厳令の解除と救国軍事評議会の解散を決定した。ヤルゼルスキ政権は,国営企業法と国営企業従業員自主管理法にもとづいて,企業内の自主管理と企業間の競争の導入をはかると同時に大幅な物価引き上げの措置をとった。それによって食糧品など消費物資が店頭に出回るようになったが,実質賃金は下落した。1989年1月,党中央委員会は,「政治的複数主義」と「労働組合の複数主義」を認めることを決定,「連帯」は再合法化されることとなった。
 ハンガリーはブルス氏のモデルでは「規制された市場メカニズムを利用した計画経済モデル」の典型である「改革」の試みが,あまり大きな大衆運動を伴わずに進行した国である。「改革を改革する」というスローガンの下,1980年には,国内価格の国際価格への接近が図られ,大企業のスリム化,小規模私有農地の産品の価格自由化が行われた,1982年には,「民間企業法」によって,条件付きで小規模な私企業の設立や分権化が認められた。また物価の引き上げと通貨フォリントの平価切り下げが実施され,5月には,IMF(国際通貨基金)に加盟した。西側企業との合弁企業が設立されたりしたが,二度にわたる消費者物価引き上げなどによって,多くの労働者・市民の生活水準が低下した。1987年7月の党中央委員会総会は「経済・社会発展計画」を採択し,価格改革,税制改革,国家補助の縮小などの「改革」策を決定した。1986年の失業手当制度の導入に加えて,1987年には「破産法」が制定された。
 1988年5月の党全国協議会でカーダールは退陣した。1987年には「民主フォーラム」が結成され,翌年に公然組織になった。1989年1月に新結社法が制定され,ハンガリーは複数政党制による自由選挙に向かっていく。後述するが,ハンガリーの場合,IMF・世界銀行の指導や助言が政策決定に深くかかわったことが特徴である。
 東欧諸国の「改革」の進行にとって,1985年3月にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフによるペレストロイカというソ連の「改革」の影響は当然無視できないことはいうまでもない。チェコ・スロヴァキアでは,国会が「経済メカニズムの構造改革」の基本となる国営企業法を採択した。それはソ連の国営企業法をまねたものであり,企業の独立性を認め,独立採算,自己金融,自主管理の原則を導入するというものであった。しかし,それは「改革」を経済改革にとどめ政治改革を拒否するものであった。
 東ドイツのホーネッカー議長とルーマニアのチャウチェスク政権は,ペレストロイカの波及を拒んだ。
 1980年にチトーが死去したユーゴスラヴィアでは,1968年に経済格差の是正とコソボ共和国への昇格を求めるセルビア共和国コソボ自治州の多数派のアルバニア系住民が,首都プリシュティナなどでデモを行うなど,民族主義が強まっていた。1971年11月には,クロアチア史とクロアチア語の採用を求めるクロアチア民族主義に基づくザグレブ大学のゼネストが行われ,それは各地に拡がった。こうした動きは,スロヴェニアにも拡がっていくが,それは,経済計画,予算,税制などの決定権を連邦から共和国に移すなどの分権化を進めようとしたことから加熱したものである。
 1972年には,チトーと党は,民族主義の台頭を押さえ込み,イデオロギー政策を強化した。しかし,1981年3月,コソボ自治州ではアルバニア人学生の待遇改善要求運動にたいする弾圧に抗議してアルバニア系住民が暴動を起こした。1978年には年インフレ率が100%を超えたことから,クロアチア出身のミクリッチ首相は賃金の凍結と賃金上昇を生産性向上にスライドさせる措置を発表した。これに反発する労働者の大規模な全国的なストライキが発生し,政府はこれらの措置を撤回した。スロヴェニア,クロアチアの共和国議会は連邦政府を批判し,連邦側と両共和国側の溝は深まっていった。チトーの理論ブレーンであったカルデリによって構築が進められた自主管理社会主義の理念と政策が,こうした民族主義の台頭にどう影響したのかは詳しくはわからない(後で,多少の考察を試みたい)。
 中国と断絶状態になったアルバニアでは,バルカン諸国などの周辺地域との関係を強化しはじめた。1985年にエンヴェル・ホジャが死去,後任にラミズ・アリアが就任した。ブルガリアは,1970年代の経済危機を契機に,1987年農業改革,1980年外資規制の緩和,外資との合弁企業の容認,1982年「新経済メカニズム」という経済改革の実施によって,企業の独立採算を進める措置をとり,1984年には小売り,流通業の部分的自由化,が行われた。しかし,同時に,ブルガリア化によって,国内少数民族のトルコ人などの同化政策が強行され,トルコ人のブルガリア式氏名への改名やトルコ語の新聞の発行が禁止され,大量のトルコ人がトルコに脱出した。
 東ドイツでは,1970年代以来,西ドイツとの経済的交流が深まっており,人の往来も活発となっていた。ホーネッカーは,経済関係の緊密化を進めながら,一方では,もっぱらイデオロギー的な引き締めによって,権力維持をはかっていた。1980年代,レーガン大統領が,ソ連圏にたいするイデオロギー的軍事的な攻勢を強化し,西ドイツへの巡航ミサイル・トマホークなどの新型核ミサイルの配備を決定すると,これに対抗してソ連は東ドイツに核ミサイルを配備しようとした。西ドイツでは,核戦争の危機に直面した市民たちが,核ミサイルの配備に反対する大規模な大衆運動を開始した。東ドイツでは,ホーネッカーは,軍事教育の強化などで社会の軍事化を進め,これに反対するプロテスタント教会や市民の運動が活発化した。

1989年の激動

 ポーランドでは,1989年6月の総選挙で,自由選挙の上院選挙で,「連帯」系候補が圧勝(定数100のうち99)した。7月の大統領選挙ではヤルゼルスキが大統領に選ばれたが,9月12日に発足した新政権では,首相は「連帯」のヤルゼルスキ,内相,国防相,対外経済協力相は統一労働者党から任命されたが,それ以外の閣僚はすべて「連帯」系によって占められた。ヤルゼルスキ首相は,インフレの克服を最優先するとして,すべての補助金のカット,新規の国家投資の凍結,税の厳正な徴収,通貨供給量の制限などの措置を発表し,国民に忍耐を呼びかけた。年末には国名を「ポーランド共和国」とするなどの憲法改正が行われた。1990年1月27日には統一労働者党は解散,党主流派は「ポーランド共和国社会民主主義」という新組織を設立,急進改革派は「社会民主連合」という新組織を設立した。
 ハンガリーでは,1989年10月,社会主義労働者党は社会党に党名を変更し,複数政党での自由選挙に向けて「改革」を進めることを決定した。
 東ドイツでは,ハンガリーがオーストリアとの国境を開放したことを知った市民が,オーストリアを経由して西ドイツに大量脱出を始めた。自由選挙と国内旅行の自由を求める市民のデモは次第に大きくなっていった。10月9日のライプチィヒでのデモは7万人,10月23日,31日には,50万人のデモが同地で行われ,11月4日には,東ベルリンのデモは100万人の規模に達した。10月18日には,ホーネッカーが要職から解任され,12月1日には憲法改正で党の指導的役割の規定を削除,党名が変更され,翌年2月には「民主的社会主義党」に改められた。
チェコ・スロヴァキアでは,民主化を求める学生デモをきっかけに,1989年11月19日,「憲章77」運動にかかわった人々を中心にした「市民フォーラム」が結成された。政権と「市民フォーラム」との円卓会議で「改革」についてのいくつかの合意が達成された。そこで複数政党による自由選挙の実施が決まった。1989年12月10日,フサーク大統領は辞任し,10日には,ドゥプチェクが連邦議会議長,ハヴェルが大統領に選ばれた。
 ブルガリアでも複数政党による自由選挙に向かっていくが,1990年2月には党名が共産党から「社会党」に改められた。
 ルーマニアでは,1989年12月21日,ティミショアラでの民衆と警官の衝突をきっかけに全国的になりつつあった労働者らのデモやストライキを沈静化させるために組織された官製集会で,デモを非難する演説を始めたチャウチェスク大統領に向かって,突然,野次が飛んだ。チャウチェスクを支持する目的で上から組織された官製集会は,一転して,チャウチェスク独裁体制にたいする怒りに火を注ぐ場に転化した。治安警察と民衆との内戦が始まった。国軍はチャウチェスクのデモ鎮圧の命令を拒否,22日には「救国戦線」が政権を掌握,各地で治安警察と民衆側も応戦し,同日には逃亡をはかったチャウチェスク夫妻が逮捕され,銃殺刑にされた。救国戦線はイエリスクを議長とする執行委員会を設置した。
 この1989年の東欧諸国での激動は,1990年の東西ドイツ統一から1991年のソ連解体(並行して湾岸危機,湾岸戦争があった)へと続いていくわけだが,東欧諸国では1990年に入ると,相次いで,複数政党による自由選挙が行われた。
 東ドイツでは,当時のキリスト教民主同盟などのコール与党が勝利したが,旧共産党の民主主義的社会主義党が16.3%の得票で65議席を得た。ハンガリーでは,民主フォーラムが42.7%の得票で第一党となり,キリスト教民主国民党,小地主党の民族主義的な連立内閣が組織され,民主フォーラムのアンタル党首が首相になった。ルーマニアでは救国戦線が圧勝し,救国戦線議長のイエリスク大統領と救国戦線の内閣が誕生した。注目すべきは,この選挙で,ハンガリー民主連盟というハンガリー系住民の政党が29議席を獲得したことである。チェコ・スロヴァキアでは,市民フォーラムが勝利したが,モラヴィア=シレジア地方を代表する地域組織とスロヴァキア独立を要求するスロヴァキア人民党が最低得票率を突破して議席を獲得した。ブルガリアでは,旧共産党の社会党が過半数を制したが,トルコ系の「権利と自由のための運動」が23議席を獲得した。
 かくして第二次世界大戦後に成立した東欧は崩壊を遂げた。

1990年以後(ポスト冷戦=ポスト東欧時代の旧東欧諸国)

 1989年の激動を経た旧東欧諸国・地域のその後については,日本の商業メディアではユーゴスラヴィアでのボスニア内戦などの大きな事件が起こった時ぐらいしか報道されないし,私も詳しくはわからない。ただ,ハンガリーについては,『LINKS』(Number5,Augusut-October 1995)に載った Laszlo Andor 氏の“Structual adjustment in Hungary”という文章がある。多少,重複するが1995年までの約6年間のハンガリーでの「改革」の経過について書かれたこの文章を要約して見ておきたい。
 1960年代末に,ハンガリー政府は,消費水準を引き上げるためとして,外資の積極的導入に踏み切り,ハンガリー史上に残る一大投資ブームを呼び起こした。国家の収支バランスは大きく崩れ始めた。外資導入による高成長路線は様々な矛盾を生み出していたが,政府は構わずにこの道を突き進む。1978年に国立銀行のエコノミストたちは,対外債務が膨大に膨らみ続ければ,人々の生活水準が下がるというレポートを提出した。
 1981年には,第二次石油危機と利益率の低下,経済政策の誤りによって,金融危機は深刻化した。そのため政府はIMFへの加盟と世界銀行の支援を要請することを決定した。1982年,IMFに加盟した。IMFは,需要を抑制し緊縮財政策を実行するようにアドバイスし援助した。そのために,信用も回復し,債務の圧力はその後2年間はやわらいだ。が,1985年,ハンガリー政府は高成長路線に軌道を戻そうとし始めた。債務は増大し始め,観光収入が1980年に比べて1987年には3倍に増えたにもかかわらず,貿易赤字は増えた。1986年には,マネタリストたちの手による「転換と改革」という文書が発表された。党官僚のグローツが首相になった。彼はIMFのプログラムに沿った政策を発表した。1987年,ハンガリー民主フォーラムが結成され民族主義的な内容の宣言を新聞で発表した。1989年,政権党ハンガリー社会主義労働者党は崩壊した。
 1990年の新議会は,国有財産の私有化と売却,資本主義的な金融システムと法体系,会計システムの全面的な導入,などの「改革」に合意した。政府が,緊縮策の一方で多国籍資本に巨大な利益を与えていたことが暴露された。1990年,民主フォーラムのアンタル首相の民族主義的な連立政府は,外貨準備が一億ドル以下しかなくなったので,当面の国家破産を避けるためにIMF・世銀の支援が必要となった。
 1990年と1991年に,ハンガリー政府は,世界銀行と,4年間で,通貨フォリントの全面交換能力を確立すること,政府財政の再建,経済関係法体系の全面的な変革,私有制の確立,などの内容の二つの「構造調整プログラム」に調印した。ソ連からの石油供給の停滞と湾岸戦争による石油危機のため,政府はガソリン価格を引き上げようとしたが,暴動が発生した。消費税と所得税が導入されるが事態は悪化していった。工場閉鎖と解雇の嵐が吹き荒れた。財政緊縮は,国民生活を悪化させた。
 1993年に始まったドイツの景気後退は追い打ちをかけた。アンタル政府のとった成長策は財政悪化を招く結果となった。IMF・世銀の増税と政府支出削減の圧力が高まり,1993年の春には政府はそれに屈した。1994年7月までに,この政府は,財政赤字と貿易赤字の記録を更新し続け,25億ドルの対外債務を残した。
 1994年7月,ホーンを首相とする社会主義者と自由主義者の連立政府が,アンタルの民主フォーラム主導の連立政府にとって代わった。IMF・世銀は,ホーン政権に公的部門の抜本的改革をするように圧力をかけた。IMFのカムドシュ専務理事は,1994年10月にブダペストを訪れ,IMFの勧告にしたがった調整手段によって,暴力的なデモが引き起こされても,耐えるべきだとホーンに語った。その後,オーストリア,アメリカ,ドイツの政府からも同じ激励がホーンのもとに届いた。
 IMFの職員でもあった元国立銀行総裁でアンタル政府によって交代されたスラーンニィとその友人の銀行家であったボクロス財務大臣とホーン首相は,8%の関税引き上げと政府支出の削減,全般的な福祉の終了,授業料の導入などを盛り込んだプログラムを作成し公表した。小規模な抗議デモとストライキが起こった。ボクロスの周囲の学者たちでさえ,ハンガリー経済の将来への希望を失った。旧東欧諸国のなかの「改革」の指導的国家はチェコにとって代わられた。西側の裏切りによってハンガリーの成長の夢が断ちきられたという思いは,ナショナリズムと小地主党の成長を促した。
 Laszlo Andor氏は,1991年から1992年のもっとも厳しい調整(一時は金利は40%に達した)は,解雇と工場閉鎖,財政当局への労働者の抵抗をくじくことにあったと述べている。氏は,外国からの投資減少と貿易バランスの悪化,巨額の債務,IMFの見えない手,が,1990年代後半のハンガリーを悩ます存在となるだろうという見通しで文章を締めくくっている。なお,ハンガリーはNATO加盟が認められた。
 1990年10月3日東西ドイツが統一,EC(現EU)の人口と国民総生産でも4割を占めるドイツ連邦共和国が誕生した。このドイツ統一前に,通貨同盟による一対一の東西マルク交換(それまでは,西東マルクの三対一)が実施されたりした。その後,周知のように,旧東ドイツ地域では企業閉鎖が相次ぎ,期待されたほど投資もなく,とりわけ若年層の失業問題が深刻化してその一部にネオ・ナチが勢力を伸ばすなどの社会問題が発生するなど,停滞と経済困難,高失業,旧西ドイツ地域との地域格差などの課題を抱え続けている。このような問題を解決するためには,なお多額の費用を長期にわたって統一のコストとして支払わなければならないことが明らかになっている。
 チェコ・スロヴァキアは工業化の進んでいるチェコとスロヴァキアに分かれた。チェコはEU加盟に積極的で,NATOへの加盟が決定した。ポーランドでは「連帯」議長のワレサ大統領が誕生したが,やはりアメリカや西欧との関係を強化しつつありNATOに加盟する。ユーゴスラヴィア連邦では,クロアチア,スロヴェニアが独立,ボスニア・ヘルツェゴビナではクロアチア系住民とイスラム系住民とセルビア系住民の間で内戦が勃発し,国連,NATO,アメリカが軍事介入した。マケドニアも独立し,ユーゴスラヴィア連邦を構成するのは,セルビア共和国とモンテネグロ共和国の二国だけになったが,そのセルビア共和国でも南部のアルバニア系住民が多数を占めるコソボ自治州でコソボ解放軍が武装蜂起し,セルビア治安部隊と内戦に突入している。この問題で英米は空爆を辞さないとセルビア共和国に圧力を加えながらコソボ側に高度の自治を認めるよう迫っている。そのアルバニア人のアルバニアでは,南部と北部の地域対立を背景として一時内戦の様相を呈したが,その際にアドリア海をはさんで対岸のイタリアに難民が押し寄せる事態となったことは記憶に新しい。ルーマニアでは,最近,政府の炭坑閉鎖の方針への反対や賃上げを要求する炭坑労働者が首都に向けたデモがくり返し組織されたことが伝えられている。

東欧「改革」のいくつかの特徴について

 ここで東欧諸国での「改革」の歴史を見て,簡単にいくつかの特徴を指摘するならば,体制の問題は後述するのでそれを除けば,まず民族主義が大きな役割を果たしているということがあげられる。
 東欧諸国では,体制側が経済危機や政治危機の際には,反シオニズム(反ユダヤ主義)がくり返し持ち出されたし,またルーマニアではチャウチェスクの個人・一族の独裁支配を維持するイデオロギーとしてルーマニア人の千年の栄光の歴史が教育の場や少年や青年の組織で強制されたし,またハンガリー系住民への同化の強要と要職からの排除とルーマニア人への交代,ハンガリー語の禁止などが行われた。ブルガリアではトルコ人への改名強制やトルコ語新聞の発効禁止などの同化政策が1970年代以降に強められた。クロアチアではクロアチア史をユーゴスラヴィア史から切り離すことやクロアチア語をほとんど変わりがないといわれるセルビア語と区別する要求が高まり,コソボ自治州でのアルバニア人の自治権の拡大要求にたいしては,連邦政府に反対してクロアチア,スロヴェニア,セルビアがコソボ側を支持した。ポーランド人が相当多数を占めているポーランドを除けば,第一次世界大戦後に独立を果たした東欧諸国では国内に少数民族がまとまって住んでおり,民族主義の高まりは他の国に波及しやすい構造をもっている。ルーマニアでのハンガリー系住民への同化政策はハンガリー政府と国民の非難を呼び起こしたし,ユーゴスラヴィアの各民族主義の高揚は,それら諸民族が入りまじって共生していたボスニア・ヘルツェゴビナで三つどもえの泥沼の内戦を呼び起こした。今後も,民族問題が国際問題に発展しやすい地域であるために,この問題は旧東欧諸国・地域の安定を揺るがす大きな要因であり続けるだろう。
 イギリスやアメリカの介入が,こうした要因を根本から解決する展望などないままに行われていることは明らかである。アメリカなどの不用意な介入は地域の将来展望を不透明にする。
 そのいい例はトルコである。アメリカの戦略的利害のために,トルコはかつてのイラクのように,英米の寛容さに助けられて軍事力を強化した上に,国内でクルド人に対する軍事的抑圧を強めているばかりか,イラク領内のクルド人居住区への越境攻撃をくり返し,あるいはキプロスからトルコ系地域を独立させようとしている。中国のウイグル人(ウイグル人独立運動の東トルキスタン独立派はイスタンブールに拠点を置いている)や中央アジアのトルキスタンやアゼルバイジャン(イランではこのトルコ系のアゼルバイジャン人が人口の三分の一を占めている)などのトルコ系民族とその国家で汎トルコ主義が台頭しているのである。
 トルコ軍のイラク領内での越境攻撃には,イギリス・アメリカ軍がイラク北部に設けた飛行禁止空域でくり返されているトルコ国内の米軍基地からのイラク軍施設などへの空爆によって促進されているし,それをイギリス・アメリカが容認していることは明らかである。汎トルコ主義者がバルカン諸国やブルガリアの同族に働きかけを強めるだろうことは容易に想像されるが,それはバルカン地域の不安定化を促進することは疑いない。スラブ系のセルビア人側はトルコの影響の拡大を警戒しているのである。
 第二の特徴としては,東欧「改革」の理念自体はその多くが東欧成立の直後にはすでに運動側ばかりでなく体制側からも言葉の上では認められていたものであったということである。それらは,非スターリン化の過程では,公然と現れてきたし,ポーランドでは政府の公式の立場ですらあった。ユーゴスラヴィアでは党と連邦政府は上からもそうした理念や政策については公然と検討されたが,そうでないところでも,ルーマニアやアルバニアなどを除けば,「改革」の必要は政権党の公式の立場として表明されてはいた。
 複数主義や自主管理,労働者評議会,独立労組,企業長の政府や党からの独立,市場メカニズムの利用や分権化,検閲の廃止,信仰の自由,報道・出版の自由,移動の自由などなど,自らの権力を危うくするような措置を除けば,「改革」の必要については認められていたのである。しかしそれは完全には実施されなかったし,支配を脅かすような兆候があらわれると直ちに後戻りした。しかし1989年の激動(これを東欧革命と呼ぶ人もいる)以降,自主管理などの「改革」の諸理念や政策を仕上げる作業は政治の表層からは姿を消したように見える(この点については後で検討する)。
 ハンガリーの例でわかるように,旧東欧諸国での「上からの改革」は,もっぱらIMF・世銀などの「構造調整プログラム」の緊縮策とリストラ,金利引き上げ,補助金の廃止,資本市場や金融の自由化などの新自由主義策によって進められた。各国がIMFや・世界銀行などの支援なしに単独で債務危機を克服することは困難であった。IMF・世銀の勧告にしたがって政策をつくり実施するほかはなかったのである。しかし今ではIMFと新自由主義に対する疑問と批判は大きくなっているし,その政策は事実上,挫折した。
 問題は政治の改革と経済・社会の改革との相互関係を早く的確に調整できないことであったが,すべては手遅れであったのである。
 そして,国際的な環境変化に対しても適応が遅れた。ドル・ショックと第一次石油危機は,資本主義をも激しく揺さぶりスタグフレーションに襲われたのであるが,東欧諸国でも経済停滞と債務危機を深刻にした。
 加えて,国際環境という点では,東欧諸国とロシアも参加するヨーロッパ全体を包括する全欧安保協力会議(CSCE)が生まれた。しかし,ボスニア・ヘルツェゴビナ問題で明らかになったように,アメリカの主導するNATOの方が現実には安保機能を強力にはたしている。EUあるいはヨーロッパ諸国は,自らの手で事態を解決することができなかったしアメリカの軍事行動をコントロールすることもできなかった。ようするにヨーロッパの自主権といったものは今のところ理想に止まっている。経済的には,EU統合は一つのヨーロッパという方向に向けて歩み始めている。

* 次回からは,ブルス氏の『社会化と政治体制』(新評論 1982年 大津定美訳)を検討しながら,東欧「改革」の射程を測る作業に取り組みたい。

 (つづく)




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