労働運動を考える(2)
流 広志
205号(1998年9月)所収
1.エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』の労働運動論
(ウ) エンゲルスのストライキ論の特徴
エンゲルスストライキ論の特徴は,これを行為のレベルで捉えているということにある。もし,個々のストライキの動機や直接に掲げている目的という点からこれを見るならば,それらは多くの場合,労働者側がほぼ敗北があらかじめわかっているような,絶望的な闘いにほからない。そうだから,エンゲルスは,「労働者は,・・・・その手段の無効なことがはっきりわかっているような場合に,なぜストライキをやるのか」という問題を提起しているのである。
エンゲルスによれば,労働者がストライキを手段としてブルジョアジーと闘争するに際して,労働者が公然とかかげる目的,すなわち,労働者たちが明瞭に意識的に表象する目的・獲得目標と,労働者の共同行為が,この行為によって,意識下で,無意識に表示する目的は,異なっている。
労働組合が現実に目に見える形で要求するのは,賃上げや解雇撤回や労働条件の改善や改悪への反対することなどである。しかしその目的のために,ひとたび共同でストライキという手段を行使し,労働者が共同で行為するならば,それはもはや賃金法則そのものの廃止を要求する,共同行為による表現となるのである。しかしそのことを闘う労働者自身は知らない。労働者は,この闘争を通して,あるいはこの共同行為が終わって後に,はじめて,そのことに気づくのである。自分たちの行為の実際の意味を,後からその謎を解いてみて,はじめて知るのである。
2.ベンヤミンのストライキ論
20世紀のユニークで豊かな内容をマルクス主義思想につけくわえたユダヤ人マルクス主義思想家であるヴァルター・ベンヤミンは,ストライキというテーマについても独特で深い考察を加えている。
それは暴力というテーマについて一般的で根源的な考察を行っている『暴力批判論』というテキストの中で行われているのだが,それは最近,戦争は崇高だという類の薄っぺらな現象論に満足して終わっているような「戦争論」のあさはかさをきわだたせるような極めて深い省察である。それがマルクス主義思想家から生まれたことは誇るべきことである。そこで,少々詳しくかれのストライキ論を検討してみたい。引用はすべて野村修氏が編訳した岩波文庫からである。
ベンヤミンはまず暴力についての二つの法哲学,すなわち自然法と実定法の立場の対立は,「自然法は,正しい目的のために暴力的手段をもちいることを,自明のこととみなす」(30頁)のにたいして,実定法は,手段の合法性を問題にすることを明らかにする。
しかし両者は「正しい目的は適法の手段によって達成されうるし,適法の手段は正しい目的へ向けて適用されうる,というドグマをもつことにおいて一致する」(31頁)のである。しかしそれでは「一般に暴力が原理として倫理的であるかどうか,という問題は依然として残る」(30頁)。したがって,この問いに根源的に答えられないような法哲学(自然法・実定法)はきっぱりとしりぞけられなければならないとベンヤミンはいう。それは「歴史哲学的な法研究のほかにはないだろう」(33頁)というのがベンヤミンの立場である。そこで,かれは,当時のヨーロッパの法関係を取り上げる。
「現代ヨーロッパの法関係は,権利主体としての個人についていえば,場合によっては暴力をもって合目的的に追求されうる個人の自然目的を,どんな場合にも許容しないことを特徴的な傾向としている。すなわち,この法秩序は,個人の目的が暴力をもって合目的的に追求されうるようなすべての領域に,まさに法的暴力のみがそれなりのしかたで実現するような法的目的を,設定するように迫るのだ」(34頁)。その証拠は,教育者の処罰権を制限する法律の存在である。「この至上律からすれば,法は個人の手にある暴力を,法秩序をくつがえしかねない危険とみなしていることになる」(34頁)。
ベンヤミンは,ヨーロッパの法関係には至上律と正当防衛権の矛盾があると述べている。この矛盾は,国連憲章の法関係にも存在している。日本国憲法は,そうした矛盾の一つの解決形態であり,そこでは至上律が圧倒的な勝利を占めている。そうした意味で確かに柄谷行人氏が言うように,それはヨーロッパの近代法関係において解決できない矛盾を至上律の貫徹という形で解決したヨーロッパの近代法関係の進化形態にはちがいない。
法は,通常考えられているように暴力が法的に許容されている範囲を越えて行使されるからという理由ではなく,「それが法の枠外に存在すること自体によって,いつでも法をおびやかす」(35頁)という理由によって,禁止の対象にしようとする。破壊活動防止法や組織犯罪対策法(案)を貫いているのは,そうした態度なのである。しかし,近代国家が許容せざるを得ない暴力の行使権としてのストライキ権を具体的に考察するやいなや,その矛盾と階級性があらわになる。われわれは,国鉄労働者がゼネラル・ストライキを決行したときの国家・ブルジョアジーの恐れおののく姿を見ているので,そのことをなんなく理解することができる。ストライキ権は労働者の暴力の行使権であり,この権利が認められているというだけで,労働者はとてつもなく安心できるのである。同じように国家暴力の側でも,一種の被支配階級の不満のガス抜きの手段として,散発的で小規模な個別的なストライキを大目に見ることは,これをいちいち徹底的に抑圧するよりは,結果的には支配の安定に役立つだろうぐらいに考えている。しかし,そのような「もしその非行為が原理的に,中止した行為をある種の条件――行為そのものとはなんの関係もない条件であれ,また行為の外面を多少修正するだけの条件であれ――再開する,という態勢をとって行われるならば,そのような非行為にも,暴力のモメント,恐喝としての暴力のモメントは,いやおうなしにはいりこむ」(36頁)。
ひとたび,革命的ゼネラル・ストライキが発生するやいなや,国家は,「ストライキ権とは『そんな』ものではないといい,特別の措置をとる」(37頁)のである。国家が革命的ゼネストに暴力で対抗するときに最も恐れているのは,この暴力のもつある機能である。暴力がたんに「任意の目標を直接的に確保するための,たんなる手段にすぎない」(38頁)ならば「暴力が達成できる目的は掠奪ぐらいしかない」(同)。しかし,ストライキはこれと違って「法関係を確定したり修正したりすることができる」(同)のである。
同じように,戦争権(交戦権)が認められていることは,戦争暴力が講和という新たな関係を新たな法として承認することを必要とすることを意味する。したがって,「自然目的のためのあらゆる種類の根源的・原型的な暴力としての戦争の暴力に即して,結論をだしてよいとすれば,この種の暴力のすべてには,法を措定する性格が付随している」(39頁)。そうした意味で,交戦権とストライキ権は,法措定的暴力の範疇に入る。
これに加えて,一般兵役義務から形成されたミリタリズム(軍国主義)の分析を通じて,もう一つの暴力として,法維持機能を持つ法維持的暴力の存在を明らかにする。この両者が混然一体となっているのが,警察権力である。「警察暴力は法を措定する――というのは,その特徴的な機能は法律の公布ではないが,法的な効力をもつと主張するありとあらゆる命令の発動なのだから。また警察暴力は法を維持する――というのは,法的目的の御用をつとめるから」(44頁)。
警察暴力が介入する領域は,国家目的が法秩序によって達成できなくなっているところであり,「だから警察は,明瞭な法的局面が存在しない無数のケースに介入して,生活の隅々までを法令によって規制し,なんらかの法的目的との関係をつけながら,血なまぐさい厄介者よろしく市民につきまとったり,あるいは,もっぱら市民を監視したりする」(44頁)のである。
しかし他方で,「抗争する人間相互の利害を調整するのに,暴力的手段以外の手段はないのか」(45頁)という当然の疑問がわく。議会は,その起源においても結末においても,法措定の暴力を代表するので,そのことを忘却しているために,有効な政治的役割を果たせず,〈次善の策〉としての妥協に走っていく。そのために,「議会の没落は,政治的紛争の非暴力的調停という理想から,多くの人々をそむかせてしまった」(46頁)のである。ベンヤミンはボルシェヴィキの議会主義批判を正当なものと認めながら,「すぐれた議会」を望ましいものとしている。この点でも,レーニンの左翼共産主義批判の見地を承認している。しかし,議会は,起源にも終末にも暴力をまといつかせた法秩序に到達するだけなので,「原理的に非暴力的な政治的合意の手段を論じるときに,議会主義を持ち出すことは」(47頁)不可能であるとベンヤミンは言う。それでは,「原理的に非暴力的な政治的合意の手段」はいかなるものなのか?
ベンヤミンは,暴力という合法・違法の多種多様な手段と非暴力という純粋な手段という区別を導入する。「非暴力的な和解は,こころの文化が,人間の手に合意の純粋な手段をあたえたところでは,いたるところに見いだされる」(47頁)が,それは「こころの優しさ,情愛,和やかさ,信頼など」(同)を主体的条件とする。この「純粋な手段」は,直接的ではなく,つねに間接的な解決の手段であるという法則に規定される。それは,人間が言語という物が純粋な手段としてかかわるようなケース,すなわち,市民による話し合いがその基本的な例である。しかしそうした「話し合い」が,非暴力的な和解が可能であるばかりでなく,「暴力を原理的に排除していることが,ある重要な点で――つまり,嘘が罰せられないという点で――はっきりと証明されなければならない」(48頁)とベンヤミンは言う。そうでなければ,原理的に非暴力的な和解を可能にする「純粋な手段」としての,また,「暴力がまったく近寄れないほどに非暴力的な人間的合意の一領域,「了解」のほんらいの領域」(同)である,言語の純粋さをうしなうことになるからである。 ベンヤミンは,詐欺は,それ自体が暴力を伴わないために,古代の法秩序ーローマ法やゲルマン法ーでは,処罰の対象ではなかったことをその証拠にあげる。後代の法は,欺かれた者がふるうかもしれない暴力への恐怖から,詐欺を禁ずるようになったというのである。同じことが,国家がストライキ権を容認したことにも現れている。「法がストライキ権を認めるのは,面とむかうのが怖ろしい暴力的行為が,それによって防げるからなのだ」(49頁)。エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』で記述しているように,労働者を搾取から保護する諸法律や制度ができるまでは,「労働者はすぐにサボタージュに走ったり,工場に火をつけたりしたもの」(同)なのである。
しかし,暴力的対決は,その勝敗にかかわらず共通の損害を生じさせるかも知れないという恐怖は,非暴力的な解決への有力な動機となる。これは私人間の争いの場合にはしばしばみられ,ありふれている。しかし,勝者をも敗者をも強力に規定する高次の秩序を実現する階級闘争や国家間の争いの場合は,その純粋な手段は異なる。
ここでベンヤミンは,アナルコサンディカリズムの理論家と見なされているソレルのストライキの分類を,政治的区別であるとしながらも,これを受け継いで,政治的ゼネストとプロレタリア・ゼネストの二種類のゼネストを対置する。政治的ゼネストは,国家の力量をそのままにして,権力を特権者の一グループから別のグループに移し,生産者大衆を別の主人の下に移すだけである。それに対して,プロレタリア・ゼネストは,「国家暴力の絶滅を唯一の課題とする」(51頁)のである。それは,国家が,「総体の負担による各種企業によって利潤をあげる支配グループの,存在根拠」(ソレル 同)であるためにそれの廃絶のみを目指すのであり,権力奪取にともなう物質的利益には眼もくれない。「前者のかたちの労働停止が,労働条件の外面的な修正を呼びおこすものにすぎず,したがって暴力であるのにたいして,後者は純粋な手段であり,非暴力的である」(51頁)。
国家は,「純粋な手段」として暴力をまったく含んでいない行動に対して,「効果のみを眼にとめる国家は,まさに非暴力的なプロレタリア・ゼネストをこそ――これと,事実上は恐喝的な大多数のストライキとは,対照的なのに――暴力呼ばわりして,これにまっこうから対峙してくる」(52頁)。プロレタリア・ゼネストは,革命のなかでの本来の暴力の展開を減少させる。
ベンヤミンは,国家間の諸関係においては,仲裁裁判所よりも,外交がそうした「純粋な手段」として役立つだろうと述べている。
つづけて,ベンヤミンは,権力を目的とする神話的暴力の批判に向かう。「直接的暴力の神話的宣言は,より純粋な領域をひらくどころか,もっとも深いところでは明らかにすべての法的暴力と同じものであり,法的暴力のもつ漠とした問題性を歴史的機能の疑う余地のない腐敗性として,明確にする。したがって,これを滅ぼすことが課題となる」(58頁)。このような神話的暴力の停止を命じる純粋な直接的暴力は存在するのだろうか。
「いっさいの領域で神話に神が対立するように,神話的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば,神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば,後者は限界を認めない。前者が罪をつくり,あがなわせるなら,後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら,後者は衝撃的で,前者が血の匂いがすれば,後者は血の匂いがなく,しかも致命的である」(59頁)。神的暴力の例として,『旧約聖書』民数記のコラにたいする神罰をあげている。コラとその一味は,地面に飲み込まれ,「生きながらよみの世界に下った」。これ以上はストライキ論とは直接には関係ない。ストライキは,プロレタリアートの革命的行動の一部であり,革命的暴力という領域の一部に含まれるものである。
ベンヤミンが言うように「暴力批判論は,暴力の歴史の哲学である。この歴史の「哲学」だというわけは,暴力の廃絶の理念のみが,そのときどきの暴力的な事実にたいする批判的・弁別的・かつ決定的な態度を可能にするからだ」(63頁)というのは,きわめて深い洞察である。同じように資本主義廃絶の理念のみが,現存社会への根源的で批判的な洞察を可能にする。「互いに依拠しあっている法と暴力を,つまり究極的には国家暴力を廃止するときにこそ,新しい歴史的時代が創出される」(64頁)のである。純粋な神的という印章を帯びた暴力がいつどのような形で現れるかを知ることはできない。それは現在ならば,無意識と呼ばれるような領域で起こるからである。資本主義が,物像という形態で人々の無意識を捉えている,ちょうどその領域で,そうした神話的物像の暴力を滅ぼすからだ。そうしてそれは,ベンヤミンの考えからして,プロレタリア・ゼネストが純粋な手段であるように,「純粋な手段」が現れているようなすべての領域がその作用領域であって,「話し合い」であってもその作用は変わらない。このような特徴をもつ一切の純粋な手段が含まれるのである。
ベンヤミンのストライキ論をやや詳しく見てみた。かれは,エンゲルスのストライキ論を包括しながらもより暴力を対象とした国家論を含んだ根源的な革命論の展開の中にそれを位置付けようとしている。エンゲルスが,なぜ労働者はストライキに熱中するのか,と問いながら,これをあまり具体的には解明しないままであったのを,かれは,ソレルの理論を参照しながら,解明を進めた。これによって国家・資本と闘争する戦闘的労働者は,国家やブルジョアジーが押しつけようとする腐敗した法道徳の誘惑に惑わされることなく,その闘争を発展させられるだろう。
3.マルクス・エンゲルスの協同組合論
(ア) マルクス・エンゲルスの生産協同組合論について
エンゲルスは当時イギリスで熱病のように拡がっていったストライキについて記述しながらも,それでは労働者を解放できないことを理解していた。マルクスとの協働が発展し,国際労働者協会(第一インターナショナル)が結成されると,賃労働を廃止した後に協同労働がとってかわることがはっきりとうちだされる。すでに,オーウェン,フーリエ派などによる協同組合工場の実践が存在していた。しかしそれらの試みは失敗していったのであり,そのままでは,新たなプロレタリア社会の生産・消費・流通の基礎組織となることができないということもあきらかであった。
『国際労働者協会創立宣言』では,イギリスでの10時間労働法の成立を中産階級の経済学に労働者階級の経済学への屈服として評価しながら,この所有の経済学の労働の経済学の大勝利の証拠として,協同組合労働をあげている。『国際労働者協会創立宣言』は,ロバート・オーウェンの協同組合工場の実験を「これらの偉大な社会的実験の価値は,いくら大きく見つもっても大きすぎることはない」(国民文庫=17 29頁)と最大限の賛辞を与えている。その理由は,それが,1.大規模な,近代科学の命法にしたがう生産は,ブルジョアジーが存在しなくても可能であること,2.労働手段のブルジョアジーによる独占は不要であること,3.賃労働は,一時的な,おとった形式であり,それに協同労働がとってかわられるべきであること,を行為によってしめしたからである。
協同組合労働については,『国際労働者協会ジュネーブ大会への指令』でマルクスが記述してるものがあり,これはまとまっているので長いが引用しておこう。
「国際労働者協会の任務は,労働者階級の自然にうまれてくるいろいろの運動をたがいにむすびつけ,一般化し,それに統一性をあたえることにあり,どのような種類のものにせよ,ある学説の体系を運動に命令しあるいはおしつけることにはない。それゆえ,大会は,協同組合組織のなかで特別の〔たとえばプルードン〕方式に味方するのではなく,若干の一般的な原則を宣言するだけにとどめなければならない。
(a) われわれは,協同組合運動は階級対立に基礎をおく現在の社会を改造する原動力の一つであることを承認する。この運動の大きな功績は,労働を資本に隷属させる現存の専制的で,貧困をうみだす制度を廃止して,自由で平等な生産者の協同社会という共和的で,幸福をうみだす制度でおきかえる可能性を,実地にしめしているところにある。
(b) しかし,個々の賃金労働者がその結合によってこの運動にあたえるような零細な発展形態にかぎられた協同組合運動は,それ自身の力で資本主義社会を改造することはけっしてできない。社会的生産を自由な協同組合の大規模な,調和ある制度に転化するためには,全般的な社会的変化,社会の全般的な条件の変化が必要であるが,このことは,社会の組織された強力すなわち国家権力を資本家・地主の手中から労働者自身の手中にうつすことなしには,けっして実現できない。
(c) われわれは,消費協同組合よりもむしろ生産協同組合にたずさわるよう,労働者にすすめる。前者は現代の経済組織の表面にふれるにすぎないが,後者はその基礎を攻撃する。
(d) われわれは,すべての協同組合が,その総収入の一部をさいて,実例ならびに指示により,いいかえれば新しい協同組合工場の設立をうながすための理論的および実践的手引により,協同組合の原理の普及をたすける基金をつくるよう,すすめる。
(e) 協同組合が普通のブルジョア的株式会社に変質するのを避けるために,そこではたらく労働者は,株主であるものもないものも,みな平等の分けまえをうけとらねばならない。われわれは,たんに一時的な措置として,株主が低い利率の利子をうけとることを承認する用意がある」(同上 44〜45頁)。
ロバート・オーウェンなどによる協同組合工場の実験は,それが社会的に決定的な規定力をもつまでに発展させられなければ,ブルジョアジーの博愛主義の範囲内に止まるほかはない。この協同組合工場の実験は,すでに百数十年の歴史をもつにいたった。レーニンは晩年には,協同組合をつうじて共産主義へ前進する道について強調していたが,スターリン支配以後,ソ連・東欧でその実験が発展させられることはなかった。
協同組合工場の実験については,マルクスは『資本論』のなかでも最大限の賛辞を与え,恐慌の最中にでさえそれが発展していく高度な経済組織であると述べている。
(イ) エンゲルスの農民協同組合論
エンゲルスは,農民協同組合についても述べている。これは,プロレタリアートの農民・農業問題にたいする態度の領域にはいるものである。したがって,それは労働運動そのものではないが,しかし共産主義が,都市と農村の対立の廃止を,工業と農業を接近させることとして,とりわけ都市労働者は農業に関わることとして,今後ますます重要さを増してくる領域であることも確かである。寄り道となるが,少し詳しく押さえておこう。
エンゲルスは,1894年に『ノイエ・ツァイト』に掲載された論文『フランスとドイツの農民運動』の中で,農民の協同組合について書いている。農民協同組合といっても,それは,小農(「ここで小農というのは,通常自分自身の家族とともにたがやすことのできないほど大きくなく,家族をやしなえないほど小さくはない一片の土地の,自作者または小作者ーと解する」(国民文庫=15 124頁))のことであり,貨幣経済と大工業の発展とともに,「税金,不作,相続による財産の分割,訴訟」(同 125頁)によって高利貸のところにおいやられ,そうしてそのままでは没落し,プロレタリア化が不可避な農民の協同組合のことである。
未来のプロレタリアとして,小農は,社会主義の主張を身近なものとして理解するはずである。ところが,「彼の血肉にしみこんだ所有意識のために,そうするのをさまたげられている。彼のあやうくされた猫のひたいほどの土地の維持のための戦いが困難になればなるほどますますがむしゃらな絶望をもってそれにしがみつき,それだけにいよいよ,全社会への土地の引き渡しをうんぬんする社会民主主義者を,高利貸や弁護士と同じような危険な敵と見るようになる」(同 126頁)のである。小農の小生産手段所有による自己労働と,共同所有,協同生産,協同労働・消費,を結合する具体的な形態である農民協同組合は,この時代には「ライン諸州ではすでに存在してい」(同 127頁)た。
小農の没落の条件である小土地所有から,その発展の条件である共同所有へと移行する場合に,それをもっとも痛みすくなくし,犠牲を最小にすることができる。強制によっては,真の意味で共同所有と共同耕作の高度な形態を実現することはできない。それはスターリンによる強制的な農業集団化の教訓でもある。
マルクス・エンゲルス・レーニンのうち誰一人として,強制力による農業集団化などを主張しなかった。わけのわからないブルジョア学者だけが,まったく不当で誤ったブルジョア的観念論の手法を使って,空想的な演繹法で引き出した勝手な結論をもって,マルクス主義からスターリニズムが発生したのは必然的だったとする馬鹿げた結論を導き出している。そうした連中の手法を使えば,ハイエクの自由主義からファシズムが必然的に発生したのだという結論を導き出すことも可能だろう。空想から空想を伝わって望ましい空想にたどりつければ,それでよいわけだ。こういうスターリニズムとファシズムの区別もつかないような連中に知識人面されてはたまったものではない。全体主義という概念についても同じである。それについて明瞭な観念を持てない。明証性がない。これは全体主義という概念が虚為の概念だからではないのだろうか。
小農にたいしては,「力づくではなく,実例とそのための社会的援助の提供とを通じて,小農の私的経営と私的所有とを協同組合的なものへうつしいれること」(同 140頁)が必要である。そして,エンゲルスは,デンマークの社会主義者がしていた計画について述べている。
「それによると,一村あるいは一教区――デンマークには大きな個人農場がたくさんあるから――の農民が,その土地をいっしょにして一大農場とし,それを共同勘定で耕作し,もちよった土地,現金出資,労働給付の割合に応じて収穫を分配することになっている。デンマークでは小土地所有は副次的役割しか演じていない。しかし,この考えを分割地所有の地域に応用して,いくつもの分割地をいっしょにあわせ,それの総面積に大規模耕作をおこなうなら,これまで就業していた労働力の一部があまってくることがわかるだろう。この労働力の節約にこそ,じつに大規模耕作のおもな利点の一つがあるのだ。これらのあまった労働力にたいしては,二つの道で仕事を見いだすことができる。すなわち,隣接の大領地からとった追加の地面をこの農業協同組合につかわせるか,さもなければ彼らに,なるべくそして主として自家消費のために工業的副業の手段と機会を見つけてやるかである。どちらのばあいにも彼らの経済状態を改善することになり,それと同時に社会の総指導部に,農民協同組合をしだいにより高い形態にうつしいれ,その協同組合全体ならびにその各成員の権利義務を,大共同社会の他の諸部門のそれと平均させるのに必要な影響力を保障することになる。このことが個別的に,各個の場合にどのように実行されるかは,そのばあいばあいの事情と,またわれわれが公権力を掌握するときの事情とによってきまることであろう。協同組合の抵当債務をそっくり国有銀行に肩がわりさせて利子を大幅にさげるとか,大経営の創設のために公共の財源から前貸するとか(かならずしもあるいはとくに貨幣の形によらず,必要な生産物自体,つまり機械や,人工肥料,等々の形での前貸),またその他の便益を〔提供することができるだろう〕。/それでもやはりかんじんなことは,それを協同組合的な所有と経営へと転化させることによってのみ,彼らの家と畑の所有をすくってやることができるのだということを,農民にわからせることであるし,また今後もそうであろう。個人所有にもとづく個人経営にしがみついているかぎり,彼らはまちがいなく家屋敷から追われ,その古くさくなった生産様式は資本主義的大経営によっておしのけられる。事情はこうなっている。そこへわれわれがやってきて,農民に彼ら自身で大経営を――だが資本家の勘定でではなく彼ら自身の共同の勘定で――とりいれる可能性を提供する,これが彼ら自身の利益になり,またそれが彼らの唯一の救済手段であることを,農民にわからせることは,はたしてできない相談だろうか?」(同 141〜142頁)。
(以下,続く)