共産主義者同盟(火花)

<書評> 『資本主義の現在』マルクス主義復活宣言(旭凡太郎著)

流 広志
206号(1998年10月)所収


ソ連・東欧などでのスターリニスト支配の崩壊をきっかけに,左翼の一部がなだれをうってマルクス主義から転向していったが,そうした連中というのは,程度の差こそあれスターリニズムを自身の身に帯びていたのに違いない。そうでなければ,スターリニストが倒れていく様を冷静にかつ当然の事態としてさわやかに眺められただろう。
 しかしそうはいっても,左翼にあって程度の差があれスターリニズムにまったく犯されていないということはありえない話である。資本主義社会に生きていながら,資本主義にまったく犯されていないとすればそれは幻想である。その点で,スターリニズムの総括は他人事としてではありえないし,そうした点からわれわれもまたまったく自由ということではない。そのことを踏まえながら,しかしだからといって,弱肉強食の資本主義が人類の幸福にとって望ましい制度であるなどという幻想などとうてい容認することはできない。アメリカ人が,永遠に豊かになり続けるという「ニューエコノミー論」の幻想(あるいはイデオロギーといってもよい)にだまされていたことが,いよいよ明白になろうとしている。そんな時代に,いまさら自由主義的資本主義の夢物語を聞かされ続けるのは興ざめでしかないだろう。
 そんな時代にあって,マルクス主義復活を堂々と宣言する本書が出版されたことはなんとさわやかな事件であろうか。そうしてそのさわやかさは,時代の本質から逃れようとせずにこれをまっすぐに捉えようとするその姿勢と態度の素朴さから生み出されたものなのである。現実と格闘しつつある思考が,言葉の列を整然と整列させるようなレトリックの巧みさと折り合うことはできるだろうか。マルクスが残した膨大な落書きのような格闘中のスタイルと,それをヘーゲルの論理学を参考にして『資本論』を書くときの態度とは違っている。本書のスタイルは前者の格闘中のスタイルであり,それがこの本を読むときの特有の困難さをもたらしている。
 内容は,資本主義論から第三世界論,国家論,オウム新宗教論,社会主義論・・・・と多岐に渡っており,それらをすべて論評することはとうてい不可能であり,また私の力量不足などもあり,必ずしも著者の考えを正確に捉えられるかいささか心許ない。しかし,そこには現在の共産主義や左翼にとって避けて通れない課題が存在する。したがって,その他の点でも不十分さを残すに違いないことを前置きしつつ,書評を試みてみたい。できうることなら読者自身が本書に直に当たることが最善であることを留意しつつおつき合い頂きたい。

『資本主義の世界』は大きく三篇に分かれている。「第1篇 資本主義世界の冒頭」には,近年の資本主義の特徴として,多国籍企業による競争戦の時代,「第一次,第二次大戦や大恐慌にも匹敵する仁義なき市場再分割戦」(21頁)と述べている。それは同時に,1920年代のアメリカにはじまる「フォードシステムとその労働・消費様式のもとでの,解消し難い,墓場までもっていくしかない過剰生産力(過剰蓄積)」(同)の過程であるという。
 そこで旭氏は,「情報革命を軸にアメリカ経済は新しい資本主義の段階にはいった。情報が支配的経済財となって,資源の制約をはなれ,競争と技術進歩が相乗効果をもって働く段階に達した」(22頁)とする「ニューエコノミー」派が誤っていることを指摘する。
 それは実際には,80年代にはサービス産業を育成し,大企業・工場でのダウンサイジングと呼ばれる大量解雇・合理化をすすめ,そこに失業者を低賃金労働力として吸収させて,大量失業による治安問題の深刻化を防ぎ,90年代には,情報産業に投資を集中,育成し,それによって産業界全体でのリストラ・省力化を強力に押し進め,それによって多国籍企業による世界市場での競争激化に対応しようとしたものだ,という。したがって,それは「多国籍企業化にともなう情報化投資の基本をしめる資本主義的リストラ機能,テーラー・フォードシステム以来の労働者の細分化・分断と管理の科学的集中,不安定・差別雇用体制という根幹」(23頁)を失っていないので,「情報化資本主義そのものが,フォードシステムとされる戦後資本主義の末期,矛盾の延命,加速という性格」(同)を脱しえたわけではないという。
 つづいて,新自由主義路線の下で,世界各国において,過剰生産力が顕在化したことを数字をあげながら例証し,そこから当然の帰結として,この事態が,恐慌なのかそれとも不況なのかという問題の検討に移る。その際に,「1.いわゆる周期的恐慌または景気循環と,産業構造の転換をともなう好・不況との関連,2.自動車を含む耐久消費財は,必ずしも生活必需品とはいえず,文化や政治ということと結びついている」(24頁)と問題を整理している。1.については,資本の側に資本投下の対象の決定と資本の有機的構成の決定が専管事項としてあることを前提として,市場(需要)が生産とは相対的に独立に形成されるという。このような「供給にたいする市場(需要)の独立変数的位置を定式化したのが,初期レーニンの『いわゆる市場問題によせて』であり,ケインズの有効需要の理論」(25頁)だというのであるが,この点については疑義がある。ケインズの有効需要の理論については,その基本として,貨幣数量説があり,これは貨幣価値説を取っているレーニンとは違っている。第二に,レーニンは市場を社会的分業との関連において指摘しているということである。「『市場』の概念は社会的分業――マルクスが言っているように,『あらゆる商品の生産の〈したがって――私としてつけくわえれば――また資本主義的生産の〉一般的基礎』であるもの――の概念と,まったく不可分である,ということにある。『市場』は,社会的分業と商品生産が出現するところで,またそのかぎりで,現れる。そして市場の大きさは社会的労働の専門化の程度と不可分に結びついている」(国民文庫=114.34〜35頁)
とレーニンは述べている。ケインズにはこうした視点はない。これによって「市場」の廃絶と社会的分業の廃止は不可分であることがわかる。第三に著者は用語上やや厳密さにかけているように思われる。理解を助けるために,『ふたたび実現理論の問題によせて』(同上 95頁)のレーニンの整理を引用しておこう。「マルクスは社会的総生産物を,現物形態の点では二つの部門に,すなわち(一)生産手段,(二)消費資料に区分していることを,読者に思いだしてもらおう。次に,これらの部門のおのおので,生産物は価値要素の点で三つの部分に,すなわち(一)不変資本,(二)可変資本,(三)剰余価値に,区分されるのである。」
 ところで,こうした総資本による総投資や有機的構成の決定という前提は,国家独占資本主義論を思い起こさせる。しかし確認しておかなければならないのは,投資をうんぬんする際には,これが実際に投資される前に,投資の規模や内容がすでに計画されているということであり,そうした意味で,投資の局面は,ブルジョアジーの目的意識と計画が存在しているということである。したがって,それは,投資額や利潤の目標値などがあらかじめ観念として存在し,それは総資本という立場から言えば,総投資のあらかじめの計画の可能性を意味することになる。ブルジョア的な意味での計画経済は,このことに基づいているということである。この投資決定の「計画」の段階では,貨幣は計算貨幣としてただ観念として存在しているだけである。それは投資の額や費用などを計算するのに用いられるだけであり,現実の貨幣自体は存在しなくてもよいのである。現実に,投資が行われても,支払いが信用によって行われるだけならば,ただ帳簿上の決済ですみ,理論的には完全な決済機構という前提の下では,現金はまったく不要である。この場合にこの部面でおこる貨幣恐慌という概念について明確にしておくことが必要である。支払い手段としての貨幣の機能の,媒介されない矛盾は,諸支払いが相殺されるかぎりは,支払い貨幣は,観念的に計算貨幣あるいは価値尺度として機能するだけなのだが,現実の支払いがなされる際には,貨幣は,流通手段としてではなく(流通手段としては,貨幣は,商品形態をとった物と物との交換−持ち手の交代−を媒介する形態として現れる),「社会的労働の個別的な化身,交換価値の独立な定在,絶対的商品として現れる」(『資本論』第1巻 第1篇 第3章 貨幣または商品流通 大月書店 1 242頁)のである。この矛盾は,生産・商業恐慌中に貨幣恐慌として現れる。貨幣恐慌が起こるのは,「諸支払の連鎖と諸支払の決済の人工的な組織とが十分に発達している場合」(同上)だけである。注意すべきは,「すべての一般的な生産・商業恐慌の特別な段階として規定されている貨幣恐慌は,やはり貨幣恐慌と呼ばれてはいても独立に現れることのある,したがって産業や商業にはただはね返り的に作用するだけの特殊な種類の恐慌とは,十分に区別されなければならない。このあとのほうの恐慌は,貨幣資本がその運動の中心となり,したがって銀行や取引所や金融界がその直接の部面となるものである(第三版へのマルクスの注)」(同上 243頁)という区別である。
 旭氏がここで結論しているのは,生産力と消費の間の矛盾の爆発としての恐慌という事であり,ある産業分野での投資が,全産業に波及してしまうと生産力過剰になって停滞するが,同時に,新しい産業分野への投資によってまた同じ経過をたどるということである。

 さてこのような末路に立っている資本主義から人々を脱出させるためには,「労働日短縮,労働者の統治・科学・管理経験への出費や探検・探求の条件の形成,被差別階層の自立支援,農業・自然環境の振興保全,第三世界への技術移転をふくむ自力更正支援,ということへの社会,経済,労働制度や,「投資」や,制度・理念全般の転換(革命)のみが,持続的発展をも可能とする」(30頁)と述べている。「さもなくばよりグローバルな多国籍企業による競争,弱肉強食,労働者相互の競争,差別,失業,勢力圏確保と支配のための侵略・戦争,そして恐慌という道のみが残されているわけである。(ドイツ,フランス等でのワークシェアリングの試みも,多国籍企業の競争戦にとってかわる道をぬきには困難なわけである。)」(同)というのである。しかし今日とりわけ気になるのは,やはり,環境汚染の進行であり化学物質の安全性のことである。この問題は,「ブルジョワ階級の組織,強制制度を危うくせざるをえない。すなわちプロレタリア階級への労働過程での支配をささえてきた消費や生活様式の転換は,労働者階級をして労働過程,科学,農業,都市や生活様式全般の見直しと統治への権利要求ならびに義務の設定へと爆発せざるをえないのだ」(同)と氏は述べる。
 この後の旭氏は,多国籍企業問題を取り上げる。「現在の多国籍企業は,帝国主義国においてはテーラー・フォード・オートメーション・コンピューター情報化資本主義というかたちで労働者階級を深く細分化・無力化し,科学的管理のもとに支配しつつ,消費文化,差別的福祉の下に再統合してき,それ自身が危機におちいっていることは述べた。直接投資を中心とする,第三世界の多国籍企業による工業化はある意味ではこの帝国主義の腐朽性あるいは排外主義的再統合,非自立的発展の一環ともいえる。/他方ではそれは第三世界の農村の解体,モノカルチュア,失業と都市スラム,輸出主導部門での工業化と多国籍企業支配深化の同時的発展,といった構造をもつくりだし,九〇年代アジア,八〇年代中南米の危機といった循環を絶えず繰り返している。/「多国籍企業」という場合にはこれら両側面を再生産してゆく構造ということになる」(31頁)。 
ここで旭氏は,国家独占資本主義=帝国主義と,第三世界=新植民地という世界の基本構造を再生産する機能を多国籍企業に見ていることになる。いわゆる,IMF・ケインズ的国独資・新植民地主義・侵略反革命同盟・フォード・ポストフォード的蓄積様式・という市場再分割戦の枠組みとの相互関連において,多国籍企業がある,というわけである。
 私は,国家独占資本主義論という立場を取っていないので,こうした分析には違和感がある。私は,基本的には,現在の資本主義世界はレーニンの『帝国主義論』の規定した段階にあると考えている。つまり,資本主義の最終段階である独占資本主義=帝国主義段階だということである。このことは,貨幣論や金融論,国家論が絡まっているので,国家論などを扱う後半で少し明らかにしたい。

 さて旭氏はつぎに第三世界問題を取り上げる(「第2章 資本主義と南北問題」)。「戦後の第三世界は,独立の形式化と反共政策が全面に出た新植民地期,開発独裁期を経て,軍事政権の民政移管(韓国八七年,ブラジル八五年)を通して新自由主義という新しい段階に入ったといえる」(77頁)。しかしながら90年代末の現時点では,新自由主義の崩壊過程の段階に入ったということを旭氏も認めるであろう。
 新自由主義の崩壊については,資本主義自体の行き詰まりということはもちろんだが,世界各地での新たな大衆的運動の高揚が大きな役割を果たしている。それは,例えば,旭氏が紹介している,1994年にメキシコ南部・チアパス州で蜂起したサパティスタの創意に満ちた戦いや,ヨーロッパでの新たなタイプのストライキ(フランスの公共労働者のストライキの際には,バス労働者が,路上生活者を救済施設へ輸送するためにバスを運転した)の高揚や,韓国での民主労総のストライキや,アメリカでのジャクソン師らを指導者とする新たな地道な黒人運動解放や反人種差別主義運動の闘い(こうした運動はアメリカ社会でのキリスト教右翼の反動攻勢をねばり強く切り崩してきた。その重要性は明らかなのだが,マスコミが無視しているために,実態が人々にあまりよく伝えられていない)・・・・である。
 旭氏は,第三世界問題について,いわゆる従属論を検討している。氏によれば,従属派は,「周辺構成体論(アミン)を,一国的な生産様式論として再構成しようとしている/すなわち多ウクラード社会,複合的生産様式,国家資本主義として第三世界を見,前資本主義の存在,資本主義への専一化傾向,遊休労働力の存在と上部構造(国家)の関係を見ようと」(78ー79頁)している。「つまり外国資本主義の侵入(貿易,投資)ならびに,中心部資本主義への輸出(農産物,鉱産物)を通してのみ発展した資本主義は,その周囲(三次産業,農園主・鉱山主・外国資本用奢侈品産業)においてのみ発展し,地場工業は外国資本に駆逐される。農園,鉱山地代収入は工業へ投資されず,奢侈品輸入か帝国主義本国への利潤,利子へと償還されてしまう。それゆえ周辺資本主義にあっては部門間,生産性,市場,等は相互に接合性・求心性がなく,それぞれが中心部資本主義によってのみ統合されている」(79頁)。もちろんこうした見方は,氏も指摘するように,急進的小ブルジョアジー性を表している。そしてここには国際分業という視点が欠けている,「周辺ブルジョアジー」と「中心ブルジョアジー」の共犯関係が不問に付されている,等々の問題があり,一国主義という限界がある。

 「第三章 国家論の発展とは」ではサブタイトルにあるように,グラムシとプーランザスを取り上げて,国家論を問題にしている。冒頭,「国家については,階級支配の道具であるとともに,幻想の共同性としての国家,ということで共通の認識が形成されてきた時期があったと考える」(115頁)と述べている。しかしこれは大ざっぱな認識であって,これでは現存国家をそれとして捉え,闘争対象とするにはまったく不十分である。氏は,「現実には階級が自己の利害とはなにかを見きわめること自体が問題として先行する」(同)というのだが,例えば労働者の賃上げが消費需要を拡大するので,そのことがブルジョアジーの利害となっているフォードシステムの下では,労働者の利害とブルジョアジーの利害とが現象上では一致してしまう。このことは,需要不足の際に,ブルジョアジーが,労働者を一時帰休させたい,工場を休業させたい,という時に,労働者がストライキをする場合にも起こる。そうしたケースについて,エンゲルスは『イギリスにおける労働者階級の状態』で指摘している。そうだからといって,そうした場合に,賃上げ闘争やストライキを行うことは階級闘争上はまったく無駄か,といえば,そんなことはまったくない。それはエンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』でも,レーニンの『なにをなすべきか』でもはっきりと指摘されている。このような工場や職場での工場主や経営者との直接的闘争は支配階級が国家−公的暴力として存在しているゆえに,この公的暴力を滅ぼさないでは,最終的な勝利を得ることができないのである。「国家ならびに階級闘争は,資本制生産様式の生み出す諸矛盾に対する支配階級(資本家階級)と被支配階級(プロレタリアート)の意識的・階級的「闘争」「解決」の場である。/意識的・階級的とは「自然成長的」「経済主義的」との関係において存在する。つまり資本制生産様式の生み出す諸矛盾の直接的現れである自然成長的な階級意識(プロレタリアートのみならずブルジョアジーにもそれはある)を目的意識的なものに転化することを通してそれは展開される」(118頁)。したがって,「資本制生産様式の生み出す矛盾」が個別の労使の闘争で一見して利害が一致してしまうようなケースでも,実は,国家という場では,それ固有の次元でこうした矛盾を反映し,闘争が行われているのだということである。それは極端な場合には,国家の分裂や機能停止などの結果を生む場合がある。ロシア革命での二重権力状態がそれであり,小さい規模では最近のインドネシアでもボスニア・ヘルツェゴビナでもあった。それは軍隊の分裂や二つの議会(会議)などとして現れた。「つまりブルジョワジーは直接的な個々の資本の利益,更に経済主義的な総資本の利益をも越えて,自己を政治的(意識的)階級として組織する。すなわちプロレタリアート・諸階級の運動を計算に入れて国家機構を通して政策化する(鎮圧・分裂・組織・同意)」(119頁)のであり,それを資本主義的生産の発展方向と不可分の方向で行う。したがって,近代ブルジョア国家は,ブルジョア社会総体との関連において存在することは確かで,それは,プーランザスの言うように,国家の相対的自律性に還元できないし,スターリン派のたんなる支配階級の便利な道具にも還元できるものではない。しかし,スターリン派が「上部構造を論ずる道を断った」のにたいして,プーランザスは,国家自体を踏み込んで具体的に分析しようとしたのである。それは例えば,「ある国家装置もしくは国家部門(例えばある省,優れて独占の諸利害を結晶化する省)の,権力ブロックをなす他の諸分派の抵抗の中心たる他の国家諸装置および諸部門に対する複雑な支配の形態。次に,あらゆるレヴェルでさまざまの国家装置および国家部門を統率し,短絡する国家貫通的 transetatique 組織網(こんにちでは国土整備地方振興庁がその事例です),特に,またその本質からして独占の諸利害を結晶化する組織網の形態。最後に,高級官僚団――国家内的であるだけでなく,国家と独占的実業との間での高度の流動性を付与されており(理工科学校,国立行政学院その他),また,やはり重大な制度的変化(有名な大臣官房や計画委員会等が現在担っている役割)を媒介としつつ,独占資本に利するような政治を運用する任にあたっている(またそのように運用せざるをえない)高級国家官僚の特別出向組の形成および作動回路という形態をとることができるのです」(『資本の国家』 ユニテ社 128頁)と述べていることに現れている。
 これは,例えば,ブルジョアジーどうしの利害が衝突しているような場合にこれをどのようにして調整するのか,という疑問に対する答えでもある。ただしそうしたものはマルクス・エンゲルスが答えていないというわけではなくて,日常のそうしたブルジョアジーどうしの利害争いがあるのは当たり前であって,その諸分派に分かれてあらそうブルジョアジーが一枚岩として団結するのは,ただプロレタリアートに対してだけなのである。問題は確かに,旭氏も言うように,これらのブルジョアジーの諸分派の差異が,その下部構造での利害から生まれているのだということを,プーランザスが忘れていることにある。もう一つ付け加えなければならないのは,社会的分業がそうしたブルジョア分派の発生におおいに関係していることを忘れていることである。社会的分業を国家−官僚組織が,組織構成としてもセクショナリズムとして反映しているのである。現在の改革派やハイエク主義・自由主義者は,社会的分業−市場を廃棄しないまま,国家のセクショナリズムを取り除くことを要求している。が,それはそもそも不可能であり,たんなる幻想である。
 旭氏の結論は,「国家=階級支配の道具,階級対立の被和解性の産物,の規定は全面的に正しい」「『市民社会の総括』『幻想の共同性』『「特殊利害−一般利害』『暴力』等の規定はこの文脈において理解されなくてはならない」(122)というものである。

 旭氏はつぎにグラムシの国家論を取り上げる。「グラムシが国家=政治社会+市民社会,「強制のよろいをつけたヘゲモニー」と言ったとき,国家=暴力ないしは幻想の共同体論に比し,国家の積極的意識的階級組織化(味方の統一,敵階級の鎮圧,分断,包合)という領域や,上部構造の領域を拡張した・・・・という意味では積極的意味がある。すなわち生産関係と形式的に分離した国家・上部構造のもとでの公然たる階級対立という資本制国家に接近したということができる。/この抑圧機構であり,階級支配の道具であり,階級組織化機能でもあるヘゲモニー国家としての性格を規定しえたのは,グラムシが国家・上部構造を労働過程−労働様式との関係において見いだすことができたからである」(128頁)。
しかし同時にグラムシは,第三インターナショナル(コミンテルン)の党組織論との関連についても考えてみなければならない。工場評議会運動の時点では,グラムシらの社会党−工場評議会−労働組合という−工場細胞を基礎とする党−共産主義国家の型と,一般に大衆が見なしていたという社会党−地区組織という社会党国家という二つの新しい国家の型についての対立する考えがあった。グラムシの「ヘゲモニー国家論」が本格的に登場するのは,コミンテルンが「党のボリシェビキ化」(ジノヴィエフ)を打ち出し,イデオロギー党化が進められて以後のことである。私見では,基本的には,グラムシ−プーランザス−ラクラウ・ムッフェらは(特にラクラウ・ムッフェは,第三インタ−マルクス主義を否定しているにも関わらず),このジノヴィエフの「ボリシェビキ化」の流れの中にある。グラムシが,ヘゲモニーという時,「どんな国家も,そのもっとも重要な機能の一つが,広大な住民大衆を一定の文化的および道徳的水準にまで,つまり生産力を発展させる必要性に,したがって支配階級の利害に合致する水準(または型)にまで高めることである以上,倫理的である」(『獄中ノート』三一書房 226頁)といい,旭氏が言うように,生産力から国家機能を説いている。生産関係から国家を説いてはいないわけである。したがって,社会的分業との連関も,帝国主義との連関も,そして現在ならば多国籍企業との連関も,その国家論からは基本的には排除されてしまう。それでは,やはり一国主義となり,スターリン派の「一国社会主義」可能論を越えられない。ただし,旭氏の場合,国家独占資本主義規定のために,やはりそれらの問題が本質的というよりもやや副次的に扱われているように思われる。つまり,社会的分業−国際分業を背景として,ブルジョアジーが,支配階級に組織された国家としてプロレタリアートに階級的に対峙しながら,国家組織の中で,個別的・特殊的な利害を分派闘争として展開していることを見失ってはならないということである。国家と独占資本を一体化してとらえる見方は,こうした現実を見失わせる恐れがある。スターリン派の単純な国家=支配の道具論が,単にプロレタリアートが権力を握りさえすれば,プロレタリアートの支配が実現すると見なして,受動的態度に陥ったのに対して,マルクスがプロレタリアートはできあいの国家をそのまま利用することはできない,これを粉砕し,変革しなければならないと言ったことやレーニンが晩年に官僚機構=国家を変革しようとした「晩年の闘争」を引き継ぐ闘いを発展させるという闘いを後景に追いやりかねないのである。

 さて主体性論がつぎに取り上げられる。主体性論は,現在も新左翼に大きな影響を与えている。これについては,いまさら特に言うこともない。だいたいが,「絶対矛盾の自己同一」などという西田哲学の観念的テーゼを持ち出していること自体が唯物論的マルクス主義に反している。旭氏が引用している「賃労働と資本とは現実的に対立していながら,資本が賃労働者の『疎外された労働』の集積であるという意味では同一性にある。これをわれわれは『賃労働と資本との矛盾的自己同一』というように表現する。・・・・これが資本制生産様式の根底によこたわる本質的矛盾」「この本質的矛盾の実現過程が,資本制生産の総過程であり・・・・」(『資本論百年』)」(162頁)というのは,資本を単なる生産手段と同一としたことから生まれたものであり,資本主義生産が旭氏もいうように,それが価値生産であり,また資本主義的生産過程が資本関係を生産・再生産するということを無視したものである。これは,資本をたんなる物として捉えることによって,ブルジョア的唯物論に止まっていることを示すものであり,観念論の残滓を残していることを意味しているのである。資本と賃労働が現実に対立しているのだから,それが同一といいうるのは,ただ観念においてのみなのである。結局のところ,西田哲学を観念論として批判しきれなかった唯物論の水準が問題であった。もちろん氏も指摘するように,資本主義批判の水準もまた問われねばならない。
 ところで旭氏は,物象化論を,資本関係抜きに貨幣論から説いている向きがあることを批判している。私もまた物象化論を強調している一人なので一言いわずにはおれないのだが,物象化論に着目する理由は,ソ連・東欧スターリニズム支配の崩壊を,貨幣・商品の廃絶まで進むどころか,その課題を後退させたレーニン・ロシア革命の進歩性への反革命体制の自己崩壊と捉えていることによる。こうした見方については,異論もあるようだが,私はそう考えている。なぜなら,最近,ようやく,ブルジョアジーも資本の自由化が進歩的ではなく人間社会にとって破壊的・反動的性格を持つことを認識しつつあるようだが,資本の本格的な規制に手を付けたのは革命ロシアであり,その課題はあるていど達成できた。しかし,そこからもう一歩踏み出そうとする時に,スターリン派は自然発生性に拝跪した。例えば,党員の質を上げようとしたレーニンの党政策を,特権を求めて殺到した入党希望者を「レーニン記念党員」募集として大量に入党させて,党の質を引き下げて,台無しにした。単純な国家=支配の道具説で,官僚制度−国家制度のプロレタリア的な変革を後退させた。社会的分業を廃絶するどころか,これをグロテスクなまでに発展させた。その一つは軍需産業の秘密都市というものである。したがって,市場は廃絶されるどころか,地下にもぐっただけなのである・・・・。

 オウム問題については,すでに,地下鉄サリン事件の最中に私なりの分析を行っている。オウム麻原にしても「幸福の科学」大川隆法にしても,自己聖化が甚だしいわけであり,それは俗世では「ゴーマニズム」とか呼ばれるものであり,自我肥大化である。これらの新新宗教が拡大したバブル期を振り返ると,この時代には,労働力不足の時期でもあり,労働者が取り合いになり,おだてられ,ほめられ,企業が労働者にたいして低姿勢で望んでいた時期であり,物質的には満たされ後は精神的に満たされるだけだ,ということが言われていた時代であった。
 同時に,誰もが資産を売り買いしているだけで富を増やすことができるような時代に,ブルジョアジーが,実際にはブルジョアジーは不要であるということになりかねない事態から,プロレタリアートの眼をそらせ,精神世界へとその関心を誘導しようとしたことがあるのだろう。そのことを裏付けているのが,「幸福の科学」であり,『ザ・リバティ』なる機関誌では,盛んにブルジョアジーを持ち上げ,ヨイショしている。それにしても,これは新新宗教に限らず,櫻井よし子氏という歯に衣着せぬ論客として知られるジャーナリストでさえ,ブルジョアジーの太鼓持ちを務めているということでもいいうる。一般にジャーナリストといえば,幻想的であれ,独立性とか自立性ということを基本姿勢としているものなのである。冷戦の終了によって,そうした見かけは必要ではなくなったということなのだろうか。宗教においても,そうした見かけは,いらなくなったということのようだ。
 オウム真理教について,旭氏はなぜ左翼はこれを宗教問題として扱わないのか,という。私見では,日本の左翼は,人権派や社会派の宗教団体や宗教者などと「統一戦線」を組み,あるいは共同行動を積み重ねてきた歴史があり,オウム問題を宗教問題というよりもテロリズムの問題,あるいは社会問題としてあつかいたがっているためである。そのために最近のオウムの復活をテロリズムの復活と見なす見解に傾いてしまうのである。しかしながら,やはり,宗教と社会という視点を失うべきではないと私は考える。オウム真理教の武装化については,宗教の仮面を被ったテロ集団(小浜逸郎など)といった皮相な見方でなく,旭氏の言うように,なぜ宗教集団が武装したのか,と問うのが,本質に迫るやり方である。私がオウムの復活という場合に注目するのは,こうした宗教を生み出す社会的条件が根本的には変化していないということである。「この世」の転倒,資本主義社会の倒錯性が一つも解消されていないのである。旭氏が,オウム問題を,資本主義の生み出した問題であると同時に,宗教問題として取り上げるのは正しい。それができないからこそ,ブルジョアジーはオウム問題をテロリズム現象としてしか対処できないのである。アメリカが,宗教勢力をカルトと名付ける時,この反対側には正しい宗教勢力としてのプロテスタンティズムのブルジョア分派が「神の国」(資本主義社会)の司祭として控えているのだ。
 現実世界の中では,旭氏が言うように宗教が相対化していっているというのは事実である。大体,人々が宗教に関わるのは,葬式などの現世的な必要時(習慣)であったり,現世的利益を得るために,自分の決意を固めたり,自己を鼓舞するためであったり,たんなる観光であったり・・・・である。ただし,出版界やマスメディアの中では,宗教的神秘主義は絶対的な意義を持っている。この矛盾は,一方では人々が幻想に囚われるように仕向けながら,本当に幻想に囚われた人間が自分たちを攻撃するのではないかという恐れに囚われて防備を固めたり,危機管理を叫んでいる姿に現れている。
 オウム真理教が持っている教義,ことに殺人を正当化するヴァジラナーヤという教義は,社会ダーウィニズムを内心では信奉している自由主義的ブルジョアジーの思想を宗教的に表現したにすぎない。ブルジョア社会で自身を本当に聖化できるのは支配階級であって,被支配階級にとってはそれはただ幻想でしかできないからである。ブルジョアジーになる夢に引きつけられているのは,上層労働者や小ブルジョアジーであり,こうした階層こそ,現実にはブルジョアジーではないが,明日のブルジョアジーとして幻想の中ではブルジョアジー化しているのである。現実には,独占資本や先行した諸企業が,行く手をふさいでいるのを除きたいと望んでおり,そのために,自由主義を後押ししている。古いものは淘汰されてしまえと望んでいるのである。
 麻原彰晃が,自分が最もかわいいというのが真理だ(194頁)というとき,この自分が個体としての自分という意味であるとすれば,それはまったく抽象的である。そうではなくて,もしそれが自我一般の事を指しているのだとすれば,この自我は社会的自我の問題であり,現存社会を問題にしていることになる。そしてそうなれば,霊性だの神秘だの思いこみなどではなく,資本主義社会の具体的分析・検討が必要不可欠となり,結局,それは唯物論を必要とすることになり,おそらくその結末は,観念論と唯物論の混合した混乱した認識に行き着くことになる。オウム解体の契機の一つは,こうした混合から唯物論への完全な移行という方向にある。もう一つは,宗教への社会の態度を変革することである(宗教法人法問題などを含んだ宗教批判)。それから,社会による規制と監視ということ,そして,資本主義批判の深化,オウム幹部による一般信者からの強収奪・強搾取を問題にし批判し,一般信者を救う(解放する)こと,・・・・である。しかし,なによりも,この現状,資本主義社会を現実に人間的な社会へと変革することである。

 「第三編 旧来の革命像の反転にむけて」は,旭氏自身に直接聞いたところでは,この著書のポイントとなる部分である。そうしてそれは,今日混迷と停滞の時代と言われている左翼や共産主義運動の情況を打破するためには欠かせない領域であることは確かである。もっとも,旭氏が言うように,プロレタリアートや被抑圧・被差別大衆の運動が混迷し停滞しているわけではない。そうした運動や闘いが,左翼や共産主義者の関わらないところでわき起こっているということであり,そうした運動とどのようにして結びついていったらよいか,わからなくなってしまって,ある左翼はそうした運動を持ち上げてその後衛になろうとしたり,逆に,そうした運動にいろいろとわけのわからないレッテルを張って統制しようとしたり,と迷走を続けているということなのである。そうした大衆的な運動自体がその運動の発展の過程で,運動の直接延長上に未来がないということは,政党結成の動きや他領域の運動との交流や連携の動きを強めていることや自らの理想や要求や新たな社会のイメージなどを綱領化したりという動きを見せていることでもうかがえる。左翼−共産主義運動と大衆運動のミスマッチはなぜ起こっているのか。迂遠に見えても,ロシア革命とは何だったのかとか従来の革命像の何が問題なのかとか,そういうところから,見直していく作業は,旭氏もいうように確かに左翼の側には必要だろう。

 そうした作業のポイントを旭氏は,資本の直接的生産過程の専制支配の転覆と変革というところに置いている。すなわち,「価格の自由決定機構ということと,資本による労働者への専制支配(それと技術・生産手段をふくむ,経営権)ということは密接不可分のものであり,このことが市場原理(競争)ということの根幹をなすと言うことなのである。/逆にプロレタリアートがみずから統治するためには『最小限』ここを押さえなくてはならないということである」(208頁)ということになる。しかしここで,市場を社会的分業と関連させていないのは,おそらくは,氏がその資本主義批判をグラムシや宇野経済学などの流通主義的理解を批判する形で行おうとしているからではないだろうか。こうした資本の生産過程での専制の制限ということは,ロシア革命時ばかりではなく,資本主義諸国においても,労働立法や機構を通して欺瞞的な形であるが存在しないわけではない。法によるそうした制限,たとえば,ブルジョア憲法において,工場主たる前に人間であれ,という転倒した要請といった形をとるものであれ,そうした工場主−ブルジョアジーの行き過ぎた専制支配にたいしてはなんらかの制限があるのが普通であろう。しかし基本的には,生産過程での労働処分権が資本の側にあることは確かである。
 このことを踏まえつつ,ロシアの現状を見ると,今では,エリツィン派の「改革」路線が行き詰まりを見せていることがはっきりした。エリツィン派を応援し,議会を弱め,大統領権限を強化することによって生き延びた官僚独裁を礼賛した「改革派」が,信用を落とす番となったわけである。そうはいっても,ロシア・プロレタリアート人民が非常に困難な情況にあることには違いはない。問題は,「一国一工場か,各工場自主管理か(あるいは協同組合),その中間か」(208頁)という制度の問題というよりも,「プロレタリアートの全国的意識性・自主性」(209頁)や「広い意味での労働組織(既述のごとく,流通や,精神活動や,管理や,死滅しつつある国家の公務や,障碍をもつ人々の自立支援や,これらと不可分の労働力再生産,を含んだ)における,そして労働組織にむけての人々の自主的ならびに意識的活動・自己統治への形成という問題である」(同)と氏はいう。
 旭氏はまずソ連・東欧で登場した「多元的社会主義」を取り上げる。「自主管理−限定革命,市場原理,複数政党等の多元論は,プロレタリア民主主義,自主的・目的意識的生産への組織化,労働指揮・管理の平等化の計画という基本原則をふまえ,その有機的一構成部分となることによって生命力を持つもの」(213頁)とのべ,それ自体で自立的に扱うことを否定している。ポーランドの自己限定革命は,「たとえ権力をプロレタリアートが掌握(全権力をソビエトへ)したとしても,全成員の科学習得や監督や経験の差異や階層の差異が存在し,統治の平等が実現されない段階ではプロレタリアートの独立の立場と下からの統制が必要であることを別の形で顕在化させた」(214頁)と評価している。「このことは,レーニンがすでに労働組合の国家機関化批判や,労働者による監督・専門家の雇用または監督や,工場での管理の学校と管理の機能の分離と統一,をめぐる論議として展開されていたことであり,スターリン下無視されてきたこれらを明示・顕在化してきたものとして,東欧・ポーランドの労働者運動はあった」(214頁)というのは,こうした運動を外から煽ってきた資本主義の側にとっても,自らに跳ね返りかねないような質を持っていることを意味しており,それゆえに,ソ連・東欧でのスターリニスト支配の崩壊が「共産主義にたいする資本主義の勝利」などととうてい手放しで喜べるような事態でなかったこともわかる。冷戦の産物であったはずのNATO(北大西洋条約機構軍)体制が逆に今,強化されているのは,そうした理由もあろう。そこにおいて,資本主義死滅への経験と実験が蓄積あるいは刻み込まれてしまったということが消し得ない実践として歴史に残ってしまったのである。こうした実践を上からの市場経済化によって,強権的に地下に埋めようとした「改革派」の試みは,つい最近,こうした実践の歴史的進歩性によって,ワーテルローの会戦で敗北したナポレオンのように,ロシアで歴史的な大敗北をきっしたのである。

 そこで過渡期とはどのような社会となるのか,が具体的な関心となる。それは氏によれば「資本の奴隷としてあったプロレタリアートがその地位からの終局的脱却に向けて,機械制大工業下で自己を管理−労働主体として訓練するものとして過渡期の社会は存在する。/それはプロレタリア民主主義=統治の平等とも同義であり,直接的生産過程における労働・労働指揮・分配の平等化と一体である。/これら全体が一連の有機的連関をもっている。それはまた,『国家の死滅』の条件であった」(216頁)という社会である。
 「このようにして全権力を掌握したプロレタリアートはコンミューン型国家の四原則(全人民武装,決定−行動団体化,リコール制,官吏の労働者なみ賃金)とともに,レーニンの国家死滅(機械制大工業に基づく機能転換容易化を基礎にした全成員による平等の統治)をも計画する。しかし,全成員による平等の統治が未だ習慣化,能力化するに到ってはいない段階では,専門家・監督への労働者への統制や,工場における管理の学校と管理の機能の分離(ロシア革命初期,労働者階級の未経験ゆえに,企業長の任命制や単独責任制という理念と反する制度を採用せざるをえなかった時に共産党で言われたこと)や,労働組合運動や各種社会運動による国家への批判・規制や,プロレタリアートの統治−統一への訓練の場の創造が重要な位置を持ち,プロレタリア民主主義の多層的構造を構成している」(218ー219頁)。
 このことは,「過渡期の基本をなすものが,計画か市場かないしは市場を含む計画か,ということではなく,プロレタリアートの自主的で目的意識的生産への計画的組織化という課題を,機械制大工業下での賃労働制の痕跡の止揚という形において実現することであり,市場,独立採算制等もこれらとの関係において存在すると言わねばならない」(221頁)というように,過渡期の課題を「賃労働制の痕跡の止揚」においていることからきているのである。賃労働とはいうまでもなく賃金(一般には貨幣)労働ということであり,したがって価値問題を除いては考えられない。残念ながら,この点については,旭氏の見解は不十分であろう。氏はモスクワ人民戦線の「労働や社会発展への関心が労働への誘因となる」という言葉を引いているが,それでは,とりわけモスクワなどの大都市で「改革派」が支持されている理由を説明できない。そこには,社会的分業−市場の止揚という課題が横たわっている。このことは,プロレタリアートの目的意識性にかかっているということなのであろう。
 さて,次に中国が取り上げられている。基本的な視点は同じであり,上述の視点から,「文化大革命」や天安門事件での民主派,中国共産党の路線や実践を,検討している。私には,現在の中国が,都市と農村の対立や精神労働と肉体労働の対立や貧富の差・不平等の拡大や民族対立の激化や幹部の特権の拡大や汚職・腐敗の増大が進んでいるという現実があり,天安門事件の民主派にしたところでそうしたことと無縁ではないように見える。課題としたい。

 「第四篇 歴史的論争から」は,日本の左翼の二大理論(講座派と労農派)の論争を取り上げている。労農派は戦後に宇野経済学によって宇野派を生み出した。労農派系としては,他に向坂派がある。旭氏は周知のように,1970年に,第二次共産主義者同盟(通称ブント)の第9回大会を組織した12・18ブントを担った一人である。12・18ブントは,日共・講座派や宇野派などの部分的な資本主義批判を全面的な資本主義批判・賃労働批判以外を拒否したことを肯定すべきだという。これはそのとおりである。
 旭氏は「生産過程・賃労働を交換関係の窓から見る」(288頁)という日共・講座派,宇野派の誤りについては,いうまでもない。宇野派の場合,それは,貨幣(価値)論を交換過程から説くという徹底した流通主義に現れている。したがって,過渡期経済の問題をほぼ流通問題に見ることとなっている。そこで,「社会主義市場経済」論なる迷論に迷い込んでしまったのである。とりわけ,「労働力商品化」批判には,「人間は売り物ではない」というヒューマニズムが対応しており,それ自体は,資本主義の非人間性への即自的反発としてあるものの,そこで止まっては,プロレタリアートの根源的解放にはほど遠い地点に止まってしまう。それは唯物論でいうならば,ブルジョア的唯物論の最高段階の直観的唯物論に止まる。

 日共・講座派の方はといえば,その資本主義批判は,「搾取のからくり」批判であり,旭氏の言うように,資本主義的生産は,生産過程が同時に価値増殖過程であって,それが剰余価値を生産する限りにおいて生産が行われるということを,つまり,生産過程において剰余価値が生み出され,これを資本家が生産物の取得という形で行い,しかる後に,その実現が市場において行われることをまったく捉えられていない。資本は生産物の領有という形で剰余価値を取得し,それを販売して,それを客観的価値=貨幣と交換することで,客観的価値として実現するのである。価値及び剰余価値は,生産過程で生み出される。価値自体は労働時間の対象化に他ならない。資本による剰余価値生産の強制は,機械と大工業が「1.不払労働時間の延長 2.生産手段の生産的消費−価値移転 3.労働力の抵抗を打ち砕く技術的基礎」(292頁)として存在することと「労働階級の就業部分の過度労働の容認が予備軍の隊列を膨張させ,この予備軍が就業部分に加える圧力が,逆に現役軍に過度労働や資本の命令への屈服を強制する。それらは労働過程における労働内容・労働指揮・位階位制・差別と結合し,雇用・賃金等全般にわたる競争・差別を加速し工場制度と共に労働者を資本に屈服させる武器とする」(299頁)という産業予備軍の存在によって行われる。
 日共・講座派の実践的帰結は反動的なものである。日共系の労組による外国人労働者を入れるなという主張は,こうした問題を資本主義にとって偶然と捉えていることからきている。こうした主張は,労働者に排外主義との闘いをではなく,排外主義への屈服を促すものである。部落解放運動においても,これを封建遺制とすることによって,資本主義的民主主義による解消という現実離れした主張をし,「現役・上層労働者の立場をつらぬいた」(295頁)のは,反動的である。部落解放運動において,外見上,差別が見えなくなっているのは,幹部や一部の人々がブルジョア化したり,それ以外の労働者や小商人などが資本主義の差別的位階位制的ヒエラルヒーの下に入ってしまったり,産業予備軍の在り方が,臨時工,社外工,派遣労働制度などとして制度化(法的認知など)して,その中に紛れ込みがちになっているからにすぎない。それに福祉制度などによって政策的に生活条件が底上げされていることもその原因の一つであろう。
 最後に宇野派批判がくるのであるが,先に触れてしまった。宇野派については,私としては,批判ずみなので,特に,付け加えることはない。私見では,宇野派は,すでに終わっている。ただし降旗氏のように,宇野派の解体によって,マルクス主義経済学が終わったとする意見はとうてい受け入れられない。むしろ,それによってやっと『資本論』などの資本主義分析や批判の真の復活の機会が訪れたのであり,そうした機会をつぶしてきたのが宇野派の学者たちであったというのが私の認識なのである。旭氏も言うように,宇野派は,資本主義の個別の悪にヒューマニズムを対置してきた小ブルジョア理論家集団であったのであり,個々の場合にプロレタリアートの立場に立つことがあったにしても,突然,ブルジョアジーの側に寝返るといった小ブル的動揺にプロレタリアートを巻き込んできたのである。

 さて,以上,旭氏の著書の書評を試みてみた。あまりにも,扱われている領域が広範であるため,私の力量の範囲を越えており,正確に紹介できたかどうか,心許ない。ところどころで,私見を加えてみたが,それも的外れのものもあるかも知れない。後は,旭氏や読者の判断に任せる他はない。旭氏は別の所で,批判を望むと述べており,批判−相互批判の活性化を望んでいる。
                                     (了)
 




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