労働運動を考える(1)
流 広志
204号(1998年8月)所収
2ヶ月にわたって世界トップの自動車メーカーGM(ゼネラルモータース)社を襲ったストライキは終わった。この間,全米自動車労組傘下のGM労組は,主要部品を製造してきた二つの系列工場でのストによって,GM自体の自動車生産をストップさせ,さらにGM全体での圧倒的多数でのスト権確立まで闘いを進めた。深刻な経済危機に見舞われているアジアでは,韓国での現代自動車をはじめとする全般的なストライキの波が襲っている。インドネシアではガルーダ航空などでのストライキが,そしてフィリピンでも航空労働者の闘いに連帯するストライキが計画されている。
日本はどうか。戦後最大の経済不況に見舞われ,リストラによる労働者の解雇や企業倒産による失業者が増加しており,失業率は戦後最悪の4.3%に達している。それにも関わらず,全日空労組など一部の労働組合を除いて,労働組合は闘っているのかどうかよくわからない。大労組は,口先ではリストラを批判しているが,実際には企業の合理化計画をつぶすような闘いは行っていない。それどころか,先の電気連合の大会では,能力給の導入に組合側から自発的に賛成するありさまで,これではとうてい組合員の生活を守れるわけがない。労働組合の存在意義が問われるのも無理からぬことである。
この危機から社会を脱出させる力は,プロレタリアートの社会的な結合した力以外にはない。その点で何が問われているのかを考えてみたい。
1.エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』の労働運動論
(ア) 労働運動とストライキ,競争一般の廃止
エンゲルスは,『イギリスにおける労働者階級の状態』を,1845年に出版した。産業革命の先進地イギリスでのプロレタリアートの状態はひどいものであった。穀物法をめぐり,あるいは工場法をめぐり,また救貧法をめぐり,等々の法をめぐるブルジョアジーとプロレタリアートの闘争は,同時に,組織を生み出しながら進められたプロレタリアートのブルジョアジーにたいする闘争と絡み合いながら,並行して闘われていた。「労働運動」という章でエンゲルスはいう。
「労働者にとっては,自分の生活状態に全面的に反対するよりほかには,自分の人間性 を実証するための活動分野がなに一つ残されていないとすれば,労働者は,まさにこう した反対をしているときこそ,最も愛すべき,最もけだかい,最も人間的なものとして あらわれるにちがいないことはいうまでもない。われわれは,労働者のあらゆる力,あ らゆる活動がこの一点にむけられているということ,またそのほかの人間的な教養を習 得しようとすることでさえも,すべてこの一点と直接関係している,・・・もちろんわ れわれは,いくつかの暴行や,蛮行についてさえ報告しなければならないであろう。だ が,イギリスでは,社会戦争が公然とおこなわれているということ,そしてこの戦争を, 平和の仮面や,博愛の仮面さえつけて偽善的におこなうことが,ブルジョアジーの利益 であるとするならば,労働者にとっては,真実の関係を暴露し,この偽善を粉砕するこ とだけしか役にたつことができないということ,したがって,ブルジョアジーとその召 使とにたいする労働者のきわめて暴力的な敵対行為でさえも,ブルジョアジーが,労働 者にたいしてひそかに,ずるがしこくおこなっていることの公然たる,むきだしの表現 にすぎないということを,いつも考慮に入れておかねばならない」(国民文庫 129〜 130頁 以下同じ)。
労働運動は,当時のイギリスにおいては,「社会戦争」であり,結社の自由がプロレタリアートにまで認められるようになるまでは,労働者の闘いはもっぱら秘密結社による闘争であった。1824年に自由な結社の権利が認められるようになってはじめて,イギリスの労働者は労働組合を公然と結成できるようになった。
この労働組合の目的としてエンゲルスがあげているのは,ブルジョアジーの暴虐と無視からひとりひとりの労働者を守ること,賃金の確定・調整,雇い主との交渉,賃上げ,同一職業同一賃金を実現すること,労働需要を高めて高賃金を維持すること,新しい機械や道具の採用による賃下げをできるかぎり阻むこと,失業者の救済,である。
エンゲルスは,イギリスの労働運動の展開を記述するに際して,ストライキという手段を中心にしている。しかし,「労働者は,・・・その手段の無効なことことがはっきりとわかっているような場合に,なぜストライキをやるのか」(同上 137頁)。
「それはまったく労働者が,賃金の引下げ,およびこのような引下げの必要性そのもの にたいして,抗議しなければならないからである。また労働者は,自分たちが人間とし て環境に順応するのではなく,環境のほうが自分たち人間にしたがうべきである,と宣 言しなければならないからである。労働者が沈黙していれば,こうした環境を認めたこ とになり,好況期には労働者を搾取し,不況期には労働者を飢えさせるブルジョアジー の権利を認めたことになるからである。労働者は,まだあらゆる人間的感情を喪失して しまっていないかぎり,このようなことにたいして抗議しなければならない」(同上 137頁)。
イギリスの労働者は「自分の抗議を行為によってあらわす実際家」(138頁)である。このような抗議は,「ブルジョアジーの金銭欲を一定の限界内に抑制し,有産階級の社会的・政治的全能の力にたいする労働者の反対を活発にするとともに,一方,たしかにこの抗議はまた,ブルジョアジーの支配をうちやぶるためにには,労働組合やストライキ以上のなにかが必要であることを,労働者にいやおうなしに承認させる。しかし,これらの組合と,これらの組合からおこってくるストライキにたいして独自の重要性をあたえるものは,それが,競争を廃止してしまおうとする労働者の最初の試み」(138頁)という意義を持っている。
労働者の闘争が競争一般の廃止を要求するに到ったことによって,「労働者が,もう二度と買われたり売られたりしないと決心し,もともと労働の価値とはいったい何か,とうことを決定するにあたって,労働力のほかに一個の意志もまたもっている人間として登場するならば,今日の全国民経済学および賃金法則は,消滅してしまう」(139頁)という現実的な契機が生み出されたことになるわけである。
スターリニスト支配が崩壊した今日,重要なのは,この部分に続く「もちろん賃金法則は,もしも労働者がおたがいのあいだの競争を廃止することだけに満足しているならば,ながいあいだにはふたたび貫徹するようになるだろう」(139頁)ということである。
エンゲルスは,労働者が一個の意志をもった「人間」として登場することで「全国民経済学および賃金法則は,消滅してしまう」と述べ,賃金法則の廃止を当然のこととして語っている。すでに賃金法則の廃止は歴史的な経験となった。そこで終わりではなかった,ということがすでにエンゲルスにははっきりとわかっていたわけである。
エンゲルスがストライキを「社会戦争」と呼ぶわけは,個別のストライキが「なにも決定するわけではない」(146頁)が,「それは,プロレタリアートとブルジョアジーのあいだの決戦が近づいていることの,最も確実な証拠で」あり,「ストライキは,労働者の兵学校であり,ここで労働者は,もはや避けることのできない大闘争の準備」(147頁)だからである。さらに,「兵学校としては,ストライキは,ほかにくらべもののない卓絶した効果をもっている。このストライキの中で,イギリス人特有の勇敢さが成長しているのだ」(147頁)とエンゲルスはいう。
(イ) 労働運動と法,教育,文化
ブルジョアジーとプロレタリアートのあいだの闘争は,法をめぐる領域でも存在する。ブルジョアジーは,自分たちの保護と利益のために自分たちでつくった法律を神聖視している。エンゲルスはいう。
「ブルジョアは,たとえ個々の法律が特別の場合には自分たちに損害をあたえることが あるにしても,立法の全体は自分たちの利益をまもること,わけても法律の神聖さ,す なわち社会の一部分の積極的な意志表示と他の部分の消極的な意志表示とによって,ひ とたび確立された秩序の不可侵性は,自分たちの社会的地位の最も強力な支柱であるこ とを知っている。イギリスのブルジョアは,自分の神様のなかに自分自身を発見するの と同じように,法律を神聖視するのであり,だから,もともと自分自身の棍棒にほかな らない警官の棍棒は,自分の心を驚くほどやわらげる力をもっているのである」(151頁)
そうだからといって労働者は,法をめぐる闘争を軽視するわけではない。「労働者は,法律を尊敬しているのではなくて,自分が法律を変える力をもっていない場合に,ただ法律の力に反対しないだけのことであるから,労働者が,すくなくとも法律を改正するための提案を用意し,ブルジョアジーの法律をプロレタリアートの法律に変えようとのぞむことは,当然至極なこと」(151〜152頁)なのである。
一方で教育は国民経済学の退屈な説教であり,自由競争の偶像の崇拝の強制である。「ここでは,すべての教育が,支配的な政治と宗教にたいして,おだやかで,従順で,献身的に奉仕するようにしくまれているので,ここでの教育は,もともと労働者にとっては,すなおな服従と無関心,自分の運命に忍従することを教える不断のお説教」(168頁)に過ぎない。ところが,「イギリスのプロレタリアートが,自主的な教養を習得するのに,どんなにすばらしい成功をおさめているかは,ことに,比較的新しい哲学や政治学や詩のうちの,画期的な作品が,ほとんど労働者だけに読まれている,という事実を見ればわかる」(169頁)というように,プロレタリアートは,自分たちで自らに必要な教養を選び,そして自分たちでそれを身につけていくのである。そのために当時の労働団体や社会主義者たちがいかに多くのことをなしたかということをエンゲルスは記述している。
イギリスの労働者階級が普及させた作品や著作家としてエンゲルスがあげているのは,フランスの唯物論者たち,エルヴェシウス,オルバック,ディドロ,シュトラウスの『イエス伝』,プルードンの『財産とはなにか』,詩人のシェリー,バイロン,実際的哲学者のベンサム,ゴドウィンである。ただしベンサムの思想はプロレタリア的に進化させた形で普及させたものだという。
この章の最後,労働者階級は,「すべての有産者に対抗して,独自な利害と原理をもち,独自な見解をもつ独自な一階級を形成しているということ,また同時に――彼らのなかに,国民の力と発展能力とがやどっているということは,万人の一致して認めるところである」(171頁)ということは,何を,どのように,どれほど,生産・消費するかということを,人類の生存そのものを左右する問題として検討・決定していかなければならないという地点に立たされた今日にこそ,まったくあてはまる。資本主義的生産様式を根本から変革しなければ,人類の未来がないということは環境問題ひとつとっても明らかである。これを解決するためのプロレタリアートの社会的な力と発展能力が求められているのである。
※なお,当時のイギリスの労働運動の発展には,キリスト教徒が深く関わっており,チャーチスト運動では牧師などが指導的役割を果たしていた。エンゲルスは,1838年のマンチェスターの労働者集会でのスティーブンスというメソディスト派の僧侶の発言を引用している。それに対して,クェーカー教徒のスタージは,穀物法にたいする態度の問題で,急進的ブルジョアジーの立場をあらわにして,チャーティスト協会から脱退した。
(つづく)