共産主義再生のための幾つかのポイント
流 広志
203号(1998年7月)所収
国際共産主義運動は,ソ連・東欧におけるスターリニズム支配の崩壊を歴史的に根底から総括しぬく苦闘を正面から耐え抜いてきた共産主義者・グループと戦闘的プロレタリアートを未来を切り開く闘士としてきたえる過程であり,そうした試練を経てきた者たちだけを未来に残すだろう。
一般的情況としては共産主義にとってはきわめて有利な時代がやってきているのは確かなのだが,共産主義者の側の準備が遅れている。これらの点について幾つかのポイントを明らかにしておきたい。
ブルジョアジーは今までどおりにやっていけなくなってきており,しかも,ブルジョアジーの間でお互いにたいする疑心暗鬼が起きている。
たとえば銀行ブルジョアジーは,他の銀行が外国の金融資本との提携によって出し抜かれるのではないかとか,ライバル銀行が日銀や大蔵省や与党議員との密約で特別な便宜を図ってもらうことによって優位を手にしようとしているのではないかとか,とにかく,金融改革とは,銀行を倒産させるということだという話になっているご時世では,互いに疑心暗鬼にならざるを得ないでいる。
したがって,情報公開が叫ばれているが,ブルジョアジーにとっては,厳しい競争を生き抜くためには,ますます自らの手の内は隠し,秘密の情報によって,利益を得ようという方向に走らざるを得ないのであり,秘密情報の価値は高まっていくというのが基本傾向なのである。しかし同時に,銀行救済のために共同で税金をせしめるために手を握ることは忘れてはいない。
いわゆる「インフレなき持続的成長」を遂げているといわれているアメリカはどうか。
アメリカでは生み出された富を握っているのはほんのわずかの割合の大金持ちであり,結局,貧富の格差は増大している。つまりは,労働者階級の貧困こそがアメリカ資本主義経済の成長の原動力である。
それは,パートや臨時などの不安定雇用形態を相対的過剰労働人口として賃金上昇への下降圧力として利用することで実現してきたのである。しかし,基本的な問題として,アメリカ経済の繁栄にもかげりが見られつつあり,それはすでに半導体産業などであらわれはじめているし,バブル崩壊の可能性も増大している。アジア経済危機,そしてロシア経済危機の深刻化は,アメリカ経済の一層の金融化を促進するものであり,巨額の危険な債権の蓄積を不可避としている。リスク分散のため,金融派生商品の開発などにのめり込まざるを得ないのである。それは不良債権をつかまされたものが負けという勝負なのだ。
したがって,昨年のアジア危機に見られたように,不良債権を掴ませられないためには,われさきにと債権を売り抜けなければならず,そこで呑気に構えていた者は大損を被るということになる。それで短期間にいっせいにアジア諸国から資金が流出してしまったのである。しかしそれは再びどこかに投資されなければならないのであり,現在はそれはアメリカやヨーロッパに向かっているようだ。しかしこれは瞬時に動いてしまうので,明日には別のところに向かっているかもしれない。モラル(道徳)もへったくれもないのである。
帝国主義としての腐敗は頂点をきわめ,それに規定された夜郎自大的な自国帝国主義を賛美する腐敗した歴史認識を持つ思想潮流を登場させている。
これは,あらゆる領域におよんでいる日本資本主義の腐敗の根深さを背景にしているものである。金融機関の中堅幹部による不正事件の数々,松下・東芝などでの有害化学物質による地下水汚染の発覚,日銀特別融資を食いつぶしたうえに債務返済ができすに終わって,しかも巨額の退職金を役員に出そうとしている山一証券,防衛庁に水増し請求で法外な利益を防衛費から引き出していた防衛関連企業,これらのブルジョアジーの腐敗ぶりについては枚挙にいとまがないし,ここまでくると,これはとうてい一部の悪質な企業の問題というわけにはいかないことは明らかである。これは日本企業だけの問題ではなく,ワールドカップ大会でのチケット「空売り」詐欺やIBMによるアルゼンチン・メキシコでの賄賂事件・・・・資本主義自体が腐朽しているのである。これに官僚の不祥事をくわえるならば,ブルジョア社会全般が恐ろしく腐敗しているということがわかる。
こうしたブルジョアジーの腐敗を思想や文化が反映しないはずはない。スキャンダルはもはや資本主義文化の魂といえるものである。自由主義者たちは,真っ正面からこういう問題を見ることができず,市場を神聖視し,そこに「神の手」を仮構することで満足し,自分の真の姿を見ることを好まず,ベールを掛けたがる。最近の市場には「神の手」ならぬ「投機の手」が働いていてそれが猛威を振るっている。それにたいして,市場をきっちりと監視し,この「投機の手」を目に見えるようにして規制を掛けなければ人々の生活は守れないというのに,自由主義者は,自由,自由と叫んでいればなんとかなると信じているようだ。恐るべき無責任さである。
共産主義にとって有利な時代がやってきたと冒頭に述べたが,それは,一つには上述のように,支配階級の側にこれまでどおりにはやっていけないという情況があるという意味で客観的な革命的情勢が認められるということである。しかしレーニンがあげたもう一つの条件,すなわち主体的条件の方がやや見えにくい形で現れており,この点を解明する必要がある。つまり今日の大衆の自然発生性を解明する必要があるのである。
たとえば,その一つは,これまでもくり返し述べてきたのであるが,低投票率に現れている現存議会制民主主義への不信である。
今回の参議院選挙での最大の焦点は,投票率がどうなるかということだ,と言われている。しかし,こうなった最大の契機はなんといっても国民の大部分が反対した消費税を強引に導入したことである。国民の圧倒的多数の意志を少数の支配階級がつぶしてしまったわけで,これで議会制民主主義がそうした連中の利害と意志が支配する場であることを学んだわけである。「自分の一票ではなにも変わらない」という決まり文句はこうした現実認識を根拠にしている。もちろんそれはもう一つの決まり文句,「誰が当選しても同じだ」ということを裏付ける経験となった。消費税反対という公約を掲げる議員をたくさん議会に送り込んだにもかかわらず,多くの議員が公約を裏切ったのである。これ以降,いわゆる「無党派」層が増加していったのである。「無党派」層を云々する議論の中でこの点は無視されている。
先進的ブルジョア諸国での,政権交代による民主主義を表すという二大政党制や連立制は,ブルジョア独裁の外皮に過ぎない。政権が交代しても大した違いはないのである。その証拠に,アメリカでもイギリスでも,対立する二大政党の議員や党員,支持者が入れ替わるのがしばしば見られる。それぐらいの違いしかないのである。その後,住民投票や国民投票といった直接民主主義的な方向で意志実現を図ろうという志向が拡がりを見せてくる。今日までの日本におけるそうした動きのピークは,米軍基地の整理・縮小の是非を問う沖縄県民投票であった。それは,法的拘束力がないにもかかわらず,一定の政治的効果を持つことを証明したのである。その後,産業廃棄物処理場をめぐる住民投票が各地で行われるようになる。
それは,たとえば,憲法上認められていながら,実施法や法制度・手続きなどの具体的な規定がないために行われていない国会議員や官僚のリコールの実施まで進む可能性をはらみつつある。そうなれば,選挙まで待たなくとも,公約違反議員や汚職議員,居座り腐敗官僚などを速やかに除くことができるようになるだろう。
しかしこうした住民投票などの直接民主主義は,アメリカのカリフォルニア州で,「アファーマティブ・アクション」(積極的差別是正措置)の後退を住民投票での多数決によって決定したように,反動化につながることがあるということを念頭においておく必要がある。
資本主義が今日抱えている危機の根は非常に深い。多発する企業犯罪やスキャンダルは,もはや偶発的事態とはいえない。資本主義の内的連関が崩れつつあるのである。
したがって共産主義者とプロレタリアートには,未来を準備する経験と知識の蓄積を急ぐことが求められている。この点で協同組合的協働の経験と知識は重要である。
「90年代の共産主義運動を考える会」は,田畑稔氏の『マルクスとアソシエーション』(1994,新泉社)をテキストとして研究会を行い,それをもとに『研究会報』No.13「マルクスとアソシエーション」(1998年6月)を発行している。そこに執筆された文章をみると,執筆者の幾人かが協同組合的実践と知識の獲得と深化が,共産主義社会建設にとって重要であることを指摘している。その場合に,協同組合運動を労働の在り方の変革と結びつけて考察しているが,これがポイントであることは疑いない。
現在の資本の側が押し進めている分社化やアウトシーイング(外注化)などの分業・協業体制の再編は,広範な請負労働−出来高賃金制の導入をともなっているが,能力主義イデオロギーの前に,労働運動も一般の労働者も真っ向からこれを批判できていない。
マルクスは『資本論』第一巻第6篇第19章 出来高賃金 で,出来高賃金が生産者の作業能力によって規定されているように見えるが,実際にはそれは時間賃金の転化したものに他ならないと述べている。詳しくはこの部分に直に当たっていただきたい。なお出来高賃金についてマルクスは「出来高賃金は資本主義的生産様式に最もふさわしい労賃形態である」(国民文庫版 3 90頁)と述べている。労働運動にとって大事なのは,支払われる賃金に個人差がどんなにあっても,結局,その事業所全体で支払われるのは,その産業の平均賃金だということである。
さてまだまだこれらの点について検討しなければならないことがあるが,ふたたび確認しておきたいのは,プロレタリア革命の客観情況は程度の問題はあるにしてもすでに存在するということ,社会革命を推進する主体的条件(被支配階級の側の準備状況,またこれを推進する共産主義者と戦闘的プロレタリアートの状態,今日の階級闘争の自然発生性の情況・・・・)が見えにくいし,まだまだ不十分だということであり,それを準備し成熟させていくことが共産主義者・戦闘的プロレタリアートの側に求められているということである。本稿はその課題に応えようというささやかな試みである。