労働運動を考える(3)
流 広志
207号(1998年11月)所収
4.労働運動と党ーレーニンの場合
(ア) 初期レーニンの党組織論
ロシア社会民主労働党第二回大会(1903年)におけるレーニンの党組織論は,レーニン自身がこの大会にいたる過程を振り返った『一歩前進,二歩後退』によれば,『なにから始めるか』に始まり,『なにをなすべきか?』から『一同志に与える手紙』にいたる『イスクラ』という機関誌上で,展開された。
第二回大会で社会民主労働党は分裂し,レーニン派=ボリシェビキが勝利を収めるのだが,その際に,『なにをなすべきか?』でレーニンは,「計画としての戦術」としての全面的な政治暴露のための「全国的な政治新聞」の「計画」と後にメンシェビキ派に成長する勢力の「主に工場を舞台にした経済闘争の地道な漸進的運動」「労働者大衆の積極性を高め,雇い主と政府とにたいする経済闘争」を発展させるという「計画」との,二つの「計画」の対立を描き,そして前者の立場から後者の「計画」を自然発生性への拝跪として批判した。
工場・職場を舞台にした労働運動は,レーニンの場合,全面的な政治暴露によってこそ,積極性を高めることができるのであり,また工場・職場での労働者の組織の発展は,このような暴露を行う「全国的政治新聞」の受任者網(配布網など)の発展によってこそ可能であった。当時,ロシアのツァーリ専制によって労働組合ですら危険な敵として徹底弾圧を受けていた情況の中で,労働組合が結成され,それが発展してくことは,ブルジョア民主主義者からも,民主主義の前進として歓迎されていた。
専制政治の下で,それ自体を前進させることを社会民主主義者の主たる任務と考えた経済主義者たちは,労働組合をどんどん結成し,労働組合運動を活発にしていけば,専制政治をいずれは打倒できるだろうと考え,そのために必要な党組織論をまとめあげたのである。
それは,『一歩前進,二歩後退』によると,ストライキ参加者にも社会民主労働党員と名乗らせることができるというものであった。社会民主労働党第二回大会に提出された党員の資格を規定した規約第一条の草案と大会で決定された定式を比較してみると次のようになる。
日和見主義に陥ったマルトフの場合,それは,「党の綱領を承認し,党の任務を実現するため党諸機関(原文のまま!)の統制と指導のもとに積極的に活動するものは,すべてロシア社会民主労働党に所属するものとみなされる」(国民文庫=119 61頁)というものである。
レーニンの案は,「党の綱領を承認し,物質的手段によっても,また党組織の一つにみずから参加することによっても党を支持するものは,すべて党員とみなされる」(同上)というものである。実際に大会で採択されたのは,マルトフの草案を修正したものであった。
すなわち,「党の綱領を承認し,物質的手段によって党を支持し,党組織の一つの指導のもとに党に規則的な個人的協力をおこなうものは,すべてロシア社会民主労働党の党員とみなされる」(同)というものである。
マルトフのような党に関するぼんやりした観念は,党を物質的な存在として扱うべきところを党を一つの外皮のようなものとして捉えていることによってもたらされている。そうでなければ,ストライキ参加者に党員であることを名乗らせるという考えは生じないだろう。それは,党が大衆と広範に結びついているような外観を与えはするが,そうした見かけは簡単にくつがえされてしまう。なぜなら,大衆のうちで,一時的な熱狂に駆られて運動の波に乗ってくるのは,ただ追随しているだけのことにすぎないからである。
そのように簡単にひっくり返されてしまうような党を本当の意味では労働者大衆は信用しないだろう。再び労働者大衆の信頼を取り戻すためにはより大きな努力と忍耐と苦労を重ねなければならず,党はそうした作業に大きな力量をとられてしまうだろう。それか,情勢の自然発生的高揚を待って,また同じことを繰り返すことになろう。また,見かけだけの党勢力の拡大(バブル)と崩壊を繰り返すことになる。その度に,またやり直すことになるのである。
もちろん,そうしたやり直しは,階級闘争が一本調子に高揚していくということなど現実にはあり得ないのであるから,ある程度は避けられないことではある。それをできる限り避けるためには,こうした場合でも,経験を積み,幾多の教訓を備えた党組織が必要であることはあきらかである。一時的な数の大小などはたいした問題ではない。量の大小で質を計れないのである。しかし量は質に転化するのではあるが。どちらが前進的であったかは,歴史が必ず証明するのである。
労働者大衆の個別的で散発的な自然発生的な闘争が敗北しようとも,その犠牲を無駄にせず,その経験を生かし,より大きな闘いへと発展させるためには,やはり,人材の点でも物質的な点でも思想という点でも党の存在は欠かせないし,またそれを発展させることが必要である。
ロシア社会民主労働党第二回大会で焦点になったのは,党の存在そのものではなくて,どのような党が必要かということであり,その点で,大きく二つの党思想が対立したのである。
「全国的政治新聞」による全面的政治暴露を行うために,中央機関誌『イスクラ』編集局とその執行受任者網を持ち,しかも,『イスクラ』編集局の中心を海外に置き,中央委員会代表とと編集局代表とで構成される評議会を設置するという案は,マルトフなどの眼には,中央委員会と『イスクラ』編集局と二つの中央が存在するように見えた。
『イスクラ』は,たんなる機関誌というばかりでなく,組織上の細胞として行動しており,そのことを,党規約の内に定式化し,大会が確認することが課題として残されていたのである。
『イスクラ』が主張した党組織思想は,中央集権主義思想であり,これは党規約全体を貫く原則的思想であるとされた。第二に,『イスクラ』編集局が,組織的な細胞として行動することの承認と党における地位の確認は,「場所と行動方法との一時的な事情の生みだす部分的な思想である,第二の思想は,中央集権主義からの外見的な逸脱に,すなわち,中央機関紙と中央委員会という二つの中央機関をつくる」(同上 59頁)というものであり,ロシアの事情にもとづいて,国外に『イスクラ』編集局を移さざるを得ないという特殊事情を考慮に入れた上で行われた。
マルトフらの党組織に関するぼんやりした思想にたいして,レーニンが対置しているのは,組織に服する程度と秘密性を基準とする以下の区別である。
「(一)革命家の諸組織。(二)できるだけ広範で多種多様な労働者の組織(私は労働者階級だけに話をかぎっているが,他の階級のある分子も一定の条件のもとではここにはいることはいうまでもないことを前提している) 。この二つの部類が党を構成する。さらに,(三)党に同調する労働者の諸組織。(四) 党に同調してはいないが,事実上党の統制と指導に従っている労働者の諸組織。(五) ある程度まで――すくなくとも階級闘争の大きな現れのばあいには――同じように社会 民主党の指導に従う,労働者階級の未組織の分子」(同上 89〜90頁)。
レーニンが党に含めているのは(一)と(二)の二つの組織である。これに対してマルトフの場合は「どのストライキ参加者も」「自分は党員であると言明する」ことができるというものである。それはたんに党の名称をひろめるにすぎず,「階級と党との混同という,組織を解体させる思想をもちこむ」(同上 90頁)という害悪をもたらすだけである。
「全国的政治新聞」の「計画」あるいは「計画としての戦術」を実践する党組織細胞としての『イスクラ』編集局とその受任者の活動については,党大会で確認された。しかし,『イスクラ』は,日和見主義者の拠点となってしまう。レーニン派は,中央委員会に移らざるを得なくなったが,それはレーニンによる和解の提案によるものであった。「少数派」が「多数派」になり,「多数派」が今度は「少数派」になる。「勝ち負け」もまた弁証法的である。ジグザクとした歩み。現実の過程はそのようにして進む。
整然と撤退し,リターンマッチに臨むレーニンは,見事な戦闘的唯物論者でありマルクス主義者であった。
「和解について述べたことへの返答として,評議会もふくめて,敵の砲台から,砲火があびせかけられた。弾丸は雨あられとふりそそいだ。専制君主,シュヴァイツァー,官僚主義者,形式主義者,超中央部,一面的,一本調子,頑迷,狭量,疑いぶかい,親しみにくい・・・・まことにけっこうだ,諸君,それでおしまいかね? もうそれ以上予備の弾薬はないのかね? 諸君の弾薬は貧弱だね・・・」(同上 245頁)
(イ) 後期レーニンの党組織論について
1921年7月に,コミンテルン第三回大会で採択された「共産党の構成,その活動の方法と内容とに関するテーゼ」(以下,「組織テーゼ」)は,ケーネンによって書かれ,たいした議論もないままに満場一致で採択された。このテーゼにたいしてレーニンは非常に不満であった。それは「あまりにもロシア的すぎる」とレーニンはコミンテルン第四回大会で苦情を述べた。
レーニンは,「この決議はすばらしいものである」(『コミンテルンドキュメントT』現代思潮社 223頁)と評価しているのだが,「それは殆んど一貫してロシア的である。つまりすべてが,ロシアの条件からとられている。・・・・第一にそれは長すぎる。それには,五〇あるいはそれ以上の項目がある。外国人は,ふつうこんない長いものを読むことはできない。第二に,たとえ読むにしても,それがあまりにもロシア的だから,外国人にはそれが理解できないであろう・・・そこには,ロシア精神が浸透し充満している。第三にたまたまそれを理解することのできる外国人があったにしても,彼はそれを実行することができないであろう」(同上)というのである。
それから厳しいことを述べている。「われわれはあの決議を通過させたことにおいて大きな過ちを犯し,今後の進歩へのわれわれ自身の道を塞いでしまったという印象を,私はもっている」(同上)というのである。それは「空文句」に終わったと。
たとえば,このテーゼの「II 民主主義的中央集権制について」では,「六,共産党組織における民主主義的中央集権制は,真の総合,すなわち中央集権制とプロレタリア民主主義との融合であるべきである。ただ,全党組織の,不断の共通の活動,不断の闘争の基礎の上にだけ,この融合を実現することができる」(同上 224頁)と述べられている。これは,『一歩前進,二歩後退』の最後の部分「弁証法について少々。二つの変革」においてレーニンが述べた思想を一般的に言い表したものであることは明らかである。
しかしそこでも,レーニンは,「マルクス主義が正しくすえなおしてうけついだ偉大なヘーゲルの弁証法と,党の革命的な一翼から日和見主義的一翼にくらがえする政治家たちのジグザグな行程を正当化する俗悪な方法や,単一の過程の別々の段階における個々の言明,個々の発展要因をいっしょくたにする俗悪なやり方とを,けっして混合してはならない」(国民文庫=119 288頁)と注意を促し,「弁証法の基本命題は,抽象的な真理は存在しない,真理はつねに具体的であるというものである」(同上)という弁証法の神髄を述べることを忘れていない。
レーニンの思想は,ロシア社会民主労働党内に現れた具体的な論争(思想闘争)が,綱領・戦術・組織を貫く二つの思想の対立の具体的・歴史的な文脈のうちで展開したことから生み出されたものであり,そうした具体的な過程の総括として定式化されたものなのである。
ケーネンのテーゼは,そうした特殊ロシア的なロシア社会民主労働党の発展過程を捨象した一般的な内容であり,その理由を「プロレタリア階級闘争の条件には,類似性がある」(『コミンテルンドキュメントT』 224頁)ことに求めている。これは,先のレーニンの弁証法の基本命題に照らしてみると,「抽象的な真理」に陥っていると言わざるを得ないだろう。
しかし,この時期,ロシアは,戦時共産主義からネップ(新経済政策)へ政策転換を図っていた時期であり,当然そのことは党の在りようにも変化を迫りつつある時期であったことも忘れてはならない。1921年のクロンシュタット兵営(かつてロシア革命の原動力であった)の反乱は,そのきっかけとなった事件であるが,それによって,ロシア共産党内で,労働組合論争,戦時共産主義問題,赤軍(軍事問題),ソヴィエトの在り方,国家,プロレタリア民主主義,農村問題(食糧問題),等々,の問題が改めて路線論争のテーマに上せられた。それは党分裂を引き起こしかねない事態を引き起こし,いったんは一時的な緊急措置としての「分派禁止」によって封印されたものの,それらはロシアのプロレタリアートの解放事業にとって,現在でも解決が求められている現実的課題として残った。
たとえば,党外労農大衆によって構成されるべきとされた「労働者・農民監督局」は,後にスターリン派の拠点となってしまうが,この構想のレーニンのポイントは,党と労農大衆の接近であり,結合であり,党外労農大衆を統治の仕事につけることであった。それによって,スターリンの握る「書記局」を通じて党に浸透してきた官僚主義と闘い,党をその影響から解放する仕事を,労農大衆の統治能力の発展をテコとして進めようとしたのである。その場合,労働組合や党外労農会議・労働者・農民監督局・ソヴィエトなどの党の外にある組織と党の間の区別は鮮明なものであり,党の指導がそうした組織での労農大衆の支持を必要とすることは前提であった。
それはプロレタリア民主主義を発展させる闘いであった。国家を労農大衆の社会機関に変革する闘いの一部である。トロツキーにはこうした闘争を実践する機会は何度もあったが,結局,その機会を利用することはなかった。レーニンは述べている。
「労働組合を通じて「大衆」とむすびつくだけでは不十分であることを,われわれはみとめる。われわれの国では,実践は党外労働者・農民会議のような機関を革命の歩みのなかでつくりだしたが,われわれは完全にこれを支持し,発展させ,ひろげようとつとめている。これは,大衆の気持ちをつきとめ,それに近づき,彼らの要求にそい,彼らのなかからもっともすぐれた働き手をえらびだし,国家の職務につける,等々のためである。国家統制人民委員部を「労働者・農民監督局」に改造する件について最近出された一指令で,この種の党外会議が,各種の監督にあたる国家統制委員をえらぶ権利をあたえられている」(国民文庫=105 47頁)。
また,レーニンは,産別労働組合を通じて,そしてそれを共産主義者の党が,意識的に導くならば,共産主義の一大課題である分業の止揚に近づくことができる,つまり労働者が部分的で一面的な労働者でなくなる(解放される)と主張している。
ケーネンの「組織テーゼ」は,工場細胞を共産党の基礎とすることによって,事実上,革命の中心を工業地帯ー都市部に定めたものであった。
「VII 党組織の一般的構成について/四三,党の拡大強化のためには,地理的区分に基づく公式的な計画は避けるべきである。その地区の現実的な経済的政治的,また交通上の構成を考慮に入れるべきである。主な重点は,首都および大規模工業の中心地に置くべきである」(『コミンテルン・ドキュメント I 』 232頁)とテーゼは規定している。レーニンは,このテーゼの項目の一つ一つについては賛成するが,それを採択したのは間違いであったと述べている。しかしレーニンは,この項目自体については賛成であったのは間違いない。そうすると,レーニンには,別の「組織テーゼ」,「対案」,というものはあったのだろうか?
レーニンは,自身が出席できた最後のコミンテルン大会である第四回大会(1922年)で「ロシア革命の五カ年と世界革命の見通し」についての演説を行った。そこでレーニンは,「学習」することを強調した。
レーニンは,「われわれはこの点に関して,ロシアの同志にばかりでなく,外国の同志に対してもまた,いま始まりつつある時期における最も重要なこと――それは学習である,ということを告げなければならないと信ずる。われわれは一般的な意味では,学んでいる。外国人たちは,革命的活動の組織,構成,方法および内容を真に理解しうるようにするために特殊な意味において学習せねばならない。これを実行するならば,世界革命の見通しは,ただ単に良好というばかりでなく,絶対有利であろう,と自分は確信する」(同上 328頁)と述べた。
1922年10月30日には,イタリアでムッソリーニがクーデターを実行,ファシストにたいするゼネラル・ストライキの労働者の統一行動の機先を制されたイタリア共産党は,非合法活動に移った。しかしこの移行は,一年前から準備されていたのであり,このことは,イタリアでのファシズムからの解放の歴史的特徴を規定することとなった。約20年後,イタリア人は,ファシズムを自身の手で裁いて決着させることができたのである。
共産主義者の党が,「宣伝」を中心にしていた時期から,「活動」に軸をうつさなければならくなった交代の時期,すなわち,党が労働者大衆を社会主義社会の建設へと導いていかなければならなくなった時に,レーニンが,じっくり腰を落ちつけて「学習」することを提起したのは,ロシア革命が,過渡期における社会建設・文化革命の中身の目的意識性を獲得することなしに,社会主義革命を前進させることが不可能な段階に現実に入ったことを率直に表明したものなのである。
ロシア革命は,「国家の政治的権力の獲得のための階級闘争によらなければ,社会主義は実現できない」(『協同組合について』1923年,国民文庫=135c 242頁)のであるが,「国家権力がすでに労働者階級の手ににぎられ,搾取者の政治権力が打ち倒され,すべての生産手段(労働者国家が自発的に,一時的に,条件つきで,利権として搾取者に貸し出しているものを除いて)が労働者階級の手にある現在,事態はどう変化したか」(同)ということを具体的に見なければならないというところにきたのである。
革命ロシアの課題は,「いまでは,協同組合の成長そのもの(さきにあげた「わずかな」例外はあるが)が,われわれにとって社会主義の成長と同じ意味をもっている,と言ってさしつかえない。それと同時に,社会主義にたいするわれわれの見地全体が根本的に変化したことを,われわれは認めないわけにはいかない。この根本的変化とは,以前にはわれわれは政治闘争,革命,権力の獲得,等々に重心をおいていたし,またおかなければならなかったが,いまではこの重心が移動して,平和な,組織的な,「文化的」活動におかれるようになった」(同)のである。
国際的には,当時の共産主義運動が直面していたのは,第一次世界大戦の終結以後の,ロシア革命の勝利,ハンガリーでのソヴィエト共和国の成立とチェコ,ルーマニア,セルビアの武力侵攻による崩壊,イタリアでの工場委員会ー工場評議会運動とその挫折,ドイツでの評議会運動(レーテ)とその挫折,植民地での民族革命的運動(植民地解放運動)の高揚,帝国主義世界の再編(競争戦の激化),1922年イタリアでのムッソリーニによるファシズム・クーデターの成功,等々と激しい変化に富んだ激動の情勢であった。労働者階級の闘争が攻勢を強めることで国際革命の前進は疑いのないものであると考えられた。
しかし,資本主義は意外にタフであった。共産主義は,整然と退却し,再戦のために「学習」すべき時に入っていた。それは,どれだけの期間かわからないとレーニンは述べていたのだが,この「学習」の対象にはロシアの経験が当然入っている。
ロシア革命の重点は,革命の成果を固め,防衛することから,対外的な対応の必要を除けば,社会主義的な要素を全面的に発展させることに移されなければならなかった。その際に,農業の重要性は疑いのないものであった。食糧は,都市労働者・都市生活者の生命線である。農民を協同組合に組織すること,それは文化的な闘いであるとレーニンは言った。党の任務は,こうした活動によって,現実に農民の生活を向上させ,文化的に引き上げていくことによって,共産主義の側に農民を獲得していくことであった。しかしこのことは,つぎの注意を踏まえなければならないものであった。
「協同組合制度を支持するということは支持するというのは,ほんとうの意味で支持し なければならない。すなわち,この支持という言葉を,協同組合の取引ならなんでも支 持することだというふうに理解したのでは,不十分である。――この支持という言葉は, 実際の住民大衆が実際に参加するような協同組合取引を支持することだと,理解しなく てはならない。協同組合取引に参加する農民に報償を与えることは,無条件に正しい形 態ではあるが,そのばあい,この参加を点検して,その自覚性とその質の良否を点検す ることが,問題の核心である」(国民文庫=135c 237頁)。
大規模工業的な農業形態である農業工場としての大規模農場制度=ソフホーズなどをただちに導入することが,圧倒的な農業国であった革命直後のロシアでは不可能なことは,誰の目にも明らかであった。1917年のロシア革命は,農村での土地革命と,ボリシェヴィキらによる都市・工業地でのゼネストと街頭の大衆暴動の連結した都市蜂起とを,結合したことによって,全国規模での革命を成功に導いたのである。
この土地革命の結果,農村部では,地主などの土地が分配され,中農が大量に生み出された。ここで中農というのは,「経済学的な意味で「中農」というのは,おなじく(「小農」とー引用者)小さい地所ではあるが,第一に,資本主義のもとで,ふつう農家家族の生活をかろうじて維持するだけにとどまらないで,すくなくとも豊年には資本に転化することのできる若干の余剰を生じるような地所を,所有権または借地権にもとづいて保有しており,第二に,かなりしばしば(たとえば,二つないし三つの経営につき一つの割合で)他人の労働力を利用している小農耕者の」(同上 171頁)階層のことである。
農村においてプロレタリア的政策を実行できる可能性があるのは,農村プロレタリアートと半プロレタリアートであり,その点を考慮して,ボリシェヴィキは,農村において「貧農委員会」を組織し,そこを拠点にして,農村政策を実践しようとした。
しかし今やプロレタリアートの活動の重心は,「建設」に移らなければならなかった。党は,それに合わせて,生産・流通・消費をプロレタリア的なものへと変革していくことに重点を移さなければならなかったし,そうした社会主義社会建設「計画」の「目的意識性」を明確にし,それを実践に移さなければならなかった。革命ロシアでは,「新経済政策」(ネップ)は,そうした意味を持っていた。
国際革命の部面での一時的な「退却」とは,レーニンの場合は,トロツキー派が誤って捉えているように,社会民主主義への「退却」を意味するのではなく,労働者階級のもとへの「退却」を意味していた。レーニンにとってそれは改めて労働者のもとに整然と「退却」し,そこで「学習」し,再戦に備えることを意味していたのであり,それが社会民主主義が多くの労働者を組織しているような国,たとえば,イギリスでは,労働党に共産主義者が加入すべきかどうか,という形で,具体的な条件を考慮して,決定されるべきことであったのである。それだからフランスの場合には,アナルコ・サンディカリストとの組織合同をフランスの共産主義者に求めたのであり,一律に共産主義者の社会民主主義政党への加入戦術を求めたものではなかったのである。
それは社会民主主義への解消やそれに対する共産主義の屈服を意味するものではけっしてなく,労働者階級の多数を共産主義の側に獲得することにこそその意義があったのであり,社会民主主義との一時的で限定された共闘を「統一戦線」戦術として固定化することとは違うのである。
国際共産主義の「攻勢」の準備は,今や,「政治闘争,革命,権力の獲得,等々」に加えて,「平和な,組織的な,「文化的」活動」すなわち社会主義建設を含む,共産主義の新たな水準の「目的意識性」をもたなくてはならないものとなった。レーニンが言うのは革命がそうした段階に入ったということであり,そのために「学習」が必要になったということなのだ。これは,「赤軍」派がかつて批判したような,レーニンの後退などではけっしてなく,世界革命の最先端で必然的に逢着した課題を率直に言い表したものなのである。革命ロシアは,社会主義建設の実験地となった。その失敗をも含めて,国際共産主義運動の教訓の大きな源泉の一つとなったのである。ここで共産主義者は清算主義を断固として拒否しなければならない。
この場合に,この「学習」はもちろん永遠に続くわけではないし,それはいわゆる待機主義を正当化するものではない。その段階での総括をもって,党は労働者階級人民の中で働かなければならないのである。その場合に,社会主義社会建設の具体的な方策と任務についても,共産主義者が労働者階級大衆の中に持ち込むことが必要になったのである。党はそうした闘いの先頭にもたたなければならない,というのが,レーニン後期の党組織論の若干の考察によって引き出される教訓の一つだと考えるのである。
*なお、前期レーニンとか後期レーニンという区別を設けているが、これは,特に,深い意味があるわけではなく単に便宜的に分けたにすぎない。マルクスの場合,初期マルクスとか後期マルクスとかいう区別は思想上の党派性を表すものになっているが、そうした特別な意味を持たせるつもりは一切ない。誤解のないように記しておく。
(つづく)