参議院選の結果と現下の日本の経済
渋谷 一三
204号(1998年8月)所収
<1> 投票率の上昇
統一地方選とセットでない今年の参議院選は、来年の統一地方選を控えて、前回の39%の投票率から50%前後への投票率アップが予想されていた。しかし、蓋を開けてみると、誰もが予想しなかった60%近くの投票率だった。
予想を10%上回る投票率の上昇は、無党派層の投票への参加によってもたらされた。この層が民主党・共産党へ投票したことが両党の議席の大幅増を結果した。また、自民支持層からも両党へ票が流れていると指摘されている。
これはどうしたことなのだろうか。
<2> ケインズ主義の後退
無党派層の増加は、ケインズ主義の後退によって顕著になって来てはいた。55年体制の下では、累進的課税によって個人の可処分所得を減らし、これを国家に一旦集中することを通じて、所得の再分配をしようとしていた。というのが、ブルジョアジー側の公式の言い分です。実際は徴税によって集めた資金を公共投資という名の社会資本整備に当て、個別の資本では負担が大きくて不可能な道路・港湾整備などの輸送関連のインフラ整備や、電力・通信などのインフラ整備にその大半を使ってきた。
これが一段落すると、社会資本整備の要求は資本家階級の要求ではなくなった。新幹線網の整備の終了とともに国鉄の民営化がそ上に上り、電話の全戸普及と同時に電電公社の民営化がそ上に上った。国鉄解体の時の大義名分とされた赤字などは関係がない。黒字の電電公社も民営化されたのです。膨大な投資をして新幹線を作り、その上必要のないモデルチェンジやレール交換などを鉄鋼業界やアルミ業界の不況時に行い、累積赤字を膨らまして行ったのは、副次的産物で、個別資本では出来ない膨大な投資をし終わった時点でいわば御用済みだったのです。いつまでも、鉄鋼業界やアルミ業界を助けるなどという非効率的なことに税を投入する必然性はない。こんなことは階級としての資本家階級にすら許されぬことであり、他の業界が黙ってはいなかったのです。
要するに、赤字であろうが、黒字であろうが、社会資本の整備が完了した段階で、後は独立採算で運営してもらえばよいのであり、国家の名の下で投資する必要はない。相も変わらず税による補助が必要なのは、投資とは呼べないのです。
社会資本の整備が一巡したところで、軍事以外には税による投資は必要なくなる。軍事は副次的に採算ベースに乗らない研究を発展させるという効果があるにしても、民需転換に要するコストを考えるなら、直接に民需の研究開発をした方が、安上がりです。したがって、消費のための生産をするのが軍需産業と規定することが出来、景気の下降局面では需要の低下を補うために軍需品を大量に生産させ、景気の上昇局面では民需を圧迫しないように発注を減らす、というようにして景気の調節弁として利用出来る程度の経済効果しかもたらさない。
社会資本の整備の完了とともに、ケインズ主義の基盤がなくなった、あるいは大幅に減少したのです。
この局面から、ケインズ主義による経済の調整を信じる部分は、社会福祉などの「公共の支出」を増大させ、所得の再分配を主張するように変化した。これに乗った形で社会党を典型とする部分が照応し、国家財政を肥大化させることで所得再分配が出来ると構想し、労使協調が開始されたのです。
だが、社会福祉の充実ということは、所得再分配にはなっても、ケインズ主義の言う「有効需要の創出」にはならない。経済的波及効果がないのです。このことに気づいた欧米(先にこれらの諸国が気づいたのは、福祉の面でもこれらの諸国が先に進んでいたからに他ならない)から、ケインズ主義を捨て、国家財政を縮小し、小さな政府を作り法人税を下げ、所得税の累進構造をなくす方が、資本家階級にとっては利益が上がるという当然・自明のことに思い至り、これを新自由主義経済学としてまとめあげたのです。
これを権威づけたのが、観念的でるがゆえに楽天的で単純なハイエクでした。
市場には非人格的な力が働いていることを認めた上で、各個人が自己の個別的利害を追求すれば、自動的に社会の資源配分をバランスさせるという、論証抜きの市場原理への拝きあるいはその神秘化に過ぎない。
実際に生じているのは、バブル経済の恒常化という現実です。
<3> バブル経済の恒常化はなぜ生じるのか
バブル経済の恒常化という現象を目の当たりにして、ブルジョア経済学者の中にもこれを嘆き、「カジノ資本主義」と名付ける人も現れました。
『西側世界の金融システムは、急速に巨大なカジノ以外の何者でもなくなりつつある。毎日ゲームが繰り広げられ、想像できないほど多額のお金がつぎ込まれている。夜になると、ゲームは地球の反対側に移動する。世界の全ての大都市にタワーのようにそびえ立つオフィス・ビル街の部屋部屋は、たて続けにタバコに火をつけながらゲームにふけっている若者でいっぱいである。彼らの目は、値段が変わるたびに点滅するコンピューター・スクリーンにじっと注がれている。かれらは、国際電話や電子機器を叩きながらゲームを行っている。かれらは、ルーレットの円盤の上の銀の玉がかちっと音をたてて回転するのを眺めながら、赤か黒へ、奇数か偶数へ自分のチップを置いて遊んでいるカジノのギャンブラーに非常に似ている。』(Susan Strange;Casino Capitalism 1986)
欧米の産業資本は必要な資金を株式市場から直接に調達する。これは、いわゆる運転資金を得ることにはならず、運転資金(決済までのつなぎ資金)は銀行を必要としている。だが、銀行の必要は日本の企業に比べれば格段に小さい。施設・設備の資本投下を必要とする場面では、株式を発行し、直接に資金を調達する。他方、日本の産業資本は、大規模な資本投下が必要な場面でも銀行からの借り入れに頼ることが多い。融資を受けられるかどうかは、「専門家」たる銀行の判断に委ねられる。銀行がOKと言わなければ、それまでで、ベンチャー企業が育つ土壌はあまりない。
株式市場で直接に資金を調達する方式では、投下した金を回収出来るかどうかの判断は株の購入者の判断による。したがって、ある者は危険を感じ購入しない代わりに、他のある者は高配当を期待して購入するというばらつきが生じ、それが結果としてベンチャー企業を育てやすくするという副産物が生まれる。
欧米はこの方式なのに対し、日本はこの方式を取らない。日本の株価は額面とかけ離れており、株式配当は銀行利子にはるかに及ばない。
この相違が生まれる根拠は、預貯金を好む「国民性」と預金を好まない「国民性」の相違にあります。高度経済成長というインフレ政策に悩まされた日本人にとっては、預貯金をしないということは、即ち、目減りを多くするということになります。かといって、乱高下し投機家に操作されていた株式市場で大損をした経験をうんざりするほど味わった諸個人にとって、片手間に株式を購入することなどできなかったのです。勢い、リスク判断も「専門家」を共同で「雇って」する方式を採ることになる。即ち、銀行に預金するという「国民性」が培われることになったのです。
ひとたび、預貯金の額が膨れていくと、株式市場に投下される金は、銀行や生保などの個人から金を集めいわば委託されて運用する機関投資家の金として現れることになります。産業資本から見てみると、またもや、銀行の審査にパスするかどうかという壁に突き当たることになる。であってみれば、必要な額を株式市場を仲介せずに、したがってその分安く手に入れることの出来る銀行融資に依存する構造になる。
同じことを機関投資家=金融資本の側から見てみると、どこに投資しようがよい自由な金を大量に持つことになる。産業資本の中でも、最も利益が上がることが見込まれる企業の順に、集めた資金を「運用」することになる。
日本の貯蓄残高は世界一で、その規模は1000兆円を超えると言われている。これだけ大量などこに投資しようが「自由な資金」を手にしている金融資本は他国に例を見ない。欧米と二桁は違う。「自由な資金」は、最も利益率の高い所を求めて自由に移動する。「海外」の企業に投資した方が利益が見込まれるとなれば、そこの株式市場に参入し、そこの株相場を乱し、利益を上げて帰っていく。
貯蓄残高が少なく「自由な資金」をあまり持たぬ欧米の金融資本からみると、この競争には負ける。
そこで、欧米は一致してBIS規制を導入した。これを国際基準とし、日本の銀行にも適用することに成功した。BIS規制とは、自己資本の一定の倍率しか貸し出すことは出来ないとするものです。「自由な資金」の少ない欧米の銀行から見れば、BIS規制の比率は天井知らず、無いに等しい。ところが、「自由な資金」を豊富に持つ日本の銀行からすれば、貸し出して運用出来ない金が大量に発生することとなった。貸し出しが出来なければ、米国国債を買う(他国に投資すること)ことや国際金融市場で株を購入したり株価操作をして利益を出したりしなければならない資金が大量に発生する。
史上、何度か過剰に資金が集まった時にバブルが発生したことは、バブルという用語が出来た現在からの遡った研究で明らかにされたが、これらは一時的現象で、バブルの恒常化という現象は見られなかった。ところが現在は、バブルが恒常化している。この原因は、BIS規制によって大量に生み出された「自由な資金」が国際的に流れ回っていることによる。70年代後半に「ユーロ円」現象などと騒がれた規模を遥かに上回って、過剰流動資本(流動性が過剰だと嘆いている用語ですが、過剰と言えるのは産業資本の立場から見た場合です)が国際的に24時間体制で移動している。カジノ資本主義と言われる現実は、こうして発生してきたのです。
<4> 公共領域は国家が担えるのか
2節でふれたように、ケインズ主義の範疇から公共領域(社会福祉など)を考えるという図式は、新自由主義によって敗退させられた。新自由主義が優れていたからかというと、そうではない。統制など出来ようもない市場原理=物象による意志支配の世界への拝きは、他方、現実から貧富の格差の拡大・労働者階級の疲弊・そして古典的恐慌の可能性の芽生え・バブルの不断の発生とその必然的崩壊などといった問題を突きつけられている。
ケインズ主義の敗退は、公共領域が有効需要を生み出しはしないという事実からのみ来ているのではない。自覚はされていないのかも知れぬが、その根拠には公共領域が商品化されていないことがある。
公共領域を商品化しようとする試みは既になされ始めており、シルバー産業などと銘打ってその育成を図り、汚職まみれになりながら老人介護センターを建設するなどがなされている。だが、商品化するには膨大な投資が必要なこと、ここからの利潤は期待できないこと、したがって投資という概念の外にあり続けること、人件費をコスト計算するととても商品として大衆に供給はできず、一部の金持ちのためだけにしかならないことなどが、逆にはっきりしてしまった。
社民党などが推進した介護保険制度は、このコスト割れを保険という手段によって何とかしようとする発想であるが、保険である以上、一部の要重介護者をその他で負担するということにしかならない。依然として普通の老いを経る人々の介護要請は放置されざるを得ないのです。これでは、負担は増え、サービスは受けられないの踏んだり蹴ったりの制度でしかなく、大家族制度の解体している下で小家族が介護をする以外にない。ましてや、精神的つながりを求める老いた人々の欲求に応えられるものではない。商品化するということは、物象による意志支配、貨幣を媒介にしてしか人と人の社会的結合が出来ない人間関係を形成していくということですから、これは原理的に不可能なことなのです。
かくして公共領域を国家が担うということは、商品化が極めて部分的にしか出来ないということに突き当たって破産を予め宣告されている。
欧州では、このことを根拠に公務労働の特殊性・必要性をアピールし、小さな政府に反対し、公務労働者の削減に反対するという運動が見られるようになっている。
公共領域の商品化が出来ない以上、市場原理は働きようもなく、有効需要の創出などというのは絵空事にすぎない。
同じことを労働者階級(市民??)の側から見てみると、介護の必要性に応える何らかの互助組織を作る必要性として認識される。土地家屋を持っている労働者上層部であっても大家族制への復帰は難しい。尤も、この層は3世代住宅なるものの購入層ではあるが、3世代住宅が意味するのは、「嫁」による親の介護ということであり、「嫁」層の負担を強制する装置でしかない。土地家屋を持たない労働者「下層」(ordinary labourer=一般的労働者と呼んだ方が適切な気がする)は、若いうちに介護労働をし、その中で老いを看取り学び且つそれに要した時間を証書として自分が介護を必要とした時にこの証書を使うという直接に社会的つながりを形成することに展望を見出している。
この方法は全く素晴らしい方法だと筆者は思っている。物象による意志支配の現実を変革する直接に社会的結合を組織する対抗文化(alternative)の萌芽と見るからです。
こうしたことを始めた階層は、国家に見切りを付け、自分たちで自分たちの老後を考え、準備をし始めているのです。国家に見切るをつけることの正しさは、国家もまた税を使う者=市場での購入者として立ち現れるだけの存在で、商品化が出来なければ全く無力であり、直接に人々の社会的結合を組織する能力などないことをによって、明らかです。
言い換えれば、これらの人々は、国家のこうした無力さや未来を準備する能力のなさを直感的に見抜いてしまっているのです。
こうした大量の人々の存在をマスコミは「無党派層」と呼ぶ。これは正しい。実際にこれらの人々は国家に何も期待しないがゆえに、従来、投票に行くことはあまりなかったのです。それが、今回、かなりの部分が投票に行った。このことの意味を考えるのが、本稿の目的です。
<5> 自民党総裁選挙は何を巡って争われたのか
バブル崩壊後ほぼ10年が経った。この間自民党がしてきた政策は低利による銀行の保護、相も変わらぬ公共事業の垂れ流しによる景気刺激策というものだった。要するに、個別資本を守りながらのソフトランディングを目指したものだった。 だが、公定歩合を超低利にした結果は、資本のアセアンへの流出と米国株式市場への流出というものであり、ASEAN諸国においてバブルを発生させ、これを見て取った米国投機家などによるバブルの崩
壊を招いた。得をしたのは、バブルを見て取り、バブルゲームの最高潮の時に売り抜け、バブルを崩壊させた金融資本であり、損をしてまたぞろ不良債権を抱え込んだのが日本の金融資本であった。もう一つの結果はまだでていない。米国株式市場は乱高下を繰り返しながらも、だぶついた資金が他に投入する当ても無いことから資金が流入し続けることによって、まだバブルを維持している。
公共事業は社会資本の整備という役割を基本的に終えてしまっており、無用な、換言すれば有効需要創出効果のない事業ばかりをしている。ことに農産物自由化以後顕著になった農村の相対的過剰人口を支えるための土木関連事業は、この意味では不可欠になってしまっている。
こうした状況の下で、小渕が提示した政策は、相変わらずの減税と公共事業による「景気刺激策」であり、小泉が提起したのは、個別銀行資本の救済などは考えず一刻も早く不良債権を処理するというものであった。梶山の提起はこの中間にあたる。あえて類似性を探せば、小泉の政策は民主党に近く、梶山の政策は自由党に近い。
であってみれば、小渕が勝利するのは自民党としては必然だった。民主党の政策でもなく、自由党の政策でもなく、いまだ農村票とゼネコン票に基盤を置くしかない自民党らしい政策を提示したのは、小渕なのだから。
小渕の勝利は同時に自民党が都市型政党への脱皮が出来ないことを示した。小渕の政策は、この10年自民党が行ってきて、その無効性が実証されている政策でしかないのです。自民党は民主党と自由党へと分裂する以外にはなくなった。これが、今回の総裁選が示した図であった。
<6>
参議院選の前から、ソフトランディング路線の無効性は、ブルジョアジー及び都市「市民」に認識されていた。労働者上層部はこの政策に見切りをつけていたし、一般的労働者は増税と介護保険導入・年金や健保の料金アップ、失業という事態から、自民党路線を即時やめさせる必要性に迫られた。
このことが、本来、投票に行かないはずの「無党派層」を投票に向かわしめた根拠でしょう。
国家に何かを期待しての投票ではなく、国家が余計なことをしてより事態をひどくしていくことに対する拒否としての投票行動だった。
これが、今回の参議院選挙の結果が示すことだと考えます。