共産主義者同盟(火花)

沖縄問題についての早瀬さんの疑問に答える

流 広志
200号(1998年4月)所収


 『火花』第199号の「ヤマトプロレタリアートは沖縄『独立論』を無条件支持すべきか」という文章において,早瀬さんによる沖縄問題についての拙稿の一部について批判と疑義が提出された。これに直接に答えると同時に民族自決権をめぐる問題について再整理することで答えてみたい。

1.沖縄問題の本質は民族問題である

 沖縄問題の本質が民族問題にあるという点で,早瀬さんと私とではまったく一致している。「綱領」においても,「VI.民族関係の分野 6. アイヌ民族等北方少数民族および琉球民族の民族自決権を承認する」と規定しており,この点についても違いはない。したがって,この問題で原則的な態度ということでは,まったく違いを見出せない。それは簡単に解決する問題だと考える。しかし早瀬さんの文章を読むうちに,早瀬さんの論点について若干の疑問を持ったので,それについても述べてみたい。
 「火花」194号の拙稿は,現に沖縄における「自立論」「独立論」についての実践的態度を提案したのであって,民族自決権にたいする原則的態度を問題にしたものではない。それは,引用されている部分が,「3.闘いの方向性についての若干の提起」の一項目として提起されていることで誰の目にも明らかではないだろうか。したがって,これが原則的態度を問題にしているわけではないのであり,早瀬さんがどうしてこの部分を原則問題を扱っている部分で取り上げたのか,驚いている。渋谷さんの批判について言えば,これは沖縄の運動に現に存在する「独立論」のことを述べているのだと受け取ったので,それなら無条件支持だと,述べたのである。なぜなら,確かに早瀬さんが指摘するように,「独立論」も多様であり,論者によってずいぶん色合いが異なるのは確かである。しかし「独立論」は問題の本質が民族問題にあることを正確に捉えているし,現在「独立論」を形成しているのは,きわめて世界の被抑圧民族との連帯や被差別者との連帯を志向する傾向が強く見られる人たちで国際主義的であると私は判断する。そしてそうした人たちが開かれた討議を組織していることが,私が「独立論」を最も民主主義的な部分と評価した理由である。具体的には,昨年,喜納昌吉さんなどが参加して開かれた独立をめぐるシンポジウムを開催した部分などを念頭に置いている。これは〈注1〉の質問への答えにもなっている。「あるいは『現在沖縄で語られている独立論』が最も民主主義的な内容をもっているということなのだろうか」という早瀬さんの質問に対しては,イエスというのが私の回答である。これで早瀬さんの疑義は解消されたのではないだろうか。
 早瀬論文は,抑圧民族のプロレタリアートが,被抑圧民族にたいして取るべき原則的態度について整理するものであり,それについては,まったく同意する。それはそれとして必要な作業であることは当然である。しかしやや気になる点もある。それは,早瀬さんが民族問題についてのプロレタリアートの実践的態度や実践についての検討にあまり踏み込んでいないことである。もちろんそれは早瀬さん自身が(付記)として「本文書は,被抑圧民族の民族自決権を巡る原則的問題という位相において述べたものであり,それ以上のものではない。すなわち,今日沖縄において現実に現れている『自立・独立論』に接近していくことを目的とした文章ではない」と述べているのでそれを期待すべきではないだろう。
 しかしながら,沖縄で必ずしも自覚的ではないにしても,民族的性格を強めながら大衆的に展開してきている現実の運動について,それをどう受け止め,そしてこれに対してどのような実践的な態度を取るべきか,という点について,ヤマト・プロレタリアートが議論し態度を確定し実践するという具体的現実的な対応で応えなければ,「(注3)・・・三下り半を突き付けられているのは,ヤマト政府であるとともに我々でもある」という沖縄の人々の不信を増大させていき,諸民族の自由な結合を利益とするプロレタリアートの間に,民族の壁をより高めることを放置しつづけることになってしまうものと憂慮する。だからこそ,もちろん被抑圧民族の民族自決権を承認することは抑圧民族のプロレタリアートの無条件の義務であることを抑圧民族プロレタリアートの中に教育し広めていくことは必要不可欠のことであるが,それと同時に具体的に,被抑圧民族の側が抑圧民族の支配にたいしてひとたび大衆的闘争を開始したら,それに対してどう応えればよいか,についても確定することが求められていると考えるのである。それが,現在の沖縄での米軍基地施設撤去闘争の中で,ヤマト・プロレタリアートに具体的に問われているものと考えるのである。拙稿はそれに応えようという試みであった。

2.抑圧民族のプロレタリアートが被抑圧民族の民族運動を支持する場合について

 この点について明らかにするため,レーニンの『民族自決権について』という論文から幾つかの引用を行いたい。その「七.一八九六年のインタナショナル・ロンドン大会の決定」という章から。引用はすべて『民族自決権について』国民文庫=194 大月書店)からである。少々長くなるが,ご容赦願いたい。

 本大会は,あらゆる民族の完全な自決権(Selbstbestimmungsrecht)を支持し,現在,軍事的・民族的もしくはその他の専制主義の圧制のもとになやんでいる,あらゆる国の労働者に同情を表明することを宣言する。本大会は,これらすべての諸国の労働者に,全世界の階級意識ある(Klassenbewusste=自分たちの階級的利害を理解している)労働者の陣列に参加し,彼らと肩をならべて国際資本主義の打倒のため,また国際社会民主主義の諸目的達成のためにたたかうようによびかける。(140〜141頁)

 カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは,周知のように,ポーランドの独立要求を積極的に支持することが,すべての西ヨーロッパの民主主義,およびとくに社会民主主義にとって,無条件的な義務であると考えた。(144頁)

 労働者階級は,けっして民族問題を物神化してはならない。なぜなら,資本主義の発達は,かならずしもすべての民族を独自の生活にめざめさせるとはかぎらないからである。だが,ひとたび大衆的な民族運動がおこったときに,この運動をあっりとかたづけること,この運動のなかの進歩的な要素を支持することを拒否するのは,事実上主民族主義的偏見におちいること,すなわち「自」民族を「模範民族」(すなわち,われわれのほうからつけくわえていえば,国家をつくる排他的な特権をもつ民族)だとみとめることである。(150〜151頁)

 「私は,フィアナ派支持のイギリス労働者のデモンストレーションをひきおこそうと,あらゆる方法でつとめた。・・・以前には私は,アイルランドのイギリスからの分離は不可能なことだと考えていた。いまは私は,たとえ分離したのち連邦制をとることになるにせよ,分離は避けられないものであると考えている。」 マルクスは,一八六七年十一月二日付けのエンゲルスへの手紙に,こう書いている。
 この年の十一月三十日付けの手紙には,彼はつぎのようにつけくわえて言っている。 「われわれとしては,イギリスの労働者になにを忠告すべきであるか? 私の考えでは,彼らは併合の廃棄(Repeal)」(アイルランドとイギリスの同盟の破棄,すなわちアイルランドのイギリスからの分離),「要するに一七八三年の思いつきだが,ただそれを民主化し,時勢にあわせたものをその宣言の一項目にとりいれなければならない。これは,アイルランド解放の唯一の合法的な形態であり,したがってイギリスの党の綱領に採用することのできる唯一の可能な形態である。そのあとでこの両国のあいだにたんなる人的連合〔国家は独立だが,両国とも同一王家のもとに立つばあい〕が存続しうるかどうか,それは後日経験がしめすにちがいない。・・・・・・アイルランド人に必要なのは,つぎのことである。
 一 自治とイギリス人からの独立。
 二 農業革命。」(151〜152頁)。

 「・・・・アイルランドに正義を,といったような,いっさいの『国際的』および『博愛的』な空語にはまったくかかわりなく――なぜなら,インタナショナル評議会ではこんなことはわかりきったことだから――,彼らのアイルランドにたいする現在の関係を破棄することが,イギリスの労働者階級にとって直接の絶対的な利益である。そして,これは私の心底からの確信であるが,そう確信する理由の一部は,イギリスの労働者自身にうちあけるわけにはゆかない。長いあいだ私は,イギリスの労働者階級の政権掌握によって,アイルランドの制度をうちたおすことができると考えていた。私は『ニューヨーク・トリビュン』」(マルクスが長いあいだ寄稿していたアメリカの新聞)「で,つねにこの見解を主張してきた。ところが,もっと深く研究してみて,私は反対のことを確信するようになった。イギリスの労働者階級は,アイルランドを放棄しないうちは,けっしてなにごともなしとげえないだろう。・・・イングランドにおけるイギリス反動の根源は,・・・アイルランドの隷属化にある」(ゴシックはマルクス)。(154〜155頁)

 この部分でレーニンは,第一インターナショナルでのマルクス・エンゲルスのアイルランド問題にたいする態度から学ぶために,これらの引用を行い,そこから教訓を引きだそうとしている。

 ・・・・アイルランドのブルジョア的解放運動はつよまって,革命的な形態をおびるにいたった。マルクスは自分の見解を再検討し,それを訂正した。「ある民族が他の民族を隷属させることは,隷属させる側の民族にとって不幸である。」 イギリスの労働者階級は,アイルランドがイギリスの圧制から解放されないあいだは彼ら自身もけっして解放されないであろう。イギリスにおける反動を強化し,つちかうものは,アイルランドの隷属化である。(ちょうど,ロシアにおける反動をつちかっているのが,ロシアによるいくたの諸民族の隷属化であるのと同じに!)。(156頁)

 ・・・・もしマルクスがはじめのころ期待していたように急速にイギリスの資本主義がくつがえされたとすれば,アイルランドにブルジョア民主主義的・全民族な運動が起こる余地はなかったであろう。だが,このような運動がいったんおこったからには,マルクスはイギリスの労働者に,それを支持し,それに革命的な衝撃をあたえ,それを自分自身の解放のために最後まで遂行するように,すすめているのである。(157頁)

 ・・・・連邦制の原則的反対者でありながら,マルクスはこのばあいに,アイルランドの解放が,イギリスの労働者階級に支持されたアイルランドの人民大衆によって,改良的にではなく革命的におこなわれさえするなら,連邦をも認めているのである。歴史的任務のこのような解決だけが,プロレタリアートの利益と社会的発展の速さとをもっとも促進するであろうということは,まったくうたがう余地がない。(157頁)

これで明らかなのは,特定の歴史的社会的条件の下では,被抑圧民族の民族自決権を抑圧民族のプロレタリアートが承認するという無条件の義務と同時に特定の大衆的な民族運動を支持し援助することも抑圧民族のプロレタリアートの実践的任務となることがあるということである。マルクス・エンゲルス・レーニンは,もちろんそのことを認めていたし,それどころか,マルクスは現実にイギリスの労働者階級にアイルランド独立運動を積極的に支援するように訴え,「フィアナ派支持のイギリス労働者のデモンストレーションをひきおこそうと,あらゆる方法でつとめた」のである。
 そのことはもちろんプロレタリアートがあらゆる「独立論」を支持するべきだということを意味するものでないことはいうまでもない。それは,あくまでも,一般民主主義的なプロレタリアートの諸任務の一部をなしているのではあるが,しかしそれが抑圧民族のブルジョアジーの反動の源泉となっている場合,つまりそれを利用して抑圧民族ブルジョアジーが抑圧民族のプロレタリアートに反動的な影響を与え続けている状態からプロレタリアートを解放するために,被抑圧民族の抑圧民族にたいする大衆的な民族運動がひとたび起こったならば,これを抑圧民族のプロレタリアートは「ある民族が他の民族を隷属させることは,隷属させる側の民族にとって不幸である」という国際主義の精神に立って,これを支持し,行動することが必要だということなのである。
 したがって,沖縄での現在の大衆的運動が「百花斉放といえる状況こそ今日における沖縄『自立・独立論』の現れの特徴である」(『火花』199号 早瀬論文)ことは私もまったく同感ではあるけれども,しかし,それが沖縄における米軍基地施設という日米安保体制の物的基盤に闘争の矛先が向けられていること,そしてそれが日米安保体制の負担を沖縄にたいして押しつけたままにしているヤマト支配階級の抑圧にたいする闘いを含んでいるということに抑圧民族のプロレタリアートは注目しなければならないと考える。早瀬さんが「多様に現れている『自立・独立論』の中には,必ずしもヤマト−沖縄という抑圧−被抑圧関係に根拠を一元化できない文脈も見受けられる」という場合,それが現実に抑圧−被抑圧関係が解消されているという事実を反映しているものとすれば,それは沖縄の人々が解放されつつあるということを意味するのであり,歓迎すべきことではある。しかし,それと逆のことが今,生じているのではないか,と私は考える。
 「『独立』が日本国家からの分離・独立であっても必ずしも『独自の国家建設』に重点が置かれているわけではないこと,つまり,そこには,国民国家という枠組み自体への批判や違和感という今日的課題が組み込まれており,国家や政府に依託することなく自らの社会を自らの手で創り上げていきたいという志向が前面に登場していること」は,逆に言えば,そうした権利を誰が奪い続けてきたかということを浮上させることになる。「日米安保条約」「日米地位協定」にもとづく広大な米軍基地を沖縄に押しつけて沖縄の自由な経済的・社会的発展を阻害し続けているのは誰か,それによって経済的発展の恩恵を享受し続けているのは誰か,沖縄の人々の平和で安全な生活を営む権利を抑圧してきたのは誰か,安全保障上の負担をどうして同じ日本国民である沖縄以外の地域が分担しようとしないのか,等々,沖縄からいま突きつけられているのはこうした具体的な問いなのである。それに日本政府が責任をもって応えようとしていないのは,政府があくまで名護市沖へのヘリポート移設にこだわっていることでも明らかである。先の名護市長選挙で建設賛成派が推薦し当選したのは,「海上ヘリポート問題は大田知事の受け入れ反対表明でなくなった」と述べた「一坪反戦地主」であった。したがって名護市民の多数は必ずしもこれで海上ヘリポート受け入れに賛成したわけではないのである。こうした点からも日本政府は,沖縄への抑圧を強化していると考えるのである。つまり沖縄側の事情を利用して(悪用して),ヤマト側の利害と事情と都合を優先させたプランを,沖縄振興策をアメとして使って,押しつけようとしたのである。

3.最後に

 われわれが抑圧民族側のプロレタリアートのなかでなにに重点を置いて活動していくべきか,ということについて実践的態度を確定することが必要になっている,と私は考える。早瀬論文は,それは,民族自決権の無条件の承認を抑圧民族プロレタリアートのあいだに広範に広めていくことと同権のために闘うことだ,という意味のことを述べている。それはその通りである。だからこそ,現在の沖縄にたいする抑圧への闘いを抑圧民族のプロレタリアートが行わなければならないのであり,それは米軍基地撤去を要求する大衆的運動に立ち上がっている沖縄の人々の自己解放要求に応えようとしない抑圧民族の支配階級・反動的ブルジョアジーと闘争しその実現を図るために抑圧民族のプロレタリアートは闘うことが必要だと考えるのである。同時に,民族・国境に左右されないプロレタリアートの結合を促進することも必要である。

 以上で早瀬さんの疑問に応えたと思う。ご検討下さい。




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