共産主義者同盟(火花)

東欧「改革」のつきつけたもの(1)

流 広志
210号(1999年2月)所収


なぜ今,このテーマを取り上げるのか

 1989年のベルリンの壁崩壊−東西ドイツ統一,そして1991年ソ連解体を頂点にしたスターリニズム体制崩壊の波が旧ソ連・東欧諸国をおそってから,はやくも10年あまりの月日がたとうとしている。
 「西側」自由主義者たちやこれと付和雷同したブルジョア・マスコミなどの流した「共産主義にたいする自由主義市場経済の勝利」というテーゼが,粗雑でイデオロギッシュな幻想に過ぎなかった(つまり,ぬかよろこびにすぎなかった)ということが,1998年夏のロシア経済危機が決定的に暴露してしまった。
 とりわけ,東欧における「改革」運動(これについていろいろな規定があるが,東欧で起こったさまざまな大衆的な現状変革の運動を,ここではとりあえず「改革」と呼ぶことにする)は,いまだに続いているとみなければならない。それは「改革」運動側がかかげた目的は,部分的に達成されたものもあるが,根本的な意味ではとうてい達成されたとはいえないからである。たとえば,ポーランドの独立労組「連帯」は,その拠点であったグダニスク造船所の自主管理を放棄せざるをえなくなり,自主管理運動はいったんの後退をしいられた。またロシアの独立労組化をかち取った独立労組運動が,賃金未払いや企業倒産・大量解雇,年金,教育,雇用などの領域で,後退をしいられていることもある。そこで,達成された労組の独立化は,つぎの課題に直面しているのであり,旧ソ連・東欧「改革」はプロレタリアート民衆にとって良好な過程を経過しているといえるものではない。
 しかし注意すべきは,東欧においては,ハンガリーの「改革」運動やチェコ・スロヴァキアのいわゆる「プラハの春」,ユーゴ・スラヴィアの自主管理「社会主義」,ポーランドの「改革」運動,中国の影響をつよく受けたアルバニアの農民的「社会主義」の試み,等々,と,すくなくとも表面的には多様な「改革」運動の長い歴史の蓄積があることである。すなわち,それは数波にわたる高揚をともなった大衆的な「改革」運動の長い過程の途上とみなければならないということである。
 第二に,なるほど確かにその直接の変革対象はスターリニズム体制に向けられていたにしても,その「改革」運動の内容は,資本主義を根底から変革する質をもっていたのであり,それは,フランスにおけるレギュラシオン派の「勤労者民主主義」やラクラウ・ムフによる生産の場におけるブルジョアジーとプロレタリアートの政治闘争への着目やポーランド「連帯」支援に深くかかわったミッシェル・フーコーによる「一望監視システム」による監獄社会批判(これを資本主義の工場・職場支配批判と結びつける論もあらわれている)であるとか,資本主義経済・社会の批判や変革運動と共時的にひびきあっているのはあきらかである。それは,直接の関係があるわけではないが,日本の共産主義者同盟の誕生とハンガリー事件などの第二次世界大戦後の東欧諸国における最初の大衆的反乱と内容において深い関連性を有していたことと似ている。それは,資本主義世界の根底的変革の世界的な長い過程の一部であることを意味しているのであり,したがって東欧「改革」は終わってなどいないのである。
 第三に,すでにこの問題については『火花』誌上で幾つかの文章で検討している。それは,おおざっぱにいえば,中国も含めて,いわゆる「民主化」運動を支持すると同時にブルジョア民主主義・資本主義を批判するというものであり,その際に商品・貨幣の作り出す結合水準(ブルジョア民主主義はそれに見合っている)を超える結合水準がプロレタリアートの側に求められているというものであった。それを提起してからすでに約10年がたとうとしている。今日からみて,東欧「改革」運動の持つ革命性の射程がどの程度なのか,あらためて測ってみることが必要になっていると考える。
 そこで,やや一般的にはなるが,その基準について論じていきたい。そのために,東欧体制と「改革」のモデル分析を試みたポーランドの経済学者W・ブルス氏の『社会化と政治体制・東欧社会主義のダイナミズム』(新評論 1982年 大津定美訳)を検討しながら論を進めていきたい。本稿は,特に急がなければならないという性質のものではないので,断続的に書き進めていくつもりなので,その点をあらかじめお断りしておきたい。
まず前提としてあるていど押さえておかなければならないことについて簡単に触れておかなければならない。それは幾つかの概念と歴史についてである。

東欧という概念と東欧「改革」の歴史

東欧という概念

 東欧という概念は,いうまでもなく,西欧と対応した概念である。それ自体の意味としては,ヨーロッパという概念が,西欧・東欧・北欧・中欧・南欧というふうに地理的に分けられていることによる。したがって,東欧は,中欧というヨーロッパの中心からみて東に位置していることを意味している。しかし,独立したバルト諸国やギリシャは普通,東欧に含められていない。それというのも,東欧という概念は,第二次世界大戦後にヨーロッパで共産党系の政権が成立した地域をさして使われてきたからである。それは地理的概念とは一致しないのである。

*「「東欧」(Eastern Europe)という言葉は,第二次大戦後もっぱら東西対立という文脈のなかで使われ,ヨーロッパのうちの共産党政権が支配する部分を意味してきた。そのため,地理的には「中欧」以外に呼びようのない東ドイツやチェコがそれに加えられる一方,バルカン半島の不可分の一部であるギリシャがそれから除外されてきた。しかし,街全体がヨーロッパの自己主張そのものであるといえるプラハやクラクフと,モンテネグロやアルバニアの山村とでは,共通する要素はほとんどないといっていい」(『激動の東欧史』中公新書 8頁)。

 したがって,東欧というときには,第二次大戦後に成立したソ連以外のヨーロッパの「共産」諸国に限定される。具体的には,東ドイツ・チェコ・スロヴァキア,ハンガリー,ユーゴスラヴィア,アルバニア,ブルガリア,ルーマニア,ポーランドである。
 これら諸国のうち,東ドイツは1990年にドイツ統一によって消滅した。チェコ・スロヴァキアは,チェコとスロヴァキアの二つの国に分かれ,ユーゴスラヴィア連邦からは,クロアチア,スロヴェニア,ボスニア・ヘルツェゴビナが独立した。アルバニアでは北部と南部の地域対立を背景として内戦状態に陥り,またアルバニア系住民が多数をしめるユーゴ連邦セルビア共和国コソボ自治州ではアルバニア人武装組織「コソボ解放軍」が蜂起,セルビア共和国軍との内戦に突入している。

前史

 東欧の前史といえば,要するに東欧の成立史であり,だいたい第一次世界大戦から第二次世界大戦までの約30年の期間を指すとみてよいだろう。それ以前にさかのぼれば,多様な地域であるということしかでてこない。あるいはトルコやロシアやオーストリアなどの帝国の一部である。したがってここではその期間を前史として扱うことにする。
 第一次世界大戦の時点では,東欧諸国のうち,ハンガリーはオーストリア・ハンガリー帝国の一部であり,ボスニアとヘルツェゴビナはオーストリアによって併合され,これに対抗してロシアが主導した「バルカン同盟」(1912年)がセルビア,モンテネグロ,ギリシャ,ブルガリアの間で結ばれていた。ルーマニアは独立国であったが,ポーランドはロシア領であり,チェコ・スロヴァキアもオーストリア・ハンガリー帝国の一部であった。東ドイツはいうまでもなくドイツ帝国である。
 第一次世界大戦までに,トルコでの青年トルコ党による革命による混乱に乗じてイタリアが北アフリカのトルコ領トリポリを狙ってトルコと戦争を開始(トルコ・イタリア戦争,1911年〜1912年)すると,「バルカン同盟」諸国はトルコとの第一次バルカン戦争(1912年〜1913年)を起こし,つづけて第二次バルカン戦争(1913年)が起こり,バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる危険な地域とみなされるようになっている。
 1914年6月28日,ボスニアの首都サラエボでオーストリア皇太子夫妻がセルビア民族主義者の一青年に暗殺されるサラエボ事件が起こると,オーストリアがセルビアに宣戦布告,つづいてロシアがオーストリアに宣戦布告,ドイツがロシア,フランスに宣戦を布告し,ついに初の帝国主義世界戦争が起こる。
 第一次世界大戦の結果,東欧のうち,ポーランド,チェコ・スロヴァキア,ハンガリー,ユーゴスラヴィアが独立する。このとき,1917年ロシア革命からソビエト連邦が成立,北欧のフィンランド,そしてエストニア,ラトビア,リトアニアのいわゆる「バルト三国」も独立した。この一連の独立によって,東ドイツを除けば,おおよそ東欧国家の元が成立したことになる。
 しかしながら,この成立した独立国家は内部に多様な民族を抱え,あるいは階級対立の激化やロシア革命の影響や「国際連盟」による介入や帝国主義諸国による介入などによって,きわめて不安定な状態にあった。
 民族問題でいえば,チェコスロヴァキア東部ズデーデン地方にはドイツ人が,ポーランドにもドイツ人が多く住む地域があり,ハンガリーにはルーマニア人が多く住む地方があり,ユーゴスラヴィアは周知のように多民族国家であり,イスラムの影響が強いところである。そして,ポーランドをはじめ,ユダヤ人が集中して多数居住している都市や地方があり,ユダヤ人問題は,民族問題の焦点のひとつとなっていた**。

** ポーランド・ロシアにおけるこの問題については,ローザ・ルクセンブルク『民族問題と自治』(論創社 加藤一夫・川名隆史訳)に詳しい。また,第一次世界大戦以前に,ヨーロッパの共産主義者たち(当時はその多くは第二インターナショナルに結集しており,社会民主主義をなのっていた)の間では民族自決をめぐる激しい論争が行われていた。すでに,マルクス・エンゲルスが,アイルランド問題をめぐって,アイルランド人の民族自決権を承認し,その独立をイギリス・プロレタリアートに支持すべきことを主張していた。論争は,第二インターナショナル加盟の社会民主主義政党のうちで,唯一,被抑圧民族の民族自決権の承認を綱領(9条)に掲げていたロシア社会民主労働党とそれ以外の諸党派との間で行われた。その内容のレベルの高さは今日においても歴然としているが,ここではこれ以上ふれない。

 1917年のロシア革命の勝利後,1919年にはハンガリーでベラ・クーンを首班とする社民党と共産党の連立政権が樹立されたが,国際連盟の後押しを受けたルーマニア,チェコ・スロヴァキア,ユーゴスラヴィアの軍隊によって圧殺され,連合軍による革命ロシアへの干渉戦争(1918年〜1920年),ポーランド・革命ロシア戦争(1920年)が,起こった。
 1920年にはバルカン共産党連合が結成され,第三インターナショナル(コミンテルン)に加盟した。バルカン共産党連合は,バルカン地域でプロレタリア独裁を打ち立てることによって「バルカンまたはバルカンおよびダニューブ連邦社会主義ソヴィエト共和国に大衆を団結し,彼らを自国と外国のブルジョアジーの封建的な資本主義的搾取とひとしく,植民地的隷属と民族的軋轢から」(『コミンテルン・ドキュメント』T 現代思潮社 81〜82頁)解放することを目的とするものであった。なお,バルカン半島は長くオスマン・トルコ帝国の支配のもとにあったのである。

* 「バルカン社会民主党連合は一九一〇年,ブルガリア,セルビア,ルーマニア,およびギリシャの社会民主党が参列したベルグラード会議で設立された。一九一四年には戦争に反対し,一九一九年にはソフィア会議でバルカン共産党連合と改称し,第三インターナショナル加入を決定した」。(『コミンテルン・ドキュメン ト』T 現代思潮社 80頁)

 ムッソリーニのイタリアが1939年にアルバニアを併合,ナチス・ドイツはドイツ人の多く住むチェコ・スロヴァキアのズデーデン地方の割譲を要求,イギリスのチェンバレン,フランス,イタリアのムッソリーニとのミュンヘン会談で,この要求を認めさせ,英仏の寛容な態度に助けられながら,チェコ・スロヴァキアを併合・保護領化した。ナチス・ドイツは1939年にスターリンのソ連と独ソ不可侵条約を締結し,ポーランドを二国で分け合った。ソ連は,バルト三国を併合,ルーマニアからベッサラビアを争奪する。
 ドイツ・イタリアはバルカンへの武力侵略を開始する。ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア,アルバニアが独・伊につき,ユーゴスラヴィアはソ連と不可侵条約を結んだ。独伊軍の侵攻と占領にたいして,ユーゴスラヴィアなどでは,パルチザンによる抵抗が始まった。ただし,ユーゴスラヴィアでも,クロアチアは親ナチス的であり,そのことが戦後の民族対立感情のもとになっているといわれている。
 すでに第一次世界大戦後,第三インターナショナル(コミンテルン)系の共産系勢力が各地につくられていた。第二次世界大戦は,独ソ戦がソ連による反撃で戦線が西へと押し戻されるにつれて,これと呼応する動きが各地で発生し,ポーランドでは1944年8月に亡命政府系の国内軍が占領ナチスにたいして蜂起したが,ソ連は支援せず,降伏をよぎなくされた。チェコ・スロヴァキアでも1944年夏のスロヴァキア国民蜂起が起こった。ユーゴスラヴィアでは,チトーを中心とした共産党系のパルチザンが1943年夏までにほぼ全域を解放する。アルバニアでも,エンヴェル・ホジャを中心とするパルチザンが全土を解放し,1944年10月にはホジャを首班とする臨時政府が樹立される。ハンガリー,ルーマニア,ブルガリアは,ソ連軍の侵攻によって親独政権が崩壊し,終戦をむかえた。

    (つづく)




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